田所永世のPTAブログ

運営からトラブル解決までPTAお役立ちハンドブック

PTAの全員入会について、保護者同士で議論してみた(4)~自治と政治

2016-07-02 10:47:51 | 日記
前回(3)に引き続き、ディベートをしています。

PTAは民主主義を守る牙城?

たどころ:
 理念からいえば、PTAや自治会は、日本に草の根の民主主義を根づかせるためのものです。
 教科書的な言い方になりますが、民主主義はただで手に入ったものではなく、先人が血を流して、国家から勝ち取った権利です。
 その権利の維持にもコストがかかります。民主主義を維持するために、相応のコストを支払わねばならないのではないでしょうか。

ぶきゃこ:
 そうですね。ですから選挙は真摯に参加すべきでしょうね。

たどころ:
 自治会やPTAを衰退させないことも、あがなわねばならないコストだと、考えられませんか。

ぶきゃこ:
 それは、さまざまな見方があるところではないでしょうか。現状の自治会やPTAが民主主義の実現のツールかどうかは、意見の分かれるところだと思いますし…。一政党がどれだけ「これが理想の社会だ」と唱えても賛否はあるのと同じように、自治会やPTAをそこまで信奉する価値観は私にはありません。
 自治組織のない国や低調な国もあるでしょうし、自治組織絶対主義というのはよくわかりませんね、私には。
 日本人に民主主義を定着させることを目指すのであれば、グルーピングよりまず均質主義の日本の教育を変えて、自分の頭でものを考え、意見を言う訓練をしていくようにしなければ、本当の意味での「自治」はできないと思いますし、逆に「隣組」のように国家の装置となり、民主主義を抑圧する機能を果たしかねません。
 現に、いま稼働している自治会やPTAのなかには、「自治」とはほど遠い実態のものも、少なくないのではないかと私は思っています。

たどころ:
 「自治」について考えてみたいです。
私たちにとって「自治」は、とても大切な概念です。
 たとえば、家庭内の教育方針や慣習や思想・信条・宗教の自由について、他人から指示命令されるのは嫌なものですよね。
 「自治」の最小単位は「個人」ですが、「夫婦」になり「子ども」を持った場合、「家族」内での「自治」も重要になります。
 「よそはよそ、うちはうち」とは、よく聞く言葉ですが、「家庭」内での納得があれば、「裸族」でも「菜食主義」でも「新興宗教」でも自由なわけです。
 そこで、一足とびに話が大きくなるように感じられるかもしれませんが、「自治会」は「地域」の「自治」、「PTA」は「学校に関係する保護者」の「自治」を担っているとも、考えられます。現行の自治会やPTAが、どれだけ「自治」できているかはおいといて、そういう理念はあるし、そういう考え方をする人はいるわけです。
 現状のPTAが、あまり発言権を持っていないという点には同意しますが、ほぼすべての保護者が加入している団体である限り、たとえば、教科書の選択にしろ、行事の内容にしろ、それこそ組体操の可否にしろ、部活動の強制にしろ、口を出すことが出きます。
 実際に、私の所属していた幼稚園PTAでは、親子遠足を廃止しようとした幼稚園の決定を覆させたことがあります。
 ですから、任意性を主張して、自治会やPTAを縮小させる方向性よりは、理念により即した方向性で活性化させるほうがよいのではないでしょうか。

ぶきゃこ:
 まず、たどころさんの仰っている内容から判断するに、今回の「自治」の定義は、
①構成員の行動規範を定める議決手段と実効性を持つこと
②構成員内議決ルールにのっとって決定されたことは、すなわち構成員全体(自治単位) 
の意思決定であることにすること
 というふうに理解しましたがそれはよろしいでしょうか?
 そう考えますと、たとえば「組体操は危険だってマスコミで言われてるんだから、今年からやめませんか?」というようなことを学校に申し入れしたい、と考えた人がいたとき、ただ単に個人で申し入れるよりは、PTA内でとりまとめて意見具申したほうが、はるかに真剣に検討してもらえる、というのはそのとおりです。
 しかし、そこには「組体操自体は大きな学びになるものだ。安全基準を詳細に検討する姿勢もなく、危ないからやめてしまえは教育の否定ではないか」というような意見を持つ個人も、たぶんいるわけです。
 そのような少数意見が、なかったことにされてしまうのが上記の②の作用ですから、それを「影響力が強くなるのだからいいことだ」と単純に言えるのか、私は疑問です。
 幼稚園の親子遠足廃止を阻止して、「よかったよかった」と思うのは、保護者の時間に余裕もありハッピーな家庭であり、親子遠足に同伴するためのコンディションを整えるのにものすごく苦労しなければいけない家庭とか、かえって子どもが傷付く状況を作る場合も実はあるかもしれないと思うんです。
 うちの近所の幼稚園は、児童養護施設から通っている子もいるんですが、親子遠足はありません。もしあったら、子どもにとっては辛いし、別に施設の子でなくても、家庭状況が辛い子もあるかもしれません。そういう状況を園だけが把握していて、「親子遠足はない方がいい」と判断した可能性もあると思います。
 親子遠足が辛くてたまらない行事だった家庭にとってみれば、PTAのやったことは「数の暴力」かもしれませんよね。
 私は「自治はよくないことだ」と否定してるわけではまったくありませんが、「自治」はひじょうに慎重に、人道的に行われなければいけないと思うし、「自治」に背を向ける人がいてもその人の人権は尊重するという謙虚さが必要だと思っています。日本に蔓延する「中間集団自治」のようすをみるとそう思います。
 ですから、「縮小するより活性化した方がいい」と一律に考えることは、とうていできません。

たどころ:
 そうですね。親子遠足についても、両方の意見はあったと思いますし、少数派(マイノリティー)の声を聞くことは大切です。
 しかし、それはPTAや自治会のような中間団体でもできることではないでしょうか?
 国や市のような大きな組織は、地域の人々の声を拾うことは難しいのではないですか。
 中間団体の「自治」を否定して、「自治なんかいらない、ぜんぶ学校=行政が決めてくれ」という人が大勢を占める将来は、なんとなく恐ろしい気がします。

ぶきゃこ:
 自治礼賛に疑念を持つことが、決定権(このばあい、学校運営への参政権)を放棄する態度である、という考え方自体がよくわかりません。
 学校=行政は、もちろん信頼できない部分もたくさんありますが、それでもいちおう、国民の意見を反映して作られたシステムであり国民の資源を投入して設立された環境ですよね?
 採用する教師の水準も、(実態はどうあれ)担保されているはずです。学校評価アンケートや評議会など、保護者が参加するルートもいちおう確保されています。
 教育委員会というシステムにも問題は感じていますが、それでも現状では国民の合意でそのような組織になっています。
 それがそもそも信用できない、その決定に従えない、別なところで別の基準で決定すべきだ、ということになれば、国という大きな自治の否定なのではないですか?
 なぜ、大きな自治に対抗するために小さな自治がないと困る、という話になるのかが根本的によくわからないんですよ。
 私の言っていることは、「ぜんぶ行政が決めてくれ。国の決めたことは絶対だ」と、自分の参政権を放棄する態度でしょうか?
 私は「自治なんかいらない」とは思いません。あってもかまわないと思います。けれど絶対なくてはならないとは思わないし、小さな自治に重きを置かない人や、別の単位の自治(たとえば、個人)を大切にする人が、無責任かというと、それもまた違うと思います。
 どんな段階においても、「政治の論理」や「多数決の力」をもちこみたがる人はいます。
「ひとりで言うより、おおぜいで言った方が力が持てる」ということ自体は事実でしょうが、「だからそれが善」かどうかはまた別の話だと思ってます。

PTAにはアマチュアの限界がある?

ぶきゃこ:
 「小さな自治によって自分の主張を通したい」と一生懸命になる人生もあるのでしょうが、私はそういう生き方がおもしろいとあまり考えたことがありません。好みの違いかもしれませんが。
 現状で、最大に少数派に配慮し、最大に憲法の精神に近い運営ができているのが、「国単位の自治」だと考えています。
 地方自治体ですら、小諸市のような暴走をする可能性を否定できませんし、「自治だけでは人権は守りきれない」という考え方が出した結論が「三審制度」だと、いまのところ思っています。
 大きな自治にしろ小さな自治にしろ、自分の主張や趣味嗜好のみが通らないのが「社会」であり、「公益」ということをどのようにとらえるのか、個人の考えかたに違いはあると思います。
 「大きな自治にしたがうべきだ。それが社会秩序を重んじる態度だ」と考えている人を、「小さな自治権を放棄する無責任な態度だ」と指摘するのはなんだか違う気がします。「小さな自治」好きなタイプの方の中に、「なんでもかんでも“ぜんぶ”人任せなんだな!」と極端に決めつけてくる人がときどきいるのも奇妙な気がします。
 総括して、もっとひらたい言葉で手短に言うと、「プロとアマチュアは決定的に違うものであり、アマチュアがプロに恣意的に口出し出来て政治力が持てるのは『民主主義』ではなく『ムラ社会』」というふうに私は考えている、と表現することもできます。
 アマチュアはときに、ひとつの例ですが「会員でなければ権利がないのは当然だ。だから、会員の子だけ卒業式の花がなくても当然だ。」というような結論を出してしまいがちです。そして十分な影響力を学校内で持っていた場合、実際に恐ろしいことが実行されてしまいます。
 私が「アマチュアの活性化が望ましいと単純に言うことは出来ない」と思うのはそういうときでもあります。
 それは、アマチュアの否定ではないし、アマチュアなりの良さも、すぐれた判断もあると思うのですが、しょせんアマチュア団体ですからコミットするかどうかは個人の自由、の域を出ないし、それが「あるべき姿だ」と私は考えているし、その自覚のない「中間集団自治」はときに危険だ、ということです。

たどころ:
 たしかに、「家庭」という単位であっても、子どもへの虐待や育児放棄があったときには、行政が介入して、児童養護施設に引き取ることもできるようです。
それは国の功績でしょうし、独居老人をケアする自治会の民生委員が国の委託事業であることもすでに述べたとおりです。
 しかし、中間団体が暴走するのだとしたら、国家だって暴走するでしょう?
 いわゆるリベラルは「国家権力は信用できない」と感じている人が多いと思います。PTAの自由化を求めるぶきゃこさんは、むしろ、中間団体(ムラ社会)の自治より、国際的な人権意識や制度が確立した国単位の自治のほうが、よほど信頼できると考えているわけでしょうか。左右の枠組みや建前にとらわれない新しい考え方で、非常に興味深く思います。
 私もいいかげんおっさんなので、表現が古くなって申し訳ないですが、ぶきゃこさんの言うのは「狭いムラ社会の一員である以前に、世界市民でありたい」というところでしょうか。
 ところで、「現状で、最大に少数派に配慮し、最大に憲法の精神に近い運営ができている」のは「国単位の自治」とのことですが、むしろ現状のPTAや自治会は、国→学校(地域)→PTA(自治会)という流れのなかで、「国単位の自治」の下請け機関のようになっているような気もします。だとしたら国≒PTAとも言えますよね。

ぶきゃこ:
 まあ、PTAは国が維持コントロールしたがっているという実態があると思っていますので、多くのPTAを「下請け」と呼んでもあながち間違いではないかもしれません。
 しかし、私の言っているのは、小さい自治より大きい自治の方が、現状の日本ではよりフェアにやれていると思う、という話であって、「自分たちで考えるより国の言うことを聞いた方がいい」ということとはまったく違いますね。
 PTAの活動にかんして言えば、自主的なもののほうがずっとモチベーションは上がるし良いと思うのですが、国の基準を無視してもいい(つまり、会の基準>国の基準になって、会員の子だけ学校行事で優遇するようなことをやる)ということになるのはまずいんじゃないの、という話です。
 国民としてのコンプライアンスを学ばずに市民活動をすることはむずかしい時代がやってきている、と既に述べた通りです。

たどころ:
 これはまったく仮定の話ですし、そうはなってほしくないのですが、もし、PTAが「国単位の自治」の下請け機関という位置づけならば、「国民の義務」的に、参加が必須の方向性も考えられるような気がします。PTA会費は、社会保険と同様に、一種の税金という見方もできますし。

ぶきゃこ:
 それはそれで、そうなるなら仕方ないんじゃないでしょうかね。そのような政治を行う国に住んでいるということですから。PTAの活動を、国民の義務と出来るほど標準化できるものならやってみればいいと思いますし、かえって苦情の持って行き先がはっきりしていいような気もします。
 国民一人一人からいくら税金を取るべきかを公平に決定する過程について、国はものすごいコストかけていますよね(結果的に本当に公平にできているのかはまた別問題として)。
 PTA会費を税金にするなら、そのスキームにちゃんと乗るということですから、「“一種の”税金です」と手前理屈で保護者同士を相互監視させて同調圧力で徴収し、しかも国が「知りません。口は出せません」と逃げている現状より、よっぽどましだと思います。
 たまに事件になる、教員のPTA会費使い込みなんかも、私金じゃなく税金の横領ですから、謝って返せばなんとかなる話でもなくて、重罪になりますよね。

たどころ:
 強引にまとめると、「望ましくないことが起こらないようにちゃんと選挙に行こう」という話ですね。

PTAや自治会が本当に必要な部分はどこ?

たどころ:
 しかし、「国単位の自治」を信頼するにしても、現場で動く中間団体(自治会やPTA)は必要になってくるのではないですか?
 たとえば自治会の民生委員とか、防災委員とか、自治体から自治会へ下ろされる地域の仕事を指しています。
 災害時に、学校などの避難場所で、テントを設営したり、物資を配ったりするのは、役所の公務員と自治会の役員が一緒に行っていると思います(少なくとも、防災訓練はそのような想定で行われています)。
 それらの「仕事」をすべて公務員にやらせることは経済的に不可能ではないですか?

ぶきゃこ:
 そうでしょうか?
 業務の性質的に(地域に根ざす必要があるため)難しいということであればわからなくもないですが、経済的に=予算的に不可能、というのはそんなに簡単に結論の出せる話でしょうか?
 昔は「そんなものに予算が付くなんて考えられなかった」ものが、予算が付くようになったケースはいくらでもありますよね。
 「不可能」と仰るからには、何らかのエビデンスが必要なのではないでしょうか。
 国や自治体の予算というものは、企業の予算と違って「利益」という明確な目標がないですから、企業のそれよりずっと柔軟というか、政治によって(政治のみではありませんが)左右されるものだと思います。
 「先生は仕事が大変だし学校はお金がないでしょ? だからPTAがやるしかない」のようなことを信念でお持ちの方も「不可能」という結論が根拠を持って出せているわけではなくて、PTAや自治会のような中間団体は予算を引っ張るような政治活動が出来ないから「そこには手はつけようがありません」だから「依頼が来た仕事はこなすしかありません」というのが事実に近い感覚のような気がします。
 「反社会的団体の見張り」をお母さんたちが交代でやってるPTAも聞いたことあります。こういう仕事が必要だ、でもそんな予算はない、でも見張らないと子供たちが心配ではありませんか?と言われたら、やるしかなくなりますよ。

たどころ:
 なるほど、まあ、地方自治体に十分な予算権限があって、北欧のように税金が高く高福祉の社会であれば、地域に根差した活動に報酬を支払うことも「不可能」とは言い切れないかもしれないですね。
 でも、現状ではそうなっていませんし、今のところ自治会やPTAは、社会の公的なシステムに組み込まれているので、動かしづらい気がします。

ぶきゃこ:
 それは感じますよ。現状、国家の装置になっているというのは私も理解しています。その理解と、その装置は一定の強制や侵害があったとしても維持すべきだ、他の方法はないと考えるかどうかは、また別の話です。

たどころ:
 国家の装置というよりは、社会の装置ですよね。社会を円滑に回すための仕組みとして、やはりPTAや自治会は必要とされているのではないでしょうか。

ぶきゃこ:
 PTAや自治会って「雇用をするほど安定したミッションがあるわけではないが、委員的なものが地域に設置されていると何かと便利なもの」のことですよね。
 そうであっても、「必要」というのは言い過ぎではないかと思います。「そういう役割を地域で設置できるシステム(つまり自治会など)があったらよりいい」ものではあるにせよ。
 消防団なんかが良い例ですね。全体主義的に考えれば「そりゃないよりあったほうがいいだろう」となりますが、実際には人の確保が大変で、PTAより酷い人権侵害が行われているケースもあるそうです。実家のほうの話なので全国的な問題かは分かりませんが。
 実際の消火活動でもやはりアマチュアの手伝い的な位置づけにおかれる(当然ですが)ようですし、やはり、どうしても「必要」だとは私は思いません。
 “「必要」だとは思わない”が、イコール“不要だと思う”ではありませんが、いずれにしても任意活動の域を出ないと思います。
 本当に「必要」なものだとしたら、現状で、自治会にもPTAにも属さない国民というのはいっぱいいるわけですが(私はそうですが)、その人たちはどういう位置づけになりますか?

たどころ:
 自治会やPTAは、会員のみにサービスを提供しているわけではないと思います。
 自治会やPTAに属していなくても、自治会の町内清掃やPTAの校庭の草むしりの恩恵は間接的に受けていますよね?
 地震などの災害が起きた時に、自治会に入っていない人は助けない、ということもないと思います。
 自治会やPTAは、会員ではなく、地域や学校に奉仕するものですから。
 非会員の位置づけは、地域や学校の一員ではあるけれども、活動をしない人という位置づけでしょうか。

なぜ「思いやり」が「押しつけ」にすりかわるの?

たどころ:
 非会員について話をしていくと、ときどき「フリーライダー」論が出てくるわけですが、それについてはどうお考えでしょうか?

ぶきゃこ:
 たとえば自治会が町内清掃を行っているから、そこを通過する他地域のかたも恩恵を受けているという意味ですか? それはそうですが、では自治会は通行する人をフリーライダーと呼んでいいかというとそうは思いません。
 奉仕でもボランティアでも善意でも協力でも、呼びかたはなんでもいいでしょうが、社会というのはなにかちょっと助け合ったり、少しおせっかいを焼いたり、気持ちよく挨拶したり、それぞれのできる時間を割いたり、働いたお金のいくぶんかを寄付したりして、より良い社会をつくろうとする人たちでより良く成り立つ、と思います。
 しかし、「恩恵を受けた人は恩を返せ、返すべきだ」と言うのがフリーライダー論者であり、それはもはや「善意」ではなく「契約」の主張だと思うんですね。
 ただの「恩着せたがり」はおいとくとして、本気で「返すべきだ」を正当な主張だと思っている思考のことですが。
 私は、一方的な「契約」は不当であると思います。
 「サービスの購入」であれば契約書(実際に書面が存在するかどうかはまた別として)が必要なはずで、それがないのに一方的にサービスをして代償を要求するというのは不当な債権の主張であり、もはや「社会をより良く成り立たせるための善意」とは言えないと思います。
 そのサービスに受け手が価値を感じるかどうかも、不明なのですし、一方的に「価値があるだろ?」と決めつけるわけにはいきませんよね?
 「善意」「恩恵」という「愛」の話で始まったはずが、いつのまにか「愛をただ受けるなんて、私達にタダでサービスしろってこと?」と「契約」の話にすりかえられるというのは、大変気持ち悪いものですね。
 PTA問題が、「任意加入のはずだ」と一種の「契約論」で語られるのは、正しくもあるのですが、「本当はそういう話じゃないんだよなあ」という心の呟きがいつもついて回るんです、私。

たどころ:
 仰るとおりで「フリーライダー」という言葉は、いささか下品だと思います。
 ですから、ほとんどの自治会もPTAも、非会員に対して「ただのり」だとは思っていないし、地域や学校の一員として、仲間意識は持っていると思います。

ぶきゃこ:
 さあそれはどうでしょうか。かなり疑問ですね。
 そのように仰いますと、あたかも自治会やPTAは広い心で仲間になろうとしているのに、偏屈な変わり者が法律を盾に取ってさわぎ、自分だけの権利を主張して入会しない、かのようですね?(笑)
 実際は違うと思いますよ。自治会は任意加入が比較的浸透していると思いますが、PTAは、入らない、と言ったとたん、「ただのり」させまいとする(というより、不公平だとかずるいとか、その子にも記念品を配るのはおかしいとかいう他の保護者の声を抑える説得力を持たない)PTAがまだまだ多いんじゃないでしょうか?

たどころ:
 たしかに、つっこんで話を聞いていくと「モンスター・ペアレンツ」とか「一部の極端な意見」とか、そういった「いじめ」や「排除」の論理を持つ言葉を口にするPTA関係者は多いですね。それでも、同じ「保護者同士」「住民同士」という共同体意識があることは信じたいですけどね。
 ただ、「でも、ときどきは手伝ってほしいなあ」と思うのも人情ですし、「近くに存在しているんだから、交流があったほうが何かとやりやすいんだけどなあ」と思うのも自然なことじゃないでしょうか。
 ですから「まあ、入会とか退会とか固いことを言わずに、まんざら知らない間柄でもないし、とりあえずみんなで集まって入っておこうよ」みたいな、世間知を持つ横丁のじいさんの価値観でやってきたんじゃないかと思うのですが、それはもう通用しないんですかねえ。

ぶきゃこ:
 それな(笑)
 小学校PTAの本部役員を長年やっている人が私の友達なんですけれども、彼女は本部と私の、実費支払いがどうのこうのというやり取りをしら~っとした気持ちで見てたと思うんですよ。彼女は自分も役員ですが、そういう態度をとる役員の人たちともそんなに仲は良くない(笑)
 彼女は「会員とか会員じゃないとか、んなこたどうでもいいじゃないの。子供たちのためにできることを少しずつ手伝えばいいだけじゃん」と言う。本当に、彼女がいちばんまっとうだと思うんですよね。
 ただ、もうほとんどのPTAは横丁の集まりではなくて、組織を持つ事業になってしまってます。やってる実態は横丁レベルなのに、ゆがみますよ、それは。
 退会するというと、「どうしましたか?」より、「登校見守りにきてもらっても保険は対象外ですから!」みたいなことを言いたいのが先に来てしまう。
 別にこちらは「動員させられるならそちらの責任で保険付けてよ」なんて言ってないんですけどね。もう、三丁目の夕日からどんどん遠ざかる。(笑)

たどころ:
 たしかに組織の論理に流されていくPTAも多いですね。映画の『三丁目の夕日』だって、あれは懐古趣味のフィクションで、実際の昭和三十年代は抑圧がひどくて、嫌な時代だったって声はありますからね。

任意加入になったら「やる気」が必要になる?

たどころ:
 で、ぶきゃこさんは、それならばいっそのこと「雇用」とか「正当な報酬」と仰るわけですが、それはちょっとギスギスした感じがしませんか。
 お醤油が切れたときに、お隣にもらいにいって、「代金」を払うわよといったら、「水臭い」と言われそうな気がします。
 それと同じで、PTAや自治会の活動に「正当な報酬」を発生させることを好まない人も多くいるような気がします。

ぶきゃこ:
 あ、いえいえ。私が「PTA活動をそんなに担保したいなら本来雇用すべき」みたいなことを言うのは、PTAや自治会の活動に正当な報酬が支払われるべきだ、ということではありません。
 正当な報酬が支払われるような種類の市場価値のものではないもの(価値がないということではなく、貨幣価値として測定しづらいということです)を、「義務」とか「責任」とか「やらないのは不公平」とか「仕事は個人の都合でしょ」とか「毎年やるって決まってる地域活動は低下させてはならない」などと無理くり優先させようとするのは、「労働力の市場価値」=人を拘束するには本来報酬が発生しなければならないことだ、という認識が、(「主婦労働は無償」の考え方がおそらくベースにあると思うのですが)立ち後れているのではないかと思うからなのです。
 PTAがそんなに押しつけ合いになるなら報酬を払えば良い、というアイデアはちらほら聞かれますが、私は否定的です。
 ただ、従来からの「奉仕活動に報酬を要求するのはぎすぎすしたこと」という価値観の押しつけは、女性の無償労働にバックアップされて社会で報酬や承認をがっつり得ている「男」が言いがちなことであったとは思っています。

たどころ:
 ああ、たしかにそれはあるかもしれませんね。私は以前に主夫をしていたこともあるのですが、あれは辛かったですね。自分の家事能力が低すぎて(笑)。
 PTAは女性ばかりの組織なのに、なぜかPTA会長だけが男性というのも少し変な感じがしますね(女性の中にやりたい人がいないため、男性にお願いしているという見方もありますが)。
 それはそれとして、お金の介在しないボランティアというゆるさがあるからこそ、ちょっと遅刻しても、多少非効率でも、おしゃべりに花が咲いても許されて、それがいいという人がいる。
 任意加入にしたいという人の中には、「やる気」があって効率化を求める人もいるように見えますが、それが現行のPTAと相性が悪そうに見えることもあります。

ぶきゃこ:
 仰る通り、私みたいな“非効率さを楽しめる”適性が環境的にも性格的にもない人を「ほんわかゆるゆる親睦重視の会社ごっこ」にむりやり巻き込んだらブラック化のもとですし、実際、しょうもない細部(と私には見える)ことにうだうだとこだわりたっぷり時間を使って先に進めないタイプの優雅な方とは、いっしょに活動やっても非常に相性悪かったですね。
 疲れ切って保育園にお迎え行った後で夜の7時に帰り着き、上の子たちが口々にいろんなことを堰を切ったように話しかけてくるのをうんうん聞きながら、洗濯物を取り込んで風呂を洗って、とにかく先にご飯の下ごしらえを…とあせる中で子どもがしょうもない物の取り合いで喧嘩になったり、お母さん○○がない!とか言われて対応したり、そんな中で料理の最中にPTAの電話がかかってきて、講演会の動員の電話連絡網(しかも要領を得ない)をえんえんメモとらされたら、ぶち切れる程度には私はじゅうぶん狭量です(笑)。
 ま、でもこういうことを「つらい」と訴えても、「大変なのはみんな一緒」「そういう状態にしてる自分が悪い」と自己責任論を言われるのがPTAという場でしたけどね、私にとっては。
 私が言っているのは、当事者にならないとわからないメンタル状態もあり、それを無視して「理想のPTA」だけ語ってもそのように運営されるのは実際なかなかむずかしいし、むずかしいことは日本中で証明されている、ということです。

たどころ:
 お話しはよくわかりました。本当は、いろんなタイプの人を包含するのがダイバーシティの面からも理想なんですけど、一緒にやりたくないと言われると辛いですね。
 ぶきゃこさんの言うように、加入を任意にすることで、市場原理が働いて、活動が自浄化するというのは、その通りだと思うんです。任意でも入会してもらわなければならないとすれば、それだけ「魅力的な団体」になる必要がありますから。
 しかし、それこそ営利目的ではない、報酬ももらわないボランティアのPTA本部役員に、そこまで市場原理に沿うことを求められるでしょうか?
 お金をもらっていてすら、市場で勝つためのビジネスは難しいものです。ストレスもたまります。
 改革や改善を必須にしたら、それこそ本部役員の成り手がいなくなるかもしれません。
 今年の本部役員がだらしないから会員が減ったとか、そんなこと言われるなら、やりたくないですよね。
 前例踏襲でゆるくやってもいいと思われているから、なんとか成り手が見つかっているのでは?

ぶきゃこ:
 ボランティアでやってくれてるのに、「会員が減らないように営業努力する責任」をしょわせるのは酷、という話ですよね。
 わからなくはないですし気の毒ではありますけれども、だからと言って自動加入で前年踏襲の比較的楽な運営方法を許せ、それが平穏に運営されるように保護者は協力しろ、となるとちょっと「無理を通そうとしすぎ」なんじゃないかと思いますよ。
 それはこの社会において「そういう主張はちょっと無理では…」と思うからなのですが、それ(任意性の知識がひろまり安定運営が脅かされること)を「退会する保護者」の責任に帰す論調もあって、そうなると容易に「自分の都合の主張のし合い」「人格攻撃の応酬」になっちゃいますね。
 まあ残念ながら、お金を管理し団体活動をおこなうということは、いろんな言葉も浴びる可能性があるってことですよね。
 前例踏襲イコールゆるい、とも限らないでしょう。
 むしろ、非難を浴びないことを眼目にやっていると、だんだん膨張してくるのがPTA活動の傾向のような気がします。

恵まれている人にはPTA問題がわからない?

ぶきゃこ:
 PTAがゆるゆるを維持できるとしたら、ベタな言葉ですが「思いやり」ですよね。
 役員さんありがとう、役員さんにそこまで求めたら酷、そういう思いやりをなくしてしまわないために、私はPTAと保護者を企業と客、あるいは使用者と労働者のような関係にする「対話のない自動加入」とそれに裏打ちされた「強制的な文言のプリントを配布したり、反応のない保護者に督促したり再配布する行為」について、まったくもって賛同できないでいるわけですね。

たどころ:
 「思いやり」が必要という意見には全面的に賛同します。
 PTAの役員だって、たまたま役員になっているだけの保護者で、自分がされたくないことは人にしたくないのではないでしょうか。
 最初からギスギスしたい人がいないのに険悪になっているのであれば、それはどちらかがどこかで相手の感情を害して、ケンカになっているような気がします。

ぶきゃこ:
 そうです。ですから私は「まぎらわしい手を使って自動入会させるのはやめようね。きちんと説明するのは礼儀だよね」とずーっと言っているわけです。それが始まりですから。
 たとえば、お手伝いの依頼のプリントを配布して、挨拶も返信もなくスルーする人がおおぜいいるときに、役員の皆さんは「失礼ね」とか「ひどい」と感じていらっしゃいませんか?
 その「ひどい」に感情を奪われているときに、そもそも自動入会させていることや、Noの選択肢がない希望票を一方的に期限を切って出すように求めていることの暴力性を、あわせて考慮できる人は、どのくらいいるのでしょう。

たどころ:
 ああ、それは仰るとおりですね。

ぶきゃこ:
 自分が「されたくないけど義務だからがんばってやった」と思えば、容易に「他人もやるべきだ」と思うようになりますよ。
 人は「自分がされたくないことは人にしたくない」と思う、というのが常に変わらぬ真理なら、なぜ、世の中からいじめはなくならないのでしょうね? 大人の世界でもいじめ、たくさんありますよ。
 どんなに理性のある大人でも、ストレスはいじめを誘発します。
 もし「強要されている」と肌で感じられないのであれば、そのPTAの活動にそもそもストレス発生量が少ないからとか、男性はストレスのはけ口にされにくいとか、それなりに要因があると思います。
 PTA被害が「共感できない」「イメージできない」ということであり、なおかつ「あなたはそう感じるんですね」という他者尊重よりも「何かをやらせたい(入会させたい、協力させたい)」が優先されるのであれば、「話し合いによる相互理解」はなかなかむずかしく、法に拠って解決するしかないのではないかと思います。

たどころ:
 そういうお話しを聞いていると、PTA問題は格差問題という気がしてきますね。男女格差、経済格差、社会格差があって、PTA会長や自治会長に推薦されがちな、社会的に恵まれている層には現場の痛みがなかなかわかりづらいのだと。
 まあ、私がお会いしたPTA会長さんの中には、地元の名士だけれども、家業は負債だらけだという人もいたので、格差問題も単純ではないような気もします。
 いずれにしろ、PTA活動に困難を感じない恵まれている人が、困っている人の存在に気づきづらいのは普遍的な事実だと思います。
 どこまで届くのかはわかりませんが、これを結びの言葉として、この対談を終わりにしたいと思います。読んでくださった方、長々とおつきあいいただき、どうもありがとうございました。


PTAの全員入会について、保護者同士で議論してみた(3)~人はそれぞれ違う

2016-06-30 07:06:32 | 日記
前回(2)に引き続き、全員入会の是非について、ディベートを行っています。

任意入会にしたらPTAは消滅する?

たどころ:
 最初(1)で、ぶきゃこさんは「リアルに保護者同士で話せば、『やらなくていいんなら、やらないわよ』が当たり前だと思います。」と仰いました。
 だとしたら「任意入会」にすると、やはり、やらない人がおおぜい出てしまうのではないでしょうか?

ぶきゃこ:
 そうかもしれませんし、案外、そうでないかもしれません。
 それは、私にはわからないことです。地域性もあるでしょうし、PTA活動の中身にもよるでしょうし。
 それに、「やらない」といっても、何をやりたくないのかは、人によって違うと思います。

たどころ:
 もし、やらない人がおおぜい出てきてしまった場合、それは結局、現在のPTAがなくなることにつながってしまいませんか?
 「任意入会」推進派は、ぶきゃこさんのように「PTAの意義も一応認める」と言う方が多いですが、その主張を現実に適用すると、PTAの消滅につながりかねません。そのあたりの矛盾については、どのようにお考えでしょうか?

ぶきゃこ:
 私自身は、矛盾してると思ったことはないのですが…。
 PTAの意義をみとめるということと、現行PTAを維持したいということとはまったく別次元の話です。
 現行PTAがもっている、果たしている機能には一定の意味があるということを「意義がある」と言っています。
 それが「PTAによって」果たされなければ困る、とはまるで考えていません。
 PTAがなくなれば他の団体なり、寄り合いなり、LINEグループなり、学級保護者会なりがその機能を果たしていくでしょう。
 あるいは、なんにもなくなって更地になって、また一から始まるのかもしれません。
 むしろ、きちんと任意性を明確にすることで、その機能がより良質に働くことへの期待が私は大きいです。

たどころ:
 なるほど。そういう考え方もありますね。
 現行の、割振り当番的なPTAがなくなったとしても、誰か、あるいは何かがその機能を代替してくれるだろうと。
 あえて伺いますが、楽観的すぎるのではないでしょうか。
 現在、完全に任意の活動である、おやじの会、読書ボランティアの参加率は、全保護者の1割以下であることが多いです。
 PTAは「参加は自由」であるとの認識が広まっても、本当にPTAに加入してもらえるのかどうか不安になる人がいても当然と思います。
 実際に、任意であると告げたときに、加入したら「輪番」でお手伝いが回ってくるのも嫌だなあと思われたりはしないでしょうか。

ぶきゃこ:
 それはあるかもしれませんね。「なんだ義務じゃなかったの」とおおやけになるともっと参加率が下がるのではという心配ですね。
 でも、それが事実ですからねえ。熊本みたいに訴えられたら、手当できますか? 私は、リスクがありすぎると思うんですよ。
 崩壊が怖いからと黙示の誘導やごまかしで何とかして維持するというより、人間は賢明なんだから、ほかの方法が考えられると思うんです。
しばらくはガタガタするのは仕方ないにしても、活動もスリム化しながら、案件ごとに新たなアイディアを出していくしかないと思うんですよね。
 というより、世界の育児や教育の長い歴史の中で、PTA自体が「新たなアイディア」のひとつにすぎませんよね。たかだか数十年しかやってない。しかもこんなのは日本だけ、そのうえ内容や性質は少しずつ変化してる。
 PTAは絶対必要です!! って信じ込んで疑問を挟まない人を見ると、何を持ってそう確信できるんだろう?と不思議なんです。
ようは物の見方っていろいろあって変化するものだし、絶対なくてはならないと思い込まされてきたものでも、視野を広く持って再検討を加えることはできるんじゃないでしょうかということです。
 仕事でもそうなんですが、検討の可能性がいろいろある中で考えてかなきゃいけないというとき、私はいつも「結論の出てること」はどんどん消去していくんです。そうしないと、でもでもだってと迷ってばかりで無駄な時間が過ぎる。ある程度エイヤと決断して、失敗するならしてみたほうが、次の手にたどりつくのが早いということもありますよ。
 私にとって、PTAは会員対象者に対してしっかりフェアな入会方法を取る必要がある、というのは、結論の出てることなんですよね。
 そこをブレさせて「別の考え方もあり得るじゃない?」と言われても、遅かれ早かれコンプライアンスを無視できない時代はやってくると思いますし、それは抵抗できない波なんじゃないかなと思っています。
 だったら、それはもう前提として、いかにPTAを活かすか、それとも別の「保護者と学校のあり方」を考えるのか、そちらに目を向けた方が前向きかなという気もします。

保護者が学校に対して持つ責任って何?

たどころ:
 なるほどですね。たしかに、その方が「前向き」で「理想的」ではあります。
 しかし、繰り返しになりますが(笑)、理想を実現するには、時間がかかると思うのです。
 ぶきゃこさん自身が仰るように、現在のPTAだって「やりたくてやっている人」ばかりではないはずです。忙しいし、本音を言えばやりたくはないけれど、学校や地域に対しての何らかの「責任」を感じて活動している人もおおぜいいます。
 この「責任」は、理念として広く共有されているのでしょうか。
たとえば、 ぶきゃこさんは、以前の私のブログの記事で、とあるPTA会長さんが「学校に対してそれぞれの家庭が均等に責任を持つ必要がある」と主張したのに対して、自分のブログで次のような疑問を呈してくれましたよね。
――
田所さんはこの主張に対して、たしかにGHQ文書では「学校の管理に関し、父兄及びその他の市民が責任を有している。」と書かれている、という話を持ち出し、あたかもその文書が「学校に対してそれぞれの家庭が均等に責任を持つ必要がある」という命題への裏付けであるかのように話している。
そんな文書もあるのかも知らんけれども、それは、基本的理念の話なんではないだろうか? 
それをもって、「保護者は全員学校運営を手伝う責任がある」という解釈をすることができないのは当然だろう。
――
 学校の管理に関して父兄が持つ「責任」が、理念の話であることはそのとおりです。
その「責任」が具体的にどのようなものであるかが明確ではなく、PTAへの加入責任とイコールでないことも仰るとおりでしょう。
 しかし、理念としてであれ、保護者は学校にかかわる「責任」もあるというほうが、よりよい社会であると感じます。
 この「責任」という言葉に反発が起きるようであれば、任意入会の実現はほど遠いと思います。

ぶきゃこ:
 はい、私は「責任」の存在については否定しておりません。
 もっと言うと、子どもの学校にかぎった話ではなく、成人はすべからく社会をより良くするために努力する責任がある、と考えております。
 「個人の自由」をとなえる人(特に若者)に、「労働してもしなくても自由選択可」という意味のことを主張する人々がいて、それに私は「履き違えだ」と批判的なのですがそれはそういう基本理念によります。
 ですから理念自体に異論はありません。私が否定しているのは、そのような理念の話を持ってきて、PTAに強制参加させる裏付けとできるとする考え方です。

たどころ:
 そうですね。別にPTAに参加しなくてもよいとは思います。
 しかし、この「責任」がある以上、たとえ任意加入であっても、「PTAの活動に熱心な人は立派」、「どんなに頼まれても絶対に引き受けない人は、あまり尊敬できない」という視点が、どこかで生まれるでしょう(それを肯定しているわけではありません)。
 PTAは、目に見えてわかりやすい「奉仕活動」の一つだからです。
 任意加入が徹底しているアメリカのPTAでも、進んで引き受けている人はステータスを受けていると聞いたことがあります。
 現状のPTAでも、役員を引き受けてくれる人に対して「偉いねえ」という感慨は、普通にあると思います。
 個人的な印象ですが、PTA活動に積極的に参加してくれる人の中に、その学校に転校してきたばかりという人も目立ちます。
 話がそれてしまいましたが、PTAが完全に任意の趣味の団体のような扱いになったときに、PTAの担い手が「やらなくてもいいのに、やっている物好きな人」みたいに思われるようになるのが心配です。

ぶきゃこ:
 「責任」という話につながるかわからないのですけれども、あるトップダウン型改革をして任意化したPTAの会員さんのお話を聞く機会があったのですね。
 すると、例年やっていた行事が「やらなきゃならないもの」から「任意」になってしまったことで、手伝ってくれてたお母さんたちの気持ちが下がってしまったと。
 どうしてかというと、前者なら「みんながやらなきゃならないことを、担ってくれてありがとう」と感謝されてた(と少なくとも思えてた)ものが、後者だと「やるって決めたのは自分たちだよね?」と思われてるんだな、と思うとなんだかつらい、というものでした。

たどころ:
 まさにそれですよね。本来であれば、任意であっても「ボランティア」なのだから、感謝されるのが当然だと思いますが、「任意」だと「やりたくてやっている」と受け止められてしまうのですね。そういう状況になると、「任意のボランティア」をやる人は少なくなってしまうでしょう。

ぶきゃこ:
 まあ、そういう考え方の是非はおいておくとして、「お母さん」という立場の人ってほんとうに、報酬系が充足される機会が少ないというか認められて必要とされる場が少なくて、いや必要とはされてるんですけどそれが「当たり前」ってみなされてて、その欲求を満たすチャンスがボランティア活動にあるのであれば、そのやる気をけずる言動はやはり控えた方が「いい社会」なのかなと思うことはあります。
 たとえ自分にとって必要でないモノやサービスであっても、子どもが何かもらったら「ありがとう」と言い、その代金が会費から出ているのであればできる範囲で寄付をおこなったり、何か手伝ったり、「好きでやってるんでしょ」的な感想をつぶやくのは頭の中だけにしておく、というのも、「棲み分け」と同じように、価値観が違ってもお互いにQOLを上げる方法なのかな、とは思っています。
 ただ、ネガティブなことを言いたくなる強制的とか押しつけがましい状況というのは、現実としてあるかと思いますので、そういう現実に対してたまらず発信されている情報(PTAへの批判)を、「きちんと法を遵守し善意でやっている」方々は、あまり気にされなくてもいいのではないかなと考えます。

たどころ:
 「私のPTA」に対する批判であって、「あなたのPTA」に対する批判ではない、と言うわけですね。ただ、PTAがどれもこれも似たようなものと思われがちなのも確かです。
 自分のかかわるPTAを批判しようとして、大文字のPTA批判になってしまうのも、自分のかかわるPTAを擁護しようとして、大文字のPTA擁護になってしまうのも、同じ構造ですね。
 話を戻しますが「任意団体」であることを周知しつつ、でも保護者には学校にかかわる責任があるよと啓蒙していくことはできるのでしょうか?

ぶきゃこ:
 そのような広報活動は、いくらでもできると思いますし、逆になぜ「任意であることを隠す」ことが「責任の存在を啓蒙」することになるのかがむしろよくわかりません。
 それは「啓蒙」ではなくて、義務と誤認させて「全員参加」という結果だけを短絡的に出そうとしているだけではないのでしょうか。
 むしろ、「PTA活動は重要なものだ。PTA活動にぜひご参加下さい」というような真っ向から勧誘する広報の仕方に消極的であるところも多いように感じています。
 なぜなら、「勧誘」をすればするほど、「やらない選択肢もある」ということをみとめることになるからです。そのような「まともな勧誘」をおこなっているPTAより、「1人1回やっていただくことになってます」などとさも当然のごとく言ってくるようなPTAの体験談の方を多く聞きます。
 また、私のように、「学校のPTA汚染」「学校を現場とする保護者いじめ」などの問題を感じ、それなりに発信したり、退会したり、教委や学校に問題提起したりということをおこなっている保護者も、見方によっては「学校にかかわる責任を果たしている」ということでも良いのではないかと思うのですが、PTA活動に参加しないイコール「学校に背を向けている」ことになるかのようにしばしば論じられるのはずいぶん価値判断が一方的なのではないか、と感じることもあります。
 私も「PTA嫌い」を公言していますし「頼まれてももう二度とやらない」と決めている活動もありますから、価値判断が一方的であるのはお互いさまですが、PTAコンサバ(慎重派)は何故か「我こそが公なり」と信じて疑わない人に遭遇する確率が高いように感じています。
 ちなみに、私の「PTA嫌い」は、「非効率なアナログ作業が性に合わず好きになれない」とか「仕事を休んでだらだらとした噂話混じりの会議につきあうのは堪え難い」とか、そういう意味であって、PTAに参加する方々が嫌いなわけではありませんし、PTA活動を否定しているわけでもなく、あまり好きではないPTA活動であっても「これは意義がある。やるべきだ(=やることが保護者責任を果たすことになる)」と思えば自分の好き嫌いにかかわらず参加すると思います。
 「家の中を手芸品でかざったりクリスマスを盛大にやりすぎるのは好きじゃない」というようなレベルの話であって、それらが大好きだったり「家族のために必要だ」と考えている方たちと議論したり敵同士になりたいわけではありません。

たどころ:
 なるほどです。今の器が嫌いなだけであって、器の存在を否定しているわけではないと。

全体利益の為に、個人は少しずつ我慢したほうがいい?

たどころ:
 任意入会整備慎重派と、推進派との違いが、だんだん見えてきました。
まず、現状を容認できるものだと感じているか、耐えられないものだと感じているかの、感覚の違いが大きいような気がします。
 その感覚は個人的なものですが、それぞれの所属するPTAの文化の違いも影響しているでしょう。
 また、それぞれが少しずつ我慢をしてもよいと考えるほどに全体利益があると考えるのか、我慢するほどの全体利益はないと考えるのか、の違いもありそうです。

ぶきゃこ:
 そうですね。「我慢」や「全体利益」の感じ方の差異はあるでしょうね。
「我慢」で言うと、たとえば運営側から言ったら「たった月1回、2時間くらいの会議につきあうのがそんなにイヤ?」と感じられるかもしれませんが、平日だと会社員には現実むずかしい話です(会社員というのは状況のひとつの例としてあげただけで、会社員だけが大変だと言いたいわけでは勿論ありません)。
 ものすごく頑張れば出来なくはないでしょうが、ものすごく頑張ることで「我慢」の量は膨らむわけですよね。
 その我慢に見合う、「全体利益に貢献した」感があれば、人間やれるものですけど、「あんなにいろいろ調整した休みで切り出した時間で、この読み上げ会議とベルマーク集計!?」というふうに感じてしまうと、感想としては「つらい」と。笑
 逆の立場で言うと、運営側に立っていたりすると学校側や地域との交流現場に接することもあって「利益のあるものだな」と実感するのでしょうね。ただそのかわりに、会員をコマとして考えるようになりますから、個人個人のつらさは感じ取りにくいし、感じたとしても「この人数でそこまで配慮していられない」となります。
 そもそも、現行PTAにおいて運営側に立てる人というのは、時間的にもコミュ力的にも勝者が多いわけですから、起きてから寝るまで分刻み、みたいな生活とか、人前でできない理由を話させられるのが耐えられないとか、そういう感覚は共感しづらいと思います。
 結果、「ほんの少しずつの我慢じゃない?」と口に出してしまうし、実際そういうふうに会員を叱咤する会長というのも見ました。

たどころ:
 そうですね。それから、性格の違いもありますね。
 ぶきゃこさんは「PTAがなくなれば他の団体なり、寄り合いなり、LINEグループなり、学級保護者会なりがその機能を果たしていくでしょう」と述べましたが、この予測をみんなに信じてもらうことは難しそうです。
 慎重派には、現状を壊してしまうことによって起きる混乱を懸念する気持ちが強いと思います。推進派は「なんとかなろうだろう」と楽観的に考えているように見えます。

ぶきゃこ:
 私は推進派の代表ではありませんので、私の考えしか言えませんが、「なんとかなるだろう」とか「ああなるだろう」「こうなるだろう」という考え方はしないですね。「何もしなくてもうまく行くだろう」も思いませんし、同時に「PTAがなくなったら大変だ」という恐怖感もありません。
 PTAは会員でつくりあげていくものだし、その行方がどうなるかは参加者次第としか言えないのではないでしょうか。
 ただ私はちっぽけな人間ですから、「何がいいのか悪いのか」を全部、すべての人の状況と価値観を見て、総合的に判断できる力などもっていません。ですから、ものさしが必要で、それが法律だから、法の精神はまもるべきと考える人間です。
 ありとあらゆる法律を私がまもっているわけではありませんが、「人を入会させるときはきちんと説明して、その人の自由を尊重しないといけない」という法律を無視することで、現実的な被害を目にしていますので、「これはまもらないといけないな」という実感があります。ですから、何を議論するにしても「法律を守ってからがスタートだ」と思うのです。
 「任意にしさえすれば全部解決すると思っている」と私のような者をやゆする方もいらっしゃるでしょうが、私は「任意周知」がゴールだとはぜんぜん思っていません。単なるスタート地点だと思っています。
 任意性をしっかり周知することでPTAがぐらつくことがあるのであれば、保護者のみなさんも、「PTAはどっかでだれかが自動的に運営してくれている」ものではないということも再発見できるのではないでしょうか。特に現状、そういうとらえ方をしている父親は多いと思いますし。
 それぞれが、「我慢」で得られる「全体利益」を真剣に見直すかもしれません。
 またPTA護持派も、「全体利益」があるからといって個人の「我慢」を過小評価してはいけないし、それをゴリ押し強制すれば人が流出し組織の弱体化につながることで運営指標として視野に入れるようになるでしょう。「ほんの少しの我慢じゃないの!」と人前で会員を叱咤するようなことは、少なくとも「やっていい」という感覚はなくなるのではないでしょうか?
 「保護者や教職員が入会してPTA活動にかかわってくれること、毎年活動が一定量担保されること」は、企業で言ったら「売り上げ」にあたるでしょう。売り上げのみを追求し、社会的責任を無視する企業は非難され生き残れない時代になっていると思います。
 会の中においても、ブラック労働やパワハラなどの問題はすぐに拡散され共有される時代になっています。先見性のある会長さんのいらっしゃるPTAでは、もう対応しはじめているところです。
 保護者というのは基本的には子供を産み育てることにともなう責任をになうことをいとわない人びとで、だからこそ保護者という立場になっているのだろうと思います。
 保護者に「無理に参加しなくてもいい」ことが広くバレて、いちど運営がぐらついたら、もう二度と修復できないというほど、人間は荒れ果ててはいないし、「教師と保護者が協力し合って子どもの学校のためになにかをやっていこうよ」というモチベーション自体は、消えてなくなることはないのではないかな~と私は想像します。
 それは、強制的な運営をしてもただちにPTAが瓦解しなかった理由でもある、かもしれません。
 そういう意味では、「楽観的」はおっしゃる通りだと思います。

みんながやっていることだからやるの?

たどころ:
 もう一度話を戻しますが、ぶきゃこさんの言うところの「やらなくていいんなら、やらないわよ」という感覚は、かなり妥当だと思います。
 にもかかわらず、現行体制が続いているのは、「やらなきゃならない」と思い込んでいる人が多いからですよね?
 それは必ずしも、任意団体であることが周知されていないからではないと考えています。
 どちらかといえば、「子どものために」「学校のために」あるいは「世間体」で、やっておいたほうがいいと感じるからではないでしょうか。
 「子どもが人質」という言葉も聞きますが、言葉で脅迫されているわけでもないですし(そういう事例があることは否定しません)、
 「他人に悪く思われるのが嫌だからみんなと同じことをやっておく」というのは、半分は「自発的」に選択していると言えないでしょうか?
 実際、多くの保護者は、任意入会整備の推進にはためらいを見せます。
 結果として、現行体制を支持しているように見えるわけです。
 その意味では、「やらなくていいんなら、やらないけど、やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)」のほうがリアルではないでしょうか?

ぶきゃこ:
 そうかもしれませんね。それがリアルかもしれません。私には、わかりません。人の心ですから。それは、真に任意にしたとき、加入率がどれくらいになるのか私にはわからないのと同じように、わかりません。
 もし、おっしゃるような心の状態がリアルなのであれば、きちんと説明をして、申込書をとっても、PTAが壊滅するほど人が減ることはないのでしょうから、なんら「売り上げ」の心配なく、違法状態を糾弾されない状態にすれば良いのではないでしょうか?
 「やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)」が、任意化へのためらいにつながるという話はよくわかりませんでした。
 「やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)、そして自分だけがやるのはいやだ、人にもやらせたい」なら、「任意化へのためらい」になるのだろうなと思います。

たどころ:
 言葉足らずですみません。
 「やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)」の主語を、「自分」ではなく「みんな」と、とらえる人が多いのだと思います。
 主語が「みんな」だから、「よくわからないけど」、「みんながやっているから」、「やったほうがいい」と感じるのではないでしょうか。
 もし、主語が、個人的な「自分」だったら、「よくわからないけど」なんて、あいまいなままに動くことは少なくなるはずです。
 自分にとって、本当にこれはやったほうがいいことかどうか、考えて動く人が多くなるでしょう。
 このことで、「みんながきちんと考えてない」と批判することは容易ですが、そう簡単な話でもありません。
 日常生活を過ごしていくうえで「きちんと考えない」のは、誰にとっても当たり前のことだからです。
 たとえば、パスタを食べるときに、私たちは箸とフォークのどちらがよいか「きちんと考えずに」フォークを選びます。それが慣習になっているからです。
 人が動くのは、熟考の果てに、自分なりの信念を持ったときだけではありません。
そのような場合もありますが、日常生活で起こるすべてのできごとに対して、いちいち熟考できるものではありません。
 自分にとって重要度が低いことに対しては、周囲の人のまねをすることで、やりすごそうとするものです。
 たとえば、縁遠い親戚のお葬式に、何を着ていくか、香典をいくらにするか、お焼香の回数を何回にするか、熟考する人は少ないでしょう。
 たいていは、周囲の人にあわせて、無難に、相場通りに済ませるものです。
 それができるのは、みんなが同じようにやっているからですね。
 昔の日本の喪服は白色だったそうですが、「昔は白だったから、おれは白を着る」という方はあまり見かけません。
 また、昔の葬式では、喪服を着るのは遺族だけだったそうですが、「昔はそうだったから、弔問客の自分はTシャツでいいや、暑いし」という人もあまりいません。
 「お葬式から窮屈な儀礼を廃して、故人の喜ぶ服装を!」という運動もありだとは思いますし否定もしませんが、自分はそこまで「葬儀」に関心を持てません。
 もし、お葬式に来ていく服に、「故人の希望で、参列者それぞれが、自分らしい服で来てください」だったとしたら、何を着ていくか考える手間が増えます。
 それは、人によっては「仕事も子育ても忙しいのに、考える手間が増える」ことで、かえってストレスになるのではないでしょうか。
 葬式には、ブラックフォーマルを着ていけばよかろう、というのは、とても楽で便利な状況なのです。
 ところで、織田信長には、自分の父親の葬儀に、異装で現れて、焼香の抹香を投げつけたという史実があります。
 これは、信長としては熟考の末にあえてとった行動でしょうが、誰にも理解されず、多くの人の眉を顰めさせました。
 喪服や焼香にはじまる葬儀のマナーが、いつのまにか、みんなで力を合わせて葬儀をつくりあげるためのルールになっていたからです。

ぶきゃこ:
 なるほどです。
 思考習慣の違いを、みごとにあぶりだしていただいたような気がします。
 主語が特定されていないとき、そこに「自分が」をあてはめて考えるか、「みんなが」をあてはめて考えるか、思考のくせみたいなものかもしれませんね。

みんなで一緒にやりたいというのはだめなの?

たどころ:
 「自分だけがやるのはいやだ、人にもやらせたい」と表現すると、性格の悪い人のように見えますが、「みんなで力をあわせてつくりあげているのに、それを壊されるのは悲しいから、自由に動くのはやめてほしい」と表現すると、それほど悪い人には見えません。
 ですから、「やったほうがいいんだと思う(よくわからないけど)」は、容易に任意加入制度整備へのためらいにつながります。
 「できない人」を除外するのはいいとして、「できるのにやらない人」を放っておくのは「よくない」という、素朴な「気持ち」を、どのように扱えばよいとお考えでしょうか?

ぶきゃこ:
 うーん、難しいですね。
 私はそういう素朴な「気持ち」を、全体主義だと思ったり、女性蔑視から来るものだと思ったり、(「できない人」なのかどうかを)審査できると考える傲慢さだと考えたり、他人への尊重を欠いたものだと感じたり…というような感想を日々書いている者ですので、そういう真逆の考え方(野放しは良くない)をどのように扱えばいいかと言われると、もう「けんかしないように棲み分けるのがいいのでは?」としかならないですね。世の中、合わない考え方というのはたくさんありますし。
 ところが、野放しは良くない的な考え方はその「棲み分け」自体を否定する考え方なわけですから、共存しようがなくて、もう感想として「困ったな」しかないという…笑
 他のコミュニティにくらべると、PTAだけが特に、作為的に同調圧力を仕組まれているような気もしますしね。
 ただ、その素朴な「気持ち」が、個人個人の熟考の上の信念というよりは慣習から来るものであれば、慣習が徐々に変わっていけば変わっていくんじゃなかろうか。という思いもあって、まずは慣習をはじっこから壊す(退会)ということを私はしたんでしょうし、同じ気持ちで退会をされる方というのは徐々に増えてきてるんじゃないかなと思います。
 その過渡期において、「迷惑行為」よばわりされることが起きるのは一定しかたがないのかもしれませんね。

たどころ:
 誤解を恐れずに言えば、明らかな「人権侵害」や「嫌がらせ」、「いじめ」は別として、PTAの側には「学校に多少の協力をするのは、学校に子どもを通わせる保護者の義務」という考え方があると思います。
 「学校」を「地域社会」に言い換えれば、「自治会」の考え方にもなります。「義務」という言葉は「できない人」を追い詰めるので、「した方がいいもの」と言い換えてみましょうか。それでも、そのような共通了解があるという本質は変わらないと思います。この考え方は間違っているのでしょうか?

ぶきゃこ:
 「した方がいいもの」という漠然とした考え方が間違っているとは思いません。それを運用するにあたって不具合が起きているだけですので。個人個人によって「した方がいい」の濃淡はあると思いますが。
 ただ「保護者は○○した方がいい」という命題を考えるとき、「保護者」のイメージにゆがみはないか、再検討は必要ではないかなと思うことはあります。
 例ですが、PTAの会議をいつやったらいいか?と考えるとき、「専業主婦と兼業主婦のせめぎあい」みたいになるのは変だなあと私は思うんですよ。
 「保護者」の範囲に男性が入ってたら、ふつうは、比較的都合が付く人が多いのは週末、ってなりませんかね。「保護者はPTAの会議にできるだけ出た方がいい」と本当に思うなら、週末にやろうってなるんじゃないかなと思うんです。
 新車の試乗会を平日にやるディーラーっています? 飲食店も(ビジネス街を除けば)週末が書き入れ時だし、スーパーの売り出しだって、週末をはさまない設定なんかあまりないと思うんですよ。成人がいちばん集まりやすいのは週末だ、っていう社会の常識とずれてくるのは「保護者」のイメージにゆがみが生じてるからなのかな。と思います。
 保護者だけではなく「会員」のイメージもそうです。そもそも教師とのアソシエーションなのに授業時間中にやるのは、教師にとってアンフェアではないか?という疑問が呈されないのも、ある意味面白く思っています。
 「基本理念は間違ってないけど、解釈と加工と運用に現状では(未必の故意かもしれない)ミスがある」とは言えるかもしれません。

たどころ:
 昔は、専業主婦の女性が多かったけど、いまは働いている母親も多いのに、PTAは昔ながらの運用でおかしいという話ですね。仰るとおりです。
 ただ、運営側も神様じゃないのだから、何でも最初から完璧にはできません。いまは、少しずつ改善が行われている状況だと思います。役員へのメールでも、保護者同士の会話でもよいので、声を上げ続けなければいけませんね。
 次回(4)で終わります。

PTAの全員入会について、保護者同士で議論してみた(2)~PTAのいいところ

2016-06-26 09:44:33 | 日記
 前回(1)に引き続き、全員入会と任意入会について、論点整理のためのディベートを行っています。

これまでの慣習を尊重する必要はない?

たどころ:
 私のブログで、慎重派のPTA会長Sさんにインタビューしたのですが、これに対してぶきゃこさんは、ブログで次のような感想を書いてくれました。
―――
同じ記事のなかに、田所さんによる
“「PTAは入会が当たり前」という言葉も、「PTAは任意が当たり前」という言葉も、どちらも話し合いを拒否しているという意味では似ている”
という言葉もある。
そこ、同列に並べますか?
「PTAは入会が当たり前」は個人の主義嗜好の域を出ないが、「PTAは任意が当たり前」はまぎれもない事実である。事実を述べた言葉のどこが、誰との「話し合い」を拒否している言葉なのか、こんどたどころさんに尋ねてみようかなと思った。
―――
 事実と意見を同列に並べてはいけないとのご意見ですね。
 この疑問に対して、回答します。
 「PTAは任意が当たり前」が事実であることは確かですが、「PTAは入会が当たり前」が個人の嗜好であるかどうかには疑問が残ります。
 それをいう人は「個人の嗜好」だとは考えていないでしょう。
 法律に、成文法と慣習法の区別があるように、長いこと続いてきた慣習は、しばしば人に、その慣習が法律であるかのような感覚を起こさせますし、実際に法律に準ずるものであるとの扱いを受けることがあります。
 「PTAは入会が当たり前」を、個人の嗜好ではなく事実に近いものだと感じる人が数多くいる以上、「話し合い」の必要はあると思います。

ぶきゃこ:
 はい、確かに慣習は法律に準ずるほどに、人の行為を根拠付け、それを裁判所も認める場合はあります。
 なにかの行為が社会の慣習である場合においてそれに個人が異議を唱えなければ、その慣習を「ルール」として受け入れた、とみなされる場合もあります。
 そこの部分はグレー…というか人間社会においてはグレーのほうが多いのでしょう、きっと。
 身近な例で言うと、私の実家の土地の一部に、隣人が無断で砂利を引きロープをはり看板を設置して、駐車場として利益を得ております(笑)
 そうなってから何十年も経つのですが、固定資産税は私の親が払い続けています(爆笑)
これ、東京でやったら勿論大問題だと思うのですが、親はあきらめています。田舎でその状態を「法的解決」したら、QOL(生活品質)が下がるからです。
 そしてここまで来てしまうと、隣人も所有権を主張できる状態になっていると思います、たぶん。法律が慣習を追認するような感じでしょうか。
 ただ、PTAの強制加入・自動加入を「慣習法」で解釈するには、大きな問題があります。
 法治国家においては慣習が明文で保護される権利を侵害してはならないということです。
 慣習が公序良俗や法律によって守られる権利を抑制する判断は、あってはならないと思っていますし、これは私の個人的な理想というよりは、現実的にそういった判決は私の知るかぎり非常に少ないですし、それが法的秩序だと考えています。
 もちろん、私は一般人ですからニュースや判例集などで出てくるものしか知らず、そもそものデータベースが非常に狭小なので、ここらへんはもし記事を読まれた専門家のかたから助言がいただけるのなら是非うかがいたいと思っていたところです。

たどころ:
 慣習だからPTAの自動入会が認められると主張しているわけではありません。
 慣習だと思われている場合には、理詰めでの説得はたいへん難しいですし、「法律」を盾にしても相手を心から納得させることはできがたいので、別の表現方法が必要だろうと考えているのです。

慣習が正当化されるならセクハラも許される?

ぶきゃこ:
 「PTAは全員入会が当たり前」は、「(自分たちのみの慣習から来る)思い込み」「強い願望」の域を出ないです。
 そのような「思い込み」「強い願望」が往々にして存在するのが社会であることは認識していますが、それを「慣習法という法もあるから正当性がある」とは思いません。
 たとえば、日本においては長い間、「可愛い女性のお尻をタッチするのはコミュニケーション」とか、「触られたり、彼氏のことでからかわれたりしてるうちが花」とか、とんでもない「セクハラ正当化」の文化がありました。
 そういったことに異議を唱える女性を「オールドミス」などとからかう文化さえあったのです。文化というよりは悪習でしょうか。
 PTAの強制加入・自動加入を「慣習法」で正当化しようとする方は、セクハラ行為も「長年の慣習」で正当化されますか?
 だれかの権利侵害をしている状態は、是正されなければなりません。
 これは明確に結論の出ている話であり、「いや権利侵害側の思いはどうこうで、真実や善悪は人それぞれ」などと、いちいち軸をぶれさせるような議論ではないと私は考えます。

たどころ:
 ぶきゃこさんは、セクハラの慣習とPTAの自動入会とが、同じような人権侵害にあたると考えておられるのでしょうか。なかなか過激な意見ですが、ぶきゃこさんにとっては、どちらも同じくらい不快ということであれば、きっとそうなのでしょう。
 「私はPTAなどという団体に入会しない権利がある」というのも、思想信条の自由の観点から、仰るとおりだと思います。
 しかし、誤解を恐れずに言えば、人間が社会を営むうえで、まったく強制がない状態はありえないのではないでしょうか。
 言ってみれば、法律だって一種の強制です。
 子育てだって、朝起こしたり、宿題をやらせたり、風呂にいれたり、寝かしつけたり、強制だらけです。
 優しく誘導して、本人の自発的意思が芽生えるまで根気強く諭していけば、強制にあたらないのかもしれませんが、自分自身が子育てにおいて、100%完璧にそうできてきた自信はありません。
 そして、親が子どもを学校に行かせる就学義務も、法律による強制と言えませんか。

保護者の学校へのかかわりは義務なの?

ぶきゃこ:
 仰りたいことは、よく分かります。
 私の理解で言うと、「人が人に強制することが可能になる条件」というのは、以下の2つのいずれかと感じています。
①国家への所属そのもの
②弁識・判断能力が独立して権利行使するに不十分であると国家によって認定され、社会秩序のために権利が制限された状態にあること
 具体的に言えば、①は納税などの義務を課せられるが自由意思のみでは所属国家変更の手続きができない状態。
 ②は子ども、被後見人など、精神障害者、保護観察者、拘置者、収監者、などでしょう。
 身近な例で言うと、親は子どもに対する「しつけ権」があると考えられていますので、暴力を振るうなど著しく逸脱した状態でなければ、子どもの行動を制限しても「権利侵害」と非難されることはありません。
 PTAはどちらのケースにも当たりません。

たどころ:
 親が子どもに教育を受けさせる就学義務は、日本国に所属することで不可避的に強制されるものだと思います。
 その就学義務を拡大解釈したさきに、「子どもの幸福のために、保護者同士の組織化が必要」だとする考えが生まれることは、何となく理解できるでしょう。
 それが現行のPTAである必要があるかどうかはさておき、このようにして、自動入会は「やむをえない」ものだと感じる人がおおぜいいるわけです。

ぶきゃこ:
 はい、「拡大解釈を許容すれば理解可能」「そう考える人がおおぜいいる」どちらも同意です。

たどころ:
 その結果、現在の「とりあえずみんなに入会してもらう。どうしても辞めたいという人にだけ退会を認める」状態ができているのではないでしょうか。
 これに対して「任意団体なのだから、加入したい人だけ加入させよ」との主張は、当初はギャップが大きくて、なかなか話し合いにならないと思います。
 まず、両者の間をとる中間地点をそれぞれが探るべきだと思うのですが、いかがお考えでしょうか。

ぶきゃこ:
 「話し合いになる」とはどういう状態なのか、「中間地点を探る」とはどういう目標なのか、今のところのみこめないでいます。
 「ジャッジ」は第一義的には法律によってなされるべきであり、「中間地点」がよい地点(=フェアな地点)、とは思えません。
 たどころさんと私の「べき論」が異なるように、他の人には他の「べき論」があります。
 それらを整理するために、(慣習法も含めた)法律があるのであり、「当事者であるなら妥結を模索するのがQOLを上げる手段の一つ」という話であれば分かりますが、「当事者である以上、妥結を模索する責任がある」とは思いません。
 それは、「お尻にタッチされたくなければ、女性もセクハラしてくる人と話し合いを持つべきだ」と主張するのに似ている気がします。
 以上は、利害関係の相反や権利侵害が発生したときにどのようにジャッジされるべきか、という話であって、人が社会で生きるにあたって「許容する」「対話する」ということが非常に大切であると考えている点では、たどころさんと私は同じなのだと思います。
 逆に言うと、PTAの強制入会・自動入会は、「許容」にも「対話」にも逆行する「反社会的行為」であると私は認識している、ということになります。

任意加入と全員加入の中間地点はあるの?

たどころ:
 法律で白黒つけたいのであれば、裁判所に訴え出ればよいのですが、そんなことになる前に「話し合い」で解決できるなら、そのほうがよいと思いませんか。
 QOLを上げるための手段の一つとして、話し合いが有効なのであれば、その手段を使ってみてもよいと思うのです。
 たとえば、「会員数(会費)を減らしたくないから、ある程度の強制はやむをえない」、という考え方があるとしましょう。この場合、その強制が「どの程度」であるのかで、交渉の余地があると思います。

ぶきゃこ:
 お考えは大まかですが分かりました。
 たどころさんが仰っている「話し合い」とは、どのようなイメージのものでしょうか?
 「入会が当たり前」派と「任意が当たり前」派が、どういった場で、最終的にどんな妥結をめざして「話し合う」ということを指しておられるのでしょうか?
 「会員数を減らしたくないから、ある程度の強制はやむをえない」という考え方における「強制」の意味するところは、「入会させること」であり、「0(入会を強制しない)」か「1(入会を強制する)」かの話ではないのでしょうか?
 強制の「程度」というのは、どういう各段階を指していますか?

たどころ:
 そもそも「強制」とは何かといえば、辞書的な定義では「権力や威力によって、その人の意思にかかわりなく、ある事を無理にさせること。」ですね。
 現在、多くのPTAにおいて、退会が暗に認められていることをかんがみれば、それはすでに「強制」ではないということもできます。
 おそらく、入学の時点で「入会しません」といえば、会費が一度も引き落とされることなく「未入会」となるPTAも多いことでしょう。
 「0(入会を強制しない)」か「1(入会を強制する)」でいえば、非会員の存在が目立つようになってきたように、現在のPTAは、ただ入会手続きを自動化しているだけで、入会を「強制」できていないと思います。
 PTAではなく自治会の話ですが、面白い事例があります。朝日新聞の報道によれば、長野県小諸市は条例で自治会への加入を明文化しているそうです。
――
小諸市は自治基本条例で「本市に住む人は(中略)区へ加入しなければなりません」と定めていました。「区」は自治会のこと。加入は任意のはずなのに……。市企画課に聞くと「理念を決意として表したもの。義務というわけではありません」という説明です。(中略)同課は「個人の思想の自由には踏み込めない。加入していただきたいが、強制はしない」と話します。未加入への罰則規定はありません。
――
 このケースでは、条例に「加入しなければなりません」と明文化しつつ、市職員は「強制はしない」「義務というわけではありません」と説明しています。というのも、罰則がない以上、実質的に「強制」ができないからです。
 現在のPTAもこれと同様、「強制」とは言いきれないところがあります。
 しかし、何も異議を申し立てなければ、ほぼ自動的に入会となることを「強制」と感じる人もいます。実際、「入会は当然」と考えている人も少なくないでしょう。
 では、入会申請書を整備すればよいのでしょうか。
 たとえ、入会申請書だけがあったとしても、それはあくまでも手続き上の問題で「入会は当然」という概念はなくならないのではないでしょうか。
 実際、入会申請書を提出させるPTAでも「入会しない」という選択肢がなかったり、任意団体であることの説明が不十分だったりすることはよくあります。
 逆に、入会申請書はなくとも、退会申請書を配ることで、強制性を緩和しているPTAもありえます。
 このように考えてみると、「0(入会を強制しない)か1(入会を強制する)」とは、とうてい言えないと私は思います。
 物事には順番があります。いきなり入会申請書の整備までは難しくても、「任意団体であることを十分に説明する」とか「退会の自由があることを周知する」とか、QOLをあげるためにできる中間段階はいくらでもあるはずです。
 ですから、それぞれのPTAの段階と、執行部の理解にあわせた話し合いが必要ではないかと考えています。
 もちろん、中間地点にいつまでもとどまるのではなく、長期的にはぶきゃこさんの言うように、完全に入会申請書が整備された状態になることが理想ですが、いきなりそこを目指して挫折する人が多くいるようなので、最初の目標の設定は中間段階がよいと思うのです。
 以上は「入会」についての議論ですが、別の意味での中間段階もあります。
 さきほど、ぶきゃこさんが、PTAへの入会とセクハラを同列視したのは、PTAに入会すると奉仕労働の強制があるからではないでしょうか。
 しかし、厳密にいえば、入会と奉仕労働と会費徴収とは、イコールではないはずです。
 入会は自動であっても、奉仕労働はお願いするだけで強制はしないというPTAもあります。というより、さきほどの「強制」の定義に従えば、現状で「強制」と言われているものの多くは、「お願い」でしかないのではないでしょうか(中には「高圧的なお願い」もあるかもしれません)。
 私の知っているとあるPTAは、入会申請書もなく、任意団体であることの説明も十分ではありません。
 その代わりに、毎年、全員に何らかのお手伝いをお願いしていて、どのお手伝いに参加するかを選択して提出する届出用紙があります。これによって会員を把握しているので、学校からの名簿の流用はないそうです。
 もちろん、この届出用紙を提出しない人もいます。それらの方に対して、さらに連絡をとることも、基本的にはないそうです。つまり、お手伝いを「お願い」しているけれども、強制はしていない状態です。このような状態も、はなはだ不十分ながら、一種の「中間段階」ではないかと考えています。
 
ぶきゃこ:
 「強制の程度」についての解説をしていただきありがとうございました。仰ろうとなさっていたことがよくわかりました。
 はい、そういう意味でしたら、中間段階として「プリント文言の表現をやわらげてほしい」とか(ボリューム的に、強要の発生機会を減らすために)「必要性の低い業務をカットして欲しい」というような話し合いは、あってもよいと思います。
 「話し合う場」をつくるのがなかなか難しいのが現状ではないかと思いますが、中間段階を目標に据えることは良いと思います。
 また、例にあげられたPTAのように、自動加入ではあるものの実害が少ない、という段階をとりあえずめざすのもひとつのやり方ではあると思います。
 ただ、自動加入=全員加入すべきもの、という根本認識をただす機会が年に一度でもいいからないと、「義務よね」と暴走していってしまう傾向にあると思っていますので、そこのストッパーが属人的であると危険だなとは思います。
 特に母親は、「我が子可愛さ」や「ずるい」や「母親はこうあるべき」の感情が頭をもたげやすく、暴走してしまう方が残念ながらよく見受けられるのが現状です。
 PTAがはじまったころには、誰も強制的な無償労働組織にしようとは思っていなかったのではないかと想像するのですが、イメージの共有の失敗を重ねてきた結果が、今のような「PTAの話をすれば悪口で盛り上がる」ような状態なのではないかと考えています。

任意入会の自治会は理想的な運営になっているの?

たどころ:
 そうですね。PTAの理念自体に反対する人は少ないのに、運営や活動があまりよく思われていないのは、どこかで運営と会員の思いとが、ずれてしまったのかもしれません。
 あくまでも個人的な印象ですが、自治会はPTAと比べたときに、悪口を言われることが少ない気がします。ゴミ捨て場の清掃、街路灯の整備、落ち葉拾いなど、恩恵が目に見えるからでしょうか。強制入会ではなく、入退会の自由があることもその原因の一つでしょう。
 この自治会・町内会には、民生委員というものがあって、独居老人の見回りをしていますし、生活保護へのつなぎ役も果たしています。PTAが同じように、生活保護世帯や被虐待児を助けているかどうかは寡聞にして知りませんが、同様に、恩恵のわかりやすい団体になることもできるのではないでしょうか。

ぶきゃこ:
 民生委員は法律に基づいた国からの委託ですので、自治会・町内会の功績ではないですしその存在意義を補強するものではないと考えます。
 自治会・町内会の会員だけが民生委員の訪問を受けやすいとか生活保護受給につながりやすいルートを持っているとしたら問題だと思います。

たどころ:
 民生委員はもちろん、国の事業であり、町内会の会員だけにサービスするものではありません。 しかしながら、昨今、どこの自治体でも民生委員の成り手がおらず、自治会や町内会の役員が必死になって「お願い」をして回って、ようやく、成り手を探してやってもらっているのが現状です。
 民生委員という有益な制度が、破綻することなく存続しているのは、自治会・町内会の功績だろうと私は考えています。PTAの活動に意義があるかどうかはおいといても、成り手を探して「お願い」することがいちがいに悪だとは言えないような気がします。

ぶきゃこ:
 まず、「成り手があらわれないのは何故か」ということを検討せずに、「成り手を得るためにがんばろう」だけを考えるという思考様式が私にとっては馴染みにくいです。
 人は、モチベーションをもった時がもっともパフォーマンスを発揮するのに、「とにかく役職に成ってもらえばいい」とそこをゴールにして「強烈なお願い」という手段をもちいることが私にとっては馴染みにくいです。
 もはや、「お願い営業」の時代ではないのに、いつまでも努力も勉強もしようとしない「昭和社員」のように感じられますね。
 民生委員がそんなに重要なポジションなのであれば(「民生委員なんかどうだっていいだろ」という揶揄ではないのでそこは斟酌下さい)、なぜ、「報酬」を正当に払わないのでしょうか?
 民生委員は、確かに有益な制度でしょうが、「必死にお願いして押し付けて存続させる」のが正しいあり方なのでしょうか? きちんと「雇用」すべきなのではないでしょうか?
 「べき論ではなく、今まではそうだったのだから、自治会や町内会を否定しないでください」という話なら理解はしますが、それも単に「功績」と賞賛できるものなのか、はなはだ疑問です。
 自治会や町内会がそれを実現してきたから、自治体がこれまで「きちんとした報償の必要性」を感じずにやってこれてしまったという負の効果もあると思います。
 当地には市有の集会所があるのですが、そこの管理人は市が自治会や商店会を通じて商店主などに依頼しているのですね。その集会所に関する情報は市のHPに載っていて、「使用ルールや申し込み方法など詳細は管理人までお問い合わせください」となっており、管理人名は商店の名前になっています。
 あるとき私が電話したところ、「あのね、電話でいろいろ聞かれちゃあね、やってられないんすよ! うちだって商売してるんだから、お客さんの相手が優先でしょ? 商店会のあれで、仕方なく引き受けてるだけだし、店に直接きてくれれば申込書に書いてもらうけど、電話でいろいろ聞かれるのはほんと勘弁してくんないかなあ!」と怒られたんですね。
 この顛末を市に言ったところ、管理人が「○日は○○商店、△日は△△商事」というふうに分かれました。あいかわらず「詳細は管理人までご確認下さい」となっています。根本的な解決になってるのか? と疑問です。
 そういった個人的な体験から言っても、「民生委員の成り手を探すことができているのは自治会の功績」という考え方には非常に馴染みにくいものを感じます。
 地域コミュニティは簡単に離脱することができない「しがらみ」であり、構成員にとっては「人的・環境的資産」と言ってもいいでしょう。
 それを逆手にとって、市の委託業務を無償(もしくは些少な手当て)で引き受けざるを得ない状況にすることが、はたして「フェア」なのか。私にはどうしてもそういうあり方が、「自治でまちづくりができている良い社会」とは思えないのです。
 なぜなら無償労働義務がセットになれば、コミュニティ自体の瓦解にもつながるからです。「役員や当番が出来なくなった」高齢者が自治会を脱退してしまうなどのケースを見ると、「ほんとうに本末転倒だな」と思います。

たどころ:
 そうですね。お金がないから自治会に任せてしまえという方向性には限界がありますね。ただし、税金をもっと徴収して公務を増やすのか、地域コミュニティを育ててボランティアを増やすのかのどちらが良いかは、また別の議論が必要です。

ぶきゃこ:
 確かなのは、「担い手が減ったら困るから自動的に入会させてしまえ」が正当化されることはないということです。

「お願い」をすることも「強制」になるの?

たどころ:
 話は戻りますが、たとえ、それが「お願い」であっても「強制」と感じる人はいます。実際、ぶきゃこさんの体験にあるように「どなたかやってください!」という高圧的な「お願い」が、不愉快に受け止められることは確かです。
 セクハラの定義に従えば、「お願い」された人が「強制」と感じれば「強制」なのかもしれませんが、その白黒は、ジャッジできないでしょう。
 「一度断ったのに、再び誘われた」ことで腹を立てる人もいますが、全員に声をかけても誰もOKしてくれないから、やってくれそうな人にまた頼んでみることは、PTAに限らずよくあることです。
 これは、ぶきゃこさんの体験のように、お願いする方もされる方もストレスですが、そのような事態をすべてなくすことは、現状では難しいでしょう。

ぶきゃこ:
 はっきりとジャッジはできないでしょうし、同じ文言でも強制と感じる人と感じない人がいますから、そこのルール決めが必要だとは思いません。
 それはそれこそ、「内部で話し合えば良いこと」だと思います。
 ただ、PTAの任意性を忘れないようにすることや、PTAの会員対象者に対する圧倒的な優位性(子どもが通っている学校にある団体だということや、抜けたらQOLが下がることなど)を利用して強要することのないような倫理共有がないと、人権侵害が起きると思います。
 日常では「普通に思いやりのある人」でも、「PTAは義務よね」と思い込んだら、「人に対してなにをどこまでしてもいいか」というものさしは簡単に狂います。いわゆる「アイヒマン実験」です。「自動加入」は、「疑似義務意識」を生み、参加者の正常感覚を狂わせるのです。
 「気が進まないけどお願いされる」という事態をすべてなくすことはできませんし、そういうモヤモヤも含みながら生きていくのが人間だと思います。
 「自動入会は正当化できない」ということは結論の出ている話だ、というと、「人生そういうことだってあるじゃないか」というふうに仰る方もいらっしゃいます。
 しかし私は、「そういうことがある」が何度繰り返されたとしても、「だからあってもいいのだ」とは思いません。
 そして、高校PTAの案内プリントにあった「全員加入をもとに運営してます!全員同意書を出してください!」よりも、小学校PTAの案内プリントにある「お子さんを入学させたあなたは、本日からPTA会員になりました」のほうが、現状においてははるかに悪質だと感じています。

たどころ:
 お話はよくわかります。
 全員が参加するものであると考えられていると、何らかの理由で参加できない方に負のスティグマが刻まれて、本人も気が引けるし、他の人も「あの人はずるい」と考えがちなので、任意のボランティア活動であることを周知徹底しなければならないというご意見ですね。
 その点について、異論はありません。まったく同感です。
 しかし「あの人はずるい」という気持ちを、理屈で押さえつけることは難しいと思うのです。そちらの気持ちも保護者の声として拾っていった結果が、現状の全員入会なのかもしれません。
 ところで、PTAで、保護者の自由意思に任せていると、なかなか成り手が見つからないというとき、その「仕事」を廃止することが唯一の正解なのでしょうか。

ぶきゃこ:
 唯一の正解とは思いません。いろいろなアプローチはありうると思います。そのような困りごとの解決を模索し合うこと自体が「PTA」だ、という考え方もあるでしょう。ここで「代案を出せ」という話ではないですよね?(笑)

入会の任意性よりも活動の任意性のほうが大事?

たどころ:
 今回、メインの話題は、入会の任意性なのですが、入会が任意であっても、活動が任意であるかどうかはまた別問題です。
 自治会の民生委員の例でもあげたように、役員の成り手を探すには、どこかで、強引な「お願い」が出てきてしまいます。
 ぶきゃこさんは「任意」で「入会」した人同士なのだから、「内部で話し合えば良いこと」だと仰いますが、PTAでも自治会でも、任意であっても「何らかの責任を感じて、たぶん入会したほうがいいんだろう」という程度の意識で入っている人はたくさんいます。
 任意で入会したからといって、全員が全員、やる気にみちあふれているわけではないでしょう。
 任意入会を推進する方は、「誰もがやる気のあるボランティア団体」を理想としているようにも見えますが、それはあまり現実的とは思えません。
 おそらく「みんなが入っているから入る」人がおおぜい出るでしょう。そうなった場合に「退会したい人だけが退会できる」現在のPTAとの違いはどれほどあるのでしょうか?

ぶきゃこ:
 これはなかなか興味深いご質問です。確かに、自発的に選択できる方ばかりではないと思います。結果的に、現在とあまり変わりないのではないか、という指摘もわからないではありません。
 しかし、「なにがあたりまえか」の原点の共有が違う、ということは大きいと思います。
「保護者はPTAには入るもの」という共有認識はあまり変わりないかもしれませんし、私自身はそれでもかまわないのではないかと思います。
 ただし、「任意なので加入しないことも可能です」と明確に説明するかどうか、その認識が普遍的であるかどうかは非常に重大だと思います。
 なぜなら、PTAは現状、学校や教委に大いに利用されており、上部団体や地域とのしがらみも出来てしまっていて、「容易に強要を生みやすい現場」になってしまっているからです。
 会員の意識の中に「そうは言っても本来任意のものだし」というストッパーがあるのとないのとでは、ぜんぜん違うと思います。

たどころ:
 そうですね。「本来は任意である」という意識は全員に必要だと思います。
 PTA改革の事例として有名な、大田区のPTOは、改革を通して会員の意識を高めたことがすごいのであって、ただ任意にしただけで同じような団体ができるとは思えません。
 また、そのPTOでも、現状、わずかでも活動に参加している保護者は6割という話を聞きましたが、10年後には、組織も仕組みも形骸化して、会員の意識が低くなった結果、活動そのものがなくなる可能性もないとはいえません。そうなったときに、やっぱり全員参加のPTAのほうがよいよねという意見が出てくることも考えられます。
 何が言いたいのかといえば、入会の任意性よりも、どちらかといえば活動の任意性のほうが重要ではないかということです。
 入会は全員にしていただきますが、活動してもらうかどうかはまったくの自由ですというPTAと、入会は任意ですが、入会した以上、活動の負担は公平に割り振りますよというPTAがあった場合、前者のほうが好ましいと感じます。
 なぜならば、「みんなと同じ立場でいたい(入会はしておきたい)けれども、活動するような余裕はない」という人のほうが、「自分で選択できない組織への勝手な入会は気持ち悪い」という人よりも多いのではないかと感じるからです。

ぶきゃこ:
 会の性質上、より多くの保護者がつながれる場にすることは大切だと思いますので、入会が任意かどうかはさておき、「公平・平等を称して活動を強要しない」ということは重要かと思います。
 ただ、前年踏襲やしがらみ関係で、やらなければならないとされている業務が迫っているとすれば、それをこなしていくより、やめる段取りをする方がはるかにパワーが必要です。
 「結局やらないわけにはいかない」状況の中で、「強要しない」は現実むずかしいと思います。
 「入会の任意性を大声で言いづらい要因」と、「活動を強要することをやめづらい要因」は同じなのではないでしょうか。お金の問題もありますが。
 ですから、「入会の任意性と活動の任意性とどちらがより重要か」という議論を深める必要はそんなに感じていません。
 現実問題として、「もう、親はみんな、会員ってことで良いよな!」というような入会のあり方でも、それ自体にそこまで目くじら立てなくてもいいような社会が本当はいい、と私が考えていることは事実です。
 本当は、そんなことでもめたくないんですよ。瑣末なことでギスギスしないのが、いちばん子どものためになると思います。
 ただ、残念ながら現行PTAモデルはそういう保護者社会をつくることに失敗していると思いますので、「自動入会のところはいじらずに、活動を強要し合わないってことでみんな頑張りましょうね」では、変化に限界があると思います。

任意入会にしなければPTAは変わらない?

たどころ:
 大きな変化は、それまで、まがりなりにも安定していた状況を変えてしまうから、リスクが大きい(やりたくない)との意見もあります。それで失敗した場合に、取り返しはつくのでしょうか?

ぶきゃこ:
 失敗したら失敗から学ぶほうがいいと思います。
 「自分にとっては勝手に会員になってようが、子どもの情報つかわれようが、大したことじゃないんだけども、よその家庭に対してはきちんと礼儀を守った方が良いんだ」ということを戦後のPTA歴史から学ぶと良いのかなと。
 先人がそれなりにがんばって考えてきた仕組み、を尊重することも大切ですし、そこで現実に起きていることを見ながら、振り返るべき点は振り返ったほうがいいと思います。
 ただ、私が「失敗」と呼ぶのは人権侵害が起きているという点からの評価であり、「毎年一定の量と質の活動が全員参加によって担保されてきた」ことを「成功」ととらえるかたもいらっしゃることでしょう。
 また、自動入会がよくないのは必ずしも「強要につながるから」だけではありません。「無断で合同行為に組み入れられるのは人権侵害」というのは、何度言っても言い足りないと思います。PTAがやらかした行為には、各会員が責任を負わねばならないのですから。
 自動入会を肯定するわけではなくても行きがかり上、そういう運用をするのであれば、「本当はよろしくないことだし、原理的にインモラルである」ことを理解した上で運用をすることが必要だと思います。
 ここを認めて共有しないと、まれに入会したくない人が出たとき、「そうですね勝手に入会ということにしてすみませんでした」ではなく、「そんなことで文句言うなんて、親がPTAに入るのは当たり前でしょ!?」などと返す会員が出ることになり、悪質性が高まります。

たどころ:
 そうですね。もちろん、入会も退会も活動もまったくの自由ですよという組織であることが最もよいです。
 意識の高いリーダーがずっといてくれる組織であれば、それは可能ですが、毎年人が交代するPTAで、現実的に可能でしょうか。
 現状のPTAの仕組みは、ベストとはとうてい言い難いですが、先人がそれなりにがんばって考えてきた仕組みなのではないかと思います。
 「入会」した以上、「活動」はしてもらいますよ、という組織は、現状のPTAと同じで、なかなか辛いと思います。
 私自身の考えを簡単に述べると、とりあえず入会は任意でなくてもよいから、活動が任意であるような組織がよいのではないかと考えています。
 そんなことが可能なのかといえば、実際に、読書ボランティアや、おやじの会は、やりたい人だけで回っているのですから、PTAの活動も、小分けにして、やりたい人だけのボランティア組織にアウトソーシングするかたちにすればよいと思うのです。
 現状のPTAはいろいろな役割をもっていて、どっちつかずになって、あちこちから不満が出ているので、いろいろな活動を切り分けて、それぞれの活動ごとにやりたい人を募集するような仕組みにしたほうがいいような気がします。
 やりたい人が集まらないような活動は、思いきって「事業仕分け」する勇気が必要なので、それはそれで大変な改革ではあるのですが。

ぶきゃこ:
 はい、いろいろな役割を持ちすぎて、「どんな機能の団体なのか」を説得力を持ちづらくなっていると思います。
 学校評議員会、学校運営協議会、健全育成委員会、次世代育成協議会、など類似ミーティングの乱立も「なんなんだ」感がありますし、それらを官主導でやってPTAが下請け団体になってしまっている地域もあると思います。
 私が「PTAは必要か不要か」という議論にあまり興味が持てないのもここで、PTAがなんなのかが明確でないし各地で異なっている以上、そうした議論はあまり意味はないんじゃないかと思うゆえんでもあります。
 むしろPTAが現在持っている、これから持ち得る機能を整理仕分けして、「その機能が必要か不要か」という話をした方が手ごたえがあるような気がしています。
 そういう意味では、たどころさんのお考えと私のそれには共通点があるようです。
 ただ仰る通り、大変な労力になりますので、なかなか簡単ではないと思います。次回(3)に続きます。

PTAの全員入会について、保護者同士で議論してみた(1)~PTAの嫌なところ

2016-06-23 03:05:21 | 日記
なぜPTAは、なかなか変わらないの?

 2016年もPTAが話題になっています。大きな理由は1億総活躍国民会議の民間議員である菊池桃子さんの以下の発言です。
「PTA活動、もともと任意活動であった。しかし、なぜか、すべての者が参加するような雰囲気作りがなされていると。その中で、なかなか働くお母さんたちにとっては、PTA活動っていうものが難しいと。」(産経新聞3月25日)
 ここで言う「任意活動」というのは、活動するのもしないのも自由という意味ですが、実際の学校現場では、すべての保護者が自動的にPTAに加入し、活動への参加も、半ば強制的に割り当てられていることが多いのです。
 任意と強制の問題について、私は何人かのPTA会長さんにお会いしてお話をうかがってみましたが、なかなかすっきりとした話し合いにはなりませんでした。基本的には任意であるし、強制したいとも考えていないけれども、現状で問題は起きていないというのが多くの共通認識でした。
 このように、実際にPTAの運営に携わっている人の多くは、任意入会制度の推進に対して慎重な姿勢を持っています。この人たちを任意入会整備慎重派(以下、慎重派)と呼ぶことにしましょう。
 逆に、現状のPTAの「強制入会(自動入会)」は「違法」であるとして、任意入会の整備を推進したいとする人たちもいます。この人たちを、任意入会整備推進派(以下、推進派)と呼ぶことにしましょう。
 両者の意見はしばしば、まったく相容れないように見えますが、本当にそうでしょうか。
 お話をうかがってみると、慎重派だって、PTA内部の「人権侵害」や「いじめ」や「貧困」を容認しようなんて思ってはいません。
 それらの「問題」については個別に対処できるはずだし、現状の全員入会がただちに諸悪の根源にはなっているとも思えないので、任意入会制度の整備については、慎重に進めていきたいと考えている方がほとんどです。
 個人的な意見としては、任意入会の事実については積極的に周知して、何らかの「問題」があったときに、逃げ道を確保しておくべきだと考えていますが、急激な任意入会制度の実現は難しいという認識については、外部の人間として反対はできませんでした。
 言い方を変えれば、慎重派の論理にも理解を示したことになります。任意入会整備推進派の言い分は正論ですが、それでもPTAが変わらないとしたら、そこに何か見落としているものがあるのではないかと思ったからです。
 そのような疑問が湧いたので、今回はPTAの任意入会制度推進論者のぶきゃこさんとの対談を通して、PTAの全員入会の是非についてあらためて考えてみることにしました。
 なお、本記事はお互いの主張を検討し、論点を整理することを目的としています。ですから、以下に述べられる慎重派の言い分は、必ずしも私自身の考えとすべて一致するものではありません。また、双方の言い分は、推進派や慎重派の見解のすべて代表するものではありません。議論のたたき台としてご使用ください。

任意入会推進派の考える理想のPTAってどんなもの?

たどころ:
 PTAが任意団体であって、入会が任意であることは、一般的な了解を得られた事実です。
 しかし、現実のPTAにおいては、任意入会が有名無実化していたり、任意だけど基本的には全員入会のようなかたちになっていたりすることもあります。
 たしかに、任意入会制度が整っていても、非入会を許さないような空気がつくられることもあります。逆に、任意入会をうたっていないけれども、退会が自由で風通しのよいPTAもあるかもしれません。
 意外と両者の目指すところには共通点があるのではないかという気がします。
 はじめに、お互いに自己紹介をしましょう。
 私、たどころは、自営業(自由業)の二児の父で、PTA経験は幼稚園を含めて5年。本部運営役員の経験はありませんが、PTAの本を書くにあたって、複数のPTAの役員さんたちにお話をうかがいました。
 一方、ぶきゃこさんはお子さん4人を持つ共働きのワーキングマザーで、現在は小中高すべてのPTAにおいて非会員ですね。ぶきゃこさんのPTA経歴について教えていただけますか?

ぶきゃこ:
 公立小PTAは会員として約8年間、非会員として約4年間かかわりました。
 公立中PTAは会員として約2年間、非会員として約4年間かかわりました。
 これらのPTAでは、執行部以外の委員・係をいくつか経験しました。
 また、公立高PTAにも会員として約2年間かかわりました。このPTAは稀に見るホワイトPTAでしたので、すんなり入会しましたし、部活支援の寄付などもしましたが、なぜか3年目は会費の納入票が届かなかったため、自然消滅というかたちになりました。

たどころ:
 現在は、あえて非会員のぶきゃこさんですが、任意入会制度の整った「ホワイトPTA」であれば、入会するのですね。ここでいう「ホワイトPTA」とは、いったいどのようなものでしたか?

ぶきゃこ:
 次のようなところがホワイトと感じられました。
・入学式の後に「PTA説明会」があり、団体の性質(任意性も)、活動の紹介や、PTAがどのようなことを「意義」や「学校における役割」だと考えているのかの説明があった。
・説明資料と、入会申込書兼お手伝い希望票(出来ませんという選択肢有り)は、学校の入学関係資料とは別封筒で配布され、別団体であることが明確であった。
・申込書は当日すぐに出してもよし、後日提出でもOKだった(検討する時間がある)。
・問い合わせ先メールアドレスが明記されていた。
・会費の支払い方法は郵便振替用紙または振込で、校納金との抱き合わせ徴収ではなかった。
・活動内容は、学園祭の出店と会員交流(月に1回くらいの役員会を兼ねたサロン)、体育祭の手伝い、メール配信システムの整備など意義を理解できるものばかりで、教育委員会の下請け系や上部団体・地域団体とのしがらみもなかった。

たどころ:
 なるほど、たしかに「任意入会」の理念が実現されたPTAのようですね。

PTAのこんなところが嫌い?

たどころ:
 小中学校のPTAの方は、不満をお持ちになって退会されたとのことですが、いったい、何が不満の原因だったのか、お聞かせください。

ぶきゃこ:
 基本的には、どんな種類の団体でも「加入する理由がある時に加入する」ことにしておりますので、加入する理由、あるいは加入した状態を続ける理由が見いだせなくなったというのが「非加入の原因」になろうかと思います。
 ただ、自動加入させられたとは言え、慣性の法則がありますから、きっかけがなければ退会しなかったと思います。
 小学校PTAは、上の子供たちを通じて8年間所属し、役員もやっていましたが、4人目の入学に際し、「入会のさせ方に堪忍袋の緒がキレたこと」で、退会に踏み切りました。
当時のブログには、次のように書いています。
――
今年度から、PTAを退会した。
たいそうな理由があったわけじゃない。
末っ子が入学したのだが、そのときにもらった「PTAについてのお知らせ」をみて、何かプツッと切れてしまった。
「あなたは子どもを入学させた。ついては、同時にPTA会員となった。」と書かれ、その次には口座振替依頼書が添付され、記載例がつけてある。
おい! ふざけんな!と思ってしまったのである。
この紙をもらうのは4度目である。
今まで「そういうものか、仕方ない」とあまり深く考えず、会費の引き落としに応じていた。
にもかかわらず、何故か今年は、積もり積もったナニかが私に「ふざけんな、入るか入らないかぐらい聞けよ!」とキレさせたのだ!

――
 さらに、前年度に学級委員をやっていて、当時、後任の「委員決め体験」で非常に不快な思いをしたので、やめてよかったと心から思いました。このことも、当時のブログに書きました。
――
期の終わりに、学級委員が次年度の各種委員を決めるのが慣例となっていた。
無理矢理押しつける事だけはしたくないため、まだ委員役員の未経験者対象に年明けぐらいから打診を繰り返していたが、やはり誰にも快諾はしてもらえない。
とうとう決まらぬまま春を迎え、「明日の保護者会で決めなければ」というリミットの日になってしまい、もうこれはまた自分が(すでに出していたPTA退会届を撤回して)役を引き受けるしかないか…と思っていた矢先、(中略)、土壇場で、「えーまだ決まらないの?お疲れ様。子供の事でくじびきなんて嫌だよね…じゃあ、私やるよ」ということで、私の友だちのAさんが引き受けてくれた。
何日か後に、Aさんから、実は1週間ほど前にお父様が亡くなっていた事を聞いた。
看病が続いていたので、PTAは断っていたが、亡くなってしまったので気持ちを切り替えて引き受ける事にしたのだと。
それを聞いて、知らずに役をほぼ押しつけてしまった事を後悔し、私はなんというかもう本当に、この団体に所属しているのが心底イヤになってしまった。

――

たどころ:
 ありがとうございます。このできごとが2012年4月で、以来、4年間にわたって非会員ということですね。
 他人に仕事を押しつける役目を負わされるというぶきゃこさんの体験は、まさにPTAの暗部の象徴なのですが、なかなか慎重派には理解してもらえないところでもあります。「その程度」のことは「お互い様」なんだから「我慢」してください、と言われがちですが、ぶきゃこさんには「その程度」とは思えないということですよね。
 ただし、そのことがイコール自動入会の弊害なのかどうかは疑問です。
 役員決めの苦労や活動の強制性といった「デメリット」は、自動入会のPTAでも議論を通じて解消されることはあると思いますし、実際に負担の少ないPTAは存在します。
 一方で、もし任意入会でPTAの加入率が過半数を切るようなことが起きると、保護者同士のつながりをつくるというPTAの「メリット」が半減してしまいます。
 「デメリット」は個別に対応して解決もできると思うのですが、そのようにして、内部から問題を解消するのではなく、なぜ、いきなり退会を選ばれたのでしょうか?
 煽るつもりはありませんが、残された保護者やお友達のAさんに対しての「逃避」にあたらないでしょうか。投げ出さずに、PTA会員として、内部から改善することはできなかったのでしょうか。

ぶきゃこ:
 「逃避」か「逃避」でないかという話であれば、それは「逃避」という表現も出来るのかもしれません。ですので、「逃避」と言われることは別に構いません。
 この無法状態を維持したくないと考えた場合、私に何が出来るかというと、以下の二択だったと思います。
①会長に立候補してルールを変える。
②脱会することで「PTAは学校の所属組織ではなく任意加入団体」であることを示し、そこから会員が再考するきっかけを作る。
 中間的な「会長以外の本部役員や委員などになって、声を上げる」というのもありましたが、それはやりました。
 正直、「またお前かうるせえやつだ」と思われてたくらい物申してたことは多かっただろうなと思います。
 ただ、そういう行動によってマイナーチェンジはできましたが、「PTAは義務」という発想が共有されている状態をくつがえすことは難しかったですね。
 で、①については、事実上無理だと判断しました。
 会長のスケジュールは過去に公開されたことがあったのですが、月に平均10回程度は会議などがありましたし、会社員としての仕事と家事育児を考えるとそんなスーパーマザーにはなれません。
 そして②を選んだ形になります。
 ですので、「逃避した」と言われるのはいっこうに構わないのですが、自分自身で「逃避してしまったな」という罪悪感はまったくありません。
 また、「逃避」というのは、苦しい状態から楽な状態に走ることではないかと思うのですが、現在のPTA社会で脱会が「楽」だとは思いません。
 たしかに、委任状を期日までに出したりしなければならないなどの「会員の義務」はなくなりますし、金銭的な部分でも支払いは「義務」ではなくなります。
 しかしそれはPTAから与えられる義務がなくなるというだけの話であり、保護者として子どもに何が必要か、常に考え、必要があれば他の保護者と協力し学校とも連携をとる、という部分では何ら変わりません。
 PTAが募集する手伝いや係も、非会員になってからも、できるものは応じていますので、そこの部分は変化ありません。「楽な方に行きたい」方には、退会は勧めません。

たどころ:
 そうですね。「逃避」がいちがいに悪いわけではないですし、現状では、むしろ「退会」は勇敢な行為だと思います。
 私も、PTAに一石を投じるために「退会」することを想像してみたことはありますが、「退会」に伴う「面倒」を思うと、とても気軽にやってみる気にはなれませんでした。現状で「退会」を選んだ方たちに対しては、感嘆の思いがあります。
 また、実際のPTAで、一会員として私の投じた意見は、ほぼすべて「保留」になりましたし、内部から変えることの難しさもよくわかっています。
 ところで、ぶきゃこさんが役員決めで本当に不愉快な思いをしたのは、時系列的には退会後のことですね。
 お話をうかがうと、PTAの強制入会の「違法性」に、気がついたから乗っかったかのように受け取れます。それまで8年間受け入れてきたものを急に投げ出すのは、メディアなどのPTA批判に影響された、軽率な行動ではないかとの批判には、どのように答えますか?

ぶきゃこ:
 メディアのPTA批判の影響ですが、今はすごいですが、当時そこまで批判されていた記憶はありません。
 私は、もともとPTAが嫌いでした。これは、個人的な趣味嗜好です。
 いつから嫌いかといえば、たぶん長女を入学させたとき(12年以上前)から、なんだか嫌いだったと思います。ただ、「やんなきゃいけないもの」と何となく思い込まされていて、退会するかどうかを考えたことがなかったのだと思います。
 長女を入学させたとき、当時のPTA会長が、1年生の教室の委員選出の場まで来ました。なかなか決まらないので、私が「誰かがやらなきゃいけないんだったらさっさとくじ引きすればどうですか」と言ったところ、「過去には、くじ引きしたこともあったんです。でも、くじで選ばれた人は、なんっにも、やっていただけなかったんです! ですから、どなたか、“はい私が”という方が、やっていただけませんか!?」と大声を出したんですね。
 私は、「そんな恫喝するみたいに強要したら、くじよりタチ悪くないか?」と思いましたし、「なんにもやっていただけない状態」が、「なぜどう悪いのか」がなんにも説明されていない、というか、そもそも「なにをやる委員なのかが簡単にしか説明されてないのに引き受けようがなかろう」と思いました。
 ただ、大声を出す人は苦手ですし、次には「皆さん、どうせ一度はやらなければならなくなりますから、早くやっておいた方が楽ですよ」と趣旨の全然違うことを言い出しましたので、だまって様子を見ていました。たぶん、そのときから「なんだこれは」と思っていたのだと思います。
 ですので、「8年間受け入れてきたものを急に投げ出した」というよりは、いつかは投げ出すことになっていて、それが9年目だったんじゃないかなという気がします。
 メディアの影響があるか? 乗っかったか? ですが、影響はあったのかもしれませんし、乗っかったのかもしれません。そうですね。「退会」という手段をつかうことは、インターネットから発想をもらったんだと思います。インターネットはもともと日常的に見ているので、いつどこで見たのか、までは、ちょっと思い出せませんが。

たどころ:
 私自身、組織に所属することがあまり性に合わなくて、15年以上フリーランスで仕事をしているので、その気持ちはよくわかります。
 慎重派には「寝た子を起こす必要はない」という気持ちがあるのかもしれませんが、インターネットの時代に、情報を統制し続けることは難しいですね。

PTAにはどのような意義があるの?

たどころ:
 ところで、ぶきゃこさんはPTAが個人的に嫌いだったということですが、好きという人もいます。もしかして、PTAの「意義」についての理解が不足していたということはないですか? PTAの「意義」について、十分な話し合いがなされなかったのではないでしょうか?

ぶきゃこ:
 この「話し合い」は、会員として他の会員と、ということでよろしいですか?
 だとすれば、その通りです。他の会員とPTAの「意義」について話し合う、という場は、保護者会か、なにか当番活動などの場か、運営委員会などになりますが、それらのいずれも十分な時間は与えられていませんでした(突っ込んだ話をしようとすれば早く帰りたい人からは嫌がられます)。
 そして、たとえばあいさつ立ち番の時などに「この活動ってどんな意味があると思う?」みたいな話をすれば、まず9割方、ネガティブな話になりました。
 これはPTAが嫌いな私が、そのように話を誘導したわけではなく、「みんな嫌だと思ってる」と総括したって問題はないくらい「活動にたいして意味はない。やれと言われてるから、やってるだけ」のような意識が普遍的であったと思います。
 ネットで「PTAの意義」について話し合えば、各人各様の答えが出てきますが、リアルに保護者同士で話せば、「やらなくていいんなら、やらないわよ」が当たり前だと思います。
 PTAの「意義」について十分話し合う、というのは、たとえば10〜20%の教育に関心の高い層でやるならアリだと思いますが、「保護者は全員会員」状態で「会員同士でそれをやる」のは、正直、無理です。そこまでPTAに熱くなる人は「ドン引き」されるだけだと思います。残念ですが、それが、「リアルな現実」です。
 そういう意味で、「PTAがあったから他の保護者とつながれたな。いっしょに活動をすることは、メリットがあるな」と感じたり、つながる機会を失うことを理由に「退会は勿体ないな」と感じたりはありません。
 逆に、「PTAがなかったらトラブルにならなくてすんだのに残念だな」と思っている相手はいます。他の保護者と友人としてつながったり、学校情報を交換したりすることは、PTAとは無関係な場で続いています。

たどころ:
 たしかに、まれに見られる「意識の高い」人は別として、リアルにPTAについて話そうとしても興味をもってはもらえませんし、「やりすごせばいいじゃない」と流されることが多いです。
 ときどき「大変だ」という愚地を聞くことはありますが、それはただ聞いてほしいだけであって、「じゃあ、意見を出そう」という話にはなりません。私の周囲でも、9割近くの保護者はPTAに無関心のように見えます。
 ただし、それは無関心でいてもいいくらい負担の少ないPTAだからであって、いわゆる「大変」なPTAでは「何とかしてほしい」という声も大きいのでしょう。
 PTAがなくとも保護者同士のつながりは作れるし、PTAの勧誘が気まずさを作ることもあるということは、私もまったく同じように思います。

PTAが保護者同士のつながりをつくる?

たどころ:
 しかし、それでも、公平な視点で見たときに、PTAの「メリット」や「意義」はないわけではないと思います。
 たとえば、PTAというかたちではなくても、保護者同士は何らかのかたちでつながっていたほうが良くて、そのかたちをPTAが作っていることは否めないでしょう。

ぶきゃこ:
 つながりがあったほうがいいことについては、私も同意します。
 ただし、「PTAのメリット・意義」についての話をするときには、その「メリット・意義」を現行PTAが生み出してるのか、生み出せるかどうかの検討が必要です。
 よくあるネット議論では、ここがまったく説得力がないまま「だからPTAは必要」と一足飛びに「望んだ結論に持ち込む」強引さが見られます。
 まず、「保護者同士を何らかのかたちでつなげる」機能については、少なくとも委員・役員などを1年くらいともにやれば、知り合いレベルにはなれる、といえます。
 ただし、「つなげる」機能は、同時に「争わせる」機能でもあるわけで、私は「つなげる」ことを目的にするなら、「事業的なことをいっしょにやらせる」という方法は、目的に合致した適切な手段ではないと考えます。
 これについては、ブログで次のように書きました。
――
私が社会の中で働きはじめた昭和〜平成の移行期は一種の起業ブームであったのか、身の回りで会社を起こす人たちが結構たくさんいた。
そして友達同士で事業を始めると、友達でなくなってしまうケースをいくつも目にした。
別に管理者がいる上での使用人同士である場合、友情にひびがはいるケースはあまりない。
しかし、共同でマネジメントに関わろうとしたとたん、友情が壊れるケースは珍しくない。
それは、考え方の違いがモロにぶつかり、どちらの考え方を実業ベースに乗せるかでお互いの利害に直接響いてしまうからなのではないかと思う。(中略)
「保護者同士」という関係を健全に結びたい場合、単純に「知り合い楽しむ場」を作るだけならよいのだが、PTAというお仕着せの事業を無批判に継承し、それがマストなものになってしまい、やれ委員長だ会長だ、やれ規約だ書式だ会計監査だとやり始めたあたりから、「絆作り」より「絆をぶっ壊す」ほうに働きはじめるような気がする。

――

たどころ:
 なるほど。しかし、そこまで真剣に「事業的」に取り組んでいるPTAは多くないですよ。前例踏襲で言われたことをやっているのであれば、「お互いに知り合う」目的には十分かなっていると思います。

ぶきゃこ:
 「つなげる」が、「同じクラスの○○ちゃんのお母さんてあんな人なのかー」というレベルで良いのであれば、割り振り当番・お手伝い的なものでも副次的に機能するとはいえるでしょう。
 ただし、今のところ多くのPTAでは、そういう「つなげる」目的も含んでいるんだよという共有はないのではないかと思いますし、「仕事を遅刻早退したり休んだりしてでもこなさなきゃいけない義務」的にとらえられているのではないかと思います。
 また、そういう目的(=知り合う目的)を含んでいることが共有されているのであれば、組み合わせを変えたり、あえて曜日に変化をつけたり、ということも考えられなければいけないと思いますが、少なくとも当地のPTAでは機械的に五十音順に割り振っているだけですので、頭文字の遠い方とはお知り合いになれません(笑)。
 また、これは個人的な能力の問題なんですが、私は、一度お当番でご一緒したくらいだと、全然顔と名前が一致しない(笑)。
 そもそもわざわざ自己紹介もしないですし。私は一応「こんにちは、○○の母です、今日はよろしくお願いします」くらいは言いますけれども、「あ、どうも」で終わってしまう方も少なくないですし、もう活動に興味のないのがありありですね。あからさまに「ひっぱり出されてうんざり」みたいな顔してる方もいらっしゃいますし。
 知り合うレベル、で良いのであればクラスの保護者会で事は足りるような気はします。出席率は学年が上がるにつれて悪くなりますけどね。

たどころ:
 たしかに「ここは懇親の場ではない」という事務的な態度の方も多いですね。初対面でそんなに仲良くなるものでもないですし、顔を合わせる回数を重ねることが重要なのだとは思いますが、回数を増やすと文句が出ますし、目的が共有されてないのは確かです。
 連絡先を交換する暇もないですし、昔の小学校にあった「連絡先名簿」は「つながり」を作る手段の一つだったと思うのですが、「個人情報保護」の声におされて、昨今は見られなくなってしまいました。
 PTAの係の間でメーリングリストを作ろうとしても「メールアドレスは友達にしか教えない」と言う人がいますから、まず「つながり」を持つことの重要性を啓蒙するべきでしょうね。
 PTAがなくてもつながれる保護者はいいけど、そうではない保護者の孤立を防ぐために、PTAの活動は必要だとの論理に、私はいくぶんかは同意します。PTAへの参加を通じて、つながりをつかんでいる保護者が皆無とは言い切れないでしょう。

ぶきゃこ:
 いつも思うのは、保護者同士をつなげることを妨害しているのは、PTAの「強制性」なんじゃないかということです。
 まず、(全員加入というPTA側の希望する結果に誘導するため)「入会対象者に重要なこと(任意性)をわざと知らせない」、「学校の一部のように装ってごまかそうとする」という行為に遭遇すれば、決定的に信頼感を損なう人もいると思います。少なくとも、私はそうです。
 ほかには、よく当番などを割り振ってきて「都合の悪い方は代理を探してください」というのがありますね。あれ、そう簡単にできますか? 私は「そんな無茶な」と思うんですよ。思わない方がおおぜいいるから、そういうことを書くのが平気なのかもしれませんけれども。
 本当に「知らない者どうしをつなげる活動」だったら、「代理を探すのがむずかしい方は委員に相談ください」など書いたらどうなのかなと思うんですよね。そうしたら、その家庭の状況(なぜその時間帯に出られないのかなど)も見えてきますよね?
 そういうのがあれば、「家庭の孤立を防ぐのに役立ってる」という話も、なるほどなと思うんですが。「自分で探してなんとかしろ」の発想に、「対話」はあるのかなと疑問です。
 すごい昔なんですけど、お手伝い希望を出すときに、委員の方と話す機会がありまして。「我が家はこうこういう状態で、上の娘がこうで、末っ子がまだ小さくて、PTA活動中は保育園預かってくれないし、仕事で普段は何時から何時くらいまで不在で…」という話をしましたら、何て返ってきたと思います?
「皆さん平等にやっていただいてますから」ですよ。
 別に私は免除されたくてやらない言い訳としてそういう話をしたんではなくて、「自分の家庭はこうなので、出来ることはなにで、出来ないことはなに」ということを話して「それじゃあこのお手伝いはいかがですか」などという話がきけたら、それでよかったんですけれども、そういう個別の事情を聞くことを必死で遮断しようとするんですね。
 まあ、その方は「面倒くさい」と思いながら活動していらしたのかもしれません。
 先日、ブログ読者の方からメールいただきまして、その方も勝手に係を割り振られて不快な思いをされた方なんですけれども、「せめて先に相談があれば私も返す態度も言葉も違っていた」と書かれていらしたんですね。本当に「これに尽きるよな」と思いました。
 いまのPTAには「対話」の可能性がないんです。
 こういう話をするとね、コンサバ(慎重派)の人は「そんなことすると委員がどれだけ大変になるか分かってるの?」とおっしゃいますね。でも、面倒くさくて質の悪い活動するんだったら、活動しないほうがまだいいと思います。
 もし、PTAが「会員にいちいち聞くなんて面倒くさい。こちらが決めたことを、各自の不都合があれば、各自でなんとかして、黙ってやってもらうのがPTA活動」と認識しているのでしたら、「つなげる機能」は標榜しない方がいいと思いますね。

たどころ:
 耳の痛い話ですね。そのようなPTAばかりではないと思いますが、「やりたくない」のに「やらされている」人が、「面倒」を避けるように動いてしまう傾向があるのは確かだと思います。それでも、PTAの持つ「人をつなげる」機能がなくなってしまっていいとまでは思いませんが。

ぶきゃこ:
 そうですね。PTAの活動は存在していていいのではないでしょうか。「PTAの活動は必要だ」が「PTAの強制は必要だ」にすり替えられなければ良いだけです。
 PTAの活動はめんめんと続いていていいと思いますが、コンプライアンスを学ぶことなく市民活動をすることはできない時代がやってきていると感じています。

PTAが保護者の団体として機能するためには人数が必要?

たどころ:
 そのコンプライアンス(法令順守)というのが、任意入退会制度の整備ということですね。その話をする前に、もう少しメリットの話をさせてください。
 学校や地域に対して、保護者全体の利益を代弁する何らかの機関はあったほうがよいでしょうし、その役割は現状ではPTAが担っています。代表権としての機能を維持するためには、100%とは言わずとも、それに近い数字の保護者に加入していてもらいたいと考えるのですが、いかがでしょうか。

ぶきゃこ:
 さきほども話したように「メリット」や「意義」については否定しません。しかし、現行PTAが「学校や地域に対して、保護者全体の利益を代弁する何らかの機関」になりうるかどうかと言えば、これは難しいのではないでしょうか?
 現状、多くのPTAでは、どちらかというと、むしろ逆に、「学校や地域の要請に保護者を使って応える機関」だと表現してもいいような気がします。
 保護者全体の利益とは、例えば「学校でしっかり○○(ex.いじめ対策)をして欲しい」「登下校時間帯に地域の協力が欲しい」とかそういうことになるのだと思いますが、たとえば校内で事故があったときなどに、その原因追求や改善策の検討がPTAでなされるかといえば、難しいと思います。
 まず流れとしては学校内で情報が隔離され、管理職と教育委員会で話し合われて、保護者向けに説明会などがひらかれ、質疑がある場合は保護者がおのおの出すような感じです。
 第三者委員会がつくられる場合もありますが、有識者などにまじってPTAから1名代表者が出せればいいくらいで、PTAという組織を利用して保護者と学校の間で十分に話し合われる、という機会はないんです。
 重大事案があったとしても、PTA自身が会員を集めてミーティングを行い、要望や質問事項をとりまとめるというようなことはありませんね。
 そうではない学校があるのでしたら申し訳ないのですが、どこもだいたい、似たり寄ったりなのではないかと思います。PTAの出番が全くないとは言いませんが、個人情報の問題もあり、おまけ的な立場にしか置かれないのが本当のところではないかと思います。
 また、上部団体や地域に対して意見が言えるかと言えば、実際には、定例会議などにPTAから役員を出しているにもかかわらず、そこからの報告はほとんどありません。
 あて職として出ているだけで、モチベーションがあるわけではないからだと思いますが、交通費などを会費から出しているのに、議事録すら返ってきません。
 これはその役員さんを責めているのではなく、「その程度の意識でおこなわれている」ということを示したくこの話をさせて頂きました。
 内実はなくても、PTA枠があるだけでも意味があるんだ、という向きもあるでしょうし、それに反対はしませんが、枠を維持するために気の進まない人に強制しないといけないとしたら、労力対効果としてどうなのかなと思います。
 少なくとも個人的に、「PTAという組織があったおかげで、保護者としての利益を代弁してもらえてそれを学校や地域まで届けることが出来て、助かったな」という体験はありません。
 逆に、途中でもみ潰されるので、直接校長や教育委員会に言った方が早かったな、という体験ならいくつかあります。

たどころ:
 ぶきゃこさんのご意見を簡単に、私の言葉でまとめさせていただくと「PTAの活動の意義はある。ただし、自動入会は認められないし、現状でその意義がまっとうに機能しているとも思えない」ということでよろしいでしょうか。
 この部分ですでに慎重派との間に食い違いがあるように見えます。
 なぜならば、おそらく慎重派は、「PTAの活動の意義はある。現状でも十分に機能しているし、その意義を遂行するために、不満の出ない範囲であれば、ある程度の負担を強いることもやむをえない」と考えているように見えるからです。
 この「強制」をどこまで認めるかの考えは、人それぞれで異なります。なので、本来は、任意加入推進派、慎重派という二分法もナンセンスだと思います。
 自動入会はやむをえないが、役員(活動)の強制はやめようという中間派もいると思うからです。
 逆に、任意入会だけれども、入会者には役員の輪番制度(くじびき)に従ってもらってもいいだろうと考える中間派もいるかもしれません。
 ぶきゃこさんの立場は「そもそも自動入会はまったく認められない」というものでしょう。
 しかし、実際の現場で、入会申込書の整備には二の足を踏む方は多いです。「会員数(会費)の減少」を懸念しているというのが、いちばんの理由でしょう。
 ぶきゃこさんの経験した「ホワイトPTA」は先進的ですが、入会申請書があるPTAでは、加入率100%ということはないと思います。
 推進派の中には、いくつかのPTAの例をあげて「90%」は確保できるという方もいますが、逆に、慎重派の中には、全国の自治会や町内会の加入率を根拠に、「30%」になるリスクもあるという人もいます。どちらが正しいかはわかりません。
 もちろん「加入率などは問題ではない。とにかく違法なのだから即刻、強制入会をやめよ」という強硬意見も存在します。
 それを否定するわけではありませんが、実際の現場でそのように言っても通じないことが多いので、より通じる言い方を考えてみたいのです。
 ここまでは、主にぶきゃこさんにインタビューするかたちで推進派のお考えをお聞きしましたが、次回(2)は、ぶきゃこさんからの質問に答えるかたちで、慎重派の論理を整理していきたいと思います。


PTA紹介シリーズその3~一人の退会者をきっかけに入会届ができたPTA

2015-05-22 17:02:33 | 日記
―今回、紹介するのは都内公立小学校のPTAです。このPTAは、一人の退会者が出たことをきっかけとして、その年度末の総会で会則を改訂し「入退会規定」を作成し、「入会届」、「退会届」まで作ってしまいました。
 若い人の使うネットスラングでいうなら「神対応キタコレ」ですし、年配の世代の言葉でいうなら「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」でしょうか。「軽率なことを」と苦々しく感じる人もいるでしょう。
 今回はきっかけになった退会者であるYさんにインタビューしてみました。Yさんは子どもが小学校に入学した年の4月からPTAの役員(ベルマーク係)になって、7月に退会を申し出たそうです。いったい何が理由だったのでしょうか?

 子どもが入学した当初、私はPTAも、やる気満々でした。
 というのも、我が子が通っていた保育園のPTA(保護者と先生の会)で役員をやっていて、それがとても望ましいものだったからです。先生、保護者の親睦と、子どものたちのためのささやかな行事のために活動することはやりがいがあって、忙しいながらも楽しくやっていました。
 それと同じように考えていたので、小学校のPTAにも悪い印象は持っていませんでした。よく言われる「やってみたら楽しい」を、私も信じていました。
 たまたま育休中だったので、時間も取れましたし、せっかくなので積極的に活動しようと思っていました。「やってみたら楽しいはず」と思っていましたから。
 ですので、委員・係り決めのアンケートでは、大変と言われる広報委員を第一希望にしました。本部役員はすでに決まっていたようですし、パソコン仕事は得意なので。
 ところが同じ登校班の方にそのことを言うと、「Yさんは下の子がまだ小さい(0歳)でしょう。小さい子どもがいる人がなると嫌がられるよ」と言われてしまいました。
 仕事をしている身としては、子どもが小さいからこそ育休が取得できて、活動時間が取れるのに、それを嫌がられるってどういう意味だか分かりませんでした。
 小さい子がいるなんて、小学生の親なら当たり前だし、その人達を排除したら誰がやるの? と。
 ここで初めて、どうもPTAはちょっと面倒くさいもののようだと気がつきました。

―補足します。一昔前のPTAでは、年度初めの学級保護者会のときにPTAの役員や委員を決めることが多かったのですが、それではなかなか決まらないし、欠席する人が多くなるので、最近は事前に書面でアンケートを取る方式が多くなっているようです。
 ちなみに、「小さい子どもがいると嫌がられる」というのは、じゃんけんやくじびきなどで半強制的に役員にさせられた人の場合、小さい子がいることを理由に、PTAの活動を休むことが多いからでしょう。
せっかくやる気があったのに、悲劇ですね。それで、どうしたのですか?

 連絡帳を通して希望を訂正させてもらい、その後の保護者会の後の係り決めでベルマークの係りになりました。
 子どもの調子が悪い時などに、ベルマークなら家でもできるだろうと考えたからです。フルタイムで働いている友人も、同じ考えでベルマーク係りを選んだようです。妊娠中の方もいました。同じように、家でもできると思ったのではないでしょうか。
 ところが、これも私の勘違いでした。
 後に、活動日を指定したプリントが配られ、それを見ると、年間に一人当たり6日、全て平日の10時〜12時、出席できない時は必ず代理を立てるか、別の日に出席とのことでした。このプリントを見て私はかなり驚きました。
 フルタイムで働いている友人はどうするつもりなのだろうと思って聞くと、全ての日を祖母に出てもらうことにしたとのことでした。
 第一回目の活動に参加してみると、そこでも理解に苦しむことがありました。
 まず、委員長が、妊娠中の方には出産予定日を聞き、「その月は無理だろうから代わりはいつできる?」「出産の翌月からは来られますよね」などという確認をしたからです。
 私は非常に驚き、口を挟むのもどうかと思いながらも「ベルマークなら家でも集計できるからそういうやり方も検討してみたらどうか」と言ってしまいました。ところが、委員長さんは「こういうものは集まってやるものです」「他の係りでも祖父母が来て義務を果たしています」などと言うので、全く話し合いになりませんでした。
 また、活動自体も納得できないことがありました。
 実は、ベルマークはその年に新設された初めての係りでした。
 ですから、各クラスにベルマークを集めに行っても、担任の先生がベルマークを集めることになったことを知らないクラスもあり、子どもたちにも周知していないので、ベルマークがほとんど集まってないのです。
 肝心のベルマークがほとんどないのに、ただ、人だけが集まっていました。
 そんな感じなので各クラスに行って集める時間を含めても1時間ほどで終わってしまうのですが、活動時間は2時間と決められているので、その後も帰れず、かたい雰囲気の中でお茶を飲み、決まった時間まで滞在するというのが常でした。
 育休中だったのでそれでも参加しようと思えばできたのですが、2時間赤ちゃんをおんぶし、お腹が空いたりして泣き止まずにいる状態に耐えながら、そのような活動に参加する意義が見いだせなくなりました。

―それはなかなか辛い状況ですね。それにしても、いまさらベルマーク係が新設される学校があるなんて思いませんでした。

 以前から有志が集まって、その人たちだけでベルマークを集めていたようで、昨年度から委員会として立ち上げることになったとのことでした。その有志の一人が、新しい委員長になったようです。
 有志が集まってやることまでは否定しませんが、こんなことになるのであれば、そのまま有志だけで活動していればよかったのに、と思います。
 有志でやっている限りは、ありがたいなと思えますが、その活動が仕事を休んでまで来なければならないものとなると、話が変わります。
 子どもたちのために何かを購入することが目的なら、大の大人が時間をかけてベルマークを集めるのは、費用対効果を考えれば合理的ではありません。
 保護者同士の親睦が目的で、そのついでにベルマークを集めるということなら分かりますが、それなら祖父母の代理を立ててまで活動するのはおかしいです。出産後間もない人が無理して来る必要もありません。
 いったい何が目的で活動しているのかさっぱりわかりませんでした。
 また、父子家庭のお父さんがどうもメンバーにいたらしく、その方が全然参加しないという話題になったことがありました。そのときに、委員長が、「来てもらいますよ、義務ですからね」とニヤリと笑ったことも記憶に残っています。これではいじめです。
 このような話を目の前で聞いているので、みんな、自分が言われる立場になりたくないと思い、言いたいことが言えなくなってしまうのだと思います。
 こうして、たった数回の活動ですっかりPTAに対する印象が変わってしまいました。
 私が体験したのは、PTAのごく一部なので、他の係りはうまくいっていたのかもしれません。でも、ベルマーク係りはおかしかったし、そのおかしさを止める術がありませんでした。

―よくわかります。Yさんが退会を考えたのは、それだけが原因ですか?

 登校班に関しても不満がありました。
 登校班は子ども一人につき一回、保護者が登校班の世話人になることになっています。世話人は1年間毎日登校班の集合場所に立ち、見送るというものです。
 昨年度なら育休中なのでできると思い、やりたいと言ったのですが、もう決まっているのでと断られました。
 しかし私は仕事をしているときは、子どもより早く出勤するので、育休期間以外の年には出来ません。今年の方にも、同じような事情があるのでしょうか? なければ代わっていただくことはできませんかと頼んだのですが、もう決まったことなので、来年以降にやってくださいの一点張りでした。
 これも相当悩みました。責任を果たすためには仕事を辞めるか人を雇わなくてはなりません。
 しかし、よく調べてみると他の登校班は当番でやっていたり、学期のはじめの週だけ見送って、あとは子どもだけで登校させたりなど、融通をきかせていました。決まったルールなどはなく、登校班ごとに話し合いで決めていたのです。
 ところが、うちの登校班は話し合いもなく、ただ、これまでのルールに従わせるやり方をとっていました。しかし、誰かが何の責任もなく決めたルールに、合意したわけでもないのに従わせるというやり方には賛成できませんでした。
 我が子が通う学校のPTAにはよく分からない暗黙のルールが沢山あります。
 説明会があるわけでも、会についての紹介の資料があるわけでもなく、問い合わせ先もないので、やり方を知りたければ周囲に聞き回るしかありません。
 でも噂話のようなルールなので統一されていないし、人によって言うことが異なります。それでもなぜか、それぞれの人が自分の信じたルールを絶対に正しいと思っていて、それを守るようにと言うのです。
 なぜそんな現状が放置されているのか、本当に不思議でした。
 このような様々な疑問を抱えるようになり、PTAについてインターネットで調べてみると、ほかにも様々な問題があることを知りました。そして、PTAが任意加入であることを知り、退会を申請して辞めようと決意したのです。

―合理的な考えですね。Yさんのように疑問や不満をもっても、なかなか退会できない人が多いと思うのですが、どうして行動に踏み切ることができたのでしょうか?

 私は、辞めることが問題提起になると思っています。同じように不満を持った人の中には、運営に入って改善しようという人もいると思いますが、私には無理でした。
 我が校のPTAは、平日の昼間に活動していることが多いので、フルタイムで外で働いている人には、参加することからしてかなり困難だと思います。
 困っていて改善したくても、意見を言うチャンスも得られないのです。
 保育園の保護者の友人に「PTAを辞めようと思っている」と相談したときには、「あなた、あんなにやる気があったのにね〜、本当ならいい働きするのにね〜。もったいない」と言われました。わがことながら、本当にそうだと思いました。
 でも、活動に積極的に参加しようと思っていても、平日の昼間、学校限定では参加できません。本来であれば、フルタイムで働いている人でも家でできることはありますし、働いているからこそ持っている特別なスキルやノウハウが、PTAなどの地域活動には活かせるはずです。
 でも、今のやり方では参加できません。これならできますと言っても、そういうやり方はしていませんと拒絶されてしまう。このようなやり方をしていたら、将来的に立ち行かなくなりますよというメッセージとして、思いきってやめようと思いました。

―なるほど。辞めることで不利益をこうむる可能性もありますが、あえて意志表示として退会を選択したわけですね。

 それからもう一つ、今のPTAのルールに則って活動すると、私自身が周りの人の権利を侵害することにもなりかねないし、それは避けたいなと思ったことも辞めた理由の一つです。
 たとえば、どの係りにしようか悩んでいるときに、「選考委員なら、簡単だよ。働いている人でも夜に電話かければいいだけだからできるよ」と言われたことがあるのですが、自分がやったことがない役目を選ぶために、どんな事情を抱えているかもわからない人に電話をかけるなんて、と違和感を覚えました。
 たとえば、「こんな仕事で、これぐらいの時間がかかるんだけど、コレだけやりがいがある。あなたなら適任だと思うからやってほしい」という意味で電話をするのなら分かりますが、「どんな仕事か知りませんし、あなたがどんな人かも知りませんが、とにかく誰かがやらなくちゃいけないし、誰もやりたくないようなのでやってください」という電話をかけることはやりたくありませんでした。

―よくわかりました。では、退会に向けて具体的にどのようなことをしたのか教えてください。

 最初は、すんなり退会できるとは思わず、PTAという組織と話し合いをしなければならないと感じたので、前段階として自分なりにかなり調べて理論武装しました。4月から疑問を抱き始めたので、4月から7月までの三か月間は調査期間にあてました。
 情報源は、インターネット、新聞記事、本、論文などです。具体的には、川端裕人さんの『PTA再活用論』や、シノドスの木村草太さんのインタビュー、岩竹美加子さんの論文『国家の装置としてのPTA』、AERA、朝日新聞の記事などです。
 また、実際に地元の教育委員会に電話し、教育委員会は任意だと認識しているのかどうかなども確認しました(もちろん、認識していました)。
 それらを調べている段階で、夫が、私が何かを調べているのに気がついたので、経緯について話し、あなたも当事者だから一緒に考えてほしいと言いました。夫はかなり合理的に物事を考える人なので、退会については、はじめから賛成でした。
 私は、子どもに影響が出ることが想像できるので、実際に退会するかどうか、かなり慎重に考えていましたが、夫は、とりあえず相手がどう出るか分からないので、退会する方向で動いてみようとの意見でした。
 案外すんなりいくかもしれないし、こじれてどうにもならないのならその時点で退会をあきらめればいい、とにかくやってみないとわからない、という感じでした。
 そこで、最終的に、子どもとも話をしました。
 PTAはそもそもこういうもので、母としてはこのような点で納得できず、辞めようと思う。本来、子どもには関係ないが、学校で差が出てしまう可能性もあると言いました。
 わが子は神経質なタイプなので、おそらく耐えられないだろうと予想したのですが、予想に反して平気で、「学校のお知らせが見られなくて忘れ物にならなければいいよ」「学校は一人で行ってもいいよ、育休中はママといける? それならうれしい」などの反応でした。1年生だから、想像が及ばない面もあるかもしれませんし、親に気を使った可能性もあります。
 このように、さまざまな検討をした末に、私が退会届を書き、夫にも見せて直し、提出しました。
 提出は郵送で、郵便物自体は校長宛。退会届自体は同じものを3つ同封し、校長、副校長、PTA会長宛の文章にしました。

―話を聞いているだけでドキドキしてきますね。それで、どのような反応がありましたか?

 退会届を郵送してから数日後、副校長より電話があり、実際に会って話し合いたいと言われました。文書かメールで返事がほしいと書いたのですが、一度くらいは会って話すことも必要だと思い、時間を調整し、夫と二人で話し合いにのぞみました。夏休み直前のことだったと思います。
 話し合いのメンバーは、校長、副校長、PTA会長、私達夫婦(と乳飲み子の第三子)です。話はトータル2時間程度でしたが、途中で第三子が泣き出し、また第二子の保育園のお迎えもあったので、私は中途退出し、後は夫が話をしました。
 ボイスレコーダーも持参し、録音することも了解していただいてから話をしました。
 話し合いはまず、校長から、なぜ退会しようと思ったのかの経緯を教えてほしいと言われ、さきほどの内容を話しました。
 退会理由を述べた後に、PTAが任意加入の団体であることの確認をしました。みなさん任意加入であることは認めましたが、いままで辞めようとする人はいなかったので、辞める人をどのように扱うかについては考えられていないとのことでした。
 PTA会長は、退会したら子どもも区別されるという考えのようでした。退会したら登校班にも入れなくなるし、PTAからの配布物も渡せないし、PTA主催の行事に子どもが参加できなくなるし、PTAからの入学祝、卒業祝いもあげられなくなると言われました。
 私たちはそれらの点について、自分たちの意見を言い、相手の意見も聞き、食い違う点を洗い出しました。さらに、一つずつ根拠を示しながら意見を言い、相手にも根拠を示してもらいながら意見を言ってもらい、結論を出すということを生真面目にやりました。
 また、そもそも私達は会員なのか、会員だとしたらいったいいつの時点からなのか、などもうかがいました。
 PTA会長の考えでは、入学式でPTAからの入学祝を受け取ったことと、規約を受け取ったことによって入会になるとのことでした。
 規約は子どもが先生を通して受け取りますし、入学祝は入学式後に配られる教科書などと一緒に配布されました。鉛筆と連絡帳です。忙しい入学式後、どれがPTAからのプレゼントなのかも正直理解していませんでした。
 これについては、そのようなやり方が社会通念上ありえるかなどの話をしました。
 また、活動の強制性についても話をしました。
入学式に配られた委員・係の希望調査には、活動に参加できない場合はかならず代理をたてることや、希望の係りになれない場合もあること、係り決めの日にいない場合は、クラスに一任されるなどの記載がありました。これは問題だと思うと伝えたところ、校長は「それは知らなかったですが、代理を立てる必要なんてないです、それはおかしいですよと」本心からおっしゃってくれたようでした。
 そのほか、任意団体なのだから退会者の扱いをどのようにするのかきちんと決めるべきだし、入学説明会で、入会の意思確認をすべきだと伝えました。
退会者の扱いについては、学校を含めて、PTAの役員で話し合う必要があるので、その話し合いをしてからでないと、結論は出せないとのことでしたので、返答の期限を決めて、話し合いは終わりました。

―ちなみに、向こうは、どのような方たちだったのでしょうか?

 校長先生は常に丁寧に親身に話を聞いてくれました。意見の対立はありましたが、信用できる人だと感じました。
 PTA会長は、あまり論理的に話が出来る人ではないように感じました。しかし、たまたまこの年に会長をやっていただけでこのような立場に立たなくてはならなくなり、きのどくに感じるところもありました。
 副校長は典型的な副校長だと思います。いつも無理難題を押し付けられ困っているという雰囲気です。話し合いの場でも「今までこうやってきたからなぁ…」を何度も繰り返されていました。そのたびに「今までやってきたのは知っていますが、おかしいものはおかしいのですからきちんとしてください」と繰り返しました。別のところで会えば、愛すべきおじさんという感じです。

―では、その後の経過について教えてください。

 その後、待てど暮らせど何の連絡もなく、待ちきれなくなり一か月後に再度手紙を送りました。
 内容としては、前回話し合った内容をまとめ、間違いがないか、それについての解答はどのようになっているか、また、前回話をしたときの、私たちの主張の根拠となる資料(新聞記事など)も一緒に送りました。
 数日後、副校長から連絡があり、また会って話しをしたいと告げられました。
 しかし、前回と同じになるような気がしたので、意見の対立している点について学校側から返事をもらい、PTAの役員会を開いてからでないと、話し合いには応じないと伝えました。
 あちらは、話し合いの後、ほとんど何も進んでいないにもかかわらず、とにかく会って話しましょうという感じでした。
 相手側が何も進展がないにもかかわらず、乳児を連れての状態で話をしても結果が出ないと思ったからです。この時は何度も話し合いを断りました。

―たしかに、学校の先生方って、すぐに「会って話しましょう」と言いますよね。あれは「教育」現場の神話の一つだと思います。実際に会って話すことにかけがえのない価値を感じているというか。会って話すことの大切さを否定するわけではありませんが、忙しいときにはメールや電話の活用もありだと思います。

 私は非常に身近なところに、公務員の人がいるので、公務員(教員)の対応について、想像できるところがあります。
 公務員は次のように考えることが多いと思います。「とにかくよく話を聞け、不満を言っている人の中には家庭の悩みや仕事の悩みを抱えて、どこにも言えず、捌け口として公務員に不満を言う人もいるといる。不満を聞いて、共感すればそれだけで納得することもある」と。確かにそのようなことも多いようです。だから、教員の中には、話を聞いたり、共感したりするだけで、済ませてしまう人が結構いるのではないかと思います。
 ですから、そうならないように、一つずつ問題点をあげ、きちんと回答をもらえるようにしました。
 今回の話合いではPTAについて根拠が示せなくなったため、仕方なく合意という感じになったのではないかと思っています。また、今まであまり考えたことがなかったのですが、改めて考えると、はじめに期限を決めて、いつまでに誰が何をするか、合意していたことは大きかったと思います。
 最終的に、時間はかかりましたが、新学期の始まる直前に、何とか回答をメールでいただくことができました。短期間に、校長、会長、PTA役員で大急ぎで考えたという印象をうけました。そして、再度対面で話し合い、その後はメールで確認して全ての項目について合意しました。
 合意した項目は、「退会を認める」「親がPTA非会員でも、学校において子どもは何も区別されない」「非会員の子どもでも登校班に参加できる」「PTA会員が活動に参加できないときに代理を立てる必要はない」「来年度以降は入学説明会でPTAについて説明し、加入の意思がない場合は申し出てもらうようにする」「学校での配布物は全員に配布。しかし、プレゼントに関してはPTAは非会員に実費を請求することが出来る」「PTA主催行事に、子どもは実費を払えば参加することができる」などです。

―話を聞いていると、Yさん夫妻が非常に論理的であったと感じます。そのような経歴があるのでしょうか?

 私たち夫婦は、ごく普通の保護者だと思います。けれど、二人ともコテコテの理系なので、説明が合理的であったことは事実だと思います。特に夫は、話し合いの場では感情があるのかと思うほどです。「なるほど、おっしゃる意味は非常に良くわかりました。全く同意できませんが。」など、普通の表情で淡々と言うタイプです。
 ただ、学校はこのような意思決定のプロセスには慣れていないように思います。教育の場とは一般社会とは違い合理的であることが間違いになる場合があります。
 市場の原理をそのまま適用できるものではない。そうはいっても、合理的であることが必要な場合もあるのですが、こういった考え方に慣れていないため、情緒的、感情的なことのほうが重要視されてしまうのではないかと想像します。

―9月からPTA非会員になったわけですが、何かそれで生活が変わったことはありましたか? 周囲の人の反応はどうですか?

 私の知り合いはPTAをやめても今までと変わりなく付き合ってくれています。共感もしてくれます。仲の良い人からは、PTAの不満について聞く、愚痴係りのようになっています。
 仲の良い人以外にはPTA退会の話はしていません。たぶん、周りで「誰が辞めてるんだろうね~」という話になれば「え、私だよ」と言いますが、いまのところそんな話にはなっていないので、それをわざわざ言うのもおかしいなと思ってしていないというところです。
 私は保育園の保護者つながりで知り合いになる人が多いので、話をする保護者は仕事を持っている人がほとんどです。そうなると、PTA活動に積極的でない人が多いので、私を非難する人も少ないのかもしれません。
 だからといって、私の周りの友人は今のところ退会はしていません。でも私といるとき「今年は○○係をやろうと思うんだ」などの話も私もいる場で普通にしています。それも特に違和感はないですね。
 今のところ、子どももいたって平和に学校に通っていますし、私も特にいやな思いはしていません。辞めてよかったと思っています。
 でも、やはり退会者の仲間がいるわけではない。完全にマイノリティです。マイノリティでいることがいやな訳ではないけれど、私が今回このインタビューを受けることにしたのは、誰かにPTA退会の話を聞いてほしかったからだと思います。誰かに話して、どこかにいる仲間にお互い頑張ったねと言い合いたいのだと思います。

―そして年度末のPTA総会で会則が変更されて「入会届」「退会届」の導入と、入退会規定の整備がなされたわけですが、それはどのようにして知ったのでしょうか?

 事前に児童を通して、改定案が配られましたので、よほどお知らせを読まない家庭以外はみんな知ることができたはずです。PTAだよりは、非会員の私にも配られるので、私もおたよりで知りました。
 退会規定の件では、臨時総会も開かれました。私も、あんなにきっちりやるなんてと、驚きました。意見はしましたが、退会時にそこまで求めたわけではありません。
PTAだよりに書かれた副校長からのコメントには「PTAはそもそも任意と知らせることが今回の総会の目的…」「どれくらい退会者が出るか見極めてから来年度の活動を…」などの文もありました。
 総会の議事の中にも「そもそも、なぜこんな話になっているのか」「退会者は少数なのに、その人たちの意向で会則まで変える必要があるのか」「入退会が自由になってしまったら、退会者が多くなってしまうのではないか」などの意見もありました。
 でも、結局、退会したのは、私を含めて2名だけとのことでした。もう一人の退会者が誰かはわかりません。
 誰が辞めたのかということで騒がれるかと思ったのですが、それよりもPTA会長が2年任期の途中なのに辞めるといったとかの噂話でもちきりで、退会規定はあまり話題に上がっていません。
 正直、もっと話題になると思っていましたし、それを知ってもらって、退会者が沢山出て活動が改善されるといいなと思っていました。
 しかし、役員会の内紛の話ばかりが話題になっていて、退会規定のほうは影が薄いのです。退会規定はかなり画期的だと思うので私としては非常に残念です。
 知り合いの中には、退会したらどうなるのか聞いてきた人もいます。その人はその後、退会届を取りに言ったのですが、副校長に引き止められたとのことでした。それほど強い引止めではなかったようですが、退会を思いとどまったそうです。
 PTAは新入生だけでなく在校生家庭のすべてに入会届けの提出を求めましたが、実際に退会する人はほとんどいなかったということです。退会するとどうなるか説明していないので、退会すると大変なことになるのかもしれないと思っている人もいると思います。
 入退会届け、規定について、特に学校からも、PTAからも、私には何の連絡もありませんでした。非会員ですから、総会にも出ていません。ですから、どのような経緯で会則の変更にまで至ったのかは、よくわかりません。

―私の想像ですが、話を聞く限りでは、入退会届や入退会規定について、PTAの役員会よりも、学校側が積極的に主導したような気がします。自主独立の組織であるべきPTAに対して学校の影響が強いのはあまりよいことではないのですが、現実には学校の下請けになっているPTAはとても多いと思います。ですから、PTAよりも学校を説得する方が早いこともあります。Yさんも途中から学校を交渉の主体に据えているように見えますが、それは戦略的なものだったのでしょうか?

 するどいですね。一回目の話し合いの時に、PTA会長はほとんど発言しませんでした。校長から「どうですか会長さん」と振られたときに発言したり、書いてあるものを読み上げたりする程度です。それでも退会者は当然排除するという意思だけは強固だったという印象です。
 話し合いの後に、学校が味方になってくれれば全て解決するのだと気がついたので、その後は主に学校(校長)を相手にすることにしました。配布物など、PTA退会にまつわるほとんどの懸念点は、学校が「全児童を平等に扱う」と言えば解決できる問題だったからです。
 また、失礼かもしれませんが、PTA会長は、臨時役員会を開いて退会者の扱いを決めるにしても、その会議自体を仕切れるようには見えなかったのです。実際、臨時役員会では、校長から役員に話をして理解を得ましたと言っていました。
 後日、役員会でごたごたがあったと聞いたので、やはりこの戦略は正しかったと思います。

―仮定の話ですが、もしPTAに対する不満(参加の強制など)がすべて話し合いの時点で解決されていたとしたら、退会せずにそのまま残るという選択肢はあったのでしょうか? また、今後YさんがPTAに復帰することはあるのでしょうか?

 それはとても難しい質問です。はじめに結論を言えば、今の時点ではそのまま残るという選択肢はありません。非常に大きな話になってしまいますが、私はPTAの問題はPTAだけでなく、日本人の考え方が象徴されている大きな問題だと思っているからです。
 まずは話をPTAに限ると、PTAの不満は大きなものから小さなものまで沢山あるので、それら全部が解決されることはないと思います。現状は、入退会の規約はできましたが、「一人一役」はそのままなので、活動の強制性はあると言えます。また、小さなところでは、PTAのお知らせに学校の校章を使用していて、学校の組織ではないのに違和感があります。
 その違和感は重要なポイントだと思います。他の場で同様のことをしたら奇妙なのにPTAではそれで良いとされるし、誰も変だと言わない。言えない。
 入退会の規約があるかなどはもちろん大切です。でも、規約にならない不文律の部分も多くの団体にあります。例えば「一人一役」について、ほとんどのPTAでは特に規約には書いていないけれど、制度として運用している。役員や係りの免除についても規約には書かれていない。ですから規約は大事ですが、規約に書かれていない「そのPTA固有の文化」も非常に重要なポイントです。
 私が、「事実上活動が強制されていることが良くない」と言い、校長もPTA会長も同意し、来年からやり方を変えたとしても、校長も会長も変わってしまう可能性がありますから、再来年からどうなるかは誰にも保証できません。「今年の会長や校長がそう言ったから強制がないように変わったけど、今まで私たちは強制されてきたのに、今年から入ってきた人はやらないなんてずるいよね」という文化が根強いものであれば、和を乱さないために事実上強制されて、不満を言えなくなる人も多いと思います。
 そのときは一時的に改善されても「PTA固有の文化」が変わらない限り、強力な改革をする人が現れても、数年後には簡単に元に戻ってしまうでしょう。
 会員がおかしいと思うことに対してその都度意見を言える雰囲気、また、それを聞いて話し合える空気などの「新しい文化」が築かれるかどうかが大切だと思いますし、それを見極めなければ再入会はないと思います。

―なるほどですね。実は私はPTAの問題とは人間関係に起因するものがほとんどではないかと考えています。人間関係がよければ、ルールの不備は乗り越えられると思うのですが、それはたまたま、そのときの人が良かっただけであって、1年後や2年後はわからない。そのためにもきっちりしたルールで「文化」をも統制できるようにしておく必要があると思います。

 私はPTAに限らず、「みんなで協力」、「みんな平等」のためになら、「多様性な考え方や個人の意見が尊重されないことは仕方がない」という考え方は良くないと思っています。
 今の小学生が大人になって働くときには、ごく普通に世界中の人たちと一緒に働く時代が来ると思っています。そうなれば、文化や価値観や意見が違うことが当たり前という前提で、話し合い、合意するということが必要になるでしょう。
 でも、その子どもの親や教職員が、「子どものためなら全員がPTAに入るのが当たり前」「PTA活動をしない親は子育てにおいての責任を果たしていない」、「みんながやっているのにやらないなんて和を乱すことは良くない」などと考えていては子どもも変わりません。「みんなと違うことは良くない」という考えに何の抵抗も感じなかったり、抵抗を感じても反対意見を言わなかったりすることは、いじめにもつながりかねなくて、問題だと感じています。
 親が少数派になることを恐れて黙っているようであれば、子どもはたとえ自分の意見も正しいと思っていても、自信を持って主張することをしなくなるでしょう。
 親がPTAのやり方に不満を持っているのに、仕方がないからと活動し、「私はやったのにあの人はやらない」と不満を言っていたら、なぜ根本的な解決をしないのだろうと子どもは疑問に思うでしょう。
 そして子供は、そのように波風を立てないやり方が賢い生き方だと学習するかもしれません。私は、自分自身が子どもを相手にする仕事をしていることもあり、そのことに危機感を覚えます。これから世界で活躍する子ども達に、そのようになって欲しくないのです。
 PTAが、自由に意見が言える雰囲気になり、それをみんなが感じられる団体になればそのときはまた入会すると思います。

―ありがとうございます。入退会届や、入退会規定の整備が本当に良かったかどうかは、今後数年間の帰趨を見る必要があるかもしれません。とはいえ、とりあえずの試みとしては評価されるべきだと思います。最後に、一連の件を振り返ってみての感想を教えてください。

 PTAを辞めるのには本当に勇気もパワーも必要です。無関心なら会員でいて、活動をサボるほうが楽でしょう。
 PTAを退会した人は非常にPTAに関心がある人なので、ちょっとしたきっかけがあればかなり協力的になるのではないかと私は想像しています。
 私自身も、保育園の保護者会が好きでした。いろいろな人がいて、楽しかった。だからあまりのギャップに余計に不満を持ってしまったのかもしれません。
 保育園は色々な事情の保護者がいることを先生も保護者も分かっています。
 大学教授同士の夫婦もいれば、精神疾患を抱えた人も、生活保護をうけている人も、10代の未婚の母も、芸能活動をしている保護者も…。
 それを分かった上でできる範囲でやっていて問題なかった。
 それなのにどうして学校に入った途端にそれができなくなってしまうのか、本当に不思議です。
 同じ地域の保護者なのに。なぜなのか知りたいです。
 きっと、うまくいっているPTAは私が経験した保育園保護者会と同じような感じなんだろうなと思うと羨ましいです。


PTAアンケート調査の結果3(年会費について)

2015-05-07 18:17:32 | 日記
2015年4月7日から、一カ月間、インターネットで各地のPTAの情報を募集しました。
今回は、PTAの年会費と、組織の年間収入総額の結果を公開します。データ総数は34校。
なお、年会費は子ども一人当たりのところと、世帯単位のところがあって混ざっています。
年間収入総額も、会費のみのところと、前年繰越金を含むところと、補助金があるところと、いろいろです。
ですから、参考程度に見てください。
表が見にくいのはご容赦ください。

学校の種類 年会費 年間収入総額
公立小学校 1200 1,064,000
公立小学校 1800 5,970,000
公立中学校 2000 1,300,000
公立小学校 2100 4,000,000
公立小学校 2400 408,000
公立小学校 2400 1,557,000
公立中学校 2400 2,048,000
公立小学校 2400 3,445,000
公立小学校 2400 2,500,000
公立小学校 2400
公立小学校 2640
公立中学校 2640
公立小学校 3000 4,000,000
公立高等学校 3200 7,300,000
公立小学校 3600 1,000,000
公立小学校 3600 1,500,000
公立小学校 3600 2,000,000
公立小学校 3600 2,000,000
公立小学校 3600 2,000,000
公立中学校 3600 7,200,000
公立小学校 3600
公立小学校 3600
公立小学校 3840
公立小学校 4000 2,600,000
公立小学校 4400 3,500,000
公立小学校 4800 500,000
公立小学校 4800 3,000,000
公立小学校 4800 5,000,000
公立小学校 4800 5,200,000
公立小学校 4800 5,700,000
私立幼稚園 6000 700,000
公立小学校 6000 3,500,000
公立小学校 12000 800,000
私立中高一貫校 24000 3,000,000

低い方から並べてみました。
最も年会費が安いのは愛知県の公立小学校で1200円(子ども単位か、世帯単位かは不明)
最も高いのは佐賀県の私立中高一貫校で24000円です。
なお、公立小学校でいちばん高いのは愛媛県の公立小学校で12000円でした。
けっこう、格差があります。
なお、34校の平均値は4295円でした。


PTA紹介シリーズその2~わずかでもいいから全員に参加してもらうのが理想形

2015-04-26 09:28:04 | 日記
―PTA紹介シリーズの第2弾は、千葉県の公立小学校PTAで会長4年目になるSさんにお話しをうかがいます。Sさんとはツイッターでお会いしたのですが、“PTA会長になったので書籍などで情報を仕入れたがほとんど役にたたなかった”むねの発言をされていたのが印象的でした。現場の会員の意見が最重要であることは理解していますが「役に立たない」と言われると、出版業界の人間としては聞き捨てなりません(笑)。真意を詳しくお聞きしてもいいですか?

 PTAと言うと何かこう「あるべき正しい姿」があって、全国津々浦々どこでもそうあるべき、という印象を受ける人が多いように感じますが、地域性、共働き率や役員の男女比といった保護者の構成率、学校規模、歴史など、組織のあり方に影響を与える要素が多く、「同じあり方」で通用するとはとても思えないのです。メディアでとりあげられるPTA像は自分の知っているものと違うことが多すぎです。

―そうですね。メディア報道はどうしても特別な事例をとりあげるか、あるいは最大公約数的な一般論になりがちで、そこは私もいつも気になっています。しかし、一般論でも、PTAの意義や理念を知ることには意味があるのではないですか?

 歴史や参考意見という意味では一般論としての「PTAの意義や理念」にも意味があると思いますが、それが現実の組織としてのPTA(単P)にどの程度影響を及ぼすかと言えば、はっきり言ってあまり大きくないのではないでしょうか。個々のPTAの意義や理念は、正直に申し上げると千差万別でも良いのではないかと考えています。

―細かいところではそうでしょうが、学校自体は法律に基づいてある程度、均質につくられていますし、PTAにも共通するものはたくさんあると思います。地域のローカルルールで苦しむ人が出ないように、スタンダードや他の地域の事例を知るという意味で、新聞・書籍をはじめとするメディア報道にも一定の意味があると思います。

 私は会長1年目にPTA本を3冊読みましたが、私が知りたいことが書かれていないと感じました。私が知りたかったのは、「普通の会長としての立ち回り方」であり、「会を運営するために必要なことは何か」という事だったのです。ですからおそらく、本に問題があると言うよりは、私が本の選択を間違えた、と言う方が正しいです。
 PTAのあるべき姿は1つではないと思いますし、成り立ちから時間も経って存在意義が変わっていても不思議ではないし、またそれは必ずしも悪いことではないと思います。
 保護者が受け容れられる負担で、保護者や教職員の賛同を得られる活動をし、最終的に子どもたちの利益になる。そのためにどのように保護者同士が話し合い、理解し合い、誰かを置き去りにせず、手を携えて子どもたちを守り育むのか。役員という立場で、会長という立場で、また一般保護者として、それをどう担って受け継いでいくべきなのか。私が読みたかったのは、きっとそんな本だったのだと思います。

―よくわかりました。では、SさんのPTAの話をおうかがいします。特徴としては、学校自体が3年前に統合によってできた新しい小学校で、Sさんは初代会長として今年で4年目を迎えるとのことですね。それから、正式名称はPTAではなく、「保護者と教職員の会」だとか。PTA(Parents Teacher Association)は「保護者と教職員で構成された団体は規模や活動内容に拠らず一般的にPTAと呼ばれる」という意味で一般名詞だと考えられがちですが、日本PTA全国協議会などに見られるように、特定の団体にひもづいた固有名詞だと感じる人も多いようです。Sさんの組織の名称がPTAでないのは、やはり市P連に加入していないこと関係するのでしょうか?

 私の住んでいる地区は埋め立て地にできた町で、町自体が比較的新しいのです。この埋め立て地全体で約30校の小中学校がありますが、市P連に加盟しているのは3校だけです。統合前にうちの子が通っていた小学校は「保護者会」でしたし、統合した隣の小学校は「保護者と教職員の会」でした。統合後は「保護者と教職員の会」になりました。

―町自体が70年代以降にできた新しい地域というのはとても興味深いです。たとえば、地域コミュニティ関連でしばしばメディアにとりあげられる千葉県習志野市の秋津小学校も1980年開校の新しい学校です。秋津コミュニティ顧問の岸裕司さんは、新住民として学校の開校に立会い、PTAに参加して、会長を務めて、地域の顏になっていったようなところがあります。組織が新しいゆえのやりやすさがあったのではないでしょうか。ちなみに、統合後の新しいPTAとして、P連に参加するかどうかをあらためて検討したりはしなかったのですか?

 統合後にP連に加盟するかどうかは、全く議論しませんでした。どちらの小学校も加盟していなかった以上、どちらのやり方を引き継いでも加盟するという発想がなかったからです。
 とは言え、P連から何十周年かの冊子やPTA新聞のようなものが保護者と教職員の会宛に送られてきた事もあって、一応目を通した上で、ネットで情報を収集し、個人的に加盟の是非を検討したことはあります。しかし、負担に対する見返りが少ないと判断したので、他の役員にそのことを話したりはしませんでした。
 うちの地区はもともと中学校区の青少年育成委員会という組織の理事会が毎月開催されており、小中学校の校長、保護者会会長、地域団体の代表、地域自治会の代表が集うので、それで地域のほとんどの情報交換ができるほか、中学校区に存在する中学校と小学校の保護者会による連絡会が年2回開催されており、主にP連に加盟することで得られるだろう情報は既に得られているんです。
 それに加えて加盟すれば何が得られるの? となると、例えば講演会は参加するメリットより開催のためのお手伝いの負担が大きく、ネットで情報を収集したり意見を交換したりも可能なので、残念ながら利益と負担とのバランスが悪いと判断して加盟は見送りました。

―よくわかりました。では、話は少し戻りますが、そもそもSさんが新しいPTAの会長になられたきっかけを教えてください。

 もともと統合前の小学校保護者会で役員をしていました。 第1子が1年生の時に「他にいなければやっても良い」に丸をしたら、役員をしていたお母さんから電話がかかってきて、役員を引き受けることになったからです。 資源回収とベルマークが担当の部の部長でした。
  次の年から隣の小学校と統合する事になっていたので、隣の小学校の役員さんと新しい保護者会(PTA)でのやり方について打ち合わせを重ねたのですが、次第に「これを次の人に丸投げするのは無責任なのでは」と思うようになり、次年度も役員に立候補。
 ところが、役職決めで男性1名だった事や、元々物怖じせず話すタイプで全員ほぼ初対面の役職決めでもよく話していた事もあって「会長やりませんか?」と他の役員さんに言われて、断りきれませんでした。
  なので、なりたくてなったわけではなく、ただの不可抗力です。まさか何年もやる事になるなんて、当時は全く想像もできませんでした。

―というわりには、PTAについて一家言お持ちのように見えますし、ツイッター上では、いろいろな意見をはっきり言ってくださる「改革派」の熱心な会長に見えます。

 意見は基本的にはっきり言いますが、きちんと相手の意向をくみ取りながら、ですよ? 自分が思った事は絶対に口にする、という事ではないです。それに、ネット上では「伝わらなさそうな人に伝える努力」はほぼ徒労だと思っているので、はっきり言っても話が伝わりそうな人にしか、はっきりは言いません。
 その辺の取捨選択というか駆け引きというか、そういうものは高校合唱部、大学合唱団、社会人合唱団でのべ10年ほど指揮者をしていた経験が生きていると思います。
 保護者の間では統合後に私がいろいろと改革をした事になっているようですが、そんなことはありません。私はある程度旗を振りましたが、中盤以降はむしろ他の役員さんの方がノリノリで、私は意見の整理と、整理した意見をまとめた資料の作成に忙殺されていた記憶しかないです。
 正直に言えば、メディアにとりあげられるような「会長発の改革」には興味がなかったですし、今でもありません。そもそも、私自身が「特定個人の熱い思い(だけ)で組織全体が変わるのは、必ずしも健全ではない」と思っています。
 会長就任が決まった後に、PTA役員を経験したことがある仕事関係の知人との会話で「あー、熱い会長っているよねー。(3秒くらいの間)うざいよねー」と言われたのも鮮烈に印象に残っていました。
 また、小学校から高校までPTAに関わっていた母に助言を求めた時に「会長さんは口を出しすぎない。お手紙の文案でここがちょっとと思っても、大きな問題がないならそのままで。そうでないと他の人のやる気が失われるし、じゃあ会長さんがやって下さいよ、になるから」と言われたのもあります。

―なるほど。わかりやすさを優先して、特定のヒーローやストーリーをつくりがちな、メディア報道に対する辛辣なご意見と受け止めます。では「会長発」ではない、SさんのPTAの「改革」はどのようなものだったか教えてください。

 会長になった当初、私には特に保護者と教職員の会の理想像に対する強い思いはありませんでした。
 ただ、効率が悪いと思われるところはありましたし、統合初年度ということで「何でも確認する(全てが新規事業)」という雰囲気もありましたから、「それでいいと思う」「それ、前から思っていたけど不要じゃない?」といった意見がどんどん出ているうちに、本校での保護者と教職員の会のあるべき姿が見えてきた、というのが正直なところです。
 私は確かに「会則を変えない?」という問題提起はしました。私にとって、変える手続きが明確であるものは、賛同さえ得られれば変えても良いものだという認識でしたので、会則を変えるということに特に躊躇する理由はなかったからです。
 ですが、私は100のうち10くらい変えれば良いと思っていたんです。不明確なところを明確にする、明らかにやりにくいところは変える、くらいの意識です。
 ところが「面倒な部分は会長が引き受けてくれる」という安心感なのでしょうか、役員さんから私が思っていた以上にどんどん変えたいところが出てきて、それは組織のあり方そのものに関わる部分にも及びました。
 結果的に、私が思っていたよりはるかに大きな改定になりましたが、それはそれで役員さん達の自主性の結果なので、良かったと思っています。

―「面倒な部分は会長が引き受けてくれる」とは、どのようなことでしょうか?

 私自身は、保護者と教職員の会のあり方について強い意向を示しませんでしたが、役員の一定数がやりたいと思う(そして反対が少ない)ことは強力に推進しました。たとえば、「口頭説明」に信頼を置いていなかったので、初年度には自分が発起人でなくても何でも私が説明資料を作りました。
 また、学校や保護者に対する説明責任を積極的に果たしました。私の、物怖じせず話す力が、保護者向け説明会や総会の時に役に立っていたと思います。
 私としては、役員さんの「会長さんがあれこれやってくれるなら、どんどん言ってしまえ」という雰囲気を後押ししていたら、いつのまにか今のような「改革」のかたちに行き着いたと思っています。

―非常に、興味深いですね。では、具体的にどのような「改革」があったのかについて教えてください。

 たいしたことはしていないです。そもそも、まったく新しい組織でもなく、統合前に存在した2つの保護者会のやり方をひきついでいる部分も多いのです。ただし、隣の学校でもやり方は結構違うので、まず統合前の役員さん同士で統合校でのやり方について話し合いをしました。
 そのとき、隣の小学校には、力強く自校の方式を推薦する会長がいて、こちらは自校の方式をあまり強く押し出さずに統合後の良い方法を探る会長だったので、結果的に多くの部分で後者が押し切られた形になりました。
 具体的に言えば、隣の小学校は保護者会の仕事を「基本的に役員がすべて担う(必要な時だけ個別にお手伝いを募る)」方式でしたが、こちらは「役員だけでなく、役員以外の保護者にも仕事を分担」する方式でした。
 そして、「改革」と言われるものの多くは、統合時に隣の小学校のやり方に多くを揃えていた部分を、うちの子が通っていた小学校の「役員の負担は少なく、その代わり役員以外の保護者に少しずつ作業を負担してもらうことで、少しでも学校や保護者会と関わり合いを持ってもらいたい」というやり方に戻したものです。
 隣の学校出身の保護者にとっては未知のものを導入する事になるので説明責任はしっかり果たしました。ただ、私自身が新しい発想で何かをしたという事はほとんどありません。

―そこは重要なところだと思います。私はPTAは大きく2つに分けられると考えていて、一つは「役員が仕事を担う」、もう一つは「全員で仕事を分担」です。よく言われる「役員決めの憂鬱」は役員負担が過大な前者のPTAに特徴的なもので、後者ではそれほどでもありません。しかし「役員決め」という言葉でごちゃまぜに扱われているために、お互いに話が通じていないところがあるような気がします。また、前者ではたまたま役員になってしまった方だけがPTAについて意識的になりますが、後者では、毎年全員にPTAへの参加が強制されるためにPTAに対する会員の意識がいい意味でも悪い意味でも強くなりがちです。私は、退会の自由があったうえで「全員で仕事を薄く広く分担」するPTAのほうが健全ではないかと考えています。

 おっしゃるとおりだと思います。
 うちは会員世帯数が約250、役員数が28です。28人の役員がそれぞれ100の力を出しても集まる力は2800ですが、これは役員以外の全世帯が13ずつ割いた力の合計とほぼ同等です。
 現実問題として、役員が100の力を割くのは困難です。また、役員になるとそれだけの事を求められるとなれば、役員のなり手もいなくなります。
 保護者会がどんな活動ができるかは、いかに無理なく多くの力を集められるかにかかっています。役員にそれを求めれば負担がとても大きくなりますが、全世帯からの協力が得られれば会員も一般保護者も無理なく、それでいて役員だけでは担えないほどの力が集まります。
 ですから、「全員に仕事を割り振る」方式のほうが、「役員が仕事を負担する」方式よりもベターであると思うのです。
 役員になりさえしなければ「役員が仕事を負担する」方が楽なんですけど、いつ自分が役員になるかと戦々恐々とするのは、健全ではないですよね。

―しかし「全員に仕事を分担してもらう」方式であると、どうしても一定数の「何もやらない」人が、目に見えるかたちであぶりだされてきてしまいます。「役員が仕事を担う」方式だと、そのような人は(くじびきや欠席選出など相当の強制がない限り)そもそも役員に選ばれないので、問題は表面化しません。「全員に仕事を割り振る」と「仕事をやらない」人が可視化されてしまうので「不公平だ」などの声があがりがちではないでしょうか?

 まず、うちのやり方を説明します。保護者と教職員の会全体としての仕事は割と少ないと思います。
 特徴をあげるならば、大きなところでは、バザーがありません。また、「○○講座」的なもの(プリザーブドフラワー作りとか)もありません。PTA連盟に加盟していないこともあって、講演会などもありません。「主催行事」と呼べるものは、夏休み最後の3日間に行っているラジオ体操と給食試食会くらいでしょうか。
 役員の仕事は広報紙の作成を除くと、ほとんどが係活動(役員以外の世帯に割当)の統括作業です。係の方へお手紙を出したり、希望日時アンケートを取って係を割り振ったり、係の方が使用するものを準備したり、といった作業になります。
 係活動はラジオ体操、ベルマーク仕分け、資源回収の掲示、放課後子ども教室のお手伝い、交通安全指導(4月と9月の朝3日間)、運動会(駐輪場整理と場内パトロール)等です。これを役員以外の保護者で分担して行ってもらっています。
 係活動は1年間で1~4時間程度のお手伝いをお願いしているのですが、事前にアンケートを採って、やりたい係を選んでもらいます。必ずしも第1希望の係になれるとは限りませんが、多くの場合は第2希望までに収まります。
 おっしゃるように希望係のアンケートを返してくれない方もいます。そのような方には児童を通じて、丁寧なお手紙をお送りします。それでも出してくれない方が全体の5%くらいいます。
 希望係のアンケートを出していただけない方は「どれでも良い」と理解して割り振りますが、実際にはそういう方は係活動を割り振っても無断欠席される事がそれなりにあります。ですから、なるべく1人2人いなくても問題のない係に割り振ります。
 割り振られた係活動を欠席した方には別な日程でお願いしますが、再度欠席される場合もあります。「ずるい」と個人的感想を持つ役員もいますが、そういった方々に無理にでも参加してもらうための労力がもったいないので、基本的には放置しています。
 そもそも、アンケートの不提出や係活動の不参加への「ずるい」という評価は、卒業までの6年間全体で下すべきです。ある年だけどうしても忙しくてアンケートを出せなかったり活動に参加できなかったりすることもあるでしょうから。そして卒業と同時に「結局一度もやってくれなかった」と分かっても、卒業してしまった人に文句を言っても仕方ないですからね。「ずるい」と考える人から見れば「逃げ得」ではありますが、仕方ない。
 「何もやらない」人を減らすために、できなさそうなことは依頼しないことと、丁寧なお手紙を出し続けることを心掛けてはいます。しかし、それ以上に何かしようとすると、最終的にその方から提供していただく力より、その方に力を提供していただくために役員がかける労力の方が大きくなって本末転倒です。
 この「得られる効果と必要とされる労力(含時間)とのバランス」の問題であるという事が他の保護者に理解していただければ、不満もそれほど大きくならないように感じています。

―では、努力はするものの、どうしても出てくる一定数の「何もやらない人」は許容すべきだというお考えですね。もう一つの解決策として「何もやらない人」は、そもそもPTAの活動に賛同していないのだろうから、負担応分のない非会員になってもらえばいいのではないか、という考え方もあります。いわゆる「任意入会」論ですが、これについてはどのような考えをお持ちでしょうか?

 私の考えが、必ずしもその他の役員の考えと完全に一致しているかどうかは保証の限りではありませんが、「本校の保護者と教職員の会は、自治会ではなく管理組合であると考えているので、そもそも任意入会であるべきとは考えていない」というのが回答になります。
 学校に対してそれぞれの家庭が均等に責任を持つ必要があり、それは団地やマンションで共有部分の管理のために管理組合があって未入会や脱会ができない(区分所有法で定められています)のと同様という考えです。
 ですから入会時に「任意加入」の説明はしませんし、そこを説明しない以上、入会をお願いしたりはしませんが、「~をしてもらいます」という言葉遣いをせず、役員や係活動、会費についても「~をお願いしています」と言うように心がけています。

―なるほど。たしかにPTA創設を推進したGHQの1946年の資料でも、PTAの意義について「学校の管理に関し、父兄及びその他の市民が責任を有している。」と書かれています。PTAは任意団体とはいえ、実質的には全保護者が参加すべきものだ、というお考えですね。しかし、PTAはマンション管理組合のように法的な位置づけがありません。「未入会や脱会ができない」と言い切ることはできないのではありませんか?

 法的な根拠がない事はご指摘の通りです。 なので、うちがそういう趣旨で活動している事を丁寧に説明して、ご理解いただくという事ですね。
 実際にはそのような方にお会いしたことはないのですが、もし「退会したい」もしくは「入会したくない」という方が現れた場合は、おそらく個別対応になります。
 まず、大前提として「退会(入会しない)なんてとんでもない」とは、思いません(少なくとも私は)。
 その上で、何が原因で退会を希望されるのかをしっかりとお聞きして、それが組織としての問題点で改善するのが妥当である、と判断した場合は、必要な変更を行います。これで済むのであれば、「問題点を指摘してくださってありがとうございます」という気持ちです。
 私は、きちんとお話しさえ聞いていただければ、現在の本校保護者と教職員の会の活動内容や目指しているものに賛同いただけない方はいらっしゃらないと思っています。
 ただし、賛同できても家庭としてできることとできない事があって、できない事を強制される不安というのもまた理解します。
 それらを、先入観なく、結論ありきでもなく、きちんとお話し合いをした結果として「もうそれは入っていただくのは困難ですね」となれば、退会や入会しないという選択肢を否定するものではありません。

―わかりました。たしかに「PTAは入会が当たり前」という言葉も、「PTAは任意が当たり前」という言葉も、どちらも話し合いを拒否しているという意味では似ていますね。では、その「きちんとお話し」の内容をうかがってもよろしいでしょうか。

 保護者と教職員の会の活動は、もちろん全て子どもたちのためになる活動であると同時に、保護者同士が接点を持つきっかけとして大切なのです。
 例えばベルマーク回収は時代遅れの象徴のように言われることもありますが、学校に集まってベルマークを会社ごとに仕分けたり点数計算する作業は、居合わせた他の保護者との雑談の場となり、知らない保護者と知り合えたり、学校の様子や他学年の状況を知ることができたり、という利点があります。
 これを「強制」するから問題があるのであって、係を希望してくれた人で、かつ日程調整を行って参加できる日に参加していただくのであれば、ベルマークで得られる物品ではなく活動そのものが有意義であると考えています。
 昨今、保護者は共働きも多く、繋がりが少なかったり偏っていたり希薄だったりします。
 そのため、子ども同士がトラブルになった場合にやり取りが全て学校経由となりがちで(学校側も相手の名前を言わなかったりします)、解決に時間がかかったり後にしこりを残すことがあります。保護者と教職員の会などで保護者同士に接点があれば、そのような事態をある程度ふせぐことができます。
 ですから、子どもが学校に通っていれば、自分の子どもの問題は他の子どもや家庭に影響を与える訳で、保護者と教職員の会に参加しなくても自分の子どもさえしっかり見ていれば良い、学校とだけ向き合っていれば良い、という事にはならないと考えています。
 もちろん、そういう組織である以上、負荷が過重になることは当然許されません。
 保護者間の関係強化は、学校での問題発生を未然に防止し、あるいは発生した問題に迅速かつ適切に対処できる方法だと考えますが、だからと言ってできない事を強制すると目的の達成を困難にします。
 得られる効果と必要とされる労力(含時間)とのバランスをしっかりと見極め、わずかなメリットのために多大な労力をかけるのは避けなければならないでしょう。
 このバランスは時代や地域によって変わるのでとても難しいのですが、難しいからやらなくて良い訳ではなく、子どもたちの健やかな成長と楽しく意義深い学校生活のためには、学校任せにせずに保護者もそれぞれができる範囲でやらなければならない事ではないでしょうか。
 負荷が過重かどうかなどは、本来総会での議決で判断されるべきものだと思うのですが、総会の議案書に目を通さない方も多く、なかなか難しいなと思う今日この頃です。(「負荷の高い活動計画案が提案されたら、当然否決される」というのがあるべき姿だと思うのですが)

―なるほど。「全員入会」のためには「負担の軽減」をセットで推進しなければならないわけですね。では、実際にどの程度の「負担」なのかをおうかがいします。さきほど、役員以外の人は、毎年1~4時間程度の係活動をしてもらうという話がありました。では、役員の「負担」はどの程度のものでしょうか?

 役員の具体的な負担は役職にもよるので一概には言えませんが、半分以上の役員は学校に来るのは年間で10日です。
 これは総会と、3月と8月以外の毎月1回開催される役員会(約1時間)および役員会の後に開かれる部会や部の作業のためで、時と場合にもよりますが9時半頃から2~3時間程度です。 半休を取って参加し、「仕事なので途中で失礼します」と帰られる方もたくさんいます。
 ちなみに9月は学校の引き渡し訓練と同日、4月の総会と2月は学習参観と同日なので、「他に用がないのにわざわざ学校に来る」のは年間7回ですね。
この役員会や部会等は、もちろん欠席可能です。 部の誰かが報告してくれれば役員会は行えますし、部会や作業はいる人でやるのが基本です。
 事務局や書記は、お手紙の配布作業等があるのでもう少し学校に来ますが、それは事前に分かっている事なので無理な方がこの役職に就くことはほぼありませんし、こちらも結局は来られる人で作業するので、欠席できない訳ではありません。
 過去には、役員さん同士の話し合いの結果「役員会と部会は全欠席。その代わり自宅でできる部のパソコン作業を一手に引き受けてメールでやり取り」という役員さんもいました。

―たしか「役員の負担が少ないから、役員の立候補が定員の2倍ある」とおっしゃられていたと思います。役員の選出方法についてもおうかがいしてよろしいでしょうか?

 会員の皆さんには「お子様1人につき6年間で1回の役員」をお願いしています。しかし決まりではないので、実際のところ、6年間で1回も役員をせずに卒業される方が学年の人数にもよりますが4~5割ほどいます。
 これを個人的に「ずるい」と思う人はいるでしょうが、組織としては「ずるい」とは考えません。役員には定員がある以上「仕方ない」事です。役員の定員を増やせば素晴らしい活動ができるかと言えば、必ずしもそうではないですし、ある年になり手が集中した結果、別な年に人材不足になるのも組織の継続性にとってはデメリットなので、立候補者が余るくらいのほうがよいと考えています。
 ちなみに、会員世帯250に対して、役員数は28名とほぼ1割です。そして、役員決めにあたっては、立候補する人が全体の2割、免除を申請する人が全体の4割、残りの4割が立候補はしないけど免除も申請しない人(くじ引きで当たればやる)という感じです。現在のところ、立候補者が多いのでくじ引きになることはほとんどありません。
 なお、免除申請者の9割は役員経験者です。「すでに役員を経験したから」以外の理由(会則内の規定で定められている兄弟姉妹が特別支援学級に在籍、妊娠中、出産後1年以内、など)で免除を申請する人は毎年一桁しかいません(この方々はほぼそのまま免除になります)。

―なるほどですね。「6年間一度も役員をしなくてすむ人が4~5割いる」なおかつ「役員になってもその負担は比較的少ない」から、SさんのPTAには不満が少なく、うまく回っているということでよろしいでしょうか?

 何事にも例外はあるので、あまり断言したくはないのですが、その認識でほぼ間違いないかと思います。
 私が活動をする際に気をつけているのは「割ける労力や時間には個人差がある」という事です。役員と言っても、その量を超えて何かをお願いするような権利はありません。
 ただ逆に言えば、「相手にとって問題なく割ける程度の労力と時間で、かつ相手の都合とのすり合わせをきちんとすれば、ほとんどの事はやっていただける」とも思っています。これを丁寧にやる事こそ、今苦心してマニュアル化しようとしている部分です。
 ですから、会員の皆さんに「それくらいならやってもいいかな」と思えるところまで役員の負担を減らすようにしていますし、だからこそ立候補もたくさん出る。

―ネットで目にする意見の中には、「役員はうまく回っていると考えているが、現場では不満の声ばかり」というものがあります。あえておうかがいしますが、一般会員と役員との間の意識の乖離はないでしょうか?

 「役員との間の意識の乖離」というのは私も常に気にしていますし、私自身は様々な場面に顔を出してできるだけたくさんの一般の保護者の方とお話しするように心がけています。保護者と教職員の会のメールアドレスもあるので、毎回おたよりの最後に載せてご意見を寄せてもらうようにもしています。
 また、メールで寄せられたり役員が見聞きしたりした、ほんの少しの疑問や意見でも、役員会の「保護者の声」コーナー(あるんです、そういうコーナーが)で報告してもらって役員全体で確認するようにもしています。もちろんどうしても必要な場合を除いて、お名前は出ません。
 ちなみにうちの会については入学説明会で新入生の保護者にご説明していますが、口頭での説明は最小限にとどめ、活動内容やQ&Aをまとめた6ページのパンフレットを配布して読んでいただいています。同時に、会則や前年度の総会議案書も配布します。「どんな会か分からない」という不安を和らげると同時に、「後ろめたいことは何もない」「全てが明確になっている」事を知ってもらうためです。

―少し話はそれますが、PTAのコンプライアンス(法律順守)についてはいかがでしょうか。個人情報保護や学校との間の公私混同などはありませんか?

 うちは会員の住所や電話番号を情報として持っていません。また、基本的にお手紙と人づての情報交換で何とかなっているので、現時点では必要だとも思っていません。もちろん学校に確認することもありません。
 また、学校の費用と同時に会費が引き落とされる事に忌避感を抱く方がいらっしゃるようですが、うちは封筒を配布して子ども→担任を通じての手集金です。
 会計は保護者が全て担っており、学校側(教頭先生とか)が勝手に支出することはあり得ませんし、また予算に「学校が自由に使える費目」のようなものもありません。(ただし、学校からの依頼があり、役員会で支出に賛同が得られれば、支出することもあります)
 会費は支出項目の多くが子ども単位という事もあり、子ども1名につき年額2,000円です。

―よくわかりました。SさんのPTAは、私の所属するPTAと共通点が多いので、親しみを感じます。ところで、それでも私は「入会の強制」はよくないのではないかと考えていますが、いかがでしょうか?

 活動が衰退しないのであれば、自動入会より任意入会のほうが理想的だとは思います。
 ですが、私の場合は前述の通り「保護者のつながり」が大切なのであり、漏れる人がいては意味がないと考えます。
 つまり、任意入会で加入率100%が目指すところなのですが、現実的に、それはほぼあり得ないと思います。
 となると、次善の策として「管理組合」が最も良いと考える次第です。
 理想論としては「任意入会」はありです。ただ、 全国展開を考えると、管理組合方式が地域性(同じことをしてもあるPTAではうまくいくが、別のPTAではうまくいかない)等に左右されなくて良いと思いますが。
 もちろん、法的な根拠がないので、現状では「管理組合」といっても反発する方が多いでしょう。
 あくまで個人的な意見ですが、前述の通り「過度の負担を強制されない」前提で、保護者会(PTA)は保護者(と教職員)による学校管理組合として、法整備されても良いと思います。
 もちろん過度の負担防止のための条文整備や、会計(報告)の方法の明文化なども、同時に当然行われるべきです。
 もし、本当に管理組合的な法律が整備されれば「退会」という選択肢そのものがなくなりますので、「任意かどうか」や「入会の強制」の問題は消滅します。

―私も何度かその案について考えてみました。正直なところ、法律で管理されるのはあまりいい気分ではありませんが、親が子どもに教育を受けさせる「義務」の一環として、最低限の学校の管理への参加はあってもよいと思います。あくまでも最低限ですが。
 話は変わりますが、PTAへの参加意識も高く、積極的に役員をやろうとする人同士であっても、意見が対立して物別れになることが多いように感じています。特に、任意入退会の周知や退会規定の整備については、それぞれの思いが異なるでしょう。SさんのPTAで、そのような対立はなかったのでしょうか? Sさんの意見に反対する方などはいませんでしたか?

 すでに述べたように、私には当初「こうしたい」あるいは「こうすべき」という意見は全く何もありませんでした。それがあるように見えるのであれば、この3年間で役員さんを含めた本校保護者や教職員との関わりの中で構築されていったものです。
 私の意見が否定された事は、記憶にある限りでは「広報誌は内容が古くなりがちなので、A4裏表程度で良いので毎月発行にできないか?」くらいだと思います。それも思いつきで言っただけで、そこまで強く「そうあるべきだ」と思っていたわけではなく、他の役員さん達が今のかたちが良いと思うならそれでよい、という感じです。
 また、私が「それは別にそのままでもいいのでは?」と思ったことが、「負担だから」という理由でなくなった事もありました。それも「あっても良い」程度の感覚だったので、役員の負担が軽くなるのであればなくなったのが「残念」とも思いません。
 役員を含む幅広い保護者とのコミュニケーションがきちんと取れていれば、「他の人は嫌がるのに自分はやりたい」と思う事なんてほとんどないと思います。だって「知り合いのあの人が困る顔は見たくない」って思うじゃないですか。
 なので、私が「どうしてもやりたい」と思うことがあるとすれば、ほとんどの場合、他の人も少なからず賛同できるような内容なのではないかと。
 
―ありがとうございます。非常に興味深いインタビューになったと感じています。Sさんの考えるPTAの意義や目的について教えてください。

 全保護者と教職員、また学校と家庭との連携の促進。それから子供たちや学校、保護者のための活動ですね。
 PTAの成り立ちはさておき、昨今の親同士がろくに知り合いにならない、思ったことを言わない状況においては、子どものための直接的行動(ボランティア活動)よりは、親同士をどう繋ぎ(別に友達になれということではありません)、それによって子どもにとっての良い環境を構築するかの方がよほど重要だと思っています。
 家庭と学校だけで全てが完結するなんて事はあり得ません。子どもが学校に通う以上、子ども同士の関わりがあり、子ども同士が関わる以上は家同士も間接的に関わることになります。その時に、相手の保護者の顔を知っているか、どんな人かを知っているか、話をしたことがあるか、はとても重要です。
 そして、その子の事を知っている人がたくさんいる、いつもどこかで誰かが見ていてくれる、という安心感は、親にも子どもにも良い影響を与えるはずです。

―各学校のPTAの実態については、記事になりやすい事例ばかりでなく、さまざまなかたちで光が当てられることが大切だと感じています。最後に、PTAで悩んでいる方に向けてのメッセージが何かあれば、お願いします。

 学校が違えば様々なことが違います。詳細に調査したわけではありませんが組織のあり方から保護者の関わり方、学校や地域との関係まで全国津々浦々千差万別だと感じているので、一般論として何かを語るのはとても難しいことだと思います。
 ですから多種多様な方々に共通に届くメッセージというのは実に難しく、すぐには思いつきませんし一言では言い表せません。 
 1つ思いついたのは、総会についてです。
 多くの場合、「総会は執行部の思いのまま」という印象があると思います。総会で何を言っても仕方ない、という印象を持っている人も多いでしょう。
 「みんな不満である」「みんな苦しんでいる」とよく聞きますが、私が不思議に思うのはその不満や苦しみが総会に向かないことです。
 一致団結して総会に出て、活動報告などに反対してみてはいかがでしょうか。質問などしなくても良いのです。採決の時に手を挙げない、拍手をしない、ただそれだけで良いのです。
 数人では不安でも、その人数が多くなればなるほど、よく言われる「仕返し」を恐れる必要もなくなります。
 本当に「みんな」が不満だったり苦しんでいたりするのであれば、できるはずです。先入観なく、結論ありきでなく、相手の意見をすぐには否定せず、落ち着いて話をすることができれば、きっと賛同者は集まります。
 そして、もしあなたが役員側であれば、保護者会(PTA)の改革の第一歩は、「総会資料の事前配布(見てから委任するかを決められる)」、「議長以外の任意の人への委任を可能にする」辺りから始めてみてはいかがでしょうか。当日の参加者が減る事を心配される方もいらっしゃるようですが、委任状さえきちんと出してもらえれば総会は成立しますから、出席者の人数はあまり気にする必要はないと思います。
 最後に、遠くの他人より近くの他人。ネットの情報に重きを置きすぎず、近くのリアルな保護者ときちんと向き合うことをおすすめします。
 きちんと向き合った中での保護者会(PTA)活動なのであれば、それがたとえ他と違っていてもきっと良い活動のはずです。
 どうしても近くに相談者がいなくて、何か相談したい、意見を聞きたい事があれば、ツイッターID:@hikosまで、遠慮なく声をおかけ下さいませ。時間が許す範囲でお答えいたします。


PTAアンケート調査の結果2(入退会について)

2015-04-15 04:53:57 | 日記
2015年4月7日から、インターネットで各地のPTAの情報を募集しています。
現在、33校の情報が集まったので、途中経過を一部公表することにしました。

学校への入学時(編入時、就職時)  規約や会則に   区P連、市P連などに
にPTAに入会するかしないかの    中途退会の規定は  加入していますか?
選択肢がありましたか?       ありますか?

東京都 公立小学校   なかった    ある    加入している
東京都 公立小学校   なかった    ない    加入している
東京都 公立小学校   なかった    ない    加入している
東京都 公立小学校   なかった    ない    加入している
東京都 公立中学校   なかった    ない    加入している
東京都 公立中学校   なかった    ない    加入している
東京都 公立中学校   なかった    ない    加入している
神奈川 公立小学校   なかった    ない    加入している
神奈川 公立小学校   なかった    ない    加入している
岐阜県 公立小学校   なかった    ない    加入している
岐阜県 公立小学校   なかった    ない    加入している
宮城県 公立小学校   なかった    ない    加入している
福岡県 公立小学校   なかった    ない    加入している
福岡県 公立小学校   なかった    ない    加入している
愛知県 公立小学校   なかった    ない    加入している
愛知県 公立小学校   なかった    ない    加入している
香川県 市立小学校   なかった    ない    加入している
茨城県 公立小学校   なかった    ない    加入している
茨城県 公立小学校   なかった    ない    加入している
大阪府 公立小学校   なかった    ない    加入している
愛媛県 公立小学校   なかった    ない    加入している
熊本県 公立小学校   なかった    ない    加入している
京都府 公立小学校   なかった    ない    加入している
大阪府 公立小学校   なかった    ない    加入していない
千葉県 公立小学校   なかった    ない    加入していない
東京都 公立小学校   なかった    ない    加入していない
神奈川 私立幼稚園   なかった    ない    加入していない

東京都 公立小学校   あった     ある    加入していない
東京都 公立小学校   あった(備考) ない    加入している  (備考:加入申請書がある。提出するしないが選択肢)
佐賀県 私立中高校   あった(備考) ない    加入している  (備考:入学時ではなく、入試説明会のときにあった)

神奈川 公立小学校   覚えていない  ない    加入している
千葉県 公立小学校   ?(備考)   ない    加入している  (備考:会費口数を選ぶ紙が配布されるのでそこでゼロを選ぶことも可能と考えられないこともない)
 
有効回答数   32校
PTAに入会するかしないかの選択肢 なかった:27校 あった:3校 その他:2校
規約や会則に中途退会の規定     ない:30校  ある: 2校
市や区のP連への加入        している:28校 していない:4校

余計な注釈かもしれませんが、この結果には若干偏りがあるのではないかと考えています。
なぜなら、アンケートの伝播経路が、PTAで苦しんでいる方や改革をしたいと考えている方が中心であったためです。

追記です。
2010年にNPO教育支援協会が、PTA役員経験者630名に対して行ったアンケート調査の結果では、
「PTA入会時に入退会は任意で自由であることの説明があった」と回答した方は17%いました。「説明はなかった」と回答した方は75%でした。
(なお、母数が少ないのですが、私のアンケート調査では「入会するかしないかの選択肢があった」と回答した方は8.5%になります)。



PTA紹介シリーズその1~会員数90人の小規模PTA

2015-04-11 17:44:33 | 日記
 雑誌や新聞、テレビなどがPTA問題をとりあげることが多く、PTAに対する関心が高まってきているのを感じます。
 しかし、メディアにとりあげられるときのPTAは、かなり悪者扱いです。たしかにそのようなPTAもあるのかもしれませんが、全国3万のPTAの中には、メディアで見られるPTAとはまったく違うものもあるのではないでしょうか。
 そこで、PTAアンケート調査に答えていただいた方の中から、特徴的であると感じたPTAをいくつか選んで、順番に関係者にインタビューをしてみることにしました。最初は都内の公立小学校でPTA会長3年目のDさんです。


―Dさんが会長をつとめている小学校PTAは、会員数が約90人と非常に小規模のようですが、これは入退会が自由だから会員が少ないのでしょうか?

 いいえ、保護者には全員、会員になっていただいています(笑)。しかし、そもそもの児童数が少ないので、全員入会でもこの人数にしかならないんです。
 といっても、私たちは入学式で新入生保護者にPTAの説明をするときに、「PTAは強制ではなく任意で入会することになっております」と説明はしています。
 けれど、入学式で体育館が寂しく感じられるくらい少人数の学校ですから、たいていの保護者は「こんなに人数が少ないのなら、手伝ってあげないと!」という気持ちになるみたいです。
 私は6年前からPTAの運営にかかわっていますが、知る限りでは「退会したい」と言ってきた人はいません。「全員がやるものだ」というか、「みんなで助け合おう」という雰囲気は、確実にあると感じています。
 一学年一クラスで、なおかつ一クラスの人数が20人以下なので、お互いの距離が近くて、私たち役員がちょこちょこと動いているのを見て、自発的に手伝いに来てくれる保護者の方も多いですね。PTA会長をしていると、だいたい90人中50人くらいは顏がわかるようになります。

―そうはいっても、どの学校にも一人か二人くらいPTA嫌いな方は、いるものではないですか?

 もちろん水面下では、PTA会費を払わなかったり、会議や手伝いに来なかったりする“すっとぼけママ”とかはいます(苦笑)。
 クラスの人数が少ないので、誰がそういうことをしているのかはすぐにバレますが、みな忙しいので、糾弾に時間を使うよりは、いる人だけでさっさとやろうという感覚のほうが強いみたいです。
 さぼる人に不満を持つ人もいるでしょうが、全体としては「ま~そういう人もいるよね」くらいに受け止める人が多いようです。

―なるほど。「そもそもPTAって何をするものなのかわからない」という保護者も多いと思いますが、Dさんの学校では「保護者が集まって子どもたちを助ける」という意味で、みなさんが比較的すんなりとPTA活動に参加していただけているわけですね。

 うちは共働き率がほぼ100%です。ほとんどの保護者が働いており,かつママさんでも企業で働くキャリア系の方が多くいます。そういう意味では、PTAも「仕事」の一環として普通にやるよ、という方が多いのではないでしょうか。
 もちろん、みなさん忙しいのでガッツリとPTAにかかわることはできないのですが、「何かちょっとだけだったらやれるよ」という感覚の保護者が多いです。

―お話しをうかがっていると、かなり特殊というか、一般的ではないPTAに聞こえてきますが、どうなんでしょう?

 東京23区内には、学校選択制のある区が比較的多いのです。で、選択制になると、どうしても人気のある学校とそうでない学校とに分かれてしまいます。そういう意味では、うちは“人気のない学校”なのかもしれません(笑)。けれど、都内では小規模校も共働きも、そんなに珍しくないですよ。
 小規模校には、友だちが少ない、クラス替えができない、先生も少ない、運動会とかが寂しく感じるなどのデメリットがあります。
 逆に言えば、少人数クラスで、できない子をできるまで教えることができる、先生も指導が楽、ケンカやイジメが少ない、などのメリットもあります。
 そういうことにメリットを感じる保護者が集まるので、子育ての意思統一がみな同じ方向を向きがちで、PTAの指揮もやりやすいとは感じています。
 ただし、小規模校は学校予算があまり与えてもらえないです。給食室やエアコンとかの改修もすぐにはやってもらえず、後回しにされます。行政としては、小規模校はコストパフォーマンスが悪いので、本音では近隣の学校と統合してしまいたいのです。それに対して保護者としての意見を主張していくためにも、PTAは重要になります。

―なるほど。少人数だから保護者も顔見知りになりやすいし、小規模校なりの問題もあるから意見を発信していく必要もある。だからPTAが一つにまとまりやすいわけですね。なんとなく、PTAの問題は人数で解決できるような気もしてきました。

 PTAに関心のある保護者って、どの学校でも70人くらいがせいぜいではないか、と思っています。ということは、100人保護者がいる学校では70人がPTAに理解がある。とすると、関心が無い人は30人です。7割が理解あるということは、大勢が手伝って当たりまえとうけとめてくれるので、業務がある程度滞りなくできます。
 逆に400人くらいの大規模校の場合、70人くらいが理解ある保護者だとすると,330人くらいは「PTAやらずに済むならやりたくない」と思うのではないでしょうか。400人くらいの規模だと業務の量も半端ないですよね。そうすると人手がいる。でも、やりたくない人のほうが比率では多い。となると、いきおい抽選とかクジとかで係きめになっちゃって、不満が高まるのではないでしょうか。
 だとすると、70人くらいで回せるボリュームにダウンサイジングするか。 あるいは、そもそものボリュームは減らさずに、ファンドみたいに「この事業をやるには○○円必要です。ご自身がお手伝い出来ない方はお一人○○円をPTAに寄付してください」みたいにやるのか。
 PTA会費という考え方をそもそも辞めてしまい、1プロジェクトごとに協力者を募る、寄付を募る、集まらないプロジェクトは廃止する、とか柔軟な発想をしていかないと、いずれ行き詰まってしまうような気がします。

―学校や人数に関係なく一定数ですか。私はどちらかというと、一定の割合であると考えています。いずれにしろ、人数が多くなると、不満を持つ人の絶対数が多くなるとは言えそうですね。Dさんは、比較的リベラルというか、PTA組織に対して柔軟な考えをお持ちのようですが、伝統を守ることには興味はないのですか?

 PTAがやっていることはたいへん意義のあることだとは思います。会長をやる前と今を比較すると、けっこう意識は変わりました。たとえば,自分のの子以外の子どものことも心配になってくるとか。
 ただし、学校や地域のお手伝いみたいな仕事って、別にPTAという組織でやらなくてもいいのではないかと思うことはあります。保護者の「仕事」の第一は子育てなので、実感としては,PTAはもっと子どもに関わることを中心にやるべきだと思います。
 たとえば,学校の授業でどんなことを教わっているかを調べるとか、先生の授業の質、食べ物の質、子ども同士のつきあいなどを知るとか。
 ですが,一部の学校のPTA幹部には「PTAは子どもの成長を見守る組織ではない」と言っている方もいてびっくりします。PTAは保護者と教師との連携,あるいはPTAとPTA同士の交流の場であって、教育そのものを論じあう場でない、と信じている人が少なからずいるんです。そういう人は、子どもの面倒をみるのをうとましく思っているのかなとちょっと疑念にかられます。
 PTAって年間行事が先に決まっちゃっていて、お祭りとかイベントが多いじゃないですか。それって、やりたい人が自主的にやればいいと思うんです。わざわざPTA本部が仕切る必要はないんじゃないかと。PTA=イベント興業主,みたいな構図に、自分は違和感があります。
 地域のイベントの手伝いもやり始めると面白いのですが、それで疲れてしまって、本来のPTA活動や、自分の子どもの世話がおろそかになるときもあります。なので、地域と合体したPTCとかPTCAに対しては、ちょっと懐疑的です。PTAは地域住民である前に、保護者であると思うので。

―今のお話しにつながるのですが、現在のPTAの問題は、業務負担の問題がほとんどであるととらえられることが多いようです。では、負担を少なくしていった場合に、それでも最後まで残さなければいけないものって何でしょうか?

 PTA問題と言われているものは、一般保護者が負担と思うものを削ってあげればいいだけの議論が多いです。うちはほとんど削って、P連も脱退して、地区の手伝いも校長からの頼みも無理なものは断わっていて、それでうまくいっている面はあります。
 ただし、PTA自体が無くなると、途端に行政側が保護者を舐めてくる可能性があります。PTAが存在することが、保護者を守るための抑止力や武器になることは忘れないでいてほしいです。

―「行政側が保護者を舐めてくる」とは、具体的にどのようなことでしょうか?

 たとえば、うちの小学校の給食で、おかずの中に異物が混入して多くの子どもが誤って食べてしまった事故がありました。
 給食に誤って異物が混入するのは、正直仕方ないと思います。事故がゼロってわけにはいきませんから。
 しかし、学校は事故を教育委員会にはすぐに報告したのに,保護者には詳細な説明をなかなかしてくれませんでした。原因や健康への影響や再発防止策などについては、自分で調べて、ようやくわかったのです。
 学校にとっての上司は教育委員会なので、教師も校長も「上」を見て仕事せざるを得ないのでしょう。彼らが、保護者や児童よりも教育委員会を恐れていることが、よく分かりました。
 この事故のときに、責任の所在をあいまいにする行為が見て取れたので、私たちも理論武装とか、どこにどうやって戦いを挑むべきかとか、いろいろ考えました。
 結果として、一個人として戦っても相手は舐めてかかってくるので、まずはPTAの組織を盤石にしておかねばと感じた次第です。
 それ以外にも、学校の統廃合問題や、地域の再開発問題、教師の質の問題、一人親家庭や外国籍家庭のサポートなど、PTAとしてまとまって向かい合わねばならない問題はいくらでもあります。

―今のPTAの議論で忘れられがちな視点ですね。では、保護者の負担はどの程度なのか、具体的にうかがってもよろしいでしょうか?

 一学年一クラスで、一クラスの人数が20人以下という話をしましたが、基本的には1つの係に、各学年から1名以上出していただくことになっています。共稼ぎが多くて、一人では無理なので、実際は2名以上になることが多いです。そして毎年、何らかの係を全員が少しずつ担当する、というやり方です。
 ですから、結果的には毎年全員にPTA活動に参加していただくことになるので、そこだけを見れば負担が少ないとは言えないかもしれませんが、係によっては1年に1回しか手伝いがないよ、というケースもありますし、一人ひとりの仕事の量は格段に少ないと思います。もしも全員に割り振ることをやめると、その年の係になった人の仕事量が増えてしまって悲鳴があがるでしょう。
 とはいえ、毎年必ずPTA参加というのもきついので、6年間のうち1年は「PTAお休み」という年を設けて、適宜休んでもらっています。休みの割り振り方は、それぞれの学年に任せています。

―もう一つ、現在のPTAの議論では、任意入退会(PTAへの入会、退会を自由にさせてほしい)がよく取り沙汰されていますが、そちらについてはどのようにお考えですか?

 PTAの入会書・退会書フォーマットを作ることは私も考えました。けれど、結局とりやめた理由は、実際に作ってほしいとの要望が出ていなかったのと、「入会書出したんだから、がっつり働いてください!」みたいな強引な組織を生む温床になることを懸念したからです。
 入会届とか退会届っていうのは、ある意味、人々に縛りをかけるようなものです。特に大規模校になりますと、PTAが抱える手伝いや作業量が半端ない量の学校もあります。いきおい、入会届を出した方に大きな作業量の負荷がかかり「やっぱり来年は退会したい!」とか、そういったネガティブな気持ちをうんでしまうかもとの心配があります。
 結局、会長3年目の今年も入会届や退会届は配りませんでした。「配ってくれ」とも頼まれませんでした。200人くらいの規模になったら、あらためて考えなければならないとは思っています。

―なるほど、難しいですね。たしかに、少人数の組織で全員の顏が見えていて「退会します」と自由に言えるような空気があるなら、形式的な入会届・退会届はいらないかもしれません。社会人の登山サークルやスキーサークルに、入会届や退会届はないですからね。「入会届を書いてくれ」と言われたら、逆に身構えてしまうかも(笑)。でも90名規模なら、あってもいいという気はします。
 私見ですが、PTAを「退会したい」と言う方は、比較的、PTA活動に積極的にかかわった結果、「嫌な思い」をして「退会」を口にするようになるのではないかと考えています。結婚がなければ離婚もないようなもので、つかず離れずで適当にPTAとつきあっている方は「任意入退会」には関心がないというか、そこまでPTAそのものに関心がないというか。
 そこで、最後におうかがいしたいのは、PTA内部での軋轢です。たとえばP連を脱退したとおっしゃいましたが、それについても、やっぱり反対する方はいたと思うのです。どのようにして対立を乗り切ったのでしょうか?

 たしかに、うちのPTAは「小P連」を脱退するかどうかで揉めておりました。前会長が「脱退推進派」だったのですが、なかなかまとまりきらなかったのです。前会長と親しくしていた私は、会長交代のときに「脱退推進派」からの会長候補という形で推薦されました。
 本当は、私よりも適任と思われていた方がいたのですが、その方は会長就任を固辞されて、土壇場で私に会長役が回ってきました。当時は仕事が忙しかったのですが、とりあえず私が「はい」と言わないと何も動き出さないと思われたので、観念して引き受けました。
 一方、「P連維持派」は会長候補者を出すことができませんでした。その時点で勝負ありですね。「脱退推進派」が勝利という形となり、私の代で脱退を決定することができました。
 誤解してほしくないのですが、小P連は,各学校の単PTAをとりまとめて連携を図るという意味で、大変有意義な組織だと思います。
 しかし、それぞれの学校はそれぞれ抱える問題が違います。それら各校の固有の問題を、P連に加盟することによって解決できるかと言えば、そうでもありません。多くのP連は,年間行事(研修会,スポーツ大会,一斉パトロール,歓送迎会など)を遂行することがメインの任務になっています。要するに、各校への動員要請をする元締めみたいな存在なのです。
 それが当たり前と思っている幹部もいるようですが,近年は疑問に感じる単P会長もぽつぽつ出てきているようです。そこで、私たちのように脱退をすることで意思表示をする会長もいれば、内部からの改革を目指そうと何人かで集まって改革プロジェクトを起こそうとしている会長などもいます。これは単位PTAを内部から改革しようというのと同じですね。
 私は、PTAは任意入会なのだし、P連も任意入会でよいのではないかと思っています。

―いろいろ、興味深いお話しをありがとうございます。PTA会長といっても、地域が大好きな方もいれば、それほどでもない方もいるのですね。最後に、Dさんの考えるPTAの目的について聞かせてください。

私の個人的な思いで、所属する組織とは無関係ですが(笑)、
一番は、子どもたちの成長を見守ること(たとえば、目立たない子のケアをするとか)
二番は、保護者と先生との交流の円滑(それに地域が加わればもっとよいでしょう)
三番は、世の中の不条理への対抗、ですかね(苦笑)


PTAアンケート調査の結果1(役員や委員の負担)

2015-04-10 15:57:05 | 日記
2015年4月7日から、ツイッターで各地のPTAの情報を募集しました。
現在、30校の情報が集まったので、途中経過として結果を一部公表することにしました。

今回は、30校を役員(委員)負担でソートしました。
記入していただいた会員家庭数と、本部役員数、本部以外の役員(委員)数をもとに、各会員に年間どれくらいの役員(委員)負担がかかるかを計算して、負担が楽な順番に並び替えました。
表の中にある「役員や委員の総数÷家庭数」がその数値です。

もしも、会員のすべてが毎年、役員や委員のいずれかの役につくPTAがあったとしたら「役員や委員の総数÷家庭数」は1になります(実際にありました。一番下の熊本県の公立小学校を見てください)。
もしも、6年間に1回だけ、役員や委員のいずれかの役につく程度の負担であるとしたら「役員や委員の総数÷家庭数」は、0.17くらいになります。
また、3年間に1回(6年間に2回)の負担であれば、「役員や委員の総数÷家庭数」は、0.33です。
ですから、数字が小さければ小さいほど、役員や委員になる負担の少ないPTAということになります。

といっても、役員や委員にならなくても、必ず毎年、何らかの仕事を割り振られるPTAもいくつか存在しますから、この数字がすべてではありません。
そこで、役員や委員選出における義務も、簡単にまとめて掲載しています。義務がまったくないというPTAもありましたが、誰かが役員や委員になるまで合議制で話し合いを続けるため、時間がかかってけっこうストレスです、とも書かれていました。

みなさんのPTAはいかがでしょうか。何らかの参考になれば幸いです。



なお、この画像中の情報はすべて個人の自己申告によるもので、まだ裏付け調査を行っていません。あくまでも参考程度に使用してください。

『運営からトラブル解決まで PTAお役立ちハンドブック』目次と正誤表

2015-03-27 03:17:25 | 日記
まえがき

第一章 基本編 知っておきたいPTAをとりまく状況

Q1  PTAっていったい何なの?
Q2  PTAって何をしているの?
Q3  なんでPTAが問題になっているの?
Q4  PTAって、制度として、なくてはならないものなの?
Q5  PTAは入会しないといけないものなの?
Q6  PTAを退会すると何か問題があるの?
Q7  どうしてPTAについての話は、意見が対立しがちなの?
Q8  PTAの活動には参加しないといけないの?
Q9  PTAの活動に参加するのって時間の無駄じゃないの?
Q10 PTAって外国にもあるの?

第二章 組織編 役員や委員になる前に考えておくこと

Q11 PTAの役員や委員は、一度はやらなければいけないの?
Q12 PTAの役員や委員を、断るときはどうすればいいの?
Q13 PTAの委員になると何かいいことがあるの?
Q14 PTAの役員になると何かいいことがあるの?
Q15 PTAの役員や委員になると、何か困ることがあるの?
Q16 PTAの活動には本当に意味があるの?
Q17 PTAの役員や委員には報酬や特権があるの?
Q18 なぜ、教員もPTAの会員になっているの?
Q19 PTAのTである教員はPTAの活動に参加しているの?
Q20 PTAの会費は何に使われているの?

第三章 運営編 PTAで何をするかを知ろう

Q21 PTAの役員や委員ってどういう位置づけなの?
Q22 学級委員会、学年委員会って何をするものなの?
Q23 成人教育(文化厚生)委員会って何をするものなの?
Q24 広報委員会って何をするものなの?
Q25 校外指導委員会って何をするものなの?
Q26 役員指名(推薦、選考)委員会は何をするものなの?
Q27 会長、副会長、書記などの役員は何をするものなの?
Q28 PTAの会長や委員長はどうやって選ぶの?
Q29 日本PTA全国協議会には所属しなければいけないの?
Q30 日本PTA全国協議会って、いったい何をしている組織なの?

第四章 応用編 「困ったな」のそのときに、考えてみること

Q31 うちのPTAはまるで学校の言いなりに見えるんだけど、どうして?
Q32 PTAのほかに保護者会というものがあるんだけど、どう違うの?
Q33 講演会や講習会に、PTA会員が人数合わせで出席するの、無駄じゃない?
Q34 PTAの予算が少ないのに、指定業者を使ってほしいと言われた。なんで?
Q35 無駄な会話が多くて、会議がちっとも進まないのはどうにかならないの?
Q36 自費で参加しなければならない親睦会や懇親会って、本当に必要なの?
Q37 バザーやベルマークや資源回収、本当にやったほうがいいの?
Q38 PTAの活動って仕事を休んでまで参加しないといけないものなの?
Q39 学級委員やクラスからの役員候補が決まらない! どうしたらいいの?
Q40 PTAの役員や委員になってもらうにはどうしたらいいの?

第五章 未来編 よりよいPTAをつくるために、考えておきたいこと

Q41 PTAっていったいどんなことができるの?
Q42 より多くの人が参加するPTAってどんなもの?
Q43 あらためて、PTAとはどうあるべきなの?
Q44 PTAで新しいことをしようとしてもすぐに反対されるけど、どうしたらいい?
Q45 PTAを改革するにはどうしたらいいの?
Q46 PTAに対する不満をどのように解消するべきか?
Q47 PTAは自動入会を止めて、いちいち入会申請書を書いてもらったほうがいいのか?
Q48 自動入会と任意入会のメリットとデメリットを、それぞれ教えてください。
Q49 PTAの改革をしようとしていろいろ提案しても、みんなの反応が悪い。どうしたらいい?
Q50 これからのPTAはどのような姿が望ましいの?

PTA改革事例その1 平川理恵さんの場合(大田区立雪谷小学校)

PTA改革事例その2 山本浩資さんの場合(大田区立嶺町小学校)

あとがき

PTAを知るためのブックガイド(参考文献)

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正誤表
P.6 10行目 誤「PTAで何をするか知ろう」→ 正「PTAで何をするかを知ろう」
P.30 7行目 誤「自治権を犯す」→ 正「自治権を侵す」
P.85 P.110 P.220 誤「広報誌」→ 正「広報紙」
P.110 7行目 誤「PTAのうた」→ 正「PTAの歌」
P.187 6行目 誤「文部省」→ 正「文科省」
P.217 8行目 誤「読売新聞」→ 正「共同通信」
P.217 25行目 誤「尾木ママ(尾木直樹)や、作家の川端裕人さんも」→ 正「尾木ママ(尾木直樹)さんも」
P.116の沖縄県那覇市の公立小学校での事例について、当事者である保護者Mさんより以下の指摘をいただいています。
「問題なのは『PTA』ではなく『学校』です。私は『本来あってしかるべき権利を主張』したのではなく、PTA会費について権利義務のない且つ違法性のある徴収を学校が行うことを問題にしており、『本質的な疑問』は学校の行為にありました。後に市長・PTA会長を相手とする民事調停にまで発展したものの、当初の意図は学校・行政に対し民法(公序良俗)と地方財政法(寄付の強要)上の問題を指摘するものです。」