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服部良一氏の次男はジャニー喜多川氏から性被害を100回以上受けた

2023年08月08日 | 社会

服部良一(1907年(明治40年)10月1日 - 1993年(平成5年)1月30日) 

ジャニー 喜多川1931年10月23日 - 2019年7月9日)



「70年前、ジャニー喜多川氏から性被害を100回以上受けた」 
作曲家・服部良一氏の次男らが打ち明けた加害の実態
「事務所設立の目的も〝それ〟では」

ジャニー喜多川氏の性加害はジャニーズ事務所を創業する前からあった―。戦後歌謡界を代表する作曲家、服部良一の次男で俳優の吉次さん(78)が約70年を経て、幼少の頃のつらい体験を語り始めた。重い口を開かせたのは、若い世代の勇気ある告発だった。

 喜多川氏は本名の拡(ひろむ)をもじって「ヒー坊」と呼ばれていた。自分から料理や掃除までこなし、家の女性たちから「日本の男とは違う」と評判だった。当時7、8歳だった吉次さんはそう記憶している。  毎週のように、土日になると彼は服部家にやって来た。「家族と一緒に食事をしたり、マージャンやトランプなどいろいろなゲーム遊びをしたりしたんですよ」。米軍基地内で日用品を扱う売店「PX」から仕入れたとおぼしき、チョコレートやアイスクリーム…。当時まだ珍しかったお菓子などを、お土産として欠かさず持って来たという。 

「今日は泊まろうかな」。ある日、喜多川氏がふと口にした。母親も「よっちゃんの部屋が良い」と言い、自分と並んで寝ることになった。すると彼は、「肩をもんであげるよ」とマッサージを始めた。はじめは肩、次第に全身へともんでいく手は、いつの間にかパンツの中に入ってきた…。  翌朝、喜多川氏が帰った後で、吉次さんは姉に前夜の出来事を打ち明けた。だが「気持ち悪い、そんな話しないでよ」と言われ、他のきょうだいや両親に話すことはできなかった。  その後も、喜多川氏が家に来るたび、同じ目に遭うことが続いた。  「2年半くらいで、全部で100回くらいはあったと思う」  特に覚えているのが、長野・軽井沢での出来事だ。同級生の松崎くんら友人6人ほどでスケートに行き、別荘に泊まった。引率者だった彼は夜、みんなが寝静まると、いつものようにあの行為を始めたのだ。そしてその手は松崎くんにまで…。

その時、自分に向けられた行為は未遂に終わったと、松崎基泰さん(79)は振り返る。寝ていると、体の上に重たいものが乗っかってきた。喜多川氏だった。あまりの恐怖に泣き出すと、隣接する小屋に泊まっていた年長の女性が来て、彼を注意してくれたのだという。  松崎さんによると、喜多川氏が行為に及ぼうとしたのは、この時だけではなかった。それ以前に服部家へ遊びに行った日、食事を取り、シャープ兄弟と力道山のプロレスをテレビで見ていると、服部家の家族ではない男の人の視線を感じた。それが喜多川氏との最初の出会いだった。  程なくして、演劇や映画に誘われ、一緒に行くようになったという。ところが暗い劇場内で喜多川氏は、松崎さんのセーターの中に手を入れ、体を触ってきた。「恐怖で母親のみならず身内の誰にも言えず、されるがままで震えを覚えた」  服部家から松崎さんの家まで、喜多川氏が車で送り届けることもあった。途中でお菓子をお土産に買ってくれるが、家が近づくと彼は暗い場所に車を止め、何度も性加害を行った。 

「2年まではいかないくらい続いた。1週間から10日に1回はあった」  喜多川氏はその後、自分たちと同じくらいの年の男児を集め、少年野球団を結成。松崎さんも入ったが約1年後に退団した。最後にボーリング場で偶然会った時、喜多川氏は新しい男の子に肩から首に手を回して歩いていて、自分に対しては(性的な)興味を失ったようだった。これで、もうあのような悪夢はなくなると感じた。  

 吉次さんの父、服部良一は、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」や映画主題歌「青い山脈」「銀座カンカン娘」など、数々のヒット曲を世に送り出し、戦後歌謡界の頂点に立った作曲家だ。第2次世界大戦後に良一は、笠置らとアメリカ公演を行っている。この際、現地で裏方として支えたのが、米ロサンゼルス生まれの喜多川氏だったという。  

1950年に始まった朝鮮戦争に、米国籍も持っていた喜多川氏は従軍した。前後して日本に帰国する。服部家に親しく出入りするようになったのは、この頃だ。いちど、軍服姿で家を訪ね、帰るときに異常なほど時間をかけて靴ひもを結び、一言「あー嫌だな、行きたくないな」と言ったことを、吉次さんははっきり覚えている。

あれは、戦地に行きたくないということだったのか。なぜ、彼が自分にあのような行為をしたのかを考えると、朝鮮戦争を経験した心的外傷後ストレス障害(PTSD)も影響したのではないかなどと想像してしまうという。  喜多川氏は1962年、ジャニーズ事務所を創業。その後も服部家とは長年、公私にわたって交流を続けた。しかし、「僕とはほとんど口を利かなかったですけどね。彼は微妙な顔はしていましたね」  1993年に良一が死去すると、喜多川氏は葬儀で服部家の親族席に座ったという。  その年のNHK紅白歌合戦。ジャニーズ事務所の人気グループ「少年隊」は「服部良一メドレー」を歌った。事務所に所属する他のグループも、舞台公演で良一が手がけた曲をしばしばカバーしてきた。 

 国民的な人気を誇るグループや歌手らを多く輩出し、ジャニーズ事務所は日本の芸能界で大きな存在感を持つようになった。しかし、喜多川氏が事務所を作った意図を、吉次さんはこう見ていた。

 「こういったこと(性的欲求)を合理的に処理したい、自分が思い描くことをしたいと(事務所を)つくられたのでは」  

70年の沈黙を経て自身の性被害を公表しようと決意したのは、今年に入り、歌手のカウアン・オカモトさん(27)ら、ジャニーズ事務所の元所属タレントらが相次いで顔を出して告発に踏み切ったことが大きいという。

  「これまで発言できなかった後悔があった。テレビに映った(元)ジャニーズJr.の人たちを見て、思い切った」  

ジャニーズ事務所側は、外部の専門家による再発防止特別チームを立ち上げ、検証に当たっているが、吉次さんは「国が取り組まないと、事務所のことは片が付かないと思う。政府は容赦なく取り組むべきです」と突き放す。  国際社会からも厳しい目が向けられている。国連人権理事会の「ビジネスと人権」作業部会の専門家は、性加害を告発している元ジャニーズJr.らから聞き取り調査を行った。松崎さんは「当然のこと」と評価する。「ぜひ、全部きれいに洗い流してもらいたいな、と思います。こういうことが芸能界からなくなってほしい」

(2023.8.8. 47NEWS)




ジャニーズ事務所の創設者ジャニー喜多川氏(2019年に87歳で死去)による性加害問題で、俳優の服部吉次さん(78)が都内で取材に応じ、小学生だった70年前に、喜多川氏から自宅で100回近く繰り返し性暴行を受けていたと証言した。ジャニーズ事務所は5月に再発防止チームの設置を発表したが、現在まで記者会見を開いていない。服部さんは「事務所はしたたかに表に出ず、嵐が過ぎるのを待っているように見える。国が調査して対応しなければこの問題はかたづかない。社会全体の問題としてもっと真剣に考えてほしい」と訴える。

吉次さんは「東京ブギウギ」や「青い山脈」など数々の名曲を編み出し、国民栄誉賞を受賞した作曲家服部良一さんの次男。 

ジャニー氏の父・喜多川諦道たいどう氏は、大分出身の日本の高野山真言宗の僧侶で、高野山米国別院第3代主監の布教師としてサンフランシスコに移住。現地でジャニー氏は生まれた。
 一方、良一氏も米国にわたり、笠置シズ子氏の日劇ショー「ブギ海を渡る」を持って巡業ツアーを開催、そこで良一氏と諦道氏との関係ができた。ツアーではジャニー氏と姉メリー氏(2021年93歳で死去)が、コンサート会場を接待役として回って裏方で支え、大活躍したという。
 1950年6月に朝鮮戦争が始まると、ジャニー氏は米軍関係者として従軍。日本では進駐軍宿舎「ワシントンハイツ」に住んでいたが、父親同士の交流が縁で新宿区若松町の服部家にも頻繁に出入りするようになり、出兵から一時帰還すると、10人家族の服部家の父や母と食事をしてマージャンをしたり、トランプに興じたりしていたという。

50年のある日、ジャニー氏は、カーキ色の軍服姿で現れたことがあった。父良一氏は、彼を見ると「ヒー坊(ジャニー氏の愛称)!!」と喜んだという。ある時、トランプゲームで遅くなるとジャニー氏は「今日は泊まって行こうかな」と言ったら、母親が「よっちゃん(吉次さんの名)の部屋に泊まればいいわ」と言った。
 ワシントンハイツからチョコレートやお菓子をたくさん持ってきてくれるジャニー氏は、吉次さんにとって「楽しく優しいお兄さん」だったのが、その夜、一変した。
 パジャマに着替えるとジャニー氏は「肩をもんであげるよ」と言いはじめ、肩のマッサージから全身、手足と伸び、陰部を触ってきた。

翌朝、ジャニー氏が出かけた後、五つ上の姉が「楽しかった?」と尋ねるので「マッサージは気持ち良かったが、その後、体中を触ってきて陰部も触ってきた」と正直に言うと、姉が「やめなさい。そんな気持ち悪い話をしないで」と怒った。そこで「悪いことなんだ」と思考が止まり、結局、両親をはじめ、家族には一切話せなくなってしまった。
 その後も2年半ほどの間、週末に泊まりに来る度にジャニー氏は性加害を加えてきたといい、「100回程度は被害にあった」と語る。

今回、証言を決意したのは、元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトさん(27)、橋田康さん(37)、二本樹顕理さん(39)が、児童虐待防止法の改正に向け署名を集めているのを知ってから。
 
2004年にジャニー氏が、週刊文春の報道を巡り文芸春秋を提訴した訴訟で、性加害が認定された時も関心が持てなかったが「今回は違う」という。
 
吉次さんは「自分が発言してこなかったことの重みが積み重なった。ジャニー氏の犯罪に自分はある意味、深く関わってしまったのではないか。もしかしたらこれが告白できる最後のチャンスになるかも」と明かした。
 
性加害を受け70年経過したが、現在も苦しんでいる。悪夢を見ることが増え、眠れないことも。老化と共に心のバランスが崩れ「カウアンさんたちの話を聞いて居てもたっても居られなくなった」と話す。

53年の冬、ジャニー氏が作った少年野球団「東京ジャニーズ」のメンバー3人と、吉次さんの友達の松﨑基泰さん(79)ら3人の計6人で、スケートをするため服部家の軽井沢の別荘に泊まった。
 
その日の夜、ジャニー氏は、2段ベッドの野球チームのメンバーや松﨑さんら5人を次々に襲った。吉次さんは「あの時の異常な様子は忘れられない。彼は非常な合理主義者で使える特権を手にし、自由に処理したかった。(ジャニー氏を)ある種の星の下に産まれた天才という人もいるが、『才能があるから仕方ない』は大間違い。悪いことは悪い」。
 
吉次さんは「性加害が封印されてきたのは、日本の芸能界の体質。藤島ジュリー景子社長は『知らなかった』と言うが、少なくともメリー前社長は知っていたはずだ。日本の芸能、メディア、音楽業界全体の問題としてもっと深刻に皆が考えてほしい。報じないテレビは、共犯者にも見える。個人個人が『これでいいのか』と考えて欲しい。国がこの問題に、真正面から積極的に取り組まなければ、問題はかたづかない」と訴えた。
 
吉次さんたちは、今後、元ジャニーズJr.のメンバーが検討する事務所への集団訴訟にも「何らかの形で支援や協力をしていきたい」としている。

(2023年7月16日 東京新聞)













 
 
 
 
 
(2023.8.8. 47NEWS)
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