平らな深み、緩やかな時間

177.「聖林寺十一面観音」、和辻哲郎、イサムノグチについて

東京・上野の二つの展覧会を見ました。
一つは東京国立博物館の『国宝 聖林寺十一面観音』で、広い一室だけの展示ですが、観音像をゆったりと見ることができます。
https://tsumugu.yomiuri.co.jp/shorinji2020/
もう一つは東京都美術館の『イサム・ノグチ 発見の道』で、こちらはサカナクションの山口一郎が関わっているせいでしょうか、思いのほか盛況のようです。
https://isamunoguchi.exhibit.jp/
どちらも話題の展覧会で、特に彫刻関係の方、前者に関して言えば木彫に興味がある方はすでにご覧になっていることでしょう。まだご覧になっていない方がいらしたら、会期がもう少しありますので、私の拙い感想を参照していただいて、興味があったらお出かけください。そういう方がいらっしゃるとうれしいですね。
両方の展覧会ともに予約制で、人数を制限していますし、館内は静かですから会場内でのウイルス感染の可能性はかなり低いと思います。なぜか東京都美術館では荷物検査まで実施していて、感染対策でここまで?と思ったら、東京オリンピックのテロ対策ということらしく、ちょっとむかっと来ました。こんなことに人やお金を割いている余裕があるのなら、都民の危機のためにやるべきことが山ほどあるだろうに、と都民でもないのに思ってしまいました。

さて、「聖林寺十一面観音」のことから書いておきましょう。
実は、私はこの観音像を見るために、学生時代にわざわざ奈良の聖林寺まで行きました。仏像のことなどくわしくもないのに、なぜそのようなことをしたのか、と言えば、哲学者の和辻哲郎が『古寺巡礼』という本の中で、この観音像のことを絶賛していたからです。
和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889 - 1960)は、日本の哲学者、倫理学者です。彼の学問的な業績全般については、私もよくわかっていないのですが、この『古寺巡礼』という著書だけは学生の頃に読みました。それは愛知県の大学に入ったせいか、奈良や京都に時折、遊びに行くようになり、日本の古い美術に少しずつ触れるようになったからです。もう少し日本の美術について知りたいなあ、と思っていたのですが、美術史を本格的に学び直す気力もなく、友人が愛読していたこの本を試しに読んでみたのです。
この『古寺巡礼』は、和辻哲郎にとっては若書きの書です。その書かれた時のいきさつを、岩波文庫の解説で哲学者の谷川 徹三(1895 - 1989)が次のように書いています。ちょっと長いのですが、この本がその後、戦時下の若者にとってどのような意味を持ったのか、ということまで書かれているのでそのまま引用します。

『古寺巡礼』は大正8年(1919)和辻さん30歳の時、岩波書店から出された。昭和21年(1946)の「改版序」によると、「大正7年の5月、二、三の友人とともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記」とある。その一部は大正7年8月から同12月まで5回にわたって雑誌『黒潮』に連載せられた。同じ「改版序」によると、関東大震災で紙型を焼き、翌13年新版を出した当時、すでに書き直したい希望もあったが、旅行の印象をあとから訂正するわけにも行かず、学問の書でないということを標榜して手を加えなかった。「その後著者は京都に移り住み、曾遊(そうゆう)の地をたびたび訪れるにつれて、この書をはずかしく感ずる気持ちの昂じてくるのを経験し」、「そのうち閑を得てすっかり書きなおそうといく度か考えた」こともあったが「そういう閑を見いださないうちに著者はまた東京へ帰った。」
そうしてその数年後、昭和13、4年の頃、度重なる印刷に紙型が摩滅して、再び版を組み直すとの通告を受け、その機会に改訂を決意したが、それができないでいるうち、戦時下の社会の情勢は、「この書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来」、「ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。」そういうわけで7、8年の間この書は絶版となっていた。
しかしその間に「著者は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。写したいからしばらく貸してくれという交渉も一、二にとどまらなかった。近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。」
これはどういうことであろうと、そこで、著者は考える。そして結局この書にある「若い情熱」のせいであろうと思い当たる。
(『古寺巡礼』「解説」谷川徹三)

蛇足ですが、谷川徹三は詩人の谷川俊太郎のお父さんです。
ここに書かれた出版後のいきさつですが、ずいぶんと昔のことなので、本のデータさえあればいつでも本が作れてしまう今とは違うために、若い方にはピンとこない話なのかもしれません。しかし、そういう実務的な話はともかくとして、若書きの本を書き直そうとして、結局、思い止まったというところが面白いですね。そこには「学問の書ではない」という判断があったということですが、それがこの本の魅力だと思います。
そしてこの本は戦時下においては「刊行を不穏当」とされますが、その一方で出征前にはこの本を手に「一期の思い出に奈良を訪れ」たいという希望を持った若者がいた、というのは、ちょっとすごい話だと思いませんか?あなたなら、戦争に行って死ぬとわかっていたら、何をしたいと思うでしょうか。『古寺巡礼』を片手に奈良を訪れたい、という若者が少なからず存在した、というのは私にとって驚きです。日本古来の美と人々が、今よりもずっと近い関係にあった、ということだと思うのですが、翻って現代の若者が「奈良を見ておきたい」とは思わないとしても、死ぬ前に美術や芸術に触れておきたい、と思うものでしょうか。時代の流れの中で芸術のパワーや影響力が衰えてきているのだとしたら、何とかしたいものです。
その『古寺巡礼』の中で大きく取り上げられているのが、聖林寺の十一面観音像なのです。和辻哲郎は、この像を聖林寺で見たのではなく、奈良の博物館で見たようです。その展示方法についてぶつぶつと文句を書いた後で次のように饒舌に語ります。

だが、聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。これを三月堂のような建築のなかに安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さ一層輝いて見えるであろう。
<中略>
観世音菩薩は衆生をその困難から救う絶大の力と慈悲とを持っている。彼に救われるためには、ただ彼を念ずればいい。彼は境に応じて、時には仏身を現じ、時には梵天の身を現ずる。また時には人身を現じ、時には献身をさえも現ずる。そうして衆生を無畏を施す。ーかくのごとき菩薩はいかなる形貌を供えていなくてはならないか。まず第一にそれは人間離れのした、超人的な威厳を持っていなくてはならぬ。と同時に、最も人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬ。それは根本においては人ではない。しかし人体をかりて現れることによって、人体を神的な清浄と美とに高めるのである。
<中略>
かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。半裸の人体に清浄や美を看取することは、もと極東の民族の気質にはなかったであろう。またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。あのような肉づけの微妙さと確かさ、あのような衣のひだの真に迫った美しさ、それは極東の美術の伝統にはなかった。
<中略>
きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、ーすべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現す特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と人間のものならぬ美しさとが現されている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心を運命とを見とおす観自在の眼である。豊かに結ばれた唇には、刀刃の堅きを段々に壊り、風涛洪水の暴力を和やかに鎮むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間淫欲を抑滅し尽くすそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。
この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。肉づけは豊満でありながら、肥満の感じを与えない。四肢のしなやかさは柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現されていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。
(『古寺巡礼』「七」和辻哲郎)

写真図版のページも入れると10ページ近くが、この十一面観音像の印象記に割かれていますので、中略、後略についてはご了承ください。そのうちの、なるべく具体的な記述の部分を抜き書きしましたが、この後には観音像の衣の襞について、さらには横から見た時の印象が書かれています。ここまで書かれると、付け加えることが何もないような気がしますが、私の印象や解釈を差し込んでみます。
まずはじめに、和辻は「肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない」といきなり来ましたね。これはどういうことでしょうか。私の印象では、この像は観音様らしからぬパワーを秘めていて、それが全身のシルエットからはち切れるような力を発しています。ギリシャ彫刻なら筋骨隆々とした美しさで圧倒するところでしょうが、慈悲を担う観音様ではそうもいきません。そこで、その後の和辻の文章にも出てきますが、「肥満の感じを与えない」ようにしつつも「肉づけは豊満」なのです。この非現実的な肉体内部の充実が、肩のあたりに若干の違和感を与えているのだと思います。ふくよかでありながらウエストはくびれ、胸の部分はパンパンに張っていますが、女性でも男性でもない観音像ですから、それが乳房の膨らみなのか、胸筋の張りなのかは判然とさせず、抽象的な丸みで持ちこたえています。そして肩は男性像ならば仁王像のようないかり肩にして力強さを強調したいところですが、先ほども述べたような事情で、ここも力強さと同時に慈悲の柔らかさも表現しなければなりません。それが人体としてはあり得ない肩の曲線になっているのだと思います。
ただし、今回の展示でこの像をいろんな角度から見たところ、下から見上げた角度で鑑賞すると肩の曲線がまったく気になりません。むしろ、力が充満した像であることを表現するには必要な形だったのだと思います。台の上に置かれた仏像は、だいたい下から見上げられることを前提としています。そう考えると、和辻の指摘は当たっていないようにも思います。
そして和辻の文章は全体に、具体的な人体と観音像という抽象的なイメージとの葛藤に満ちています。さらに複雑なのが、この観音像がたんに日本的な表現というのではなく、インドの「神話の痕跡」が見られると同時に、「写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる」というところです。教養のある人は、こういうことをさらっと書いてしまうので困ったものですが、私のレベルの知性では解説が必要です。
ガンダーラは、現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて存在した古代王国です。私の世代だと、日本のロックバンド「ゴダイゴ」のヒット曲として馴染みがあるのかもしれません。美術の世界では、1世紀から5世紀ごろにかけて、独特の造形感覚で作られた仏像が有名です。そのガンダーラの仏像ができるまでには、次のような事情があります。
ガンダーラは紀元前にペルシャが支配していた地域でしたが、紀元前327年にアレクサンドロス大王がガンダーラに侵攻します。それは短い遠征でしたが、その後インド王朝が支配したことで、仏教が広まったようです。もともと仏教の信仰の中では、仏陀そのものの偶像を崇拝することが否定されていたのですが、ガンダーラでは仏教がギリシャ的な文明と出会い、仏像が作られるようになったのです。だからそこには、ギリシャ的な写実表現が混在し、仏像の顔立ちの中にヨーロッパの人にような彫りの深い表情があるのです。
なぜ、和辻哲郎はこの像にガンダーラ人の影響を見たのでしょうか。そのことが今回の展示で、とてもよくわかりました。今回はこの観音像のほかに、「国宝 地蔵菩薩立像
平安時代・9世紀 奈良・法隆寺蔵」、「日光菩薩立像 平安時代・10~11世紀 奈良・正暦寺蔵」、「月光菩薩立像 平安時代・10~11世紀 奈良・正暦寺蔵」の三体の大きな仏像が展示されています。
実は十一面観音像と他の仏像とは作り方が違っていて、解説には次のように書かれています。
「本像は、主に8世紀後半に用いられた木心乾漆造りという技法でつくられています。木心乾漆造りは、木心の上に木屎漆という漆と木粉の練り物で形をつくる技法で、肉身の微妙な起伏や衣の写実的表現に適しています。」
つまり、大雑把な形が彫られた木の芯の上から、漆と木粉が練られた粘土のような素材を使って成形されているのです。ですからこれは、木彫というよりも塑像と言うべきものでしょう。しかしその手法は8世紀後半以降、使われなくなってしまったので、今回展示されていた像の中で十一面観音だけが乾漆造りであり、他の三体の像は木彫なのです。
その作り方の違いがどの程度影響しているのかわかりませんが、十一面観音の柔らかな肉体は塑像ならではの表現のような気がします。そしてその柔軟かつ充実した形体が、ガンダーラ仏を彷彿とさせたのでしょう。
一方の「地蔵菩薩立像」は、観音像よりも後の時代に作られたにもかかわらず、どこかに木彫りの素朴さを残しています。それが「日光菩薩立像」になると柔らかな洗練を感じさせますが、まだ正面性や平面性を残していてます。さらに「月光菩薩立像」は三体の中では一番、立体的な奥行きを感じさせますが、やはり十一面観音ほどの柔らかさ、形の美しさはないと思います。この4体の像を比較してみると、十一面観音が奇跡のような美しさを持っていることがよくわかります。この像を見ていると、いつまででもそばにいたい、という気持ちになります。
さて、この十一面観音像には、聖林寺に安置されるまでに、ドラマのような変遷がありました。和辻哲郎は、この観音像の紹介の最後に、この観音像がどうして聖林寺という田舎の寺に納められることになったのか、その事情について書いています。

しかしこの偉大な作品も50年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は三輪山の神宮寺の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、古神道の権威におされて、路傍に放棄せられるという悲運にあった。この放逸せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。
(『古寺巡礼』「七」和辻哲郎)

この仏像の保存状態から言って、ちょっと話が盛られているようですが、聖林寺の僧がこの像を引き取ることによって守った、というのその通りのようです。東京博物館のホームページの「公式動画ガイドはこちら」を手繰っていくと、この像の由来から見所まで、動画でていねいに解説してくれます。3番目の動画の「日本彫刻の最高峰 その美の魅力とは」の中では、聖林寺がこの観音像を預かることになった際に、住職が書いた文書が紹介されています。
それにしても、このように宗教的な人々の思いと、造形的な美しさとを両立させ、仏像(観音像)の形式にのっとりながら見事な表現を成し遂げた仏師は、なんという奇跡的な人なのでしょうか。作者が誰なのか、わからないようですが、形として残されたものはその美しさはもちろんのこと、その時代の文化や海外との影響関係まで私たちに想像させます。その像を見ることで、制作した人(たち)の奇跡に触れることができるというのは、何ものにも変え難い喜びです。

さて、さらに同じ上野で『イサム・ノグチ 発見の道』が開催されています。
前にもどこかで書いたような気がしますが、私はイサム・ノグチ(1904-1988)がちょっと苦手です。彼の彫刻を見ると、どこか加工されすぎているような気がするのです。表現が優しくてオブラートに包まれているような感じ、と言ったら良いでしょうか。ブランクーシ(Constantin Brâncuşi, 1876 - 1957)やムーア(Henry Spencer Moore、1898 - 1986)の作品を見ると、もう少し生な感じとか、鋭い感じを受けるのですが、ノグチの作品はどうも出来すぎている感じがしてしまうのです。作品も粒揃いだし、誠実だし、真面目だし、普通に考えると言うことが無いのですが、それだけに肝心なところが感受できない自分にもどかしさがあります。
そんな私ですが、今回の展示で期待していることが二つあります。先ほども触れたように、この展覧会はロック・バンド「サカナクション」の山口一郎(1980 - )がずいぶんと関わっていたようです。その山口がノグチのことを知ったのが、ノグチの制作した提灯を買ったことからだ、という話が面白いと思いました。このことから私は、イサム・ノグチという人はデザイナーとして、あるいはプロデューサーとして優れていたのではないか、と思いつき、そのことを確認したくなったのです。
それからもう一つ、この展覧会のホームページからいくつかの動画を見ることができるのですが、その中に石工の『和泉正敏さんインタビュー動画』というものがあります。その中の印象的な言葉をメモしておきます。
「(石彫を)作っても石が小さくならない。」
「削っても逆に石が大きくなる。いつがきても終わりがない。」
「石も生きていたら空間を静かに保つことができる。」
「空間を生かさない石もある。」
「石の命を大事にするには、中身がわからないといけない。」
「原石は、割った中がどうなっているのかが大事。」
この中でもとくにはじめの、「石が小さくならない」というのが面白いです。これはたぶん、(木彫でも同じだと思うのですが)彫刻がうまくいくときには、削っても削っても素材が小さくならない、逆に大きくなる、ということがあるのでしょう。物理的には大きくなるわけがないのですが、それにもかかわらず削っても、削っても石が小さくならずに、逆に大きくなったように感じる、ということがあるのす。今回の展覧会で、そんな石の作品を見ることができたら、イサム・ノグチへの私の印象も変わってくるのかもしれません。
この二つのことを確認したい、というのがこの展覧会で期待していることです。
ところで、この和泉正敏という人ですが、どういう方なのでしょうか。とても気になりますので、ホームページの説明を拾ってみましょう。

1964年、ノグチは日本での滞在中、香川県牟礼町で代々続く石材店「和泉屋」の三男である石匠の和泉正敏(1938-/現・公益財団法人イサム・ノグチ日本財団理事長)と出会います。 ノグチ59歳、和泉25歳の時のことでした。 若いながらも腕の立つ和泉のセンスを見込んだノグチは、その後、《黒い太陽》(1969年、シアトル市蔵)をはじめ、様々な石の作品の制作を任せ、同地に野外アトリエと住まいを構えるに至ります。
二人の仕事における関係は、単なる師弟のそれとは異なる、類例なきコラボレートと呼ぶべきものでした。ノグチが和泉であり、和泉がまたノグチであるような、稀にみる協働関係の下、制作が進められていったのです。そして和泉との出会いは、ノグチにとって彫刻家としての最大の転換をうながすものとなりました。現在、牟礼のアトリエは、イサム・ノグチ庭園美術館として公開されています。同館のミッションは、ノグチ生前のままの環境を維持することであり、残された作品とともにノグチ芸術の聖地というべき無比の空間を今に伝えています。
(展覧会ホームページより)

なるほど、もしかしたら、この和泉正敏という人は、ノグチよりも興味深い人なのかもしれません。とにかく、先の二つのことを念頭に置いて、展覧会を見た印象を記しておきましょう。
まず、ノグチはデザイナーとしてすぐれていたのではないか、という私の予感ですが、当たっていたと思います。山口一郎がインタビュー動画の中で面白いことを言っていて、ノグチの作品はインテリアとして部屋に置いていても、どこかで違和感を持つのだ、というのです。デザイナーというのは、自分の製品が使う人の生活をどのように豊かにするのか、ということをつねに考えているのだろうと思います。自分の製品が生活の邪魔になってはいけないし、かといって日常の中に埋没してしまっては面白くありません。だから、その人の生活に馴染みながらも、何か少し違和を感じさせる、という微妙な線を狙うのです。ノグチの作品群は、まさにそういう感じでした。今回の展覧会は3フロアーにまたがって展示されているのですが、はじめの2フロアーは提灯がうまく活用されていたこともあって、芸術的なデザイン空間とでもいうべき展示になっていました。彫刻作品の一つ一つも、現代彫刻の形式を取ってはいますが、そこにはシビアな感じよりも、むしろ良質なユーモアがあって、彼の彫刻が仮にリビングルームに置いてあったとしても、提灯と同じように生活の邪魔にならず、かといって日常に埋没しない程度の違和を感じさせる存在になり得たでしょう。
しかし、3フロアー目に上がってみると、様相が一変します。そこには確かに石の芸術作品がありました。それは現代彫刻の中でどのような位置にあるのか、うまく説明できないような作品ですが、でもそれらはデザイン用品ではありません。その手前のフロアーでは、むしろ現代彫刻のブランクーシやムーアの影響が容易に読み取れましたが、このフロアーの石の彫刻には彼らの影響を読み取ることができません。また、かと言って石の物質性を強調した、その後の現代美術の彫刻作品とも趣を異にしています。いわゆる日本の「もの派」やイタリアの「アルテ・ポーヴェラ」などの作品とも違っているのです。
ノグチのこれらの作品は、もう芸術作品であるのかどうかはどうでもよくて、石というものがどういうものであるのか、ということを表出するために最低限の手を加えよう、という意思があふれていました。これはおそらく、ノグチと和泉正敏が共同で制作することでなしえた表現なのだろう、と思います。ノグチは作品を発案し、和泉がそのコンセプトを成就する、という二人三脚の作業です。そういう意味では、ノグチはプロデューサーであったと言えるでしょう。彼には、石の性質を見極め、それを引き出せば優れた作品ができる、というアイデアはありましたが、それを自分でやってしまえば凡庸なデザイン作品になってしまいます。そこには鋭敏に石の声を聞く感性が必要だったのです。それが和泉の役割だったのでしょう。
展覧会場の最後に、ノグチの庭園を紹介するビデオが上映されていました。私はノグチの庭園にぜひ行ってみたい、と思うものですが、しかしもしかしたら、ノグチの石の作品は庭園の中で見るよりも、この美術館の展示室で見た方が、よりよく見えるのかもしれない、という思いも抱きました。このフロアーのノグチの石は、彫刻作品としてみると何とも言いようのない魅力的なものですが、これを庭の石として位置付けてしまえば、ありきたりのものに見えるのかもしれない、と思ったのです。美術館の中で、一つ一つスポットライトを当てて、独立した作品として見た方がノグチのコンセプトと和泉の感性が先鋭的に見えるのではないか、ということなのです。
ちょっと私のノグチへの思いが屈折していて、わかりにくいでしょうか。よかったら、皆さんも展覧会の現場で自分がどう感じるのか、確認してみてください。
一つ確実に言えるのは、この展覧会はノグチの展覧会としては出色の出来だということです。賛否両論があるのかもしれませんが、これくらいはっきりと企画者の意図を示した展覧会を、これからも期待したいものです。

さて、今もこの文章を書いていると、テレビでは東京都のウイルス感染者が過去最多となったと報道しています。デパートの食品売り場やお盆の帰省が槍玉に上がっていて、私たちの行動がますます規制されそうですが、美術館、博物館の開館制限は本当に最後にしてほしいものです。こうしてたったの数時間を静かな空間で過ごすだけで、心の中のイメージは奈良や平安の時代に遡り、あるいは行ったことのないガンダーラにまで飛んで行きます。イサム・ノグチの展覧会では、四国やニューヨークの庭園に行かないと見ることのできな作品が多数置かれていて、心は海を超えてその庭園を訪ねているのです。これらの作品によるイメージの自由な飛翔を否定して仕舞えば、人として生きていく意味がなくなってしまう、と私は考えるのです。
現実がどんなに息苦しくても、心の自由だけは謳歌できるように、なんとか頑張っていきましょう。芸術や文学は、そのためにあるのだと思います。

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