タイトルは新渡戸さんが詠った漢詩だそうです。
この一ヶ月ぐらいはほとんど部屋に身を隠してた。
普段の話す相手は二人の上司しか居ません。
ですから、しゃべる能力は急遽↓...
上司たちは、前から「ここに来る人間なかなかいないんだ」と話してた。
でも、自分だけの世界に隠れることも、ある意味で、隠れられることは、なかなかすごいでしょう。
今日は、くずし字と2時間ぐらい戦った後、仕方なく飽きた。。。
ちょうどお昼の時間だから、大学祭をもう一回巡ってきた。
朝は雨だったので、観客はお昼から集まってきて、にぎやかだった。
食べたかったたこ焼きは安すぎるから、長~く並んでる。
待ちたくないから「春巻」「ちまき」「ごまボール」の店に行った。
(今入力してる時初めて分かった、ちまき=粽のこと。汗!)
そこのちまきとは、竹の葉で作った四角の箱に、海鮮ご飯を入れる蒸し物のようなものですが、
普通、端午節の定番は「粽子(そうし)」という4つの三角の側面を持つ奇妙な形になってるもち米を包んでる食べ物です。
海鮮ちまきの隣にあります。
「生煎」「麻球」「粽子」のセットは、いずれも昔の朝よく食べたものです。
知り合いサービスの値段でセットを買った。そして「春巻」と「ちまき」もご馳走になった~とても美味しかった~~~~~~予想以上美味しかった~~~粽子の形は少し崩れたが、それは、もともと難しいものです。
春秋時代、楚国の屈原大夫が王に上諫したが、王は全然聞いてくれなかった。屈原は悲しくて石を抱いて汨羅江(ミラこう=現在湖北省)に身を沈んだ。後世の人は彼を記念するため、毎年の端午節に、粽子を作って魚に江に投げる。今になっても全国で龍舟レースが行われます。
もっと前の朝代、王に無視された大臣たちは、自殺したものもいれば、山の奥に遁隠したものもいる。中国文学にも、隠者の歌がたくさん残っている。
ところが、山に身を隠すことは、実に易い。他人とつき合わせずに自分の心の穏やかを求める一方だ。言い換えれば、人間との接触が少しでもあれば、心が乱れられる。
この意味で、「市」(人の世)に身を隠すことは、もっと素敵な境でしょう。いくらぐらい周りが激変しても、多分自分も変わったりするとしても、精神の純粋が守れる(善とか)。
この場合、身が市に隠れるのではなく、本当は自分の心に隠れているでしょう。強い心があれば、自分の信念が守れる、というのは理想な境かもしれません。。。
話を戻しましょう。
それて、「北京糖葫芦」の前で、店員さんに捉まれた。
砂糖がなくなったから、買ってくれ~え、え、私でいいの?
生協に行ったら、1パックしか残っていない。大学祭って、生協も儲かるね~店に戻ったらまた知り合いサービスで試作2本をご馳走になった。
知り合いとか、全然知らない中国人たちでした。
嬉しかった。
夕方帰る時、ネパール雑貨店でバックを買った。本は一冊しか入れないぐらいのサイズで、少し足りない感。ネパール店といっても、ボスは日本人のおばさんらしい。「どこから来たんですか?」の問に対して、「中国」って答えたら、おばさんにすぐ店で手伝いしてる中国人男性を目の前に押された。そのお手伝いさんは、この春に来たばかりなので、まだ日本語が話せないって言ってた。
それを聞くと、少し感心してた。
言葉の壁を乗り越えて、活躍している彼に。
私は、もう、長い間にしゃべったことがないから、話せなくなった。
コミュニケーションは大事です。
言葉ではありません。
この一ヶ月ぐらいはほとんど部屋に身を隠してた。
普段の話す相手は二人の上司しか居ません。
ですから、しゃべる能力は急遽↓...
上司たちは、前から「ここに来る人間なかなかいないんだ」と話してた。
でも、自分だけの世界に隠れることも、ある意味で、隠れられることは、なかなかすごいでしょう。
今日は、くずし字と2時間ぐらい戦った後、仕方なく飽きた。。。
ちょうどお昼の時間だから、大学祭をもう一回巡ってきた。
朝は雨だったので、観客はお昼から集まってきて、にぎやかだった。
食べたかったたこ焼きは安すぎるから、長~く並んでる。
待ちたくないから「春巻」「ちまき」「ごまボール」の店に行った。
(今入力してる時初めて分かった、ちまき=粽のこと。汗!)
そこのちまきとは、竹の葉で作った四角の箱に、海鮮ご飯を入れる蒸し物のようなものですが、
普通、端午節の定番は「粽子(そうし)」という4つの三角の側面を持つ奇妙な形になってるもち米を包んでる食べ物です。
海鮮ちまきの隣にあります。
「生煎」「麻球」「粽子」のセットは、いずれも昔の朝よく食べたものです。
知り合いサービスの値段でセットを買った。そして「春巻」と「ちまき」もご馳走になった~とても美味しかった~~~~~~予想以上美味しかった~~~粽子の形は少し崩れたが、それは、もともと難しいものです。
春秋時代、楚国の屈原大夫が王に上諫したが、王は全然聞いてくれなかった。屈原は悲しくて石を抱いて汨羅江(ミラこう=現在湖北省)に身を沈んだ。後世の人は彼を記念するため、毎年の端午節に、粽子を作って魚に江に投げる。今になっても全国で龍舟レースが行われます。
もっと前の朝代、王に無視された大臣たちは、自殺したものもいれば、山の奥に遁隠したものもいる。中国文学にも、隠者の歌がたくさん残っている。
ところが、山に身を隠すことは、実に易い。他人とつき合わせずに自分の心の穏やかを求める一方だ。言い換えれば、人間との接触が少しでもあれば、心が乱れられる。
この意味で、「市」(人の世)に身を隠すことは、もっと素敵な境でしょう。いくらぐらい周りが激変しても、多分自分も変わったりするとしても、精神の純粋が守れる(善とか)。
この場合、身が市に隠れるのではなく、本当は自分の心に隠れているでしょう。強い心があれば、自分の信念が守れる、というのは理想な境かもしれません。。。
話を戻しましょう。
それて、「北京糖葫芦」の前で、店員さんに捉まれた。
砂糖がなくなったから、買ってくれ~え、え、私でいいの?
生協に行ったら、1パックしか残っていない。大学祭って、生協も儲かるね~店に戻ったらまた知り合いサービスで試作2本をご馳走になった。
知り合いとか、全然知らない中国人たちでした。
嬉しかった。
夕方帰る時、ネパール雑貨店でバックを買った。本は一冊しか入れないぐらいのサイズで、少し足りない感。ネパール店といっても、ボスは日本人のおばさんらしい。「どこから来たんですか?」の問に対して、「中国」って答えたら、おばさんにすぐ店で手伝いしてる中国人男性を目の前に押された。そのお手伝いさんは、この春に来たばかりなので、まだ日本語が話せないって言ってた。
それを聞くと、少し感心してた。
言葉の壁を乗り越えて、活躍している彼に。
私は、もう、長い間にしゃべったことがないから、話せなくなった。
コミュニケーションは大事です。
言葉ではありません。