田所永世のPTAブログ

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PTAの全員入会について、保護者同士で議論してみた(2)~PTAのいいところ

2016-06-26 09:44:33 | 日記
 前回(1)に引き続き、全員入会と任意入会について、論点整理のためのディベートを行っています。

これまでの慣習を尊重する必要はない?

たどころ:
 私のブログで、慎重派のPTA会長Sさんにインタビューしたのですが、これに対してぶきゃこさんは、ブログで次のような感想を書いてくれました。
―――
同じ記事のなかに、田所さんによる
“「PTAは入会が当たり前」という言葉も、「PTAは任意が当たり前」という言葉も、どちらも話し合いを拒否しているという意味では似ている”
という言葉もある。
そこ、同列に並べますか?
「PTAは入会が当たり前」は個人の主義嗜好の域を出ないが、「PTAは任意が当たり前」はまぎれもない事実である。事実を述べた言葉のどこが、誰との「話し合い」を拒否している言葉なのか、こんどたどころさんに尋ねてみようかなと思った。
―――
 事実と意見を同列に並べてはいけないとのご意見ですね。
 この疑問に対して、回答します。
 「PTAは任意が当たり前」が事実であることは確かですが、「PTAは入会が当たり前」が個人の嗜好であるかどうかには疑問が残ります。
 それをいう人は「個人の嗜好」だとは考えていないでしょう。
 法律に、成文法と慣習法の区別があるように、長いこと続いてきた慣習は、しばしば人に、その慣習が法律であるかのような感覚を起こさせますし、実際に法律に準ずるものであるとの扱いを受けることがあります。
 「PTAは入会が当たり前」を、個人の嗜好ではなく事実に近いものだと感じる人が数多くいる以上、「話し合い」の必要はあると思います。

ぶきゃこ:
 はい、確かに慣習は法律に準ずるほどに、人の行為を根拠付け、それを裁判所も認める場合はあります。
 なにかの行為が社会の慣習である場合においてそれに個人が異議を唱えなければ、その慣習を「ルール」として受け入れた、とみなされる場合もあります。
 そこの部分はグレー…というか人間社会においてはグレーのほうが多いのでしょう、きっと。
 身近な例で言うと、私の実家の土地の一部に、隣人が無断で砂利を引きロープをはり看板を設置して、駐車場として利益を得ております(笑)
 そうなってから何十年も経つのですが、固定資産税は私の親が払い続けています(爆笑)
これ、東京でやったら勿論大問題だと思うのですが、親はあきらめています。田舎でその状態を「法的解決」したら、QOL(生活品質)が下がるからです。
 そしてここまで来てしまうと、隣人も所有権を主張できる状態になっていると思います、たぶん。法律が慣習を追認するような感じでしょうか。
 ただ、PTAの強制加入・自動加入を「慣習法」で解釈するには、大きな問題があります。
 法治国家においては慣習が明文で保護される権利を侵害してはならないということです。
 慣習が公序良俗や法律によって守られる権利を抑制する判断は、あってはならないと思っていますし、これは私の個人的な理想というよりは、現実的にそういった判決は私の知るかぎり非常に少ないですし、それが法的秩序だと考えています。
 もちろん、私は一般人ですからニュースや判例集などで出てくるものしか知らず、そもそものデータベースが非常に狭小なので、ここらへんはもし記事を読まれた専門家のかたから助言がいただけるのなら是非うかがいたいと思っていたところです。

たどころ:
 慣習だからPTAの自動入会が認められると主張しているわけではありません。
 慣習だと思われている場合には、理詰めでの説得はたいへん難しいですし、「法律」を盾にしても相手を心から納得させることはできがたいので、別の表現方法が必要だろうと考えているのです。

慣習が正当化されるならセクハラも許される?

ぶきゃこ:
 「PTAは全員入会が当たり前」は、「(自分たちのみの慣習から来る)思い込み」「強い願望」の域を出ないです。
 そのような「思い込み」「強い願望」が往々にして存在するのが社会であることは認識していますが、それを「慣習法という法もあるから正当性がある」とは思いません。
 たとえば、日本においては長い間、「可愛い女性のお尻をタッチするのはコミュニケーション」とか、「触られたり、彼氏のことでからかわれたりしてるうちが花」とか、とんでもない「セクハラ正当化」の文化がありました。
 そういったことに異議を唱える女性を「オールドミス」などとからかう文化さえあったのです。文化というよりは悪習でしょうか。
 PTAの強制加入・自動加入を「慣習法」で正当化しようとする方は、セクハラ行為も「長年の慣習」で正当化されますか?
 だれかの権利侵害をしている状態は、是正されなければなりません。
 これは明確に結論の出ている話であり、「いや権利侵害側の思いはどうこうで、真実や善悪は人それぞれ」などと、いちいち軸をぶれさせるような議論ではないと私は考えます。

たどころ:
 ぶきゃこさんは、セクハラの慣習とPTAの自動入会とが、同じような人権侵害にあたると考えておられるのでしょうか。なかなか過激な意見ですが、ぶきゃこさんにとっては、どちらも同じくらい不快ということであれば、きっとそうなのでしょう。
 「私はPTAなどという団体に入会しない権利がある」というのも、思想信条の自由の観点から、仰るとおりだと思います。
 しかし、誤解を恐れずに言えば、人間が社会を営むうえで、まったく強制がない状態はありえないのではないでしょうか。
 言ってみれば、法律だって一種の強制です。
 子育てだって、朝起こしたり、宿題をやらせたり、風呂にいれたり、寝かしつけたり、強制だらけです。
 優しく誘導して、本人の自発的意思が芽生えるまで根気強く諭していけば、強制にあたらないのかもしれませんが、自分自身が子育てにおいて、100%完璧にそうできてきた自信はありません。
 そして、親が子どもを学校に行かせる就学義務も、法律による強制と言えませんか。

保護者の学校へのかかわりは義務なの?

ぶきゃこ:
 仰りたいことは、よく分かります。
 私の理解で言うと、「人が人に強制することが可能になる条件」というのは、以下の2つのいずれかと感じています。
①国家への所属そのもの
②弁識・判断能力が独立して権利行使するに不十分であると国家によって認定され、社会秩序のために権利が制限された状態にあること
 具体的に言えば、①は納税などの義務を課せられるが自由意思のみでは所属国家変更の手続きができない状態。
 ②は子ども、被後見人など、精神障害者、保護観察者、拘置者、収監者、などでしょう。
 身近な例で言うと、親は子どもに対する「しつけ権」があると考えられていますので、暴力を振るうなど著しく逸脱した状態でなければ、子どもの行動を制限しても「権利侵害」と非難されることはありません。
 PTAはどちらのケースにも当たりません。

たどころ:
 親が子どもに教育を受けさせる就学義務は、日本国に所属することで不可避的に強制されるものだと思います。
 その就学義務を拡大解釈したさきに、「子どもの幸福のために、保護者同士の組織化が必要」だとする考えが生まれることは、何となく理解できるでしょう。
 それが現行のPTAである必要があるかどうかはさておき、このようにして、自動入会は「やむをえない」ものだと感じる人がおおぜいいるわけです。

ぶきゃこ:
 はい、「拡大解釈を許容すれば理解可能」「そう考える人がおおぜいいる」どちらも同意です。

たどころ:
 その結果、現在の「とりあえずみんなに入会してもらう。どうしても辞めたいという人にだけ退会を認める」状態ができているのではないでしょうか。
 これに対して「任意団体なのだから、加入したい人だけ加入させよ」との主張は、当初はギャップが大きくて、なかなか話し合いにならないと思います。
 まず、両者の間をとる中間地点をそれぞれが探るべきだと思うのですが、いかがお考えでしょうか。

ぶきゃこ:
 「話し合いになる」とはどういう状態なのか、「中間地点を探る」とはどういう目標なのか、今のところのみこめないでいます。
 「ジャッジ」は第一義的には法律によってなされるべきであり、「中間地点」がよい地点(=フェアな地点)、とは思えません。
 たどころさんと私の「べき論」が異なるように、他の人には他の「べき論」があります。
 それらを整理するために、(慣習法も含めた)法律があるのであり、「当事者であるなら妥結を模索するのがQOLを上げる手段の一つ」という話であれば分かりますが、「当事者である以上、妥結を模索する責任がある」とは思いません。
 それは、「お尻にタッチされたくなければ、女性もセクハラしてくる人と話し合いを持つべきだ」と主張するのに似ている気がします。
 以上は、利害関係の相反や権利侵害が発生したときにどのようにジャッジされるべきか、という話であって、人が社会で生きるにあたって「許容する」「対話する」ということが非常に大切であると考えている点では、たどころさんと私は同じなのだと思います。
 逆に言うと、PTAの強制入会・自動入会は、「許容」にも「対話」にも逆行する「反社会的行為」であると私は認識している、ということになります。

任意加入と全員加入の中間地点はあるの?

たどころ:
 法律で白黒つけたいのであれば、裁判所に訴え出ればよいのですが、そんなことになる前に「話し合い」で解決できるなら、そのほうがよいと思いませんか。
 QOLを上げるための手段の一つとして、話し合いが有効なのであれば、その手段を使ってみてもよいと思うのです。
 たとえば、「会員数(会費)を減らしたくないから、ある程度の強制はやむをえない」、という考え方があるとしましょう。この場合、その強制が「どの程度」であるのかで、交渉の余地があると思います。

ぶきゃこ:
 お考えは大まかですが分かりました。
 たどころさんが仰っている「話し合い」とは、どのようなイメージのものでしょうか?
 「入会が当たり前」派と「任意が当たり前」派が、どういった場で、最終的にどんな妥結をめざして「話し合う」ということを指しておられるのでしょうか?
 「会員数を減らしたくないから、ある程度の強制はやむをえない」という考え方における「強制」の意味するところは、「入会させること」であり、「0(入会を強制しない)」か「1(入会を強制する)」かの話ではないのでしょうか?
 強制の「程度」というのは、どういう各段階を指していますか?

たどころ:
 そもそも「強制」とは何かといえば、辞書的な定義では「権力や威力によって、その人の意思にかかわりなく、ある事を無理にさせること。」ですね。
 現在、多くのPTAにおいて、退会が暗に認められていることをかんがみれば、それはすでに「強制」ではないということもできます。
 おそらく、入学の時点で「入会しません」といえば、会費が一度も引き落とされることなく「未入会」となるPTAも多いことでしょう。
 「0(入会を強制しない)」か「1(入会を強制する)」でいえば、非会員の存在が目立つようになってきたように、現在のPTAは、ただ入会手続きを自動化しているだけで、入会を「強制」できていないと思います。
 PTAではなく自治会の話ですが、面白い事例があります。朝日新聞の報道によれば、長野県小諸市は条例で自治会への加入を明文化しているそうです。
――
小諸市は自治基本条例で「本市に住む人は(中略)区へ加入しなければなりません」と定めていました。「区」は自治会のこと。加入は任意のはずなのに……。市企画課に聞くと「理念を決意として表したもの。義務というわけではありません」という説明です。(中略)同課は「個人の思想の自由には踏み込めない。加入していただきたいが、強制はしない」と話します。未加入への罰則規定はありません。
――
 このケースでは、条例に「加入しなければなりません」と明文化しつつ、市職員は「強制はしない」「義務というわけではありません」と説明しています。というのも、罰則がない以上、実質的に「強制」ができないからです。
 現在のPTAもこれと同様、「強制」とは言いきれないところがあります。
 しかし、何も異議を申し立てなければ、ほぼ自動的に入会となることを「強制」と感じる人もいます。実際、「入会は当然」と考えている人も少なくないでしょう。
 では、入会申請書を整備すればよいのでしょうか。
 たとえ、入会申請書だけがあったとしても、それはあくまでも手続き上の問題で「入会は当然」という概念はなくならないのではないでしょうか。
 実際、入会申請書を提出させるPTAでも「入会しない」という選択肢がなかったり、任意団体であることの説明が不十分だったりすることはよくあります。
 逆に、入会申請書はなくとも、退会申請書を配ることで、強制性を緩和しているPTAもありえます。
 このように考えてみると、「0(入会を強制しない)か1(入会を強制する)」とは、とうてい言えないと私は思います。
 物事には順番があります。いきなり入会申請書の整備までは難しくても、「任意団体であることを十分に説明する」とか「退会の自由があることを周知する」とか、QOLをあげるためにできる中間段階はいくらでもあるはずです。
 ですから、それぞれのPTAの段階と、執行部の理解にあわせた話し合いが必要ではないかと考えています。
 もちろん、中間地点にいつまでもとどまるのではなく、長期的にはぶきゃこさんの言うように、完全に入会申請書が整備された状態になることが理想ですが、いきなりそこを目指して挫折する人が多くいるようなので、最初の目標の設定は中間段階がよいと思うのです。
 以上は「入会」についての議論ですが、別の意味での中間段階もあります。
 さきほど、ぶきゃこさんが、PTAへの入会とセクハラを同列視したのは、PTAに入会すると奉仕労働の強制があるからではないでしょうか。
 しかし、厳密にいえば、入会と奉仕労働と会費徴収とは、イコールではないはずです。
 入会は自動であっても、奉仕労働はお願いするだけで強制はしないというPTAもあります。というより、さきほどの「強制」の定義に従えば、現状で「強制」と言われているものの多くは、「お願い」でしかないのではないでしょうか(中には「高圧的なお願い」もあるかもしれません)。
 私の知っているとあるPTAは、入会申請書もなく、任意団体であることの説明も十分ではありません。
 その代わりに、毎年、全員に何らかのお手伝いをお願いしていて、どのお手伝いに参加するかを選択して提出する届出用紙があります。これによって会員を把握しているので、学校からの名簿の流用はないそうです。
 もちろん、この届出用紙を提出しない人もいます。それらの方に対して、さらに連絡をとることも、基本的にはないそうです。つまり、お手伝いを「お願い」しているけれども、強制はしていない状態です。このような状態も、はなはだ不十分ながら、一種の「中間段階」ではないかと考えています。
 
ぶきゃこ:
 「強制の程度」についての解説をしていただきありがとうございました。仰ろうとなさっていたことがよくわかりました。
 はい、そういう意味でしたら、中間段階として「プリント文言の表現をやわらげてほしい」とか(ボリューム的に、強要の発生機会を減らすために)「必要性の低い業務をカットして欲しい」というような話し合いは、あってもよいと思います。
 「話し合う場」をつくるのがなかなか難しいのが現状ではないかと思いますが、中間段階を目標に据えることは良いと思います。
 また、例にあげられたPTAのように、自動加入ではあるものの実害が少ない、という段階をとりあえずめざすのもひとつのやり方ではあると思います。
 ただ、自動加入=全員加入すべきもの、という根本認識をただす機会が年に一度でもいいからないと、「義務よね」と暴走していってしまう傾向にあると思っていますので、そこのストッパーが属人的であると危険だなとは思います。
 特に母親は、「我が子可愛さ」や「ずるい」や「母親はこうあるべき」の感情が頭をもたげやすく、暴走してしまう方が残念ながらよく見受けられるのが現状です。
 PTAがはじまったころには、誰も強制的な無償労働組織にしようとは思っていなかったのではないかと想像するのですが、イメージの共有の失敗を重ねてきた結果が、今のような「PTAの話をすれば悪口で盛り上がる」ような状態なのではないかと考えています。

任意入会の自治会は理想的な運営になっているの?

たどころ:
 そうですね。PTAの理念自体に反対する人は少ないのに、運営や活動があまりよく思われていないのは、どこかで運営と会員の思いとが、ずれてしまったのかもしれません。
 あくまでも個人的な印象ですが、自治会はPTAと比べたときに、悪口を言われることが少ない気がします。ゴミ捨て場の清掃、街路灯の整備、落ち葉拾いなど、恩恵が目に見えるからでしょうか。強制入会ではなく、入退会の自由があることもその原因の一つでしょう。
 この自治会・町内会には、民生委員というものがあって、独居老人の見回りをしていますし、生活保護へのつなぎ役も果たしています。PTAが同じように、生活保護世帯や被虐待児を助けているかどうかは寡聞にして知りませんが、同様に、恩恵のわかりやすい団体になることもできるのではないでしょうか。

ぶきゃこ:
 民生委員は法律に基づいた国からの委託ですので、自治会・町内会の功績ではないですしその存在意義を補強するものではないと考えます。
 自治会・町内会の会員だけが民生委員の訪問を受けやすいとか生活保護受給につながりやすいルートを持っているとしたら問題だと思います。

たどころ:
 民生委員はもちろん、国の事業であり、町内会の会員だけにサービスするものではありません。 しかしながら、昨今、どこの自治体でも民生委員の成り手がおらず、自治会や町内会の役員が必死になって「お願い」をして回って、ようやく、成り手を探してやってもらっているのが現状です。
 民生委員という有益な制度が、破綻することなく存続しているのは、自治会・町内会の功績だろうと私は考えています。PTAの活動に意義があるかどうかはおいといても、成り手を探して「お願い」することがいちがいに悪だとは言えないような気がします。

ぶきゃこ:
 まず、「成り手があらわれないのは何故か」ということを検討せずに、「成り手を得るためにがんばろう」だけを考えるという思考様式が私にとっては馴染みにくいです。
 人は、モチベーションをもった時がもっともパフォーマンスを発揮するのに、「とにかく役職に成ってもらえばいい」とそこをゴールにして「強烈なお願い」という手段をもちいることが私にとっては馴染みにくいです。
 もはや、「お願い営業」の時代ではないのに、いつまでも努力も勉強もしようとしない「昭和社員」のように感じられますね。
 民生委員がそんなに重要なポジションなのであれば(「民生委員なんかどうだっていいだろ」という揶揄ではないのでそこは斟酌下さい)、なぜ、「報酬」を正当に払わないのでしょうか?
 民生委員は、確かに有益な制度でしょうが、「必死にお願いして押し付けて存続させる」のが正しいあり方なのでしょうか? きちんと「雇用」すべきなのではないでしょうか?
 「べき論ではなく、今まではそうだったのだから、自治会や町内会を否定しないでください」という話なら理解はしますが、それも単に「功績」と賞賛できるものなのか、はなはだ疑問です。
 自治会や町内会がそれを実現してきたから、自治体がこれまで「きちんとした報償の必要性」を感じずにやってこれてしまったという負の効果もあると思います。
 当地には市有の集会所があるのですが、そこの管理人は市が自治会や商店会を通じて商店主などに依頼しているのですね。その集会所に関する情報は市のHPに載っていて、「使用ルールや申し込み方法など詳細は管理人までお問い合わせください」となっており、管理人名は商店の名前になっています。
 あるとき私が電話したところ、「あのね、電話でいろいろ聞かれちゃあね、やってられないんすよ! うちだって商売してるんだから、お客さんの相手が優先でしょ? 商店会のあれで、仕方なく引き受けてるだけだし、店に直接きてくれれば申込書に書いてもらうけど、電話でいろいろ聞かれるのはほんと勘弁してくんないかなあ!」と怒られたんですね。
 この顛末を市に言ったところ、管理人が「○日は○○商店、△日は△△商事」というふうに分かれました。あいかわらず「詳細は管理人までご確認下さい」となっています。根本的な解決になってるのか? と疑問です。
 そういった個人的な体験から言っても、「民生委員の成り手を探すことができているのは自治会の功績」という考え方には非常に馴染みにくいものを感じます。
 地域コミュニティは簡単に離脱することができない「しがらみ」であり、構成員にとっては「人的・環境的資産」と言ってもいいでしょう。
 それを逆手にとって、市の委託業務を無償(もしくは些少な手当て)で引き受けざるを得ない状況にすることが、はたして「フェア」なのか。私にはどうしてもそういうあり方が、「自治でまちづくりができている良い社会」とは思えないのです。
 なぜなら無償労働義務がセットになれば、コミュニティ自体の瓦解にもつながるからです。「役員や当番が出来なくなった」高齢者が自治会を脱退してしまうなどのケースを見ると、「ほんとうに本末転倒だな」と思います。

たどころ:
 そうですね。お金がないから自治会に任せてしまえという方向性には限界がありますね。ただし、税金をもっと徴収して公務を増やすのか、地域コミュニティを育ててボランティアを増やすのかのどちらが良いかは、また別の議論が必要です。

ぶきゃこ:
 確かなのは、「担い手が減ったら困るから自動的に入会させてしまえ」が正当化されることはないということです。

「お願い」をすることも「強制」になるの?

たどころ:
 話は戻りますが、たとえ、それが「お願い」であっても「強制」と感じる人はいます。実際、ぶきゃこさんの体験にあるように「どなたかやってください!」という高圧的な「お願い」が、不愉快に受け止められることは確かです。
 セクハラの定義に従えば、「お願い」された人が「強制」と感じれば「強制」なのかもしれませんが、その白黒は、ジャッジできないでしょう。
 「一度断ったのに、再び誘われた」ことで腹を立てる人もいますが、全員に声をかけても誰もOKしてくれないから、やってくれそうな人にまた頼んでみることは、PTAに限らずよくあることです。
 これは、ぶきゃこさんの体験のように、お願いする方もされる方もストレスですが、そのような事態をすべてなくすことは、現状では難しいでしょう。

ぶきゃこ:
 はっきりとジャッジはできないでしょうし、同じ文言でも強制と感じる人と感じない人がいますから、そこのルール決めが必要だとは思いません。
 それはそれこそ、「内部で話し合えば良いこと」だと思います。
 ただ、PTAの任意性を忘れないようにすることや、PTAの会員対象者に対する圧倒的な優位性(子どもが通っている学校にある団体だということや、抜けたらQOLが下がることなど)を利用して強要することのないような倫理共有がないと、人権侵害が起きると思います。
 日常では「普通に思いやりのある人」でも、「PTAは義務よね」と思い込んだら、「人に対してなにをどこまでしてもいいか」というものさしは簡単に狂います。いわゆる「アイヒマン実験」です。「自動加入」は、「疑似義務意識」を生み、参加者の正常感覚を狂わせるのです。
 「気が進まないけどお願いされる」という事態をすべてなくすことはできませんし、そういうモヤモヤも含みながら生きていくのが人間だと思います。
 「自動入会は正当化できない」ということは結論の出ている話だ、というと、「人生そういうことだってあるじゃないか」というふうに仰る方もいらっしゃいます。
 しかし私は、「そういうことがある」が何度繰り返されたとしても、「だからあってもいいのだ」とは思いません。
 そして、高校PTAの案内プリントにあった「全員加入をもとに運営してます!全員同意書を出してください!」よりも、小学校PTAの案内プリントにある「お子さんを入学させたあなたは、本日からPTA会員になりました」のほうが、現状においてははるかに悪質だと感じています。

たどころ:
 お話はよくわかります。
 全員が参加するものであると考えられていると、何らかの理由で参加できない方に負のスティグマが刻まれて、本人も気が引けるし、他の人も「あの人はずるい」と考えがちなので、任意のボランティア活動であることを周知徹底しなければならないというご意見ですね。
 その点について、異論はありません。まったく同感です。
 しかし「あの人はずるい」という気持ちを、理屈で押さえつけることは難しいと思うのです。そちらの気持ちも保護者の声として拾っていった結果が、現状の全員入会なのかもしれません。
 ところで、PTAで、保護者の自由意思に任せていると、なかなか成り手が見つからないというとき、その「仕事」を廃止することが唯一の正解なのでしょうか。

ぶきゃこ:
 唯一の正解とは思いません。いろいろなアプローチはありうると思います。そのような困りごとの解決を模索し合うこと自体が「PTA」だ、という考え方もあるでしょう。ここで「代案を出せ」という話ではないですよね?(笑)

入会の任意性よりも活動の任意性のほうが大事?

たどころ:
 今回、メインの話題は、入会の任意性なのですが、入会が任意であっても、活動が任意であるかどうかはまた別問題です。
 自治会の民生委員の例でもあげたように、役員の成り手を探すには、どこかで、強引な「お願い」が出てきてしまいます。
 ぶきゃこさんは「任意」で「入会」した人同士なのだから、「内部で話し合えば良いこと」だと仰いますが、PTAでも自治会でも、任意であっても「何らかの責任を感じて、たぶん入会したほうがいいんだろう」という程度の意識で入っている人はたくさんいます。
 任意で入会したからといって、全員が全員、やる気にみちあふれているわけではないでしょう。
 任意入会を推進する方は、「誰もがやる気のあるボランティア団体」を理想としているようにも見えますが、それはあまり現実的とは思えません。
 おそらく「みんなが入っているから入る」人がおおぜい出るでしょう。そうなった場合に「退会したい人だけが退会できる」現在のPTAとの違いはどれほどあるのでしょうか?

ぶきゃこ:
 これはなかなか興味深いご質問です。確かに、自発的に選択できる方ばかりではないと思います。結果的に、現在とあまり変わりないのではないか、という指摘もわからないではありません。
 しかし、「なにがあたりまえか」の原点の共有が違う、ということは大きいと思います。
「保護者はPTAには入るもの」という共有認識はあまり変わりないかもしれませんし、私自身はそれでもかまわないのではないかと思います。
 ただし、「任意なので加入しないことも可能です」と明確に説明するかどうか、その認識が普遍的であるかどうかは非常に重大だと思います。
 なぜなら、PTAは現状、学校や教委に大いに利用されており、上部団体や地域とのしがらみも出来てしまっていて、「容易に強要を生みやすい現場」になってしまっているからです。
 会員の意識の中に「そうは言っても本来任意のものだし」というストッパーがあるのとないのとでは、ぜんぜん違うと思います。

たどころ:
 そうですね。「本来は任意である」という意識は全員に必要だと思います。
 PTA改革の事例として有名な、大田区のPTOは、改革を通して会員の意識を高めたことがすごいのであって、ただ任意にしただけで同じような団体ができるとは思えません。
 また、そのPTOでも、現状、わずかでも活動に参加している保護者は6割という話を聞きましたが、10年後には、組織も仕組みも形骸化して、会員の意識が低くなった結果、活動そのものがなくなる可能性もないとはいえません。そうなったときに、やっぱり全員参加のPTAのほうがよいよねという意見が出てくることも考えられます。
 何が言いたいのかといえば、入会の任意性よりも、どちらかといえば活動の任意性のほうが重要ではないかということです。
 入会は全員にしていただきますが、活動してもらうかどうかはまったくの自由ですというPTAと、入会は任意ですが、入会した以上、活動の負担は公平に割り振りますよというPTAがあった場合、前者のほうが好ましいと感じます。
 なぜならば、「みんなと同じ立場でいたい(入会はしておきたい)けれども、活動するような余裕はない」という人のほうが、「自分で選択できない組織への勝手な入会は気持ち悪い」という人よりも多いのではないかと感じるからです。

ぶきゃこ:
 会の性質上、より多くの保護者がつながれる場にすることは大切だと思いますので、入会が任意かどうかはさておき、「公平・平等を称して活動を強要しない」ということは重要かと思います。
 ただ、前年踏襲やしがらみ関係で、やらなければならないとされている業務が迫っているとすれば、それをこなしていくより、やめる段取りをする方がはるかにパワーが必要です。
 「結局やらないわけにはいかない」状況の中で、「強要しない」は現実むずかしいと思います。
 「入会の任意性を大声で言いづらい要因」と、「活動を強要することをやめづらい要因」は同じなのではないでしょうか。お金の問題もありますが。
 ですから、「入会の任意性と活動の任意性とどちらがより重要か」という議論を深める必要はそんなに感じていません。
 現実問題として、「もう、親はみんな、会員ってことで良いよな!」というような入会のあり方でも、それ自体にそこまで目くじら立てなくてもいいような社会が本当はいい、と私が考えていることは事実です。
 本当は、そんなことでもめたくないんですよ。瑣末なことでギスギスしないのが、いちばん子どものためになると思います。
 ただ、残念ながら現行PTAモデルはそういう保護者社会をつくることに失敗していると思いますので、「自動入会のところはいじらずに、活動を強要し合わないってことでみんな頑張りましょうね」では、変化に限界があると思います。

任意入会にしなければPTAは変わらない?

たどころ:
 大きな変化は、それまで、まがりなりにも安定していた状況を変えてしまうから、リスクが大きい(やりたくない)との意見もあります。それで失敗した場合に、取り返しはつくのでしょうか?

ぶきゃこ:
 失敗したら失敗から学ぶほうがいいと思います。
 「自分にとっては勝手に会員になってようが、子どもの情報つかわれようが、大したことじゃないんだけども、よその家庭に対してはきちんと礼儀を守った方が良いんだ」ということを戦後のPTA歴史から学ぶと良いのかなと。
 先人がそれなりにがんばって考えてきた仕組み、を尊重することも大切ですし、そこで現実に起きていることを見ながら、振り返るべき点は振り返ったほうがいいと思います。
 ただ、私が「失敗」と呼ぶのは人権侵害が起きているという点からの評価であり、「毎年一定の量と質の活動が全員参加によって担保されてきた」ことを「成功」ととらえるかたもいらっしゃることでしょう。
 また、自動入会がよくないのは必ずしも「強要につながるから」だけではありません。「無断で合同行為に組み入れられるのは人権侵害」というのは、何度言っても言い足りないと思います。PTAがやらかした行為には、各会員が責任を負わねばならないのですから。
 自動入会を肯定するわけではなくても行きがかり上、そういう運用をするのであれば、「本当はよろしくないことだし、原理的にインモラルである」ことを理解した上で運用をすることが必要だと思います。
 ここを認めて共有しないと、まれに入会したくない人が出たとき、「そうですね勝手に入会ということにしてすみませんでした」ではなく、「そんなことで文句言うなんて、親がPTAに入るのは当たり前でしょ!?」などと返す会員が出ることになり、悪質性が高まります。

たどころ:
 そうですね。もちろん、入会も退会も活動もまったくの自由ですよという組織であることが最もよいです。
 意識の高いリーダーがずっといてくれる組織であれば、それは可能ですが、毎年人が交代するPTAで、現実的に可能でしょうか。
 現状のPTAの仕組みは、ベストとはとうてい言い難いですが、先人がそれなりにがんばって考えてきた仕組みなのではないかと思います。
 「入会」した以上、「活動」はしてもらいますよ、という組織は、現状のPTAと同じで、なかなか辛いと思います。
 私自身の考えを簡単に述べると、とりあえず入会は任意でなくてもよいから、活動が任意であるような組織がよいのではないかと考えています。
 そんなことが可能なのかといえば、実際に、読書ボランティアや、おやじの会は、やりたい人だけで回っているのですから、PTAの活動も、小分けにして、やりたい人だけのボランティア組織にアウトソーシングするかたちにすればよいと思うのです。
 現状のPTAはいろいろな役割をもっていて、どっちつかずになって、あちこちから不満が出ているので、いろいろな活動を切り分けて、それぞれの活動ごとにやりたい人を募集するような仕組みにしたほうがいいような気がします。
 やりたい人が集まらないような活動は、思いきって「事業仕分け」する勇気が必要なので、それはそれで大変な改革ではあるのですが。

ぶきゃこ:
 はい、いろいろな役割を持ちすぎて、「どんな機能の団体なのか」を説得力を持ちづらくなっていると思います。
 学校評議員会、学校運営協議会、健全育成委員会、次世代育成協議会、など類似ミーティングの乱立も「なんなんだ」感がありますし、それらを官主導でやってPTAが下請け団体になってしまっている地域もあると思います。
 私が「PTAは必要か不要か」という議論にあまり興味が持てないのもここで、PTAがなんなのかが明確でないし各地で異なっている以上、そうした議論はあまり意味はないんじゃないかと思うゆえんでもあります。
 むしろPTAが現在持っている、これから持ち得る機能を整理仕分けして、「その機能が必要か不要か」という話をした方が手ごたえがあるような気がしています。
 そういう意味では、たどころさんのお考えと私のそれには共通点があるようです。
 ただ仰る通り、大変な労力になりますので、なかなか簡単ではないと思います。次回(3)に続きます。

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