田所永世のPTAブログ

運営からトラブル解決までPTAお役立ちハンドブック

PTAの全員入会について、保護者同士で議論してみた(3)~人はそれぞれ違う

2016-06-30 07:06:32 | 日記
前回(2)に引き続き、全員入会の是非について、ディベートを行っています。

任意入会にしたらPTAは消滅する?

たどころ:
 最初(1)で、ぶきゃこさんは「リアルに保護者同士で話せば、『やらなくていいんなら、やらないわよ』が当たり前だと思います。」と仰いました。
 だとしたら「任意入会」にすると、やはり、やらない人がおおぜい出てしまうのではないでしょうか?

ぶきゃこ:
 そうかもしれませんし、案外、そうでないかもしれません。
 それは、私にはわからないことです。地域性もあるでしょうし、PTA活動の中身にもよるでしょうし。
 それに、「やらない」といっても、何をやりたくないのかは、人によって違うと思います。

たどころ:
 もし、やらない人がおおぜい出てきてしまった場合、それは結局、現在のPTAがなくなることにつながってしまいませんか?
 「任意入会」推進派は、ぶきゃこさんのように「PTAの意義も一応認める」と言う方が多いですが、その主張を現実に適用すると、PTAの消滅につながりかねません。そのあたりの矛盾については、どのようにお考えでしょうか?

ぶきゃこ:
 私自身は、矛盾してると思ったことはないのですが…。
 PTAの意義をみとめるということと、現行PTAを維持したいということとはまったく別次元の話です。
 現行PTAがもっている、果たしている機能には一定の意味があるということを「意義がある」と言っています。
 それが「PTAによって」果たされなければ困る、とはまるで考えていません。
 PTAがなくなれば他の団体なり、寄り合いなり、LINEグループなり、学級保護者会なりがその機能を果たしていくでしょう。
 あるいは、なんにもなくなって更地になって、また一から始まるのかもしれません。
 むしろ、きちんと任意性を明確にすることで、その機能がより良質に働くことへの期待が私は大きいです。

たどころ:
 なるほど。そういう考え方もありますね。
 現行の、割振り当番的なPTAがなくなったとしても、誰か、あるいは何かがその機能を代替してくれるだろうと。
 あえて伺いますが、楽観的すぎるのではないでしょうか。
 現在、完全に任意の活動である、おやじの会、読書ボランティアの参加率は、全保護者の1割以下であることが多いです。
 PTAは「参加は自由」であるとの認識が広まっても、本当にPTAに加入してもらえるのかどうか不安になる人がいても当然と思います。
 実際に、任意であると告げたときに、加入したら「輪番」でお手伝いが回ってくるのも嫌だなあと思われたりはしないでしょうか。

ぶきゃこ:
 それはあるかもしれませんね。「なんだ義務じゃなかったの」とおおやけになるともっと参加率が下がるのではという心配ですね。
 でも、それが事実ですからねえ。熊本みたいに訴えられたら、手当できますか? 私は、リスクがありすぎると思うんですよ。
 崩壊が怖いからと黙示の誘導やごまかしで何とかして維持するというより、人間は賢明なんだから、ほかの方法が考えられると思うんです。
しばらくはガタガタするのは仕方ないにしても、活動もスリム化しながら、案件ごとに新たなアイディアを出していくしかないと思うんですよね。
 というより、世界の育児や教育の長い歴史の中で、PTA自体が「新たなアイディア」のひとつにすぎませんよね。たかだか数十年しかやってない。しかもこんなのは日本だけ、そのうえ内容や性質は少しずつ変化してる。
 PTAは絶対必要です!! って信じ込んで疑問を挟まない人を見ると、何を持ってそう確信できるんだろう?と不思議なんです。
ようは物の見方っていろいろあって変化するものだし、絶対なくてはならないと思い込まされてきたものでも、視野を広く持って再検討を加えることはできるんじゃないでしょうかということです。
 仕事でもそうなんですが、検討の可能性がいろいろある中で考えてかなきゃいけないというとき、私はいつも「結論の出てること」はどんどん消去していくんです。そうしないと、でもでもだってと迷ってばかりで無駄な時間が過ぎる。ある程度エイヤと決断して、失敗するならしてみたほうが、次の手にたどりつくのが早いということもありますよ。
 私にとって、PTAは会員対象者に対してしっかりフェアな入会方法を取る必要がある、というのは、結論の出てることなんですよね。
 そこをブレさせて「別の考え方もあり得るじゃない?」と言われても、遅かれ早かれコンプライアンスを無視できない時代はやってくると思いますし、それは抵抗できない波なんじゃないかなと思っています。
 だったら、それはもう前提として、いかにPTAを活かすか、それとも別の「保護者と学校のあり方」を考えるのか、そちらに目を向けた方が前向きかなという気もします。

保護者が学校に対して持つ責任って何?

たどころ:
 なるほどですね。たしかに、その方が「前向き」で「理想的」ではあります。
 しかし、繰り返しになりますが(笑)、理想を実現するには、時間がかかると思うのです。
 ぶきゃこさん自身が仰るように、現在のPTAだって「やりたくてやっている人」ばかりではないはずです。忙しいし、本音を言えばやりたくはないけれど、学校や地域に対しての何らかの「責任」を感じて活動している人もおおぜいいます。
 この「責任」は、理念として広く共有されているのでしょうか。
たとえば、 ぶきゃこさんは、以前の私のブログの記事で、とあるPTA会長さんが「学校に対してそれぞれの家庭が均等に責任を持つ必要がある」と主張したのに対して、自分のブログで次のような疑問を呈してくれましたよね。
――
田所さんはこの主張に対して、たしかにGHQ文書では「学校の管理に関し、父兄及びその他の市民が責任を有している。」と書かれている、という話を持ち出し、あたかもその文書が「学校に対してそれぞれの家庭が均等に責任を持つ必要がある」という命題への裏付けであるかのように話している。
そんな文書もあるのかも知らんけれども、それは、基本的理念の話なんではないだろうか? 
それをもって、「保護者は全員学校運営を手伝う責任がある」という解釈をすることができないのは当然だろう。
――
 学校の管理に関して父兄が持つ「責任」が、理念の話であることはそのとおりです。
その「責任」が具体的にどのようなものであるかが明確ではなく、PTAへの加入責任とイコールでないことも仰るとおりでしょう。
 しかし、理念としてであれ、保護者は学校にかかわる「責任」もあるというほうが、よりよい社会であると感じます。
 この「責任」という言葉に反発が起きるようであれば、任意入会の実現はほど遠いと思います。

ぶきゃこ:
 はい、私は「責任」の存在については否定しておりません。
 もっと言うと、子どもの学校にかぎった話ではなく、成人はすべからく社会をより良くするために努力する責任がある、と考えております。
 「個人の自由」をとなえる人(特に若者)に、「労働してもしなくても自由選択可」という意味のことを主張する人々がいて、それに私は「履き違えだ」と批判的なのですがそれはそういう基本理念によります。
 ですから理念自体に異論はありません。私が否定しているのは、そのような理念の話を持ってきて、PTAに強制参加させる裏付けとできるとする考え方です。

たどころ:
 そうですね。別にPTAに参加しなくてもよいとは思います。
 しかし、この「責任」がある以上、たとえ任意加入であっても、「PTAの活動に熱心な人は立派」、「どんなに頼まれても絶対に引き受けない人は、あまり尊敬できない」という視点が、どこかで生まれるでしょう(それを肯定しているわけではありません)。
 PTAは、目に見えてわかりやすい「奉仕活動」の一つだからです。
 任意加入が徹底しているアメリカのPTAでも、進んで引き受けている人はステータスを受けていると聞いたことがあります。
 現状のPTAでも、役員を引き受けてくれる人に対して「偉いねえ」という感慨は、普通にあると思います。
 個人的な印象ですが、PTA活動に積極的に参加してくれる人の中に、その学校に転校してきたばかりという人も目立ちます。
 話がそれてしまいましたが、PTAが完全に任意の趣味の団体のような扱いになったときに、PTAの担い手が「やらなくてもいいのに、やっている物好きな人」みたいに思われるようになるのが心配です。

ぶきゃこ:
 「責任」という話につながるかわからないのですけれども、あるトップダウン型改革をして任意化したPTAの会員さんのお話を聞く機会があったのですね。
 すると、例年やっていた行事が「やらなきゃならないもの」から「任意」になってしまったことで、手伝ってくれてたお母さんたちの気持ちが下がってしまったと。
 どうしてかというと、前者なら「みんながやらなきゃならないことを、担ってくれてありがとう」と感謝されてた(と少なくとも思えてた)ものが、後者だと「やるって決めたのは自分たちだよね?」と思われてるんだな、と思うとなんだかつらい、というものでした。

たどころ:
 まさにそれですよね。本来であれば、任意であっても「ボランティア」なのだから、感謝されるのが当然だと思いますが、「任意」だと「やりたくてやっている」と受け止められてしまうのですね。そういう状況になると、「任意のボランティア」をやる人は少なくなってしまうでしょう。

ぶきゃこ:
 まあ、そういう考え方の是非はおいておくとして、「お母さん」という立場の人ってほんとうに、報酬系が充足される機会が少ないというか認められて必要とされる場が少なくて、いや必要とはされてるんですけどそれが「当たり前」ってみなされてて、その欲求を満たすチャンスがボランティア活動にあるのであれば、そのやる気をけずる言動はやはり控えた方が「いい社会」なのかなと思うことはあります。
 たとえ自分にとって必要でないモノやサービスであっても、子どもが何かもらったら「ありがとう」と言い、その代金が会費から出ているのであればできる範囲で寄付をおこなったり、何か手伝ったり、「好きでやってるんでしょ」的な感想をつぶやくのは頭の中だけにしておく、というのも、「棲み分け」と同じように、価値観が違ってもお互いにQOLを上げる方法なのかな、とは思っています。
 ただ、ネガティブなことを言いたくなる強制的とか押しつけがましい状況というのは、現実としてあるかと思いますので、そういう現実に対してたまらず発信されている情報(PTAへの批判)を、「きちんと法を遵守し善意でやっている」方々は、あまり気にされなくてもいいのではないかなと考えます。

たどころ:
 「私のPTA」に対する批判であって、「あなたのPTA」に対する批判ではない、と言うわけですね。ただ、PTAがどれもこれも似たようなものと思われがちなのも確かです。
 自分のかかわるPTAを批判しようとして、大文字のPTA批判になってしまうのも、自分のかかわるPTAを擁護しようとして、大文字のPTA擁護になってしまうのも、同じ構造ですね。
 話を戻しますが「任意団体」であることを周知しつつ、でも保護者には学校にかかわる責任があるよと啓蒙していくことはできるのでしょうか?

ぶきゃこ:
 そのような広報活動は、いくらでもできると思いますし、逆になぜ「任意であることを隠す」ことが「責任の存在を啓蒙」することになるのかがむしろよくわかりません。
 それは「啓蒙」ではなくて、義務と誤認させて「全員参加」という結果だけを短絡的に出そうとしているだけではないのでしょうか。
 むしろ、「PTA活動は重要なものだ。PTA活動にぜひご参加下さい」というような真っ向から勧誘する広報の仕方に消極的であるところも多いように感じています。
 なぜなら、「勧誘」をすればするほど、「やらない選択肢もある」ということをみとめることになるからです。そのような「まともな勧誘」をおこなっているPTAより、「1人1回やっていただくことになってます」などとさも当然のごとく言ってくるようなPTAの体験談の方を多く聞きます。
 また、私のように、「学校のPTA汚染」「学校を現場とする保護者いじめ」などの問題を感じ、それなりに発信したり、退会したり、教委や学校に問題提起したりということをおこなっている保護者も、見方によっては「学校にかかわる責任を果たしている」ということでも良いのではないかと思うのですが、PTA活動に参加しないイコール「学校に背を向けている」ことになるかのようにしばしば論じられるのはずいぶん価値判断が一方的なのではないか、と感じることもあります。
 私も「PTA嫌い」を公言していますし「頼まれてももう二度とやらない」と決めている活動もありますから、価値判断が一方的であるのはお互いさまですが、PTAコンサバ(慎重派)は何故か「我こそが公なり」と信じて疑わない人に遭遇する確率が高いように感じています。
 ちなみに、私の「PTA嫌い」は、「非効率なアナログ作業が性に合わず好きになれない」とか「仕事を休んでだらだらとした噂話混じりの会議につきあうのは堪え難い」とか、そういう意味であって、PTAに参加する方々が嫌いなわけではありませんし、PTA活動を否定しているわけでもなく、あまり好きではないPTA活動であっても「これは意義がある。やるべきだ(=やることが保護者責任を果たすことになる)」と思えば自分の好き嫌いにかかわらず参加すると思います。
 「家の中を手芸品でかざったりクリスマスを盛大にやりすぎるのは好きじゃない」というようなレベルの話であって、それらが大好きだったり「家族のために必要だ」と考えている方たちと議論したり敵同士になりたいわけではありません。

たどころ:
 なるほどです。今の器が嫌いなだけであって、器の存在を否定しているわけではないと。

全体利益の為に、個人は少しずつ我慢したほうがいい?

たどころ:
 任意入会整備慎重派と、推進派との違いが、だんだん見えてきました。
まず、現状を容認できるものだと感じているか、耐えられないものだと感じているかの、感覚の違いが大きいような気がします。
 その感覚は個人的なものですが、それぞれの所属するPTAの文化の違いも影響しているでしょう。
 また、それぞれが少しずつ我慢をしてもよいと考えるほどに全体利益があると考えるのか、我慢するほどの全体利益はないと考えるのか、の違いもありそうです。

ぶきゃこ:
 そうですね。「我慢」や「全体利益」の感じ方の差異はあるでしょうね。
「我慢」で言うと、たとえば運営側から言ったら「たった月1回、2時間くらいの会議につきあうのがそんなにイヤ?」と感じられるかもしれませんが、平日だと会社員には現実むずかしい話です(会社員というのは状況のひとつの例としてあげただけで、会社員だけが大変だと言いたいわけでは勿論ありません)。
 ものすごく頑張れば出来なくはないでしょうが、ものすごく頑張ることで「我慢」の量は膨らむわけですよね。
 その我慢に見合う、「全体利益に貢献した」感があれば、人間やれるものですけど、「あんなにいろいろ調整した休みで切り出した時間で、この読み上げ会議とベルマーク集計!?」というふうに感じてしまうと、感想としては「つらい」と。笑
 逆の立場で言うと、運営側に立っていたりすると学校側や地域との交流現場に接することもあって「利益のあるものだな」と実感するのでしょうね。ただそのかわりに、会員をコマとして考えるようになりますから、個人個人のつらさは感じ取りにくいし、感じたとしても「この人数でそこまで配慮していられない」となります。
 そもそも、現行PTAにおいて運営側に立てる人というのは、時間的にもコミュ力的にも勝者が多いわけですから、起きてから寝るまで分刻み、みたいな生活とか、人前でできない理由を話させられるのが耐えられないとか、そういう感覚は共感しづらいと思います。
 結果、「ほんの少しずつの我慢じゃない?」と口に出してしまうし、実際そういうふうに会員を叱咤する会長というのも見ました。

たどころ:
 そうですね。それから、性格の違いもありますね。
 ぶきゃこさんは「PTAがなくなれば他の団体なり、寄り合いなり、LINEグループなり、学級保護者会なりがその機能を果たしていくでしょう」と述べましたが、この予測をみんなに信じてもらうことは難しそうです。
 慎重派には、現状を壊してしまうことによって起きる混乱を懸念する気持ちが強いと思います。推進派は「なんとかなろうだろう」と楽観的に考えているように見えます。

ぶきゃこ:
 私は推進派の代表ではありませんので、私の考えしか言えませんが、「なんとかなるだろう」とか「ああなるだろう」「こうなるだろう」という考え方はしないですね。「何もしなくてもうまく行くだろう」も思いませんし、同時に「PTAがなくなったら大変だ」という恐怖感もありません。
 PTAは会員でつくりあげていくものだし、その行方がどうなるかは参加者次第としか言えないのではないでしょうか。
 ただ私はちっぽけな人間ですから、「何がいいのか悪いのか」を全部、すべての人の状況と価値観を見て、総合的に判断できる力などもっていません。ですから、ものさしが必要で、それが法律だから、法の精神はまもるべきと考える人間です。
 ありとあらゆる法律を私がまもっているわけではありませんが、「人を入会させるときはきちんと説明して、その人の自由を尊重しないといけない」という法律を無視することで、現実的な被害を目にしていますので、「これはまもらないといけないな」という実感があります。ですから、何を議論するにしても「法律を守ってからがスタートだ」と思うのです。
 「任意にしさえすれば全部解決すると思っている」と私のような者をやゆする方もいらっしゃるでしょうが、私は「任意周知」がゴールだとはぜんぜん思っていません。単なるスタート地点だと思っています。
 任意性をしっかり周知することでPTAがぐらつくことがあるのであれば、保護者のみなさんも、「PTAはどっかでだれかが自動的に運営してくれている」ものではないということも再発見できるのではないでしょうか。特に現状、そういうとらえ方をしている父親は多いと思いますし。
 それぞれが、「我慢」で得られる「全体利益」を真剣に見直すかもしれません。
 またPTA護持派も、「全体利益」があるからといって個人の「我慢」を過小評価してはいけないし、それをゴリ押し強制すれば人が流出し組織の弱体化につながることで運営指標として視野に入れるようになるでしょう。「ほんの少しの我慢じゃないの!」と人前で会員を叱咤するようなことは、少なくとも「やっていい」という感覚はなくなるのではないでしょうか?
 「保護者や教職員が入会してPTA活動にかかわってくれること、毎年活動が一定量担保されること」は、企業で言ったら「売り上げ」にあたるでしょう。売り上げのみを追求し、社会的責任を無視する企業は非難され生き残れない時代になっていると思います。
 会の中においても、ブラック労働やパワハラなどの問題はすぐに拡散され共有される時代になっています。先見性のある会長さんのいらっしゃるPTAでは、もう対応しはじめているところです。
 保護者というのは基本的には子供を産み育てることにともなう責任をになうことをいとわない人びとで、だからこそ保護者という立場になっているのだろうと思います。
 保護者に「無理に参加しなくてもいい」ことが広くバレて、いちど運営がぐらついたら、もう二度と修復できないというほど、人間は荒れ果ててはいないし、「教師と保護者が協力し合って子どもの学校のためになにかをやっていこうよ」というモチベーション自体は、消えてなくなることはないのではないかな~と私は想像します。
 それは、強制的な運営をしてもただちにPTAが瓦解しなかった理由でもある、かもしれません。
 そういう意味では、「楽観的」はおっしゃる通りだと思います。

みんながやっていることだからやるの?

たどころ:
 もう一度話を戻しますが、ぶきゃこさんの言うところの「やらなくていいんなら、やらないわよ」という感覚は、かなり妥当だと思います。
 にもかかわらず、現行体制が続いているのは、「やらなきゃならない」と思い込んでいる人が多いからですよね?
 それは必ずしも、任意団体であることが周知されていないからではないと考えています。
 どちらかといえば、「子どものために」「学校のために」あるいは「世間体」で、やっておいたほうがいいと感じるからではないでしょうか。
 「子どもが人質」という言葉も聞きますが、言葉で脅迫されているわけでもないですし(そういう事例があることは否定しません)、
 「他人に悪く思われるのが嫌だからみんなと同じことをやっておく」というのは、半分は「自発的」に選択していると言えないでしょうか?
 実際、多くの保護者は、任意入会整備の推進にはためらいを見せます。
 結果として、現行体制を支持しているように見えるわけです。
 その意味では、「やらなくていいんなら、やらないけど、やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)」のほうがリアルではないでしょうか?

ぶきゃこ:
 そうかもしれませんね。それがリアルかもしれません。私には、わかりません。人の心ですから。それは、真に任意にしたとき、加入率がどれくらいになるのか私にはわからないのと同じように、わかりません。
 もし、おっしゃるような心の状態がリアルなのであれば、きちんと説明をして、申込書をとっても、PTAが壊滅するほど人が減ることはないのでしょうから、なんら「売り上げ」の心配なく、違法状態を糾弾されない状態にすれば良いのではないでしょうか?
 「やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)」が、任意化へのためらいにつながるという話はよくわかりませんでした。
 「やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)、そして自分だけがやるのはいやだ、人にもやらせたい」なら、「任意化へのためらい」になるのだろうなと思います。

たどころ:
 言葉足らずですみません。
 「やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)」の主語を、「自分」ではなく「みんな」と、とらえる人が多いのだと思います。
 主語が「みんな」だから、「よくわからないけど」、「みんながやっているから」、「やったほうがいい」と感じるのではないでしょうか。
 もし、主語が、個人的な「自分」だったら、「よくわからないけど」なんて、あいまいなままに動くことは少なくなるはずです。
 自分にとって、本当にこれはやったほうがいいことかどうか、考えて動く人が多くなるでしょう。
 このことで、「みんながきちんと考えてない」と批判することは容易ですが、そう簡単な話でもありません。
 日常生活を過ごしていくうえで「きちんと考えない」のは、誰にとっても当たり前のことだからです。
 たとえば、パスタを食べるときに、私たちは箸とフォークのどちらがよいか「きちんと考えずに」フォークを選びます。それが慣習になっているからです。
 人が動くのは、熟考の果てに、自分なりの信念を持ったときだけではありません。
そのような場合もありますが、日常生活で起こるすべてのできごとに対して、いちいち熟考できるものではありません。
 自分にとって重要度が低いことに対しては、周囲の人のまねをすることで、やりすごそうとするものです。
 たとえば、縁遠い親戚のお葬式に、何を着ていくか、香典をいくらにするか、お焼香の回数を何回にするか、熟考する人は少ないでしょう。
 たいていは、周囲の人にあわせて、無難に、相場通りに済ませるものです。
 それができるのは、みんなが同じようにやっているからですね。
 昔の日本の喪服は白色だったそうですが、「昔は白だったから、おれは白を着る」という方はあまり見かけません。
 また、昔の葬式では、喪服を着るのは遺族だけだったそうですが、「昔はそうだったから、弔問客の自分はTシャツでいいや、暑いし」という人もあまりいません。
 「お葬式から窮屈な儀礼を廃して、故人の喜ぶ服装を!」という運動もありだとは思いますし否定もしませんが、自分はそこまで「葬儀」に関心を持てません。
 もし、お葬式に来ていく服に、「故人の希望で、参列者それぞれが、自分らしい服で来てください」だったとしたら、何を着ていくか考える手間が増えます。
 それは、人によっては「仕事も子育ても忙しいのに、考える手間が増える」ことで、かえってストレスになるのではないでしょうか。
 葬式には、ブラックフォーマルを着ていけばよかろう、というのは、とても楽で便利な状況なのです。
 ところで、織田信長には、自分の父親の葬儀に、異装で現れて、焼香の抹香を投げつけたという史実があります。
 これは、信長としては熟考の末にあえてとった行動でしょうが、誰にも理解されず、多くの人の眉を顰めさせました。
 喪服や焼香にはじまる葬儀のマナーが、いつのまにか、みんなで力を合わせて葬儀をつくりあげるためのルールになっていたからです。

ぶきゃこ:
 なるほどです。
 思考習慣の違いを、みごとにあぶりだしていただいたような気がします。
 主語が特定されていないとき、そこに「自分が」をあてはめて考えるか、「みんなが」をあてはめて考えるか、思考のくせみたいなものかもしれませんね。

みんなで一緒にやりたいというのはだめなの?

たどころ:
 「自分だけがやるのはいやだ、人にもやらせたい」と表現すると、性格の悪い人のように見えますが、「みんなで力をあわせてつくりあげているのに、それを壊されるのは悲しいから、自由に動くのはやめてほしい」と表現すると、それほど悪い人には見えません。
 ですから、「やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)」は、容易に任意加入制度整備へのためらいにつながります。
 「できない人」を除外するのはいいとして、「できるのにやらない人」を放っておくのは「よくない」という、素朴な「気持ち」を、どのように扱えばよいとお考えでしょうか?

ぶきゃこ:
 うーん、難しいですね。
 私はそういう素朴な「気持ち」を、全体主義だと思ったり、女性蔑視から来るものだと思ったり、(「できない人」なのかどうかを)審査できると考える傲慢さだと考えたり、他人への尊重を欠いたものだと感じたり…というような感想を日々書いている者ですので、そういう真逆の考え方(野放しは良くない)をどのように扱えばいいかと言われると、もう「けんかしないように棲み分けるのがいいのでは?」としかならないですね。世の中、合わない考え方というのはたくさんありますし。
 ところが、野放しは良くない的な考え方はその「棲み分け」自体を否定する考え方なわけですから、共存しようがなくて、もう感想として「困ったな」しかないという…笑
 他のコミュニティにくらべると、PTAだけが特に、作為的に同調圧力を仕組まれているような気もしますしね。
 ただ、その素朴な「気持ち」が、個人個人の熟考の上の信念というよりは慣習から来るものであれば、慣習が徐々に変わっていけば変わっていくんじゃなかろうか。という思いもあって、まずは慣習をはじっこから壊す(退会)ということを私はしたんでしょうし、同じ気持ちで退会をされる方というのは徐々に増えてきてるんじゃないかなと思います。
 その過渡期において、「迷惑行為」よばわりされることが起きるのは一定しかたがないのかもしれませんね。

たどころ:
 誤解を恐れずに言えば、明らかな「人権侵害」や「嫌がらせ」、「いじめ」は別として、PTAの側には「学校に多少の協力をするのは、学校に子どもを通わせる保護者の義務」という考え方があると思います。
 「学校」を「地域社会」に言い換えれば、「自治会」の考え方にもなります。「義務」という言葉は「できない人」を追い詰めるので、「した方がいいもの」と言い換えてみましょうか。それでも、そのような共通了解があるという本質は変わらないと思います。この考え方は間違っているのでしょうか?

ぶきゃこ:
 「した方がいいもの」という漠然とした考え方が間違っているとは思いません。それを運用するにあたって不具合が起きているだけですので。個人個人によって「した方がいい」の濃淡はあると思いますが。
 ただ「保護者は○○した方がいい」という命題を考えるとき、「保護者」のイメージにゆがみはないか、再検討は必要ではないかなと思うことはあります。
 例ですが、PTAの会議をいつやったらいいか?と考えるとき、「専業主婦と兼業主婦のせめぎあい」みたいになるのは変だなあと私は思うんですよ。
 「保護者」の範囲に男性が入ってたら、ふつうは、比較的都合が付く人が多いのは週末、ってなりませんかね。「保護者はPTAの会議にできるだけ出た方がいい」と本当に思うなら、週末にやろうってなるんじゃないかなと思うんです。
 新車の試乗会を平日にやるディーラーっています? 飲食店も(ビジネス街を除けば)週末が書き入れ時だし、スーパーの売り出しだって、週末をはさまない設定なんかあまりないと思うんですよ。成人がいちばん集まりやすいのは週末だ、っていう社会の常識とずれてくるのは「保護者」のイメージにゆがみが生じてるからなのかな。と思います。
 保護者だけではなく「会員」のイメージもそうです。そもそも教師とのアソシエーションなのに授業時間中にやるのは、教師にとってアンフェアではないか?という疑問が呈されないのも、ある意味面白く思っています。
 「基本理念は間違ってないけど、解釈と加工と運用に現状では(未必の故意かもしれない)ミスがある」とは言えるかもしれません。

たどころ:
 昔は、専業主婦の女性が多かったけど、いまは働いている母親も多いのに、PTAは昔ながらの運用でおかしいという話ですね。仰るとおりです。
 ただ、運営側も神様じゃないのだから、何でも最初から完璧にはできません。いまは、少しずつ改善が行われている状況だと思います。役員へのメールでも、保護者同士の会話でもよいので、声を上げ続けなければいけませんね。
 次回(4)で終わります。

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