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helpless

破滅への道

スキタイ・サカ

2017-11-22 | 

引用

カッシート人がウラルトゥ地方に侵入する前から、アナトリアには原ヒッタイト族、カルトヴェリ族、ハヤシャ族が住んでいた。

ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、重要都市のカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッテナ国となる。

そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族が入ってきた。

このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフルリ人、カッシート人チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体であった。

カッシート人は月氏になりインドに移ってクル国のなかにも混在した。

従ってウラルトゥとクル国は同族であり従属した同盟者。

フルリ語の粘土板文書がチグリス川の支流域のヌジ、ユーフラテス川沿いのエマルシリア方面のアララクやウガリトから出土。

BC15世紀頃のもので、ヒッタイト王国の3代ムルシリ1世や5代スッピルリウマ1世がフルリ人国家を服属させたという記録がある。

このフルリ人はナーガ族と同じ蛇信仰をもっていたが、ヒッタイト人に征服されウガリットでのフルリ人は天候神ダゴンと収穫神バールを崇拝。

これはフルリ人の神が蛇神から征服者アーリア人の牛神に変わったことを表す。

フルリ語は日本語と似ているとされるが、フルリ人はシュメール人と同族だったので妻のことを【妹】と言っていて、古代倭人も妻を呼ぶのに【吾妹わぎも】と言う。



フルリ人は【旧約聖書】でホリ人として登場。

フルリ人の【ミタンニ王国】がヒッタイト人によって征服された後、フルリ人の一部は北上しアルメニアのヴァン湖畔に【ウラルトゥ】を建国するが、ウル第三王朝~ミタンニ~ウラルトゥの流れが満州の扶余に至る北回りルートで【シルクロードの天皇家】となる。

もう一つの南回りのルートは、シュメール~インド~ベトナム~満州という【穢族・サカ族】のルート。

これが【安冕あめ】氏と【阿毎あま】氏の二系。



ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されるが、【ウラルトゥ】とは【ヴルトラ(蛇)】の意で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがある。

神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄。

古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼ぶ。

しめ縄の原点であり、【史記】の伏犠・女カの神像は共に蛇身人首で、両尾をしめ縄のようにからませる。

有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐。



【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは、亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがある。



【フルリの王】と自称したシャルドウリシュ1世やメヌアシュ、アルギシュティシュ1世などの優れた王を出したウラルトゥもBC585年にアーリア系のアルメニア人が侵入し首都ティシェバーナが没落、以後ウラルトゥ人はシルクロードに亡命することになるがこのシルクロードのウラルトゥ人を中国の文献は【伯族】と称する。



【宮下文書】は、ウガヤ王朝が月読命(月氏)と同盟していたとするが、このことはアナトリアのウラルトゥとシルクロードの月氏が同盟してアッシリアと戦った歴史を表す。


セム系の月氏は、ウラルトゥの時代にも天皇家と共にあった。

この時の同盟関係が天皇家と月氏(藤原氏・秦氏)につながる。

ウラルトゥ王国はBC6世紀初頭のカルミール・プルーフの時代に滅亡してしまったが彼らはナボポラサルのカルデア王朝に従属し、その後アケメネス朝ペルシアの王族を王とし服したがアレキサンダーによってペルシアが滅びた後その一部が扶余を建てた。

ウラルトゥ王国がスキタイなどの印欧語族に追われキンメリ人やチュルク人と共にアフガン北部のバクトリアに逃れ、さらに華北に移動、ここで秦に伐たれたため、満州に入って扶余前期王朝を建てた。

倭人社会はサカ族系の人々に支配された穢貊。

このうち貊族はクメール族で後に毛人と書かれ穢族とはツングース族でオロチ・蝦夷と書かれる。

穢族のオロチ族が【東日流外三郡誌】のアソベ族で、北朝で中国文化に接触し後、契丹を亡ぼして金を建国し、降って愛新覚羅王家によって清を建国した民族。

ラストエンペラーで知られる愛新覚羅 溥儀は愛新覚羅王家の末です。

この分派、穢族のオロチ族は、日本へは朝鮮半島東岸から能登半島に上陸した。

そして、貊族のクメール(毛人)がツボケ族。

クメール(毛人)の次に日本列島に進入し、彼らを支配したスキタイ・サカ系の民族は元々、殷時代、北狄と書かれ、殷末には殷(イシン国)の亡命者が建国した箕子朝鮮の北方を支配した。

スキタイ・サカ系の民族は、前800年頃から二分して箕子朝鮮と同盟する扶余族と朝鮮半島を南下し辰国を建てた人々とに分裂することになる。

インドでは前12世紀にアーリア族の侵入が終了し中国大陸ではこの頃に周が建国。

周の建国にアーリア族の移動が影響を与え、殷族が周に亡ぼされた前11世紀に、殷族の一部が朝鮮半島南部に辰国を建国し、さらにその一部が九州北部の国東半島に逃れ、前8世紀頃以降に国東に製鉄遺跡を残した。

遺跡が国東に限定されているのは、この地域が朝鮮半島を本国とする人々の兵たん基地で、この人々はミタンニ族である。

殷末までの時代には鉄器文化を持っていなかったので、鉄器文化はヒッタイトが衰退したため、前千年以降、辰国の王朝が【天の王朝】といわれるが、ヒッタイトの王族だったミタンニ族を中心としながら朝鮮半島の南部では黒潮に乗って北上したマラ族と接触し、次第に混合文化を形成していった。



【辰国】即ち【天の王朝】を構成した倭人のうち、

王朝の本流であるサカ族系は後にサンカとなり 傍流の秦族は源氏、マラ族は平家をそれぞれ名乗る。


この【天の王朝】の時、既にカースト・ゲット-制が存在し、農民がある一方農業を行わない民族があって、農業地帯と山岳民族の区域を斑状に分離し神社を建てて結界を引いた。


これはイラン文化の特徴であって、牧畜文化と農業文化の混在状態に於ける農業を差別するスキタイ民族が作り出し、インドのカラー差別にもつながる。




【別所・別府】などと云われ、サンカ・木地匠・杜人・タタラなど山岳の人々が農業民と分離し生活した。

辰韓の農民は鳥葬を行うが、鳥葬のルーツは殷民族でチベット苗族であり、日本でもクメール族はストーン・サークルに屍体をおいて鳥葬を行った。



【蘇民】はスキタイを意味すると共に【けがれ、よごれ】の意があり農民サイドからの蔑視。

後、律令制に於いても、荘園内部にはゲットーとして【院地・】が作られ、非農地域として発展し、商業基地になってゆく。

遡ることインド十六王朝の時代、バンジャップからマガダに侵入したアーリア族は原住民のドラヴィダ族と、しばしば斑状共存を行い、別邑を作りながら侵略支配する。

モウリア王朝に至る頃には東進するイラン族とシルクロードを支配し、黒海からドーソンにかけて青銅文化を伝達したサカ族との共同文化であった。



【帝釈天】はインドラ神だが、元々ヒッタイトのインダナ神をルーツとし、イラン系の神話とサカ族による初期仏教の説話の混合による。

このイランとサカの両民族の文化の違いからイラン民族のカースト制を否定しようとするサカ族のシャカ仏教とジャイナ教が発生。

サカ族は、BC413年~BC326年までのナンダ王朝とBC321年からBC180年にかけてのモウリア王朝の主要な部族であり、一族から釈迦を輩出。


元々、シュメール語で【サング】とは僧をいみする言葉で、インド語では仏僧の集団を【サンガ】といい、これが日本で【鹿】【坂】となり、坂の者・サンカの語源となる。

【鹿】がサカ族の【サカ】からきた言葉であることは既に学界でも認められている。



サカ族とユダヤ族などの非アーリア系を包摂したモウリア王朝は亡んでしまう。

すると、スーダラ出身のカリンガ王朝では、却ってカースト制の強化が増し、バラモンの教義が復活してしまう。

この後は、インド亜大陸ではカースト制否定の兆しはまったく発生せず、戦後ガンジーもまた、カースト制を否定しようとして暗殺される。

日本の被差別の問題も、こうしたインドのカースト制からきている。






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