K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

「地下鉄のバイオリニスト」についての小論考

2013年01月18日 | 美学
まずはこの記事を読んでみてください。

玄のリモ農園ダイアリー「地下鉄のバイオリニスト」

動画は先程のリンクにも貼ってありますが、直接Youtubeのリンクも貼っておきます。

Stop and Hear the Music

2009年のワシントンポストの記事のようです。
最近、友人周りでこの記事が少し話題になったので少し思うところを・・・。
まあ、友人が「マルセル・デュシャンに通じるところがある」ということを述べていたので、それを更に深くまで考えてみようかなと。

ぼくは、この行為がデュシャンとは逆のプロセスで同じ主張につながるのだと感じました。
つまり、デュシャンが男性用便器を美術館に置くことで、単なる便器を美術品として扱ったようなプロセス。
それとまさに逆のことをこの実践は示しているのだと思われます。

デュシャンのプロセスを高名なアメリカの美学者アーサー・ダントーの言葉を借りて説明するなら、"the Artworld"(アートワールド)による"transfiguration"(変容)であるということが言えます。
つまり、美術館という「アートワールド」によって便器という物体に美的性質が付与される。
美術館によって日用品が芸術品に「変容」するというわけですね。
そして、この変容が成立してしまった時点で芸術は「終焉」を迎えるとダントーは考えるわけですが・・・。
(というと、美術家になんと言われるかわからないですけど笑)

ぼく自身がこの考え方をどう思うのかは置いておいて、確かに芸術の前衛性というものは失われてしまった印象はぬぐい去れません。
そもそも、前衛性という言葉が既に死語になりつつある印象さえあります。
問題はどれを対象とし、どこを切り取り、どう展示するかという理念にまで限られているような印象さえあります。
(あああ、あくまで個人のたわごとですすすすみません・・・)
とにかく、「純粋芸術として」の芸術は「終焉」してしまったかもしれません。

話がずれましたが・・・
「地下鉄のバイオリニスト」はこの逆のプロセスを行っていると思うのですね。
つまり、芸術品から日常品への"transfiguration"ですね。
一級品のバイオリニストの演奏が、地下鉄では獲るに足らない路上ミュージシャンになる。
「変容」という意味では確かに、このバイオリニストの実践とデュシャンには共通するものはありますね。

しかし、変容の仕方は同じかというとそうではなく。
路上ライブもまたアートであるからですね。
海外ではストリートアートも芸術として高い評価がありますし。
「変容」は「変容」でも、この実践ではハイ・アートから大衆芸術への「変容」という点で違いますね。
音楽の場合で同じ程度のことを言うなら、やはりジョンケージを引き合いに出すべきでしょう。
日常の音さえも作品に組み込もうとした点は、確かに日常品から芸術品への「変容」がみてとれるわけです。

そもそも、路上で行われるものはすべてが路上アートというジャンルでしょう。
それは芸術であるかというモノの質如何に関わらず、ジャンルの話題になってくるわけです。
路上という「アートワールド」がもたらすのは・・・路上アートへの「変容」ということ?
芸術外のものを芸術内に「変容」させるデュシャンの実践に比べて、芸術内のものを依然として芸術内に留めておく今回の例の「変容」は厳密には異なっていると言わねばならないのではないでしょうか。

では、芸術品が日常品に「変容」するプロセスとは一体何か。
うー・・・難しい・・・
「キッチュ」や「キャンプ」というものが関わってくるのでしょうか。
かじった程度では正直何も言いきれませんね。

やはり学問は中途半端にすべきではないということを再確認しました笑

hona-☆

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