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波多野秋子と有島武郎

2024年03月21日 | 社会
波多野 秋子(1894年10月- 1923年6月9日)
 有島 武郎(1878年3月4日 - 1923年6月9日)

16歳上の有島武郎とは劇場で席を前後したことをきっかけに次第に恋愛関係となり、これを知った春房が武郎を呼び出し金銭を要求。また訴訟を起こすとも告げたため、大正12年6月有島と二人で失踪、軽井沢の別荘で心中した。7月7日に遺体が発見され、当時の新聞紙上でセンセーションを巻き起こした。



 作家の有島武郎(45)が、人妻である「婦人公論」の女性記者、波多野秋子(29)と情死したのは、大正12年6月9日の未明である。その夜、軽井沢は土砂降りの雨だった。八日の深夜、軽井沢駅に到着した2人は、1本の傘を駅売店で購入し、有島家の別荘浄月庵までの3キロあまりの夜道を、寄り添うようにして歩いたという。  有島は軽井沢に向かう車中で親兄弟などあてに3通の遺書、さらに浄月庵に着いてから友人あてに2通の遺書を書いた。心中を決行したのは午前2時近くと推定されている。  雷鳴が轟く中、2人はベランダに向かった応接間で、机の上に椅子を重ね、それを踏み台にして並んで縊死を図った。秋子は扱帯を、有島は秋子の市松模様の伊達巻を吊るしていた。  遺体が見つかったのは、それから約1ヵ月後の7月7日。別荘の管理人に発見されたとき、すでに死体は腐乱しきっていて、人相などは見きわめがつかなかったという。 


 有島武郎が波多野秋子と出会ったのは大正8年5月、秋子が有島に講演を依頼しに行ったのがきっかけだったという。有島は当時40代前半、若い知識人や女性読者から圧倒的な支持を受けていた人気作家だった。  31歳のときに結婚し、3人の男児を得たが、数年後に妻を結核で亡くし(残された3人の息子たちのために書いたのが「小さき者へ」)、その後創作に打ち込んで、「生れ出づる悩み」「或る女」などを発表、白樺派の作家として確固たる地位を築いていた。  父親は薩摩島津家の一族に仕える元下級武士で大蔵省関税局少書記官。年少の頃通った学習院では有島は大正天皇の学友にも選ばれた。大学は母方の親戚であった新渡戸稲造が教授をしていた札幌農学校(現在の北海道大学)に進み、キリスト教に入信、アメリカへの留学も経験している。 

大学時代には、哲学的な論争から学友と自殺を試みるなどナイーブな行動を見せていたが、その穏やかな風貌とは裏腹に、小説の作風は力強く、後に親から譲り受けた農場を解放するなど、大胆な行動力も持ち合わせていた。  妻の死後、独身を通していたが、女性に関しては噂が多かった。噂にのぼった中には、気鋭の歌人だった与謝野晶子もいる。彼を取り巻く女性たちは、女優たちを含め、いずれも美人で、有島は“面食い”であるという評判も高かった。  当時有島は、「私の妻を迎へぬ理由」という談話を、「婦人画報」大正12年4月号に掲載している。彼はまず、自分が「芸術を愛好するやうに女性を愛する」女性賛美者であることを宣言し、一緒に生きて行きたいと思う女性が現れたらどうするかという問いに対して、そんな場合も結婚はしない、「何故なら結婚することによって、お互の自由が妨げられ、その為に愛の永続を得ることが出来なくなるからである」と、説明している。 

その有島が愛するようになった波多野秋子は、ある実業家が新橋の芸者に生ませた非嫡出子で、実践高女を経て青山学院に進学した才女だった。在学中、波多野春房が開いていた英語の塾に通い、恋愛関係が生じて結婚するが、当時春房には妻がおり、言わば“略奪婚”ともいえるものだった。  その後、25歳で卒業すると中央公論社に入り、創刊2年目の「婦人公論」の記者になった。目のさめるような美貌の持ち主で、敏腕な美人女性記者として文士の間でたちまち評判になった。室生犀星によると「眼のひかりが虹のやうに走る感じの人」であったという。  2人が親密な関係になったのは、大正11年の冬頃からだった。当初は秋子の方が積極的に有島に近づいたが、やがて2人は深く惹かれ合うようになる。  しかし秋子が人妻であることから、大正12年3月、有島は一度秋子との関係を断つことを決心し、「而してあなたと私とは別れませう。短い間ではあつたけれども驚くほど豊に与へて下さつたあなたの真情は死ぬまで私の宝です」という手紙を書き送っている。 

しかし結局2人は関係を断ち切れず、ある旅行のことが波多野春房の知る所となり、有島は波多野の事務所に呼び出される。そこで有島は波多野から、“秋子をゆずってもよいが自分は商人だから只ではやらぬ、金を支払え。払わなければ姦通罪で訴える”という通告を受ける。  有島は女を金に換算する要求には応じられないと拒否、回答を保留する。それが大正12年6月6日のことだった。  具体的には、この話し合いが情死へのきっかけとなったとされているが、その年の2月には、友人に当てた手紙の中で、「この頃は何だか命がけの恋人でも得て熱いよろこびの中に死んでしまふのが一番いい事のやうにも思はれたりもする」と書いている。まだ切羽つまってはいないが、その頃から有島の中に情死への思いが芽ばえていたことが窺える。  2人の決断は早かった。話し合いの後、有島は友人に情死をほのめかす言葉を残すと、6月8日の午後、新橋駅で秋子と落ち合い、母親あてに「急に旅をしたくなったから二、三日旅行をする」という葉書をしたため、汽車に乗って軽井沢に向かった。別荘で縊死を遂げたのは、翌日の未明である。 

大正文壇の寵児と、若き女性記者、2人の情死事件は世間に大反響を巻き起こした。当時の新聞はこの事件に関する記事を連日掲載し、賛否の論議が交わされた。  文壇では有島の死に方に対する批判が多く、有島のかつての師であった内村鑑三は、「背教者」として有島を断罪、「有島君は神にそむいて、国と家と友人にそむき、多くの人を迷はし、常倫破壊の罪を犯して死ぬべく余儀なくせられた。私は有島君の旧い友人の一人として、彼の最後の行為を怒らざるをえない」と、辛らつな言葉を投げている。  有島武郎が選択した情死は、許されぬ恋愛の果てだったのか、それとも死への願望が結実したものだったのか。 「有島武郎にはもともと自殺願望があり、波多野秋子はきっかけにすぎなかった」との説を唱えるのは、文芸評論家で元昭和女子大大学院教授の遠藤祐氏である。 「ひとつは仕事上の行き詰まりがあったと思います。有島は死の前年に個人雑誌『泉』を刊行、短編をいくつか書いていますが、そのほとんどは性急な観念の吐露であり、作品として生命力のないものでした。また『星座』という長編も書き始めていましたが、これも結局“第一部”だけで後が続かず、創作家としての生命力が枯れたような状態になっていた。こうした挫折感が、自殺への大きな要因になっていたと思います」 

もうひとつは、自らの本能をまっとうしたための死、という見方である。 「有島は表面的には良識ある紳士で、奥さんや子どもを大切にするような社会的なモラルを持つ人だったが、一方で社会的な規範に反逆する“本能的な生活者”に憧れていた。私の中では、有島自身が、『カインの末裔』に登場する、社会規範にとらわれない荒々しい主人公と結びつくのです。  つまり彼は、本能のままに生きたいという願望をずっと持ち続けていて、創造的な生命力が枯渇した晩年、追い詰められて滅ぶよりも、自死によって自身の生を完全に生き切ることを選んだのではないか。残された遺書には、『十全の満足の中にある』『心からのよろこびを以てその運命に近づいてゆく』『最も自由に歓喜して死を迎へる』などの言葉がありますが、それらの言葉を信じる限り、死んだ有島は、そのなりゆきを悔いても嘆いてもいなかったのだと思います」 

情死がどちらの主導の結果であったかは定かではない。運命のように出会った2人の気持ちが一致し、死へ向けて走り始めたのは疑いがない。少なくとも有島にとって波多野秋子は、死への敷居を低くした存在だった。友人にあてた遺書の中で、有島は死の直前に次のように記している。 「山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降つてゐる。私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしてゐる。森厳だとか悲壮だとかいへばいへる光景だが、実際私達は戯れつつある二人の小児に等しい。愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかった」――と。

 
 
 
 
 
 
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