夢をみた。運動会で靴が見つからなくて困っている夢である。結局、学校の昇降口にバラバラとある沢山の靴の中から、右と左の違う、何故か赤い鼻緒の下駄を履いて運動会にでるのである。自分のものではないから、誰かに言われたらどうしようとか、気が気ではない。どう走ったかは覚えていない。走り終わって裸足で帰ろうか、と思った所で後は曖昧である。
こんな、履物で困る夢を何回かみたことがある。どうしてだろうと考えてみた。そして、小さい頃の履物の記憶に行き当たった。
昔、まだ、テレビなどというものがない時代、60数年も前のこと。村の神社が完成し、盛大に祭礼が行われた。旅回りの役者を呼んで、どこの家も親戚縁者を呼んでの、村にしてみれば大変な祭りであった。私は、祖母に連れられて見に行った。桟敷席もあり、みんな履物をぬいての見物であった。そして、気がついたら、私の靴がないのである。たしか、新調したばかりの靴だったような気がする。祖母が探してくれたけれど見つからない。困った祖母は誰かが間違えて履いていったのだろうと思ったのだろう、似通った靴を私に渡した。その時、その靴の持ち主が、大変な権幕で、祖母を怒ったのだ。祖母は、事情を話して謝っていたけれど、その時の衝撃が、今もまだ、私の脳裏に焼き付いているのだろうか。私の大好きな、いつも付いて歩く、全世界のような祖母が怒られ、謝っている姿が、私に与えた影響は計り知れないことだったのだと、今、改めて思う。
それにしても、夢というものは、不思議なものである。
楽しい夢をみると、それだけで、楽しくなる。実際には、何もなかったことで、事実は何も変わらないのに、その楽しかったことは、ちゃんと、記憶の中に組み込まれ、人生の一部にすらなり得る。
不思議なものである。そして、また、人間の精神、脳というのは、神秘なものである。
これからの人生。まだまだ、退屈している場合ではないかもしれない。
今宵は上等の ロゼワイン で、と行きたいところだが、ロゼなど置いてない。
せめては、主人のブランデーを失敬しよう。楽しい夢を見るために。
こんな、履物で困る夢を何回かみたことがある。どうしてだろうと考えてみた。そして、小さい頃の履物の記憶に行き当たった。
昔、まだ、テレビなどというものがない時代、60数年も前のこと。村の神社が完成し、盛大に祭礼が行われた。旅回りの役者を呼んで、どこの家も親戚縁者を呼んでの、村にしてみれば大変な祭りであった。私は、祖母に連れられて見に行った。桟敷席もあり、みんな履物をぬいての見物であった。そして、気がついたら、私の靴がないのである。たしか、新調したばかりの靴だったような気がする。祖母が探してくれたけれど見つからない。困った祖母は誰かが間違えて履いていったのだろうと思ったのだろう、似通った靴を私に渡した。その時、その靴の持ち主が、大変な権幕で、祖母を怒ったのだ。祖母は、事情を話して謝っていたけれど、その時の衝撃が、今もまだ、私の脳裏に焼き付いているのだろうか。私の大好きな、いつも付いて歩く、全世界のような祖母が怒られ、謝っている姿が、私に与えた影響は計り知れないことだったのだと、今、改めて思う。
それにしても、夢というものは、不思議なものである。
楽しい夢をみると、それだけで、楽しくなる。実際には、何もなかったことで、事実は何も変わらないのに、その楽しかったことは、ちゃんと、記憶の中に組み込まれ、人生の一部にすらなり得る。
不思議なものである。そして、また、人間の精神、脳というのは、神秘なものである。
これからの人生。まだまだ、退屈している場合ではないかもしれない。
今宵は上等の ロゼワイン で、と行きたいところだが、ロゼなど置いてない。
せめては、主人のブランデーを失敬しよう。楽しい夢を見るために。