平らな深み、緩やかな時間

37.『加納光於』展について

いつのまにか11月も終わり、12月になりました。このところは休日に何かと用事が入り、美術館や画廊に行く暇もありませんでした。きのうも、午前中は職場の組合の研修会に参加していましたが、午後には抜け出して、やっと鎌倉の神奈川県立近代美術館に出かけることができました。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/index.html
見ようと思っていた『加納光於』展があと一日で終わってしまうところでしたが、すべりこみで見ることができました。運よく、学芸員によるギャラリートークの時間にあたっていたところ、そこに立ち会った加納光於( 1933 - )さん本人による、ていねいな作品解説を聞く機会に恵まれました。
版画家として瀧口修造( 1903 – 1979 )に見出された加納光於は、現在でも油彩画の大作を発表している現役の作家です。私が意識的に加納光於の作品を見るようになったのは、たぶん色刷りの版画から油彩画の作品へと主たる表現の場を移そうとしていた頃でした。その作品はどこか神秘的であり、理解できないところもありましたが、完璧な技術に裏付けられたものであることはすぐにわかりました。その後、時間をさかのぼるように初期の版画作品に触れることになり、徐々に理解を深めることができました。
加納光於の作品については、すでに広く知られていますので、その紹介は省略します。今回、本人の話を聞いて印象的だったことだけを記しておきます。ただし、解説の現場でメモをとったわけでもないので、あくまでも私の記憶による記載にすぎません。そのつもりでお読みください。
まずは初期の作品について、作家はこんなことを話していました。

たまたま古本屋で出会った銅版画の技法書をみて、独学でエッチングをやっていた。そのなかで、自分が描いた版の表の面よりも、偶然に腐食したり傷ついたりした裏面の方が面白いと思うようになってきた。そんな偶然に出来た形をもとにして制作したのが、『星とキルロイが濡れる』という作品だった・・・。

そう言って作家は、展示されていた『星とキルロイが濡れる』を指差しました。確かにその作品は、周囲に並べられた作品とは、印象が違っています。絵を描こう、という強固な意志から解放された、自由な広がりのようなものを感じます。具体的に言えば、画面構成がオールオーバーな画面に近くなり、ひとつひとつの構成物の描写よりも、空間そのものを形作ることに興味が移行しているように見えます。その後、描くことよりも偶然性などを生かした表現を大切にするようになった、ということです。実は私は、その頃の作品である『イカロス』、『燐と花と』、『花;沈黙』などが、加納光於のなかでいちばん好ましく思っています。シュールレアリズムの技法であるオートマティスム(自動筆記)と作家との幸福な出会いが、とてもよい形で作品に表れていて、作為と偶然がのびのびと、しかし緊張感を持って表現されていると思います。また、版画技法ならではの偶然性の生かし方が、版形式であることの必然性を感じさせます。もしかしたら、オートマティスムによる版表現という形式において、世界的にも最良の表現がここに見られるのではないか、と思うくらいです。
次に、その後の『SOLDERED BLUE』などの水滴を思わせるような画面の作品について、の話になります。

それらは亜鉛版をバーナーで焼き切ったものを版にしている。凹凸の激しい原版なので、プレス機に敷くフェルト布を何枚もだめにしながら刷った。プレス機がこわれる限界まで圧力をあげて刷ったので、紙へのインクの刷りこみがよいようである。結果的に、いまだにインクの色の退色がない。そのことを作者として好ましく思っている・・・。

その話を聞き、近づいて作品を見てみると、確かに紙の表面に、かなり極端な凹凸がありました。一見すると、空間を浮遊するような軽やかな水滴状の形の裏に、そのような力強さが秘められていたのです。そんなことは、話を聞いてみなければわかりません。
それから、多色刷りの版画について、それらが一版多色刷りで制作されていることを、作家は明かしました。加納作品のように、複雑に色が絡み合っている作品において、それはあり得ない話です。どうやって一版だけで、複数のプリントを同じ状態で刷りあげたのでしょうか。

版の上の色の置き方は、しっかりと決まっている。それに、どの部分でどのように作業したのか、手を動かした回数まで記録して制作した。だからエディションによる色の仕上がりの違いはない・・・。

その緻密さが加納作品のひとつの核になっているのかもしれません。
そして、もっとも驚いたのが『稲妻捕り』シリーズなどの制作方法です。これらのシリーズは、デカルコマニーの技法によって制作されているとばかり思っていたのですが、実は透明なフィルム板を画面に近づけて、静電反応によって絵具を動かしていたのです。その制作方法を始めたころの自分自身の驚きについて、作家はこんなふうに言っていました。

平賀源内( 1728 – 1780 )がエレキテルにより静電気を扱ったときも、ぼくと同じように感じたのではないか・・・。

作家は江戸時代の発明家を引き合いに出して、ユニークに話していました。子供のような好奇心と科学者のような冷徹な眼、そして芸術家としての強烈なイマジネーションが合わさって、このような作品が可能となったのだ、とあらためて理解しました。
私はこれらの後期の作品群の中では、『不意の参入―風矢来 Ⅲ』がシンプルでいちばん好きです。構成はシンプルですが、この技法でなければありえない複雑な色の重なり方、混ざり方をしていて、加納光於の個性が内側からにじみ出ているように思うのです。実を言えば、私は加納光於作品の原色に近い色合いが、やや苦手です。私の弱い感性では、色が強烈過ぎると微妙な作品のニュアンスが味わえなくなってしまうようなのです。そういう意味でも、この作品は私にとってちょうどよい感じです。
加納光於は立体作品も精力的に制作していて、それらの作品が部屋の一区画を使って展示されていました。実はこれも、私は彼の大きな作品が苦手です。むしろミニアチュールのような小さな作品に、作家の個性が、より強くでているのではないか、と思っています。それらの中には、作品の写真が本の装丁に使われたものもあります。学芸員と作家を囲む鑑賞者の集団が、吉増剛造の本に使われた作品の前に来たときのことでした。

この作品を使った吉増の本は、当時としては画期的なもので、たいへんな評判になったものだ!・・・

そう思わず声をあげたのは、鑑賞者の中にいた年配の文学者だったようです。これらの作品の形式そのものは、欧米ではジョセフ・コーネル(Joseph Cornell、1903 – 1972)という作家もいますし、とくに珍しいものではありません。日本でも、瀧口修造が複数の作家と共作をした作品もありますから、シュールレアリズム運動とともに入ってきて、浸透していったものだと思われます。そんななかで、加納作品の特徴をあげるなら、知的で複雑な味わいを持ち、完成度がきわめて高い、ということが言えるでしょう。『巣房記』という展示室の下の壁にそっと置かれた小品も、あたたかみのある好ましいものでした。

展覧会全体を振り返ると、展示場に盛りだくさんに置かれた作品はどれも選りすぐりで、充実していました。モノクロームのエッチングから始まり、多色刷りの版画、油彩画、立体作品に加えて、関連するスケッチや資料まで、よく集め、選んだものだと思います。展示されていたスケッチもどれも美しく、また作家の思考の痕跡が見えるようで、興味深いものでした。
欲を言えば、もうすこし展示場が広ければ、私が実際に見て圧倒された1980年から90年代の大きな作品をもっと見られたのに・・・、という思いがあります。あの池に面した別棟で作品が見られないことが、いかにも残念です。建物を閉じてずいぶんになりますが、補修などできないのでしょうか。


ところで、話はまったくちがうのですが、美術館に行く前の午前中に参加した、職場の組合の研修会は、ブラック企業に関するものでした。『ブラック企業』という著書もある今野晴貴さん(NPO法人 POSSE代表)の講演会です。今野さんの話では、ブラック企業が存在することのもっとも大きなデメリットは、これからの日本の社会を背負っていく若者を食いつぶしてしまうことだそうです。いまの状況に、さすがに与党議員でさえも危機感を抱いている人が多い・・・、という話です。
その講演を聞いて、ふと美術の世界を見れば、はたして若い人が育っていくような環境にあるのか、と考えてしまいます。私たちの世代でさえ、生活することに四苦八苦し、美術を続けることが困難でした。それでも、もう少し社会全体が文化的なこと、芸術的なことに目を開いてくれるのではいか、というあわい希望を、若いころには抱いていました。しかしいまの若者は、そんな希望でさえ抱けない状況にある、というか、それが当然だと思っているのではないでしょうか。
例えば、今日の展覧会で見た加納光於の足跡を見ると、つねに彼が文化的な環境に身をおいてきたことが、わかります。それはもちろん、本人の努力や資質がそうさせた、ということは理解しています。しかし現在の状況を見ると、それだけではすまない問題もあるような気がします。文化的なこと、芸術的なことなどやっていられないような、不寛容な何かが社会全体を覆っていくような・・・。それが漠然とした不安なら、まだよいのですが、徐々に具体的な形をなしてきているように思う、今日この頃です。

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