いわき平競輪「選手の風」

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「競輪にかけるわが想い」

2007-10-02 23:25:55 | 競輪

昭和62年、プロサイクルリストに掲載した投稿記事から。

”汗、涙、悲喜交々の競輪人生”

「懐かしい成吉思汗(ジンギスカン)の味」      鈴木 忠男(千葉)
 
 昭和25年3月に登録。その頃は、米3合持参で参加。競輪場最寄り駅につくと、タクシーは殆ど使用せず、自転車を組み立て荷物をアップハンドルに載せて旅館、競輪場へと向かった。帰りもその逆だ。駅で自転車をバラしてシートに包んで電車に乗るわけだが、その支度中にファンが物珍しげに寄ってきて、名前を聞かれたり、話しかけられたりで格好が良い様な恥ずかい様な妙な気持ちであった。

 千葉県からだと、北は福島県の平と会津、西は静岡、それから先は夜行で札幌(札幌競輪)とか九州の奥地(長崎競輪など)は2日前に家を出たものである。それも寝台列車ではなく、4人掛けの座席にそれぞれ持参した板を交わして足を伸ばして寝たものだ。飛行機なんて、それこそ雲の上の乗り物なのである。

 宿舎は、今のような設備などの良い合宿所などなく、5、6軒の旅館に合宿した。開催中(12レース)は旅館から自由にグランド練習に出掛け、それから自分の出走するレースの1時間前迄に競輪場へ入り、レースが終わりしだい賞金をもらって旅館に帰った。もちろん往復は輪行である。

 自転車も、始めの頃はタイヤカバーもなく、パンクした時には検車備付のパンク修理箱が設置してあったので、それで修理して検車を受け競走したものである。そして夕食後10時迄は外出もでき、現在ではとても考えられぬ事であった。それも、間もなく起きた鳴尾(甲子園)事件迄の短い間で、それ以降は年々規則も厳しくなってきた。

 食べ物で心に残るのは、札幌の旅館の庭先で、みんなで輪になって成吉思汗鍋をつついた味は、今でも懐かしくて忘れられない。昔の思い出を思いつくまま書いてみました。

 地方から都心に出て来て、皇居のお堀通りを雪の降る中、ペダルを踏み行進した景観がとても懐かしく思います。





次回へ続く…