先週末は、岡山にて中四国医系学生のつどい第4回実行委員会がありました。
2日目のフィールドワークでは、かつてハンセン病の隔離施設であった長島愛生園を見学しました。
現在でも300名の方が入所されていますが、ハンセン病患者は一人もいません。皆、特効薬も無かった時代に充分な治療も受けられずに重症化し、後遺症が残った方たちです。
瀬戸内海に浮かぶ長島は、風景の穏やかな島ですが、所々に残る古い建物やその跡が暗い影を落としていました。
上の旧事務本館は、現在は歴史館として各資料の展示がなされ、ハンセン病問題を学び、様々な人権問題を考える場として利用されています。
職員さんの案内のもと、入所者が上陸した桟橋跡や収容所などの施設を見学しました。下は埋められた監房の外壁跡です。ここには逃走を企てた入所者が収監されました。懲戒権は園長にあり、1953年に「らい予防法」が制定されるまで、戦後の憲法下においても使用され続けたそうです。
そこから納骨堂のある丘に上るまでの途中に、明石海人(あかし かいじん)という、戦前この施設に入所していた歌人の歌碑がありました。
「監房に罵りわらふ もの狂い 夜深く醒めて その聲を聴く」
25万部を売り上げたという明石海人の歌集「白描」の序文にある、
「深海に生きる魚族のやうに、自ら燃えなければ何処にも光はない」
という言葉は、後の入所者たちに大きな希望を与えたといいます。
実際に、入所者は絵画や音楽、スポーツなど様々な分野で、国内や世界を舞台に活躍されており、自ら光を放っています。
鳥取県にもかつて、国の隔離政策の一翼を担って「無らい県運動」を精力的に進めた歴史があります。愛生園の敷地内には謝罪訪問した知事たちが植樹した一角があり、鳥取県の樹も見つけました。2001年に片山善博知事が植えたものです。
納骨堂の近くには、米子市加茂小学校の生徒さんから贈られた千羽鶴がありました。
「私たちが差別を無くします」と、決意が書かれています。
最後に納骨堂の前で、案内をしてくださった職員さんから、2つのお願いがありました。
「入所者はハンセン病ではなく、その後遺症として身体に障害を持つ方々です。感染もしません。
偏見の目で見たり、差別をしないでください。
入所者が亡くなっても、遺族の方は周囲の目を恐れて遺骨を受け取りに来ません。
その“周囲”とは、私たち自身のことです。」
「新たな偏見や差別をつくりださないでください。
最近、また新たな差別がありました。…原発事故の被害に遭われた方たちです。」
私Uが、11年ほど前に初めて愛生園を見学してハンセン病患者の隔離について知った時には、なんとも言い難い黒い力が世の中を動かしているように感じて、不気味に思ったものです。
確かに国の隔離政策は誤っていましたが、その一方で、ハンセン病患者を社会から排除していったのは一般の人々でもあります。誰しもが、自分にとって異質なものを排除しようとする心を持つのかもしれません。それが、見えない悪意になって現れるのかもしれません。
同じことを繰り返さないためにはどうすれば良いのか…?
認識を正しくすることはもちろんですが、自分に人権があるように、他人にも人権があると普通に自然に思えるかどうか、なのだと思います。多分…。
(U)