すそ洗い 

R60
2006年5月からの記録
ナニをしているのかよくワカラナイ

TAR

2023年05月22日 | 映画・テレビ・動画
tar cate blanchett

映画の内容をWikiで確認して観に行ったが
実際の映像はハラスメントの表現が大きくなかったので
淡々とケイトブランシェットの凄い仕事っぷりを見て
(オケ指揮者のインタビューとか 
ワンカットで長々と撮ってる学校での講義とか)
ケイトブランシェットのキチガイ演技は
そんなに見られないんだろーなーとあきらめる

SNS上で悪口言われてる
変な音が聴こえる
近所に変なババぁが居る
爺をリストラする
才能あるが訳ありっぽい女子を依怙贔屓する
依怙贔屓してる女子の家の近くで暴漢に襲われる
傷だらけの顔面で指揮の仕事をする

悪口が広まる
地位を剝脱される
自分の後釜の指揮者(男)をブン殴る
近所の変なババぁの母(?)が死ぬババぁが出て行く
空き家に内見が来るので 音を出す時間を申告しなければならない
アコーディオンでその悪口を大声で弾き語る

引っ越す
アジアのどこかの国で就職活動
日本人と面接
雇われる
川を下る 滝に打たれる
新しい指揮の仕事
観客はみんなコスチューム着てる(多分モーハンの衣装)
おしまい


ケイトブランシェットの色んな側面での色んな表情が見れて
幸福な気持ちになれる映画



見落としていた 気づかなった内容の詳細が記されてる記事があったので
ほほーそーゆー内容だと合点がいった
この映画は阿呆でもわかるように懇切丁寧に説明してくれていないので
気づかなかった点が多いん


『TAR/ター』芸術に神はいない
うまみゃんタイムズ



「ターは、自分が(性差別の)例外だと信じているのです。
いちど山のいただきに到達すると、景色に心を奪われてしまう。
『神よ、なんて美しい!』。それまでの道のりがどれほど困難だったか忘却させる美です。
彼女は熟練した音楽家であり、偉大なるナラティブ、偉大なる伝統の信奉者なのです」


監督いわく「オリンポス山の至高神ゼウス」としてクラシック界に君臨するターは、権力者として虐待行動を繰りひろげているようだ。
大学講義で「バッハは性差別主義者だから学びたくない」と訴えるセンシティブなマイノリティの生徒に対し、さらし者にするような攻撃に出る。
ここが政治的物議を醸した場面なのだが、一般常識に照らし合わせるなら、
それぞれの意見以前に講師側のコミュニケーションに問題があるだろう。
ここで監督が第一に抱えていた視点は「過去の自分との対話」だという。

リディア・ターの本名はリンダ・ター。「世界最大の埋立地」スタテン島のゴミ収集者の娘。元ホッケー選手。
つまり、冒頭のイベントで語られる身の上やNYハイソサエティ風の発音など、大体が嘘であり演技だった。
監督いわく、バーンスタイン師事経験もでまかせ。
ちなみに、ターが捨てた故郷たるステイン島だが、
今ではゴミ山の上に美しい自然公園が建てられている。


カットされたシーンからわかるのは、主人公の両親が聴覚障害だったことである。
ブランシェットいわく、静かな家庭に育ったターにとって「音」は生涯の執着対象だ。
いくら成功しても、親が彼女の音を聴いて評価してくれるわけではない。
 「呪い」でもある才を授かったターは、ミソフォニア(音嫌悪症)、ミソキネシア(動作嫌悪症)をわずらっている。
他者の音や動作がトリガーになって攻撃的な行動をとってしまうようで、
先述のアカデミック・ハラスメントも被害者の貧乏ゆすりで悪化した可能性がある。
不安の増大とともにミソフォニアは悪化の一途をとげていき、
映画がどんどんサイコスリラー化していく。
幻聴のような演出は、妄想というより、小さな生活音への過剰反応ととらえられる。


音に執着するターがこだわっていたのが「時間のコントロール」なわけだが、
最後の『モンスターハンター』コンサートではヘッドフォンを着用させられている。
あぁした公演だと、指揮者はスクリーンにあわせるようメトロノームや音源を聴かされるらしい。
つまり、主人公がオーケストラの「時間」も「音」も管理できなくなって終わるのだ。


ちなみに「ドン底」みたいに映された『モンスターハンター』だが、監督的にはそうでもないらしい。
劇中「ナチス」という言葉が出てくるが、
ヒトラーやムッソリーニによって追放された音楽家たちが「下等」扱いしながら作曲して土壌を築いたのが
ハリウッドの映画音楽。ワーグナーなどの反ユダヤ主義ともリンクしていたらしいが忘れ去られ、
近50年でもっとも人気あるオーケストラ式新曲を生み出すアートフォームとなった。
では、今日の映画音楽がなにかというと、ゲーム音楽である。それこそ『モンハン』のテーマは、
かつての『スターウォーズ』のように世界中の若年層に親しまれるニュークラシックだろう。
追放されたターが指揮をとるラストこそ、オーケストラ式音楽芸術の未来なのだ。


『TAR』のテーマは「権力の構造」。ここで色濃いのは、トッド・フィールド監督の論「権力は個人単独では機能せず、
他者の費用対効果により成立させられている」。
 実際『TAR』は「誰も善ではない」コンセプトがとられている。
権力の頂点に立つターの周囲は利害関係だらけで、キャスティングカウチも共謀状態。
セバスチャンは「『あの女の子』を副指揮に?」と問いかける。オーディション参加率が著しく低かったのはみんな誰が受かるかを「知ってる」からだろう。シャロンが「不倫は気にしない」ようなことを言っていたのも腑に落ちる。指揮者の妻としてコンマス以上の権力を持っていた彼女は、パートナーシップを利害関係ととらえていたから、相手が失脚した瞬間に拒絶し、子どもにも会わせなくなったのかもしれない。フランチェスカは未練ある元愛人だったが、離反理由は副指揮官に指名されなかったこと。色じかけしてくるターを転がしていたオルガの場合、失墜がはじまった途端に冷たい態度に切り替わる。自殺したクリスタにしても、実際に何が起こったのかは明かされないため、ターの言う通り「推薦できない人物」であった可能性も残されている。
無論、主人公がハラスメント常習犯ということは変わらないが、
共謀者がいないと成立しえない集団構造こそ要なのだ。
結局、ゼウスのごときリンダ・ターは「神」なんかではなかった。



(原題:TÁR) 

監督・脚本
トッド・フィールド
Todd Field, 1964年2月24日 - ) 


リディア・ター:ケイト・ブランシェット
Cate Blanchett

リディア・ターはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団における女性初の首席指揮者であり、作曲家としても指揮者としても当代随一だと評価されていた。しかし、リディアはその地位によって得た権力を使い、若い女性音楽家に肉体関係を迫るなどのハラスメントを行っていた。リディアの妻、シャロンをはじめ周囲の人物は見て見ぬふりをしていたが、被害者の1人が自殺したことをきっかけに、リディアの蛮行を告発しようという動きが出てきた。キャリアの危機を前にして、リディアは徐々に精神の平衡を失い始める。




 
 
 
 
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