平らな深み、緩やかな時間

175.待つことをめぐって、Tom Petty、須賀敦子、大竹昭子、堀江敏幸

前回、ちょっと不正確な書き方をしました。「私の参加した『小田原ビエンナーレ2021』と『Gallery HINOKI Art Fair ⅩⅩⅢ』が終わりました。」と書きましたが、小田原ビエンナーレの方は、「私の参加したパートの・・・」という意味です。私の展示した画廊でも、もうワンクルーの展示があります。私も二つの展示が終わってバタバタしていますが、何とか後半の方々の展示も見に行きたいと思っています。新型コロナウイルスが猛威を奮い、おまけに台風まで来ているのでどうなるのかわかりませんが、夏休みぐらいしかゆっくりと展覧会に行けないので、感染に注意をしながら作品鑑賞に努めたいと思っています。何かここでご報告ができればうれしいのですが・・・。

さて、前々回のblogで、須賀敦子(1929 - 1998)の文章について触れました。彼女は作家としてのデビューが遅く、またエッセイから小説へと表現の場を移そうとしていた矢先に亡くなってしまいました。須賀は、自分の中の表現が熟すのをじっと待った人でもありました。そこで今回は彼女の晩年に注目して、「待つ」ことについて、考えてみたいと思います。

その前に、もっと一般的な意味で「待つ」ということはどんなことなのか、確認しておきましょう。
唐突な話で申し訳ないのですが、2017年に亡くなったロック・ミュージシャンのトム・ペティ(Tom Petty、1950 - 2017)に『The Waiting(孤独な世代)』というヒット曲があります。トムは日本では過小評価されていますが、アメリカでは相当にポピュラーな存在のようです。以前に何気なく大リーグのテレビ中継を見ていたら、8回ぐらいの攻守が入れ変わる時間に、『The Waiting』が流れてきて、びっくりしました。野球の8回ぐらいというと、自分の応援しているチームが勝っていれば「早く9回が終わって欲しい」という、勝利を待ちどおしくなる時間ですし、負けていれば「そろそろ逆転してくれ」という反撃を待つ時間になるでしょう。とにかく、絶妙なタイミングでトムの楽曲が使われていて、アメリカでは本当に愛されているんだなあ、と感心したのでした。この曲を聴いたことがない方は、次のリンクを開けてみてください。口パクの動画がちょっとしらけますが、音はレコードのままなので、目をつぶって聴くと良いかもしれません。
http://neverendingmusic.blog.jp/archives/22620825.html
聴きましたか?いつもポップソングを聴くと思うことですが、たかが流行歌ですが、そこには一抹の真実が書かれています。

待っている時が一番難しい
毎日 また一歩進んでいくしかないんだ
信じていくのさ
心にしっかり受けとめて
待つことを自分でかみしめて

「待つこと」は、本当につらいですね。ジリジリするような空白の時間が重たくのしかかってきてどうしようもありません。
さらに卑近な例で申し訳ないのですが、「待つこと」といえば、私が初めて東京で個展をやったときのことを思い出します。東京には美術関係の知り合いもろくにいませんでしたし、とにかく画廊に人が来ませんでした。画廊主の山岸さんが、「近頃の輩は、ろくに作品を見ないからいかんなあ!」と言ってくれたのですが、実績もなければ、知り合いもいないのに、いきなり東京で個展をやろうとした自分に責任があることは明白でした。展覧会のために東京に来ていたのでほかに用事もないし、そのやるせない状況から逃げようがありません。日がな一日、誰も来ない画廊にいることが勉強だと思って、白い壁と青一色の自分の作品をひたすら眺めていました。
あれから40年が経ちましたが、ろくな実績のないままの私の展覧会は、その時とあまり様相が変わりません。その上、歳をとってしまったためでしょうか、若い人からは敬遠されているようで、ちょっと悲しいです。しかし私は「待つ」ことにかけてはかなりのベテランです。冷静に考えてみれば、無名の老人の絵を見に来たとしても、若者にとって何もいいことはないのだから、これは当然の結果です。
そして私の考えたことは、たとえ人が見てくれなくても、自分自身が見たいと思う絵を描いていれば、会場に一人でいても一向に平気ですし、次にどんな絵を描こうか、なんて考えると、とても有意義な時間を過ごすことができます。
これが私の見出した「待つこと」の意義なのですが、大したことないですね。

そんな私とは真逆なのが、須賀敦子の生き方です。彼女にとって、「待つこと」はつねに次のステップのために必要な時間だったのです。そこで参照するのが大竹昭子(1950 - )の書いた『須賀敦子の旅路』という本です。その「はじめに」のなかに、次のような文章があります。

2018年の今年は、須賀が没して20年という節目の年にあたる。作品を再読しながら自分の書いたものを読み返し、須賀のなにに惹かれ、こだわっているかを、自らに問い直してみた。その結果わかったのは、私が探りたいことは「須賀敦子の人とその作品」であり、それに尽きるということだった。若いときから文学に憧れながらも、作品を書くのが遅くなったのはどうしてか。そのあいだにどのような時間が過ぎ、それは作品にどのように投影されたのか。そんな問いを、須賀の晩年にちかづいた自分自身の人生と重ね合わせつつ、想像したのだった。
(『須賀敦子の旅路』「はじめに」大竹昭子)

須賀敦子が没して20年(2018年において)ということですが、そういえば須賀について簡単な紹介もしていませんでした。もしもあなたが須賀敦子の文章をまだ読んだことがなければ、それはなんと幸運なことでしょうか。これから彼女の足取りをたどりながら、その文章を読むという至福の時間が待っているわけです。
須賀敦子はエッセイスト、書評家、そしてイタリア文学者、優れた翻訳家でもありました。翻訳家というと、外国語の本を日本語に訳す人をイメージします。須賀はもちろん、イタリアの優れた文学を日本語に翻訳した人でもありますが、彼女のすごいところは日本文学をイタリア語に翻訳して谷崎、川端、安部公房などをイタリアに紹介したことです。例えば村上春樹は英語の本を日本語に訳していますが、自分の小説を英語で書くことはしません。そんなことはできっこない、とどこかで言っています。母国語を外国語に翻訳する、それも学術的な定型の文章ではなくて、文学書を訳しているわけですから、素人の私からみてもそのすごさが想像できます。その須賀がどんな人生を歩んだのか、先ほども書いたように、彼女の足取りを丹念に追うことは不可能なので、とりあえずざっと見ておきましょう。
須賀は兵庫県の裕福な家に生まれ、10歳の頃に東京に移ります。カトリックに入信し、聖心女子大学で学んだ後、慶應義塾大学大学院に進学します。パリ大に留学するために慶應を中退しますが、パリが合わず、一度日本に戻ったのち、29歳の時にローマに渡ります。そしてカトリック左派の人が集うミラノのコルシア書店と関係するようになります。その書店を切り盛りするジュゼッペ・リッカ(ペッピーノ)と1961年に結婚し、ペッピーノとともに日本文学のイタリア語訳に取り組みますが、1967年にはペッピーノが急逝してしまい、1971年に日本に帰国します。
帰国後は上智大学などで語学の非常勤講師を務め、1979年、50歳で上智大学専任講師になります。そして1985年、日本オリベッティ社の広報誌でイタリアを題材としたエッセイを執筆、1990年、61歳で『ミラノ 霧の風景』を出版し、女流文学賞、講談社エッセイ賞などを受賞します。以降は旺盛にエッセイを執筆しますが、1998年に68歳で病気のために亡くなってしまいます。
須賀は年齢的には私の親の世代にあたりますが、デビューしたのが、私が30歳の頃ですから、なんとなく同時代的な親しみがあります。『ミラノ 霧の風景』が出版されたとき、このエッセイは安易に海外を紹介したものでもないし、よくある旅行記でもない、今までになかったエッセイだという新聞の書評を読んで、購読してみたのでした。誰の書評だったのか覚えていませんが、感謝しなくてはなりませんね。そして須賀の文章に魅了されたものの、この著者がどういう人なのか、さっぱりわかりませんでした。そして次の『コルシア書店の仲間たち』を読んで、おぼろげに、ここには私などが知りようもなかったイタリアの文化について書かれているのだ、ということがわかりました。
さて、下手な紹介はここまでにして、先ほどの話に戻りましょう。大竹は先に引用した部分で「若いときから文学に憧れながらも、作品を書くのが遅くなったのはどうしてか。そのあいだにどのような時間が過ぎ、それは作品にどのように投影されたのか。」と問いかけていましたが、その答えにあたるようなことを、この手前のところで彼女自身が書いています。

どうやら、須賀敦子という人は、人々の心のなかにある一言で言い尽くしがたい部分を腑分けし、引き出してしまうところがあるようだ。単に文章がすばらしいだけではこうはならないだろう。作品のなかにたしかな声をもった人々がいて、彼らの声が読む人を励まし、刺激し、生きることの深遠さについて考えさせる。それは、回想期でありながら自分のことを声高に語らず、むしろ自身を後退させて人間ぜんたいのことを綴ろうとする意志のこもった慈しみから来ているように思われる。もしかしたらこれは、60を過ぎるまで「私」を押し出すことがなかったゆえに獲得できた視点かもしれない。世間のしがらみから一歩引いて物事を見つめる彼女の眼差しには、自分のことに奔走したり、やるせない出来事に汲々としたりしている私たちの呼吸を深くしてくれる不思議な作用が感じられる。
(『須賀敦子の旅路』「はじめに」大竹昭子)

須賀がベッピーノを亡くして、日本に帰ってから執筆するまで20年ほどの時間がありました。この間、須賀は大学で職を得ながら、エマウス運動というボランティア活動を行なっていました。私たちから見ると空白の期間のように見えますが、須賀本人からすると、積極的に社会に関与していた時期だったとも言えます。しかしその間も、生前のベッピーノからもすすめられていた文学活動への思いが熟していったのだと思います。彼女がイタリアでの体験を対象化するためには、これだけの月日が必要だったのではないか、とは須賀を評する人の多くが言うことです。後から見ると、そういう客観的な見方も可能だと思いますが、文学者としての須賀は、この期間に表現者としての自分を見出すためにじっと待っていたのではないか、と私は思います。
エッセイを執筆するようになってからも、須賀は何かが熟すのを待っていた人です。数々の賞を取り、名声を得て、多くの文化人から尊敬もされていたと思うのですが、彼女にはそんなことは関係なかったようです。『ミラノ 霧の風景』を書くまでの須賀は、沈黙して待つ人でしたが、それ以降の彼女はつねに書きながら待つ人でした。それはどんな状況だったのでしょうか。ここで参照したいのは、作家の堀江敏幸(1964 - )が『須賀敦子全集 第3巻』の末尾に書いた「夕暮れの陸橋で」という解説です。そのはじめの部分を見てみましょう。

晩年の須賀敦子は、どこへ行こうとしていたのだろう。
なにかを書きたい、書いて自分を表現したいという強い欲望を抱きながら、その方途を掴みきれず煩悶しつづけていた彼女が遺して行った全著作は、いかにして書くことにたどりついたかの再確認がそのまま文学作品となるような記憶との闘いであり、同時に過去との共生だった。人生のあちこちに置かれてきた時のかけらをどのように結びつけるか。『ミラノ 霧の風景』で拓かれたその道が、ひとつの技術的な完成を見たのは、マルグリット・ユルスナールというフランス語作家の生涯に随伴するかたちで試みた『ユルスナールの靴』だったが、須賀敦子のあたらしい展開に大きな意味を持つこの作品には、いまだ未消化の課題が残されていた。
(『須賀敦子全集 第3巻』「夕暮れの陸橋で」堀江敏幸)

須賀敦子の「人生のあちこちに置かれてきた時のかけら」とは、どのようなものだったのでしょうか。数カ国語を話し、日本とフランスやイタリアを往来し、宗教を通じて外国の文化を吸収していった人が置いてきた「時のかけら」がどのようなものなのか、私には想像することすらできません。小説家でフランス文学者でもある堀江敏幸ぐらいの人になると、それが理解できるのかもしれませんが、私には無理です。
しかし、とにかく須賀敦子はその人生の中で離れ離れに置かれていたピースを、なんとかひとつの形にしようとしたのです。そして、そのための自分の表現、文章が熟すときを待っていた、ということだと思います。
ちなみに文中に出てくるマルグリット・ユルスナール(Marguerite Yourcenar、1903 - 1987)は、フランスの小説家で、世界を渡りあるいてアメリカの市民権を得た人です。『ユルスナールの靴』はユルスナールの足跡を追いながら、須賀自身の思い出や思想を存分に語った文章でした。その自由な文章を目の当たりにして、彼女はいずれエッセイから完全な創作へ、つまり小説を書くのではないか、と期待した読者が多かったと思います。そして、彼女が小説らしきものを準備している、という話が伝わってきた頃に、亡くなってしまったのです。そんないきさつを知った上で、堀江の解説文の結びの部分を読んでみてください。

だが「いろいろ異質な要素を、となり町の山車のようにそのなかに招きいれ」ることができるのは、彼女にとって「文学」以外になかった。迷いを迷いのまま許容して、もっと大きな思索へ自身を引きあげてくれる場は、「文学」にしかなかったのだ。吉行淳之介の『樹々は緑か』で、主人公が陸橋の上から街を、そして自分の将来を見下ろして結論を出せず、「いま」の「不確かさ」に揺すぶられるがままになっている場面に出会って取り乱したのは、そこに単独の「文学」や「宗教」ではなく、「文学に対する信仰」と呼ぶほかない感触を得たからではないだろうか。否応ない選択の瞬間を求めて「島」から「島」へと永遠の現在をたどりつづけること。そのような「信仰」がなければ途方に暮れることすらできないし、「曖昧な時間」のなかで途方に暮れることがなければ、私たちの手には可能性を閉ざされた過去や未来しか残らなくなる。

もしも、最終便が来なかったらどうしよう。太陽が波のむこうに沈みはじめたとき、私はもういちど、考えた。一瞬、島にとりのこされるかもしれないという、あるはずのないことが、むしょうに怖ろしく思えた。
なんだ、そんなこと。もうひとりの自分が、低い、うなるような声でいった。ここにじっとしていれば、じっと待っていれば、いいんだ。
(『地図のない道』)

そう、ためらえばいい。待てばいいんだ。つぎの「島」が見えてくるまで、じっと待てばいい。待つことは「現在」にしか許されていない豊かで過酷な選択を強いる精神の営為であり、矛盾を抱えたまま生きていける舞台なのだから。須賀敦子は、積極果敢な迷いの意義を消すことなく、いつまでも待ちつづけるだろう、水上バスの発着所でも陸橋のうえでもなく、彼女自身が遺した文章のなかで、そしてついに書かれることなく終わった括弧付きの小説のなかで。
(『須賀敦子全集 第3巻』「夕暮れの陸橋で」堀江敏幸)

ちなみに文中に出てくる吉行 淳之介(1924 - 1994)は小説家で、母は美容師の吉行あぐり、女優の吉行和子と詩人の吉行理恵は妹です。この家族の話は、だいぶ前にNHK『連続テレビ小説』で取り上げられましたね。そしてこの作家の小説『樹々は緑か』は、須賀が晩年に書いた『古いハスのタネ』という断章を集めたような不思議なエッセイのなかに出てくるのです。この『古いハスのタネ』には、聖人フランチェスコ、マルティン・ルター、ダンテの『神曲』、幾人かのヨーロッパの詩人が出てきた後で、なぜか吉行淳之介の『樹々は緑か』が出てくるのです。その小説のあらすじを須賀は解説しているのですが、何が言いたいのか、まったく要領を得ません。そしてエッセイの結びはつぎのような文章です。

小説がその先、どういう展開になったのかどうか、鮮明な記憶はない。なんとなく終わってしまったような気もするが、私はほとんど泣きふしたいほどの感動につつまれた。そのとき、なんの脈絡もなくダンテの神秘の白い薔薇があたまに浮かんだ。
これといった筋もないまま、思いの揺れだけで進行するこの作品の底に重く置かれた性の孤独ーそれはとりもなおさず生の孤独なのだがーに、私はいきなり突き刺された感じだった。古いハスのタネのせいかもしれない。
もしも、いま、宗教といってよいものがあるとすれば、この小説に似ているのではないだろうか。橋のうえで、どうしようかと靄のかかった街を眺めている伊木一郎に、私はかぎりなくなぐさめられていた。
(『須賀敦子全集 第3巻』「古いハスのタネ」須賀敦子)

不勉強な私は、この文章を読んだからといって、ダンテの『神曲』はもちろんのこと、吉行淳之介の『樹々は緑か』も読んでいません。『神曲』を読もうとしたことはありますが、どんな翻訳が良いのか逡巡しているうちに、読むことを忘れてしまいました。
それにたぶん、私が『樹々は緑か』を読んでも、泣くほどの感動はないでしょう。
宗教を突き詰めて考えて、その思考の表現として小説の形を模索していた須賀は、その待っていた時間の果てに何かの啓示を得たのでしょう。それがいったいどのような表現だったのか・・・、「そしてついに書かれることなく終わった括弧付きの小説」を書き上げる時間が須賀には残されていませんでした。かえすがえすも残念です。

さて、こんなふうに「待つこと」を自分の表現の成熟につなげたのが、須賀敦子という文学者でした。「待つことは『現在』にしか許されていない豊かで過酷な選択を強いる精神の営為であり、矛盾を抱えたまま生きていける舞台なのだ」という堀江の解説もすごいですね。こんなふうに、「待つこと」の複雑な辛さと実りの豊かさを言い表した文章を、私は知りません。
そして須賀は60歳の頃からの数年間で、人々の記憶に残るとても大きな仕事をしました。その文章を何度読み返してもまったく飽きることがないのは、「待つこと」による思索の深さの故でしょうか。「矛盾を抱えたまま生きていける」という堀江の言葉が、ほんとうに身にしみます。私は、エッセイを執筆し始めた頃の彼女と同じ年齢になりましたが、「待つこと」にちゃんと時間を使えなかったために、何の蓄えもないただの年寄りになってしまいました。しかし、それでもジリジリとした「待ち」時間を過ごした経験だけは、人一倍持っているつもりです。その時間が一見無駄なものに見えても、もしかしたら「待つこと」もなくスイスイと人生を泳いだ人よりも何かを得ているのかもしれません。人生の最後は死ぬだけですから、この後は死力を尽くしてそれを形にするだけです。

 
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