すそ洗い 

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2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

綿子と照之

2017年07月09日 | 社会

浜 木綿子(はま ゆうこ、1935年10月31日 - )

香川 照之(かがわ てるゆき、本名同じ、1965年12月7日- )
名跡「市川中車」の当代、九代目 市川中車を名乗る。屋号は澤瀉屋。定紋は大割牡丹、替紋は片羽車。171cm AB型



【のびやかに・浜木綿子】





両親、妹と「照之の子育て」3つの約束事

ずっと気になっていたことがあります。周囲から「女手ひとつで息子を育てた」と言われるたび、後ろめたさのようなものを感じてきました。歌舞伎俳優の市川猿翁(当時、猿之助)さんと1968年に離婚後、私は仕事に明け暮れました。没頭することで、プライべートの複雑な思いも振り払えたのだと思います。

 その間、息子(香川照之)を見てくれていたのが、両親と妹。一緒に宝塚歌劇にも在籍した妹は、自分の人生をほとんど犠牲にし、私たちを支えてくれました。感謝の気持ちは尽きません。

 照之は、父親がいないことをどう受け止めていたでしょうか。父親参観で父の顔を描くとき、私の父、つまり祖父の顔を描いて帰ってきました。かわいそうで、申し訳なくて。感情をあまり表に出さない子で、余計に心配でした。

 私のドラマに関しては後の回で触れようと思いますが、一時は台本5冊を抱え、スケジュールも体力も限界まで仕事一色。父親の役目、父親の代わりを考えたとき、お金の不自由だけはさせたくありませんでした。照之は「母親なのに。なぜいつもいないのか」と思ったでしょう。

 本人は気づいていたか分かりませんが、子育ての中で私たちの間で“3つの約束事”がありました。彼が「○○をやってほしい」と言ったときは「ちょっと待って」と言わず、すぐ行動すること。鍵っ子にせず、必ず誰か家にいること。そして、猿翁さんの悪口は言わないこと。テレビや新聞に出ていれば「お父さんは立派な人よ」と言うようにしていました。

 甘やかした部分もあったと思いますが、物心ついたときから、自分の世界を持っている子でした。大好きな怪獣で部屋がいっぱいだった時期も。ガオ~と鳴き声を出し、ソファからジャンプしたり。怪獣になりきって一人で楽しそうに遊んでいるのです。

 そして最近、NHKで番組にもなっている昆虫への興味。「好き」のレベルが違い、私たちはついていけません。特にカマキリ、チョウ、カブトムシ。最近はタガメへのこだわりを熱く語っているようです。番組で彼が触れていましたが、誰が買い与え、家族の誰が「照之、ご飯よ」と言ったのか。妹とも話すのですが、昔すぎてよく思い出せません。

 卵から赤ちゃんカマキリがいっぱい生まれるときは、飽きずにずっと見ていました。私は虫は苦手です。どうしてあそこまで夢中になって、何でも覚えられるのか、不思議でした。恥ずかしい親ばかですが、このままいくと、ひょっとして日本のファーブル?と思ったり。でも学者は食べていけない、と心配したり。「昆虫図鑑が欲しい」と言えば、喜ぶ顔見たさにすぐ買い与えるような親だったと思います。でも図鑑って結構、高いんですよね。このころは、頭の隅でいつも「父親らしさって何かしら?」と自問自答しながら、息子と接していました。

(2017年7月1日スポーツ報知)






「反抗期終了」宣言して驚かせた照之

息子の(香川)照之が、幼いときどんな子で私たちにどのような影響を与えたのか。母親目線から、2回に分けてつづってみようと思います。ずいぶん前の話です。小さな記憶違いがあったらごめんなさい。でも、とにかく、驚かされてばかりでここまできました。

 あれは小1の授業参観日。先生に「胸のまわりを何と言いますか」と聞かれ、照之は「胸囲です」と答えたことがありました。お母さん方から「お宅では、そんなことも教えてらっしゃるの?」と。私の頭の中は「?」だらけです。心の中で「胸囲なんて言葉、一体いつの間に覚えたのかしら」とドキドキしたのを覚えています。

 私の仕事中、母がよく読み聞かせをしてくれました。ストーリーを覚えると、逆に読み手に話の展開を説明し始めたり、表情をじっと観察したり。そんな中で、言葉も自然に増えていたのかもしれません。

 別の参観日には、こんな出来事もありました。息子が突然、席を立ったかと思うと、教壇へ。「一体どうしたのかしら?」。またしてもハラハラです。何やら先生の腰をトントンと叩いています。トイレでした。変わった度胸がありました。

 一方でうれしかった記憶で思い出すのは、中学の修学旅行で博多人形をおみやげに買ってきてくれたこと。着物が好きだった母にはかんざしを。でも、こんなに買えるほど、おこづかいは持たせていませんでした。聞けば、足りない分を先生に借りて買ったとのこと。借金など一度もさせたつもりはありません。その大胆な思いつきにびっくりしたのです。私が人形好きなのを知っていたのでしょうか。いまも大事に持っています。

 そして妹と時々、懐かしく話すことがあります。中2の反抗期のこと。荒っぽい言葉を使ってみたり、帰宅してもすぐ、自分の部屋に閉じこもったり。「お食事ですよ」と言っても、なかなか下りてこなかったり。家族で「反抗期が始まったね。辛抱強く様子をみようね」などと言い合っていました。

 ところがです。20日ほどたったころ。突然、私たちのいるところに来たかと思うと、「反抗期、終わったよ」とすっきりした顔で言うのです。えっ? そんなこと普通、自分で言います? 私たちの方がキョトンです。「そ、それはよかったね」みたいなやり取りをしたと記憶しています。

 でも今回、こうやって振り返ってみて思うのです。芸能人の親を持ってしまった彼は、彼なりに常にストレスを抱えながら過ごしていたに違いない、と。当時は俳優という仕事にも、全く興味はなさそうでした。

 反抗期は大人になる過程で、とても大事なものだといいます。自由でノビノビした反抗期、という表現は変ですが、本当はもっと好き勝手に振る舞いたかったでしょう。多感な時期に、自分ですべての感情をコントロールしていたと思うと、申し訳なさと、少なからずの罪悪感がよみがえってくるのです。(構成 編集委員・内野 小百美)


(2017年7月7日15時0分 スポーツ報知)





照之が猿翁さんに会いに行った意味

息子の(香川)照之が、ボクシングと昆虫を愛していることは、皆さんもご存じだと思います。この2つ。本人は否定するかもしれませんが、一見まったく別物のようで、根っこではつながっていると思えてなりません。

 死と隣り合わせのスポーツと、はかない命を懸命に生きようとする虫。ともに生命を哲学的に考えさせます。命がどこからきて、自分がなぜ生まれてきたのかを、潜在的に自問自答してきた部分もあると思うのです。息子に聞いて確かめたわけではないので、勝手な推測だったら、すいません。

 照之に、夫だった市川猿翁さんのDNAを感じることは、よくありました。途中経過を誰にも相談せず、一人で行動に移し、いきなり結論から報告するところも似ています。

 彼が俳優を志して数年目の25歳頃。何の前触れもなく「お父さんに会ってきたよ」と聞かされました。照之が3歳のとき、猿翁さんは私たちの前から去り、20年以上、一度も会わずにきました。思わず私が「お父さんて、どこの?」と聞き返すと「おやじだよ」と。絶句しました。彼の口から「おやじ」という使ってこなかった言葉を聞いたことにも驚きでした。

 場所は沼津の公演先。蜂がブンブン寄ってくるほど大きな花束を抱え、アポなしで会いにいったというのです。あちらも、突然の“来客”に動揺したでしょう。この時の様子は、手記やドキュメンタリーで触れられています。「よく会いに来たね」などという感動の対面とは、全く逆のことが起きていました。

 なかなか会えず長時間、待たされた後、「僕とあなたとは何の関わりもない。あなたは息子ではない」と一方的に話すのを、ただただ泣きながら聞いた後、照之は「この世に授けてくれて、ありがとう」と伝えたというのです。

 胸が締めつけられるようでした。自分の命の意味を問い続け、癒えることのない思いと闘っていた。当時はまだ歌舞伎界に入ることまでは考えていなかったでしょう。でも彼の中では、生きていくうえで絶対にいま会っておかなくては前に進めない、という信念と覚悟をもっての行動。抱えてきた孤独の深えんを見る思いでした。

 東大を出たところで、彼にはあまり意味はなかったのです。それにしても、有名人の子供が合格したと騒がれたとき、カメラに激しい嫌悪感を見せていた子です。それが卒業が近づき「僕、芸能界に入るよ」と。このときも「えっー?」とびっくりです。

 マネジャーも自分で見つけてきました。他に将来の選択肢はあったはずですが、最終的に親と同じ俳優の道へ。これも運命のいたずらか。誰に教わったわけでもないのに、デビュー時から、それなりの芝居はしていました。でも納得できなかったのでしょう。悪戦苦闘を繰り返しながら「演じる」ことに、深くのめり込んでいく姿があったのです。

(2017年7月8日15時0分 スポーツ報知)






浜木綿子と藤間紫の女の闘い!猿之助との離婚真相が惨すぎる!

浜木綿子にとって、藤間紫は、元夫・三代目市川猿之助(後の二代目市川猿翁)を横取りした憎き女。浜木綿子は、1961年に宝塚歌劇団娘役を退団し、女優活動絶頂期の1965年、市川猿之助と結婚しました。

同年12月、浜木綿子は、NHK大河ドラマ「太閤記」を途中降板し、息子・香川照之を出産します。ところが香川照之が1歳半になった頃、市川猿之助が突然、藤間紫の元に移り住んで同棲生活を始めてしまったのです。当時、藤間紫は、市川猿之助の師匠でもある藤間流6世宗家・藤間勘十郎の妻であり、2児の母でもありました。

結婚してわずか1年余りで、自分より12歳も年上の人妻で、子持ちの女に夫を奪われた浜木綿子は、当時の心境を「悔しくて、悔しすぎると涙が出ないのよ。大声で叫びたいと何度も思ったわ」と振り返っています。浜木綿子は、息子・香川照之のためにも、市川猿之助の帰りを待ち続けましたが、想い届かず1968年に離婚に至りました。

浜木綿子は市川猿之助との離婚後、支えになってくれた今は亡き元小結・龍虎とイイ仲になりながらも、独身を貫いています。それほどに三代目市川猿之助(市川猿翁)を忘れられずにいたのでしょうし、心の底から愛していたのでしょう。しかし、市川猿之助はそうではありませんでした。市川猿之助にとって、16歳年上の藤間紫は、12歳の時の初恋相手。その時すでに自身の踊りの師匠の妻であったため、何とか諦めをつけて結婚したのが浜木綿子でした。

その後、2人は互いの婚姻関係を清算して、藤間紫が亡くなるまでの50年間愛を貫くほど、固い絆で結ばれていたのです。浜木綿子は、公の場で多くを語らなかったため、当初は、離婚原因が浜木綿子にあったとする声もありました。当時の浜木綿子の心痛を思うと、藤間紫への尋常ならざる怨念を抱いていたというのも、当然といえば当然のことでしょう。


浜木綿子にとって、息子・香川照之は、愛する三代目市川猿之助(市川猿翁)の唯一の忘れ形見であり、藤間紫への唯一の対抗手段でもありました。離婚後、浜木綿子に引き取られた香川照之は、「父親は市川猿之助だけ」「市川猿之助と藤間紫を超える大物になりなさい」と言われ続け、歌舞伎には触れてはならない環境で育てられたといいます。

香川照之が、私立暁星学園を経て、東京大学文学部社会心理学科へ進んだのも、根底には、浜木綿子の女の意地があったに違いありません。後に香川照之は俳優として大成しますが、藤間紫の援護を受け、一度は「父でも息子でもない」との冷徹な言葉を放った市川猿之助と和解し、幼い息子と共に歌舞伎界入り。浜木綿子は、愛する息子に「おやりなさい。でも、香川照之の名だけは消さないで」と背中を押したそうですが、かなり複雑な心持ちだったことでしょう。

浜木綿子主演の「監察医・室生亜季子」シリーズは、日本テレビ「火曜サスペンス劇場」で、1986年~2007年まで、全37回にわたって放送された2時間ドラマ。浜木綿子演じる監察医・室生亜季子と、左とん平演じる浜田五郎警の軽妙なかけ掛け合いが人気となり、視聴率は15~20%超を常にキープ。シリーズ最多の超ロングセラーシリーズとして、「火曜サスペンス」終了の大トリも務めています。

その2年後、「監察医・室生亜季子」は、日本テレビ「火曜ドラマゴールド」の最終回で1度だけ復活。この時の視聴率は13.8%とシリーズ最低ながらも、「火曜ドラマゴールド」史上最高の数字を叩き出しました。いかに2時間サスペンスファンにとって、浜木綿子演じる監察医が支持されて来たかが分かります。ファンとしては続編への期待を捨てきれませんが、まだまだ美しいとはいえ、浜木綿子も現在80歳。監察医を演じるにはやや厳しいのかもしれません。


浜木綿子の9年ぶりとなる主演舞台「極楽町一丁目~嫁姑千年戦争~」の制作発表記者会見が、2016年5月17日に行われました。「極楽町一丁目~嫁姑千年戦争~」は、嫁姑問題と人情とブラックユーモアで描く喜劇。浜木綿子にとっての姑といえば、三代目市川猿之助(市川猿翁)の母・高杉早苗ですが、会見でその話題に触れられると、「あんまりお会いできず、壁があって残念」と笑みを浮かつつ、息子・香川照之の嫁について「姑という立場が分からないので会ってません」ときっぱり。

また、香川照之の俳優としての活躍については、「美男子じゃないのがいい」と発言して、会場の笑いを誘いました。壮絶な離婚を経験し、女手一つで子育てに執念を燃やしてきた浜木綿子ですが、今回に限らず、表舞台に立った時には、決して自分を捨てた市川猿之助や藤間紫の悪口を言わなかったことに芯の強さを感じさせられてしまいます。絶縁状態となってから46年ぶりに市川猿之助に再会した時も、「誕生石のアクセサリーをプレゼントされて嬉しかった!会えたことも奇跡!」と明るく語った浜木綿子。

藤間紫への怨念、息子・香川照之への執着愛と、女の情念をうかがわせる話題がつきものの半生ではありますが、その愛情深さは、容姿と同じく、美しさすら覚えてしまいます。「毎回、これが最後と思いながら舞台に立つのよ」と言わず、いつまでも美しくお元気なままで。あわよくば「監察医」として再びテレビドラマでもお目にかかりたいものです。

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