平らな深み、緩やかな時間

94.『絵のすがた-または、絵画の骨』『小田原ビエンナーレ2019』(改訂)

前のblogに書いたように、これからは個々の芸術家のそれぞれの動向をしっかりと、ていねいに見ていかなくてはならない時代だと思います。
本来なら、このblogもマメに画廊や展覧会場を見て回って、その報告を書くべきなのだと思っています。それも出来れば展覧会の開始の頃に見に行って、マスコミに取り上げられないような、でもよい仕事をしている作家を紹介できれば最高なのですが、なかなかそうはいきません。月曜から土曜日の午前中まで、仕事でほぼ動けないので、土曜の午後の限られた時間に展覧会を回ることになります。当然のことながら、見ることのできる数も機会も限られてしまいますし、結局、終わった展覧会について記録するのがせいぜい・・・、という程度のことしかできません。私の若いころは、美術関係者でもないような年配の方が、暇つぶしに画廊を回っている姿を見かけましたが、いまはそういう時代ではないのかもしれません。私も定年間近ですが、定年後もそういう老人にはなれそうもありません、などと愚痴を書いていても仕方ありません。そのわずかな機会に見た展覧会について書いておきます。

ひとつは『絵のすがた-または、絵画の骨』という展覧会です。国立にある「宇フォーラム美術館」で6月20日から7月7日まで開催されました。展覧会に参加したのは北村周一、田中恭子、藤井博という三人の作家です。どんな展覧会なのか、まずは案内状に書かれた「絵画の骨」という藤井博の文章を読んでみましょう。

われわれは知っている
エルンスト・マッハがえがいた恐るべきスケッチの存在を
平井亮一が説く、画面と眼差しとの緊迫したかかわり合いを
絵画を絵の姿形(すがた)としてとらえなおした、中西夏之の
たぐいまれなる実践行為(絵画場)とその成果を
そしてセザンヌのいまなお息衝くわれわれの
存在自体を問いにもする肉眼と世界への探究を
とはいえ絵画は困難を極める
どのように自覚的であろうとしても
手を変え品を替え上手になぞっているだけの
絵画的絵画に陥ることになりかねない
あらたなる、生きようとする絵画の出現には
絵にはあらざる強力な力学(批判)が
必須の条件なのではあるまいか
たんに美的な、骨のない絵画空間の表出は望むところではない
まずは疑い、問いを発し、また問いかけられもするような
開かれた絵画(視覚性)のありかたを模索したい
つねに古くてあたらしい問題
すなわちサブスタンスへの降り立ち
抽象への飽くなき探究と発見
見えること、見ることへの懐疑と問いかけ
いまここに、「絵のすがた―または、絵画の骨」展を
開催する所以でもある
(2019年4月さくら散るころ ふじい+)

エルンスト・マッハ(Ernst Waldfried Josef Wenzel Mach、 1838 - 1916)は、オーストリアの物理学者、科学史家、哲学者です。私たちは音速の単位のことをマッハと言いますが、その名称の由来となった学者です。彼の有名なイラストがあって、それは左目の視界から見える自分の姿を描いた、ちょっと変わった自画像、あるいは室内画なのですが、自分の鼻の左側や髭らしきものが、その視界の右側を遮っています。普通だと鼻の形は焦点が合わずにぼやっと見えるだけですが、それをはっきりとした図として見させられるとギョッとします。自分がいかにぼんやりと世界を見ていたのか、思い知らされた気分になると同時に、マッハのイラストを見ると左目の視界をのぞき窓にして、それを観察しているもう一人の自分がいるような妙な気分にもなります。そして自分の中でまったく意識していなかった眼球のレンズと視神経と脳の中枢との連係について、考えさせられてしまうのです。
この『絵のすがた-または、絵画の骨』展は、まるでそんなマッハのように絵画を探究する人たちの集まりです。彼らはもちろん、どんなふうに描くと絵画らしい絵画に見えるのか、という程度のことはよく知っています。だから意識的にその「絵画らしさ」に抗って表現しているのです。しかし「どのように自覚的であろうとしても、手を変え品を替え上手になぞっているだけの絵画的絵画に陥ることになりかねない」という現実が、例外なく彼らにも訪れます。だから「絵にはあらざる強力な力学(批判)が、必須の条件なのではあるまいか」と藤井は問いかけているのです。それがどれだけ困難なことなのか、彼らの作品を検証していきましょう。

北村周一は、まさにその「絵画らしさ」と正面から格闘している作家です。
彼の最近の作品は、画布を床に広げて絵具、あるいは塗料を塗布し、それを緩く木枠に張る、というものです。色彩は白、黒、グレーを基調にしたものが多いのですが、色彩と言うよりは塗料の重なった色合いと言った方がよいのかもしれません。今回は濃いグレー調のものと黄土色のような色と白が染みのように交錯する作品が並んでいました。
2015年の『フラッグ《フェンスぎりぎり》』という北村の作品カタログで、評論家の平井亮一はまさに北村の作品をマッハのイラストを引き合いに出して解説をしていました。北村にとって絵画そのものがマッハの視界のようなもので、マッハが視界を遮る自分の鼻を描いたように、北村は絵画の「きわ」の部分を意識しながら制作しているのです。通常、私たちは木枠にピンと画布を張ることで、その「きわ」の部分を意識せずにキャンバスの表面のみを見るのですが、北村の意識はその「きわ」にあります。「絵に紙を一枚重ねれば必ず紙の厚みという側面が現れてくる。そこのところ、そのきわはぎりぎりのところで、どうなってくるのかということに関心を寄せざるをえない」と北村が稲憲一郎との対談で語っていたことを平井は引用しています。そのうえで、「こうして紙面とかかわったドゥローイングのこころみがすでに、マッハの全視界すなわち(自己)意識がその眼の先に一枚の紙をとりだしペンを手にしたとき、その紙のなか、スケッチという内部を出来させたあの、眼差しと媒体とあいかかわり内外いりかわる閾の機微に通じている」と指摘しています。
このように北村の絵画は「きわ」を意識しながら制作されているのですが、その緩く張った画布のあり様がきわめて自然で、むしろ私たちがふだん絵画を見るときに、いかに矩形に区切られた表面のみにとらわれてしまっているのか、ということを意識させられます。この北村の絵画は、ある意味で旧来の絵画への異議申し立てであり、それは1960年代末に起こったフランスの芸術運動「シュポール/シュルファス」を想起させもします。しかし、「シュポール/シュルファス」の作品が極めて観念的であったのに比べて、北村の作品はどこまでも自然に見えます。それはなぜなのでしょうか。
「シュポール/シュルファス」の画家たちは、絵画を「支持体」と「表面」に解体したうえで探究し、表現します。彼らの作品では、ふだん私たちが意識しない木枠や画布が、その存在感を際立たせるように表現されますが、北村の作品は絵画というものの全体を意識して制作されています。つまり分析的に思考するのではなくて、絵画全体を見る眼差しで考えられているのです。そのことが、北村の作品をこれまでにあまり例のないユニークな表現にしているのです。それを平井は「これ(サブスタンス)を追ってゆきついに当面したのも、さきほどいいおよんだ生地としての画面、画布のおしかえしであり、可能性としての画面素地への反転、そのたしかめであったにちがいない。これが画面に身をおいての滞留・たゆたい、つまり統合のトポスへのとどまりを意味するのは当然であるといえよう。」と書いています。
さて、北村の絵画は平井の言う「統合のトポスへのとどまり」、つまり画面上のしみや塗料の重なりからそのゆるやかな「きわ」まで、絵画全体のすべてがまるで作為を感じさせない自然な統合を示しているように見えるのですが、このことが、北村が提起した旧来の絵画への異議申し立ての、ひとつの完結した成果のように私には思えます。床に広げた画布と格闘し、さらにそれを手で引っ張りながら木枠に張る、という北村の方法は、木枠に器具を使って画布を張り、その張った画布に絵を描くことが当たり前の通常の方法からすると、まったく破天荒な行為なのですが、それが自然な営みのように見えるのですから、大したものだと思います。しかし、ここまで来るとあえて問いたいのが、そこから彼はどこへ向かうのか、ということです。いまのところ、北村は絵画の「サブスタンス(substance)=本質、実体」と真っ直ぐに向き合い、その表現をゆるぎないものにしているように見えます。「絵画としてやってはいけないことを、すべてやっているような気がするよ」と北村さんは私に語ってくれましたが、その真摯な姿勢が「絵画」というものをみごとなまでに逆に照射しています。それだけに、これから展開していく作品というものが、ちょっと想像しにくいのです。それは現在の表現からの一時的な破綻を意味するのでしょうから、そこから一歩を踏み出すことは、大変なことです。
前例のない道を一人でたゆみなく歩んできた人が、さらにこれからどこへ向かうのか、その大きな成果を私たちは見てきましたし、そこから踏み出す困難も予想されるだけに、これからの北村の仕事から目が離せません。

実は、田中恭子の絵画についても、絵画としての質はまったく異なるのに、私は北村と同様のことを感じています。しかしそのことに触れる前に、田中の絵画について基本的なことを押さえておきたいと思います。
私が見てきた田中恭子は現代絵画の道を、奇をてらうことなく進んできた人です。
彼女の作品の全体を覆う短い筆のタッチは、言うまでもなくそのひとつひとつが彼女の行為の痕跡であり、彼女が画面の前で逡巡しながら制作したであろう時間を想起させます。田中は急ぎ過ぎず、かといって緩むこともなく、真剣にひとつひとつの筆触を残していったに違いないのです。それは抽象表現主義の絵画以降、現代絵画と向き合った画家なら誰もが意識せざるを得ない「オールオーヴァー」な画面の要件を満たしていますが、それが決して機械的に、あるいは惰性でなされたものではないことが、彼女の絵を見ると了解できるはずです。画面上の色数は少なく、きわめて抑制されたものですが、それは装飾過多にならないように、自然とコントロールされたものでしょう。不必要に絵がきれいに見えることなど、田中の眼中にはないのです。
それでは、田中はどんなことを意識しながら絵を描いているのでしょうか。今回、彼女が書いた興味深い文章がありますので、その冒頭の部分を引用してみます。

私の絵画制作の出発は1977年ごろの鉛筆で点を打つこと、短い線による紙の上での表現だった。
美大に通う頃カンディンスキーの「点線面」「芸術と芸術家」「抽象芸術論―芸術における精神的なもの」に出会っている。その時代(1970年頃)の流れとしてそれまでのものを、すべてご破算にして初めからやり直すことだと受けとめていた。それを平面絵画を通して表現したいと思った。
そんな時、マース・カニンガムが日本に来て彼のパフォーマンスを見る機会を得た。彼が舞台の袖から袖へ、前にダンスしている人たちの後ろを、椅子を両手であやつりながら歩いて通りすぎるというものだった。ダンスというものに開眼させられた一瞬だった。彼の体の動き、手の動き、足の運びに至るまで、そこには時間があった。
そんな経験をしたのち、絵画の中に時間・空間を表現するということを探して制作してきた。
(2019年 5月 田中恭子)

マース・カニンガム(Mercier "Merce" Philip Cunningham,1919 - 2009)を、私は映像でしか知りません。それで、このパフォーマンスのことがとても面白い話だと思って田中さんにくわしく聞いたのですが、彼女はいまもありありと見えるように私に話してくれました。カニンガムは特別なことをしたわけではなく、ただ椅子をあやつりながら歩いていただけだったそうです。それなのに、彼だけが他のダンサーとはまったく違っていた、と彼女は言います。そういう体験を生(ライブ)で見ることができたということを、私は本当にうらやましいと思いました。その経験から、「絵画の中に時間・空間を表現するということを探して制作してきた」というのは、いかにも賢明な彼女らしい歩みだと思います。
そんな経験が根本にあるせいだと思いますが、田中の作品には微妙な動きや揺れがあります。私たちも彼女の作品を見ながらその中に没頭して入っていくと、その筆のタッチに方向性が見えてきて、それが群れを成して動いている動物ように感じるのです。それも単一な動きではありません。例えるなら、群れを成す鳥や魚が外界のわずかな刺激をヴィヴィッドに感じ取って微妙に方向を変えるような、そんな感じでしょうか。あるいは、鳥や魚の動きに直接影響を与える風や水の流れそのもの、と言ってもよいのかもしれません。なぜ、そんな感じがするのかと言えば、先ほどの展覧会の文章の後半部分に鍵があるのだと思います。

制作していると自分の頭の「うしろ」の方の存在がとても意識されて来る。キャンバスに向かいながらも何度も「うしろ」を意識する自分を見ている。自分の側にも時間・空間があり私の体を通して物の際の存在を表現しているようだ。
(2019年 5月 田中恭子)

絵を描いているときに、勢いよく描いているときの自分のスピード感や、じっくりと熟考しているときのゆったりとした感じが、何とかそのまま画面に定着できないものか、と私も考えるときがあります。しかし、それはほとんどうまくいった試しがありません。自分の作品を見ると、何とせっかちで浅はかな奴が絵を描いているのだろう、ということが透けて見えて嫌になります。田中には「自分の側」の「時間・空間」が画面に反映しているという実感があるのでしょう。その実感を確かなものにしているのが、彼女が自分の「うしろ」を意識している、ということにあるのです。彼女が感じているのは目の前の表面的な時間・空間ではなくて、彼女の周囲を包み込むような時間・空間なのです。
このように、田中の作品からヴィヴィッドに表現を読み取っていくと、彼女が意識しているさまざまなことが感受できます。それはとても豊かな経験なのですが、少し気になるのがそれらを読み取るには、現代絵画が成立するためのいくつかの要件、先に述べたように「オールオーヴァー」であることとか、抑制された色彩であるとか、そういったことを通してであることなのです。もちろん、それらの現代絵画の方法論が田中の作品の成立要件になっていることは理解できます。例えば画面全体を均質化した筆のタッチで覆うことによって、彼女独特の動きの表現が成り立っているのだ、ということはよくわかるのですが、さらにもう少し、直接的に彼女の意識の動きを表現する方法はないものか、と考えてしまうのです。現代絵画として完成してしまっているがゆえに、彼女の表現がその定型を通した間接的なものに見えてしまう、ということがときに感じられて、それがもったいないような気がするのです。
田中はエスキースやスケッチをタブローの制作前に作るそうなので、例えばそういった彼女の思考の痕跡を見せてもらえないものだろうか、と思うことがあります。おそらく様式的には未完成なスケッチが、かえって田中の意識をダイレクトに表出しているのではないか、と私は予想するのです。それを糸口にして、タブローにおいても現代絵画としての要件をすこし取り払ってみてもよいのではないか、と私は考えます。そのことが、田中の作品の水準を下げることにはならないと思います。彼女が現代絵画を深く理解し、その完成した作品を経過したことは、たとえ彼女がその要件を保留したところで、その痕跡は容易に消えるものではないでしょう。
現在の完成した作品からさらに一歩を踏み出すために、あえて「その方途を移し否定する契機をはらむ」ような作品が、北村と同様に田中にも求められているのではないか、とそんな気がします。

最後に、藤井博の作品です。まずは今回の作品を見た印象ですが、その充実した作品群に圧倒されました。作品は縦長、横長の作品、描き込み方などで、空間の特徴がいくつかに分類できそうですが、基本的には画面に滲むように広がる色彩と、表面を横に滑るような描線とそれに関連するように打たれた点(ドット)、それらの構造を一気に相対化するような断片的にずらされた形、という要素が基本になります。この断片的にずらされた形、というのは、あらかじめ藤井の画面にはジグソーパズルのパーツのような画布の断片が画面に貼り付けてあって、表面を描いた後にその断片を意図的に少しずらすのです。画面の一部が少しずれて見えると同時に、断片に覆われて描かれなかった画布の白い表面が現れます。そのことによって、描かれた絵具の層がひとつの表面に過ぎず、その下には別の相が存在することが一気にあらわになる、という構造になっています。絵画について深く考えている藤井ですが、絵画という制度に飲み込まれることなく、まるで動物のように人間以外の視点を持ち得ているのが藤井の特徴なのだと思います。
その藤井の作品がうまくいかないときは、それらの要素を一枚の画面に盛り込みすぎて、絵が見づらくなってしまうのですが、今回はいくつかの種類の作品に分けられたことで、一枚一枚のねらいがはっきりしていたと思います。それから、今回は円を描く描線がそれぞれの作品に見られ、その線が画面上を広がるように描かれていたこともよかったと思います。藤井の作品は描き込むにつれて空間が奥の方に深まってしまうので、ときに平面的な張りを損なってしまいます。そのことについては、後で書きますが、それが今回は円という単純な形を錯綜させることで、横へ広がっていくような画面動き、平面の抵抗感のようなものをうまく創出していたと思います。とくに、2枚のキャンバスを横に組み合わせた横長の作品に、その効果が表れていたと思います。それらの作品は滲むような色彩も控えめで、平面的な張りが力強さとなっていたと思います。
しかし、藤井の絵画への探究心は、そのような平面的な空間の作品と同時に、縦長の大きな作品のように色の滲みによる奥行きの方に、むしろ強くひきつけられているのだと思います。それらはただ単に色を重ねるのではなく、意図的に明度の低い色を滲ませることで、深い奥行きを作り出しているのです。
これらの作品を見ると、私は学生時代に竹芝のギャラリーで中西夏之(1935 - 2016)の紫色の作品群を見た時のことを思い出します。弓型のオブジェを画面に貼り付けて、中西が定義する平面というものを示した作品から、徐々に彼は表現の場を絵画そのものへと移行していき、私が見た紫色の作品群によって、ついに彼は絵画の奥行きへと、その探究の手を伸ばしていきました。その画面の不思議な奥行と広がりに、当時の私はただ茫然と広い会場内を徘徊したことをおぼえています。そのころ(1982年)に書かれた、中西の興味深い文章があります。

橋に向かうのは対岸に渡るためではない。
傍の河の流れを感じながら、ちょうど、瞬間、瞬間の愛が連なって人生をたどってゆくのを感じながら、人生が瞬時に現れる愛を時間への接合力とするのを感じながら、河に沿って歩いているとしよう。すなわち、横の系に流れる時間に沿って歩いている。
人生と愛が互いに一方を随伴するようには、芸術は必ずしも人生、愛から必要とされない。だが、芸術は何ものをも随伴せず進行する独自のメカニズムを負わされているのか、芸術は人生と愛の上方にあり両者を観測している。
そこで画家は河に沿って歩くことからはなれ、橋の上の人となる。橋を渡るためではない。河の正面を見るために。横の流れ、横の系の時間から方位をかえたのである。正面性の河から押し寄せてくる時間・縦の系の時間・時間そのものを見るために。
絵画がかたくなに保とうとする正面性と平面性は、この縦の系の時間を受けるためにある。絵画は時間を真向かいから見、浴びるための、唯一の形式である。
(『緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』「橋の上」中西夏之)

解説は必要ないかもしれませんが、河を横から見ることと、正面から見ることとの違いは何でしょうか?河にそって歩きながら河の流れを見るということは、水の流れを見ることでしょう。水が動いていく様を目で追いかけていく、ということです。しかし、正面から河を見た場合には、水の動きを追いかけていくことができません。同じ場所で過去の水が行き、新しい水が来る様子を見るということになります。移り変わっていく水、つまり「時間そのものを見る」ということなのです。場合によっては、河底の土が削られ、あるいは堆積し、というふうに時間の経過による河の変化を見ることができるのかもしれません。私のイメージでは、正面性、縦の系の時間とは、河を垂直方向に見ていく厚みのある時間のことで、絵画に置き換えるなら画面の垂直方向、つまり奥行きを見ることになります。この中西夏之の、河の比喩から説かれた何気ない文章が、実はいかに重要なものであったのか、次の有名な文章と比較して考えてみましょう。

平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえにモダニズムの絵画は、他に何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。
(『グリーンバーグ批評選集』「モダニズムの絵画」グリーンバーグ著 藤枝晃雄編訳)

この言わずと知れた、モダニズムの芸術を語るうえで最も重要な批評家であるグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)の残した文章が、その後の絵画の方向性を決定づけたのですが、これはある意味で絵画に「平面性」至上主義とでも言うべき呪縛をかけた文章であるともいえます。しかし中西夏之の「橋の上」というタイトルを付された文章の、とくにその末尾を注目してみてください。「絵画がかたくなに保とうとする正面性と平面性は、この縦の系の時間を受けるためにある。絵画は時間を真向かいから見、浴びるための、唯一の形式である。」この文章は、グリーンバーグの「平面性」への呪縛を解く、魔法の言葉なのではないか、と私は思います。平面である絵画は、実は「時間を真向かいから見、浴びるための、唯一の形式」なのですから、絵画を探究すべき方向性は、平面的に描くことではなくて、「時間を真向かいから見」ること、つまり垂直方向に掘り下げた奥行によって生じる時間を受け止めることに他ならないでしょう。絵画の奥行を単なる視覚の錯視によるイリュージョンとして捉えてしまえば、それはこれまでの絵画における図法として定着してきたものと同じことになってしまいます。だから、中西は「縦の系の時間」という意識で捉え直したのです。
私が見るかぎりでは、藤井の作品は横長の作品のように、あまり奥行きを作らずに横へ横へと広がる絵の方が、平面としての張りがありますし、画面も伸びやかに大きく見えてうまくいっているように思います。しかし藤井は、それでもときに描き込みすぎてしまうほどに奥行きのある空間を探究してしまいます。それは中西夏之の言うところの「縦の系の時間を受けるため」なのではないか、と思います。藤井は中西の言いたかったことを深く理解し、何とか自分の方法論でそれを成し遂げようとしているのではないか、と私は考えます。
しかしその「縦の系の時間」を生じさせている奥行きが、画面に不安定な要素を生んでいるようにも感じます。画家としての中西夏之は、色彩の使い方においても実に独特、かつ慎重だったので、私が見た紫色の作品以降、有彩色はほぼ単独で用いていたように思います。それに比べると藤井の作品は色彩の使い方がもっと自由ですから、それだけ画面の奥行が深く生じ、複雑なものになり、画面の平面的な張りをひずませてしまうのだと思います。では、どうしたらよいのでしょうか。平面性と奥行とのバランスの問題なのか、奥行きを生じさせている色彩の問題なのか、画面の構成の問題なのか、私にもよくわかりません。未熟ながら、私自身もつねに思い悩んでいる問題でもあるのです。
ただ思うことは、成功した絵画を作るためだけに私たちは制作をしているわけではありません。それどころか、「絵画は時間を真向かいから見、浴びるための、唯一の形式」なのですから、藤井の探究は必要不可欠なものなのだと私は考えます。先にも書いたように、今回の作品では、円の描線が描かれることによって、藤井のこれまでの作品よりも画面を楽に、伸びやかに見えるものにしていました。この次にはどのような展開があるのか、注目したいと思います。


それから、8月4日の午前中に『小田原ビエンナーレ2019』を見に行きました。
この日は展覧会の前期に当たりますが、「小田原宿なりわい交流館2F」で作品を展示している飯室哲也さんにお会いできたので、一緒にほかの二つの展覧会場も回りました。『小田原ビエンナーレ2019』は8月26日まで開催しているものの、私が見た展覧会はこの時期しか見ることができません。飯室さんの展覧会も終わってしまいました。ぜひ会期を確認の上、お出かけください。
https://rarea.events/event/59059
展覧会の全体のことについて少し説明しておくと、美術家の飯室哲也さんが中心となって企画している展覧会で、今回は「思考と表現」がテーマで、過去の作品の資料や映像なども見ることができるようです。何年か前に私が参加した折も、小田原界隈にこれほど文化施設や画廊があることに驚きましたが、それを掘り起こして会期中にまとめ上げることの技量と労力には頭が下がります。とりあえず、今回見た作品の中から飯室哲也と宮下圭介の作品を取り上げて、紹介しておきます。

「飯室哲也/小田原宿なりわい交流館2F」
小田原宿なりわい交流館は木造の歴史的な建造物ですが、その2階で飯室哲也の作品が展示されていました。今回は、彼が1980年代に発表していたインスタレーション作品の素材を使い、交流館の空間に合わせて再制作しものです。その当時、私も飯室と一緒に展覧会をさせていただいたこともあったので、なつかしい作品ではあったのですが、それよりもむしろ、伸びやかな表現が新鮮に思えました。ひとつには展示空間が黒い木造の床や壁だったので、作品の白木や金属が白い線描のように見えた、ということがあります。私の記憶では、飯室の作品をそのような空間で見たことはありません。
もうひとつには、飯室の作品はその後、ひとつひとつの部品やパーツに彩色を施すなど、単独のものとしての表現を強めていく傾向がありました。それはそれで必然性のある流れだったのだと思いますが、今回、あらためてシンプルな素材を生かしたインスタレーションを見て、その無垢な感じが何とも心地よかったのです。
飯室はこの時期の作品について、次のように書いています。

70年代後半からは、自然物と人工物が対照的に共存する空間設定を強く意識した。木の枝を削った有機的な形状とステンレスパイプの直線の無機的な形状を組み合わせて、線状の起伏が生まれる作品「線状の空間感覚」へと表現は移行していった。「線状の空間感覚」のシリーズでは、枝とステンレスパイプに引かれて、私は流動的に断続して見る事、移動する視線で見る事の感覚的な面白さを感じていた。
(『小田原ビエンナーレ2019』パンフレットより 飯室哲也)

ここで飯室自身が書いているように、彼の作品は、木の枝の表皮をはいだもの、木材の端切れを組み合わせたもの、金属のパイプや棒状の板、笹材を束ねたもの、などを床に這わせたり、浮かせたり、壁に立てかけたり、というふうにあまり加工せずにそのまま空間の中に線をつないで巡らせたものです。木のしなりや金属の直線がそのまま線状の形を形成していて、物質感の違いがまるでフリーハンドの線、定規で引いた線、鉛筆の線、筆の線などの質の違いのように見えてきます。
今回は、とくに無垢の木の枝の表皮をカッターではいだだけの素材が使われていましたので、たとえば前々回にちょっと話に出させていただいた木彫をやっている若い作家の方などがこのような表現を見るとどのように感じるのかな、などということを考えました。おそらく、伝統的な木彫を長らくやっている方からすると、飯室の作品はご自分の表現とは似ても似つかない別なものに見えてしまうでしょう。しかし、まだ表現に迷いや柔軟性がある方の場合は、どうでしょうか?
素材として長年使われてきたもの、技法として完成したものと、新しい表現とは容易に結びつきません。木彫をやられている方なら、単なる材木や枝と、木彫のための素材として扱われる木とは厳然とした違いがあるでしょう。石彫をやられている方なら、大理石や御影石と河原の石ころとはまったく別ものでしょう。私のような絵画の場合、油絵具と一般の塗料とはやはり別ものですが、戦後のアメリカの画家たちは絵画の伝統にこだわらずに一般の塗料を絵画にも用いました。一時期、私も油絵具を使うことは伝統的な絵画に取り込まれてしまうことになるのではないかと危惧し、油絵具から離れました。いまは素材にあまりこだわりを持たず、必要ならば油絵具も使います。その判断の良しあしはよくわかりませんが、そう考えるようになるまで20年ぐらいかかったことは確かです。素材のことをひとつとっても、これだけ時間がかかるので、伝統的な技法に足を踏み入れた方が、新しい表現への興味を持続しつつ、それを自分の身の中に取り入れて消化するまでには、さらに時間がかかることだと思います。あせらず、あきらめずに取り組んでいただくと、その先に新しい世界が開かれるのかもしれまぜん。年齢的に私自身がその成果を見ることはできないとしても、それが楽しみであることに違いはありません。
さて、その飯室の作品が発表された時代を考えると、いわゆる「もの派」と言われる表現とのかかわりが気になるところですが、彼の作品を「もの派」の作品としてみると、素材感よりも空間表現としての感性が勝ってしまい、批評しにくいものになってしまいます。それに加えて、表現そのものの保管や記録が難しい、という点でも彼のこの時期の作品は、作品として残りにくいものだと思います。しかし、そういう理由でこれだけの表現が再制作以外に見ることができない、というのもいかにも残念です。どうにかならないものでしょうか。

「宮下圭介 長重之/ツノダ画廊」
ツノダ画廊では、宮下圭介と長重之の二人の作家の作品が展示されていました。
長重之さんは今回の展覧会の前に亡くなられた、ということですが、展示のプランはできていたので、作品を借り受けて展示をした、ということです。私は残念ながら面識がないのですが、やはり「もの派」の作家たちと同世代の作家で、展示されていたのはポケットの形をしたオブジェのようなものでした。巨大なポケットを作って、その中に人が入ったり膨らませたりするパフォーマンスもやっていたようで、ものを包み込むという点ではクリスト(Christo, 1935 - )のような、ポケットの張りぼてという点ではオルデンバーグ(Claes Oldenburg, 1929 - )のような作家であるとも言えます。しかし、彼らが明快で分かりやすい表現を取ったのに対し、長重之の作品はもっとコンセプチュアル・アートに近いものだと思います。ポケットはものを入れる場所ですから、ポケットの形状があれば、人は中に何があるのか、見えないものを想像してしまいます。今回のオブジェでは、ビニールでできたポケットがあって、中には彼が行った巨大ポケットを膨らませるパフォーマンスの記録写真が見えています。見えないものと見えるもの、ポケットにものをしまいたくなる人間の気持ちや、その中身を見たくなる欲望の可視化など、複雑な問題がちょっとユーモラスな形で表現されているように感じました。

宮下圭介は近年、絵具の層の重なりを課題とした絵画を制作している作家ですが、このblogでも作品を取り上げたことがあります。今回はその初期の試作の再現作品がありました。宮下圭介という作家の原点を見るようで実に興味深い展示でしたので、そのことに触れた宮下の文章を次に引用しておきます。

1972年のBゼミ展の際にいくつかの試作をしたが、様々な制約の中で、試作だけで廃棄してしまった作品の写真が残されている。サイズが定かではないが写真から類推すると90~100㎝四方、厚さ8~9㎝程の立体だ。床にビニールシートを張り、四方に長さの等しい木枠を組み、コンクリートを、7~8㎝の厚みまで流し込む。これを完全に乾燥させた後、その上にポリエステル樹脂を1~1.5㎝の厚さに流し込み硬化させた。
<中略>
1972年といえば、既に1970の東京ビエンナーレを経て、「物体表出」がいたるところで見られるようになった時代である。私は68年まで制作していた塑像や抽象彫刻をやめて、田村画廊の展示を見、Bゼミに参加し、新しい動向の中でどうすれば独自の表現が成り立つのか学習していた時期であった。さまざまな試行錯誤を繰り返した中で記録として残っているものの一つ、この試作は、今私が取り組んでいる絵画制作の原点とでも言える作品の一つではないかと思っている。
(『小田原ビエンナーレ2019』パンフレットより 宮下圭介)

ちなみに1970年の東京ビエンナーレとは、美術評論家の中原佑介(1931 – 2011)がコミッショナーとなり「人間と物質」展というテーマで、コンセプチュアル・アートや日本の「もの派」、イタリアのアルテ・ポーヴェラなどの作家を取り上げて物議をかもした展覧会でした。Bゼミは1960年代末にできた現代美術の教育機関です。さらっと書かれた文章の中で、それまで取り組んでいた彫刻をやめて現代美術の表現へと飛び込んだ宮下圭介の嵐のような内面がうかがわれます。実際にそれは、大変なことだっただろう、と思います。
この宮下の試作の再制作ですが、<中略>の部分でその実現の難しさが書かれていたのですが、今回、みごとに出来上がっていました。コンクリートの正方形が床に置かれ、その表面がポリエステルの樹脂で覆われています。コンクリートが乾燥してから樹脂をのせる、ということですが、コンクリートの乾燥具合を示すまだらな模様が樹脂の下から透けて見えている状態で、円滑な表面がきれいに光を反射している一方で、底の方にはコンクリートの染みが見える、という、ちょっと不思議な表面になっています。この表層と基層が相まって見える不思議さは、まさに絵画の表面の不思議さでもあり、宮下の現在の仕事はその課題に正面から取り組んでいるものだと言えるでしょう。
それにしても、このように何の変哲もないコンクリートと樹脂のかたまりが、どうして絵画表現の原点のようなものを映し出してしまうのでしょうか。このコンクリートの正方形は、それ自体で何かを表現しようとする意図のない、言ってみればミニマルな表現だと言えるでしょう。ここで私は、学生時代の私にとても大きな影響を与えた文章を思い出しました。

作品から一切の超越的な意味が除き去られ、作品は単なる物体に近づく。そのとき、では芸術は《それ自体以外のなにものも意味しない物体》にまで還元されたのだろうか。しかし、ミニマル・アートの逆説はつぎの事実にあるように思われる―そのとき、《それ自体以外のなにものも意味しない》この物体それ自体が、というよりはむしろ、それ自体以外なにものも意味しないという事実そのものがひとつの意味を示すこと、まさしく《芸術》という意味を。
(『紙片と眼差とのあいだに』「記号学の余白に」宮川淳)

宮川淳(1933 – 1977)については、前々回のblogで『引用の織物』について書きましたが、『紙片と眼差とのあいだに』は、それよりもさらに散文詩的な、短い文章が並びます。ここでは「芸術」の意味がとことん突き詰められて、ミニマル・アートの作品は「それ自体以外のなにものも意味しない」ものとまで言われています。絵画であれ、彫刻であれ、まったく平滑な平面に覆われたその物体は、もはやなにも「意味しない」のであり、もしも私たちがそれでもその平滑な物体を「作品」と見なし、「芸術」というのであれば、それは私たちの「見る」ことの中に、私たちの「眼差し」の中に「作品」とか、「美術」とか、「芸術」という意味が含まれているのではないか、ということが宮川の記号論の到達点なのです。
ある作品を「芸術」と見なすかどうか、ということの要因は当の作品にあるのではなく、私たちの「眼差し」の中にある、という指摘はとても重要だと思いますが、それが作品を置き去りにして観念的な話になったとき、私は強い違和を感じます。ただ、例えばここで宮下の再制作の作品を見るときに、なぜコンクリートと樹脂の表面がこんなにも強い印象を残すのかと言えば、それはその作品が表面以外の何も意味していないからでしょう。1970~1980年代に、ストイックに素材の表出や表現の0度を標榜するような作品が多数ありましたが、それらは逆説的に素材や表面の強さを表現してもいました。いまの時代のなんでもありの感覚の中で、もう一度この頃の感覚を思い出してみるのもよいのかもしれません。
たとえば、私の知り合いで日本画の出身の方なのですが、ミニマルな作品を制作している若い作家がいます。彼はもちろん、後の時代から遡ってミニマルな表現について学び、それに引かれているのですが、今一度、ミニマル・アートの意味を考え、どこに焦点を置くべきなのか、考えてみるとよいのではないか、と思います。ミニマル・アートの単純な形をスタイリッシュなデザインとして見てしまえば、それはインテリアのひとつに過ぎないものになってしまいます。作品表現のなかの何に対して抑制的でありたいのか、そのことによって新たに何を見たいのか、という動機が大切だと思います。その動機にブレがなければ、今回の宮下の作品のように、ただのコンクリートのかたまりに見えたものが、作品の「表面」という意味をこのように増幅して見せてくれるのだ、ということがわかるのです。
宮下の作品は、いまもつねにこのような表現のぎりぎりの境界で表現されています。宮下はいまでは、色彩についても、筆触についても、かなり自由に表現していますが、それが画面上の異なる層でなされていることによって、彼の作品を旧套的な抽象画とは一線を画したものとしています。今回の作品で言えば、一番大きな縦のストライプ状の形体が見えるブルーの作品では、それが構成的に見えてしまうぎりぎりのところで踏みとどまっていたように思います。カタログに掲載されている同じくブルーの作品が、今回の中ではもっともうまくいっていると感じました。しかし、このような作品の起伏が大切なのだと私は思います。


今回は、具体的な作品について、まとめて書いてみました。こんな程度の文章でも、書いているうちに時間が過ぎ、展覧会は終わってしまいます。
私はblogに画像を載せることはしていませんが、今回の二つの展覧会については、会場で作家の了解を得て写真を撮りましたので、興味のある方はコメント欄でその旨をご連絡の上、メールの連絡先を教えてください。ご相談の上、何とかしたいと思います。
ネット上で画像を公開すると、版権もそうですがさまざまな良くないことが予想されて、差し控えていますが、個人的にお見せするぐらいなら・・・というところです。終わってしまって見る事の出来ない展覧会について、あれこれ書いている、という後ろめたさがありますし・・・。

夏休みに入っても、相変わらず忙しいのですが、授業がない分だけ気持ちにゆとりがあります。このすきに、若いころに読んで影響を受けた本についてもう少し、とか、持田季未子さんの『セザンヌの地質学』についても、そろそろ書いておかないと・・・、と書きたいことがたくさんあります。
いつもよりは早くblogを更新できると思うので、しばらくご注目いただければ幸いです。

<追記・改訂について 2019.8.28>
今回のblogについて、ある指摘をいただきました。
それは私が北村さんの作品について言及する際に引用した、平井さんの文章についてです。
この文章は、北村さんの『フラッグ《フェンスぎりぎり》』という作品集に付された文章であることは本文に書いた通りですが、その文章の末尾に(2014年 初春)という日付が付されています。聞くところによると、平井さんはこの文章を書くにあたって、その日付までの北村さんの作品を綿密に検証して書かれた、ということです。ですから、今回のようにその後の北村さんの作品について言及するにあたり、平井さんの文章を引用することが適切なのかどうか、というご指摘でした。
私は、現存の美術評論を書く方の中で、平井さんをもっとも信頼のおける、また尊敬すべき書き手だと思っています。そして、平井さんの文章はただ単に作品を解説するものではなく、作家の作る作品と同様に一次的な資料としての価値がある、と考えてきました。
しかし、それならば平井さんの文章がいつ書かれたものなのか、もっと注意深く読まなければならなかった、とご指摘を受けて反省しています。
そのうえで、今回の引用部分について再検討してみたのですが、確かに最新の北村さんの作品を語るに際し、2014年の平井さんの文章を引き合いに出すのはどうだろうか、と思う部分がありました。こまかいことは書きませんが、今回の北村さんの作品の充実ぶりについて、私は充実しているからこそ、この完成度の高さからさらに一歩を踏み出したら、どうなるのだろうか、という視点で書きましたが、そこは判断が分かれるところだろうと思います。その部分に数年前の平井さんの文章を引用するのは適切でない、と判断し、書き直しました。
しかし、マッハに関する言及から始まる北村さんの作品の素材とのやり取りの部分などは、北村さんという作家が抱える普遍的な問題であると同時に、もっと言ってしまえば「絵画」そのものが抱える問題についての興味深い考察である、と考えてそのまま残しました。

以前から巷で話題になっているネット上に拡散する不適切な書き込みや虚偽情報など、あってはならないことだと考えていますが、私もblogという手段を用いている以上、十分に注意しなければなりません。ただ、仕事の傍ら一人で書いていることなので、チェックが十分とは言えません。今回のようなことがありましたら、ご指摘いただければ幸いです。




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