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仏教思想概要11:《道元》(第3回)

2024-05-25 09:03:50 | 11仏教思想11

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日撮影)

 

 仏教思想概要11《道元》の第3回目です。
 前回は、「第2章「正伝」の意義」に入り、「1.仏道=仏法」、「2.正伝の方法」をみてみました。
 本日は、第2章の続き「3.道元の禅宗批判」「4.証上の修」を取り上げます。

 

3.道元の禅宗批判

3.1.禅宗の号の批判
 以上のように、道元の主張する正伝とは、釈尊の教え(正法)が摩訶迦葉に伝えられ(<拈華微笑>)、何代もの祖師を経て二十八代の達磨にまで伝えられ、さらに道元がその正法を受け継いで日本にまで伝えたということになります。それは道元が創造したものではなく、禅宗(細かくは曹洞宗)において信じられてきたことを、道元が踏襲したものと言えます。
 ところが、道元は自らが曹洞宗に属するという意義をもたず、これを拒否し、当時中国にて確立していた5つの禅宗の宗派(五家)の区分はもちろん、禅宗という称もおかしいと、これを拒絶しています。
 その理由について、本文にも明確な解説がありませんが、道元の次の言葉を参考に示しておきます。(下表15)

 

3.2. 道元のその他の批判

(1)<不立文字><教外別伝>批判
 また、道元の批判は<不立文字><教外別伝>(以心伝心)に及びんでいます。(下表16)

(2)経典の意義と長老批判
 道元は如浄の教えとして「焼香・礼拝・修懺(しゅうさん)・看経(かんきん)を用ひず」、ひたすら参禅することを強調しています。と同時に経典・経巻の意義をけっして忘れないのです。
 しかし、道元は<経巻>だけが<仏経>であり、<仏教>であるとは説いていません。「渓声山色(けいせいさんしょく)すべてこれ〔仏の〕広長舌(こうちょうぜつ)である。山水そのままが経である」(『正法眼蔵』「山水経」より)ということがその積極的な主張であり、それこそ、看経眼をそなえた者は、いかなる自然の風光・音声からでも、仏の声・法の音を聞くことができる、まして、経典が仏法でない道理があろうか、としているのです。
 「いま現成せる正法眼蔵は、すなはち仏経なるがゆゑに、あらゆる仏経は正法眼蔵なり」(『正法眼蔵』「仏経」より)

 道元は五家の区分や禅宗の称の不当であること、ないし仏経を大事にしないことの誤り、四料簡(しりょうけん*)や五位(*)を学道の標準にすることの間違いを、先師古仏如浄がつねに教えてくれたということをくり返し述べているのです。

*四料簡とは:臨済玄義の機根や時と場合に応じた弟子を指導する4つの方法
*五位(洞山の五位)とは:曹洞宗の開祖洞山良价(807-869)が説いた五つの禅の境地(正中偏、偏中正、正中来、兼中至(または篇中至)、兼中到)

 

4.証上の修

4.1.行持

4.1.1.行持は道環

(1) 『正法眼蔵』「行持」の巻より
 道元は、『正法眼蔵』「行持」の巻で以下(表17)のように説いています。


 以上の意味は次のとおりです。
 「<行持>とは修行者の日常全般(行住坐臥)をさしていう用語であって「修行」というにほぼ等しい。「行も禅、坐もまた禅」(『永嘉大師証道歌(えいかだいししょうどうか)』)という意味では「参禅即行持」である。また行住坐臥すべて仏の行為であり、<行仏(ぎょうぶつ)>であるという意味で「行仏の威儀(ぎょうぶつのいぎ)」ともよべる。あるいは「発心・修行・菩提・涅槃」という一生がすべて行持である。悟ってもなお行持はつづく。行持に休止はない(「行持は道環」)。
 あるいは、われわれの行持は諸仏の行持をまねること、ならうことである。そこに仏の道があらわれる。
 さらに『正法眼蔵』「行持」の巻は、この諸仏諸祖の行持を、歴代祖師について取り上げたもので、そこにあげられているものは、学道に励むものたちへの手本ということになる。」と。

 ここには道元のいう「行持」が、行持即正伝という仏法の本質にかかわるものであることが知られます。

(2) 行持の具現化された仏法の例
 行持が具現化(現成)されている仏法を、幾つか列挙してみると、以下(表18-1)のように整理できます。

 以上をまとめて、道元は以下(表18-2)のように述べています。

 

4.1.2.行持は報恩
 「行持」の巻後半で、道元は、この世俗の恩愛を断ち切って行持することが、実は仏祖の恩に報ゆるゆえである、としています。
 道元は説く「『いま田夫農夫、野老村童までも〔仏法〕を見聞する。しかしながら(たたひとえに)祖師(菩提達磨)航海の行持にすくわるるなり』・・・初祖の恩だけではない、二祖(慧可)がもし行持せずば『今日の飽学措大(ほうがくそだい*)あるべからず』まさに、いま<見仏聞法(けんぶつもんぽう)>できることは『仏祖面々の行持より来れる慈恩』である。『仏祖もし単伝せずば、いかに今日にいたらん』」、と。行持は報恩行であるとしているわけです。

 *飽学措大:学道にあきるほど恵まれた中でさとりという大事を終えることができること。

4.1.3.証上の修=不染汚の行持

(1)「報恩の行」の意義
 行持が、行住坐臥、発心・修行・菩提(さとり、成道(じょうどう))・涅槃であり、仏作・仏行であるということは、以上のように「報恩の行」ということに落着しましたが、これは裏を返せば、道元の宗教の本質といわれる<証上の修(しょうじょうのしゅ)*1>、あるいは<修証一如(しゅしょういちにょ)*2>ということにほかならないことになります。「悟った後でなにゆえ行を必要とするのか」の道元の参学の出発点となった疑問、その答えがここに与えられているわけです。

 *1証上の修:悟後の修行。悟ったとでもなお修行すること。
 *2修証一如:さとりと修行は一つ、という意味。

(2)不染汚の行持と坐禅
 道元は『正法眼蔵』「弁道話」で<証上の修><修証一如><本証妙修>(<証上の修>に同じこと)について詳しく説いています。
 そこでは「修のほかに証をまつおもいなかれ」と教えています。つまり、<修証一如>ですから、修行の結果として悟りを待つ思いを持ってはいけないと教えているわけです。悟りは終わりなく、悟りは修行そのものなので、修行にはじめないと説いているのです。
 このことは、もとは六祖慧能と南岳の問答(下表19)に帰着するものです。


 それは<不染汚(ふせんな)の修証*>の名で道元が説いているもので、そのもっとも具体的なあらわれが坐禅だ、とするのが道元の宗教の一番のかなめとなっています。「坐禅は習禅にあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」(『正法眼蔵』「坐禅儀」より)
 ではなぜ坐禅なのかは、道元自身の只管に打坐して身心脱落したという体験が、本証妙修を確信させたわけで、「わからなければ、坐ってみろ」というほかないわけです。その意味では、行持が報恩だというのも体験抜きにはいえることではないのです。

 *不染汚の修証:「染汚」とは分別をもって対象を判断することで、したがって「不染汚」はとらわれない心境で修行する必要性を説いている。

                                                 

4.2. 妙修と道心

4.2.1. 妙修は信の現成(あらわれ)

(1) 妙修の結果
 <妙修>とか<仏行><行仏威儀>ということは、かくあるべきという世界ではないのです。おのずからそうなる、そうせざるを得ないということなのでしょう。「不曾染汚の行持は、みずからの強為にあらず、他己の成為にあらず」(『正法眼蔵』「行持」より)であり、そこには報恩ということばが生きています。

(2) 妙修の要因分析-事例:礼拝
 礼拝は道元の専売ではありませんが、このことばは「参禅は焼香・礼拝・念誦(ねんじゅ)・看経(かんきん)を用ひず」(『宝慶記』より)と説いているにもかかわらず、道元の体験のなかで無数に出てきています。『正法眼蔵』「陀羅尼」の巻においては「礼拝は正法眼蔵なり、正法眼蔵は大陀羅尼なり」と説いています。ここで陀羅尼(だらに)は真言の呪言(じゅごん)ではなく、<一切を総括するもの>の意であり、『円覚経(えんがくきょう)*』の意図ではその経典が正法のすべてであり、それが人事(子弟の挨拶、問候(もんこう). 季節の節目に挨拶に伺うこと))に体現されているということであるのです。

 この礼拝もまた、おのずからなるべきものであるべきことで、礼拝と打座のかかわりを考えると、打座をあらしめているものが、また礼拝となってあらわれているわけで、そこにはいわゆる<思想でない>宗教、<哲学でない>宗教があるものと思われます。道元はあまり表明しないが、それは<信>の風光であるのです。

*『円覚経』:唐の仏陀多羅(ぶっだたら)訳とされる。大乗円頓(えんどん、円満にして欠けることなく速やかに成仏するという法華経の教え)の教理と観行(かんぎょう)の実践を説く。偽経ともいわれる。

(3) 「信」の風光とは、道元と親鸞の同一性
 「信根」「信力」について、道元は以下(表20)のように説いています。


 ここで「信」とは何を信じるのか?

 ①「信仏語」、つまりほとけのことばを正しいと信じること。
 ②正師、教えが仏らか祖へ正伝し来たったことを信じること。
 ③「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」ないし、もろもろの経のことば(仏語)として信じること。

 この点では親鸞の浄土信仰も構造的に差異はないのです。ことに仏性を普遍的に認める点、すなわち「本覚」の宗教である点において両者の基盤は同一であるといってよいのです。ただ、親鸞が仏性を「大信心(だいしんじん)」それ自体に見い出したのに対して、道元は「行仏」としての打坐にその証明を見い出したという違いであるのみです。

4.2.2. 道心-慈悲心

(1)道心とは
 「信」とも関連しますが、道元の学道に不可欠な心として、如浄も同様でしたが、<道心(どうしん)>をあげることができます。
(道元の<道心>に関することば(「重雲堂式(じゅううんどうしき)」(興聖寺僧堂における規則) 表21)


 <道心>はいうまでもなく、道を求める心、菩提を求める心です。その心をおこすことを<発菩提心><発無上心>略して<発心(ほっしん)>と呼びます。発心は出家修行の前提です。
 道元の著作全体からうける印象としては、「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の巻などで慈悲、利他行を説くにもかかわらず、もっぱら学道・自己の究明に急であるように思われます。

(2) 道元の慈悲心
 仏教の本筋からいえば、仏の説法(転法輪(てんぽうりん))(次章で説明あり)こそ仏の慈悲行であり、それは「道得」(九五巻)に、道元の大慈悲がみられます。『宝慶記』にも「仏祖の大慈悲を先として、誓って一切衆生を度するの坐禅」とあります。しかしここには「おれがすくってやるぞ、おれが救わねば」という<上からの慈悲性>があるのです。これは道元の貴族性もあるが、禅のもつよくも悪くも一つの特質であるといえます。

 以上、第2章までで、道元の思想の根本が見えた気がします。それは、釈迦以来の仏教の教え(正伝)をインド、中国を経て道元が日本にもたらしたこと。そして、その正伝とは、まさに「只管打坐(しかんたざ)」であり、悟ってもなお修行を続ける「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)」だったわけです。

 ではなぜ、「只管打坐」「本証妙修」なのか、それは道元自身の厳しい修行の中から得たもので、まさに「わからなければ、坐ってみろ!」ということになるのですが、その体験から出たものを言葉として著したものが、主著『正法眼蔵』だったわけです。
 ということで、以下、『正法眼蔵』の内容、特にその中心をなす、「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻についてみてみたいと思います。

 

 本日はここまでです。次回からは「第3章 道元の思想」に入り、「1.「現成公案」の背景-「法の体系」」、「2.『正法眼蔵』と「現成公案」」を取り上げます。

 

 

 

 

 


仏教思想概要11:《道元》(第2回)

2024-05-18 07:32:08 | 11仏教思想11

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日撮影)

 

 仏教思想概要11《道元》の第2回目です。
 前回は「序章」と「第1章 道元の生涯」をみてみました。
 本日からは、「第2章「正伝」の意義」に入り、今回は「1.仏道=仏法」、「2.正伝の方法」を取り上げます。

 

第2章「正伝」の意義

1.仏道=仏法

1.1.仏道の意義

(1)まなぶはまねる
 本文のタイトルは「古仏のまねび<道元>」となっています。ここで「古仏」とは釈迦をはじめとする先師のことです。「まねび」は学ぶ、まねるということで、タイトルの意味は「先師をまねる」ということになり、つまりはこれが端的には「正伝」ということになります。

 すこし長くなりますが、「まなぶはまねる」についての本文をそのまま抜き書きしてみます。
 「人類の歴史は<まね>の歴史である。人はすべて、先人-親・兄弟・師・仲間・隣人・異邦人・旅人のいずれであれ、先人のなしわざを見・聞きして、そのまねを通して、<ならい>、覚えて、これを後人に伝えるということを繰り返してきた。<学ぶ>とは<まねぶ>(<まねる>)である。<ならう>ことは<なれ>によって<ならわし><ならい>となる面をもつと同時に、「右にならえ」で、やはり<まね>を出発点とする。 イミテーションと聞くと<まがいもの>を思いうかべるが、<イミテート>の原義は「古人、先人を手本としてまねる」ことである。その意味から少し違った意味を出すには<まねび>という日本語がぴったりした語威をもっているようだ」

(2)仏道をならう
 そこで、ならうものは何か?といえば、ここでは「仏道」ということになります。では、仏道とは、ということになりますが、仏道とは<仏になる道>であるとともに<仏の歩む道>となります。つまり、ならうのはほとけのまねということになります。
 さらに、仏道とは具体的に何か?何をなすべきか?といえば、これに対する道元の答えは明快です。いわく、「坐禅」「只管打坐」。「なんとなれば、それはかっての諸仏が行で、それによって証悟した行為、行であるから」、と。

1.2.道元のいう<正伝>とは
 釈迦の生涯ー修行し菩提(さとり)を得、涅槃に入る仏の行-を今日我々が学ぶことができるのは何故か?それは釈迦より弟子にそのまた弟子に、そしてインドから中国へ、さらに中国の僧(禅宗では達磨)から弟子にやがて道元にと伝来されたからです。道元はこの伝わり方を「ほとけ仏にさずけてよこしまなし」と言っています。受ける方から言えば、それが仏に学ぶ、仏のまねをすることで、そこに<正伝>が実現するわけです。
 <まなぶ>のには時代を隔てて古人のまねをすることも可能ですが、道元にとって<ほとけ仏にさずく>のくりかえしによる相続以外には<正伝>は認めらなかったわけです。(このくりかえしの相続を<単伝>と呼びます)そこにはまた、誰から学ぶかという<正師(しょうし)>の問題も出てくるわけです。
 (「第1章 道元の生涯」でも、入宋後如浄に会うまでの間、諸方遍歴の旅をしますが、これこそ<正師>を求めての旅であり、これは禅宗の伝統でもあったわけです)

1.3.仏道=仏法
 仏道をならうことによって、仏の体験(つまりはさとり)が<正伝>することになります。つまり仏の体験以外に伝えるものは何もないということです。一方で、この仏の体験を<妙法>また<正法>と呼びます。<正法>とは真実の教え、仏の教えで、仏のさとりを内容とし、真実の表現であるから、こう呼ばれます。つまりは<仏法>と同意義でもあります。
 以上をさらに要約すると、仏道とは仏の体験そのもので、それだけが<正伝>されるものであり、それは、<妙法>または<正法>つまりは<仏法>であるわけです。
 この仏道=仏法という構造が実は道元の宗教のかなめであり奥義です。さらに道元に限らず、禅のめざすものであり、仏教の根本的構造にほかならないのです。

 <仏法を説く>ことではなく、<仏道>をならうことに全身全霊をかたむけたのが道元の特色であったというべきでしょう。<ならう>ことによって、そこに<仏法>がおのずからあらわれるのです。

 

2.正伝の方法

2.1.<正法眼蔵>の由来、正伝のはじまり

2.1.1.<正法眼蔵>の意味と<拈華微笑>
 『正法眼蔵』とすれば書名としてのそれでですが、<正法眼蔵>の意味は正法眼の蔵と区切って解釈され、<蔵>は宝物をしまっておく蔵を意味します。
 <正法眼蔵>のことばは禅宗の「*正法伝持の次第」の中で、その伝灯のはじまりとして大事にされている次のことにもとづいています。(*ろうそくの火をつぎつぎと新しいものに移して絶やさず伝えていく(<伝灯>)のこと。『景徳伝灯録』(1004年宋の道原著)などにみられることば)
 (拈華微笑(ねんげみしょう) 下表8)


 この釈尊と迦葉のあいだの以心伝心のやりとり、釈尊の<拈華(ねんげ)>と迦葉の間髪入れね<微笑>という対応を。禅宗では<拈華微笑(ねんげみしょう)>と称して、仏々祖々、仏法が正伝して今日にいたる出発点としています。

2.1.2.<正法眼>の意味

(1)<正法眼>=<法眼>
 <正法眼>をさらに分解すると<正法の眼>となります。眼は感覚器官としての眼の意味ですが、<みちびく>という意味をもっています。
 一方<正法>は<仏法>であり、<法>の一字で示されるものであり、以上から<正法の眼>=<法の眼>つまり<法眼(ほうげん)>となります。(図1)

(2)<法眼>の意味
 <法眼>ということばには二つの意味があり、一つには<法をみる眼>という意味で、四諦の理を悟った時「清らかなる法眼を得た」といわれるもので、たいへん古い用法であるわけです。
 <正法眼蔵>の場合の<法眼>は『景徳伝灯録』では「復(ま)たいはく、吾れ清浄法眼を以て将(まさ)に汝に付せんとす」とあり、「眼も蔵も心もみな大事なもの、核心」と解釈でき、この解釈が伝統的であるようにみえます。

 一方の<法眼>の意味の今一つは、大乗経典に出てくる語で<法に導くもの>であります。法に導くものとは、具体的には経典など<説かれた法>すなわち釈尊一代の説法たる八万四千の法門をさすと考えられます。
 この第二の解釈には、文献的根拠をつきとめていないが、次の項のインド仏教史の史実の関連で推定することができることです。

2.2.正伝のながれ

2.2.1.法と律の伝承
 拈華微笑の逸話にあるように、釈尊の死後、その教えは摩訶迦葉に伝えられましたが、仏教の基礎知識として参考になる内容のため、このことについてもう少し詳しくみてみます。
 釈尊の入滅後、弟子たちは教団の根拠地であるマダカ国の王舎城に集まって、将来の教団のあり方を相談しました。釈尊は仏の教えを基準にして真偽善悪を判断し、自己の判断に従って行為せよとの遺言を残したため、最長老であった摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が音頭をとり、各人の記憶を整理し、この会合で以下を決定しました。ここに釈尊一代の教訓は<律>と<法>とにまとめられました。(下図2参照)

 

 後代の仏教徒は、この結集の事実を認め、信ずるかぎり<律>は優波離を通して弟子から弟子に伝えられたもの、<法>については、阿難から弟子から弟子に伝えられたものを身につけていることになります。

 

2.2.2.『付法蔵因縁伝』
 釈尊の入滅後100年以上たつと、教団は保守派と改革派に分裂、それらはさらに分裂し十八の部派になったといいます。そしてそれぞれの部派は、我こそ釈尊よりの正統の部派であると主張しだします。
 それらの主張の中で作られた一つに『付法蔵因縁伝(ふほうぞういんねんでん)』があり、釈尊入滅後の付法相伝した二十三祖師の因縁が記述されったものです。禅宗ではさらに二十四代から二十七代までを架空して第二十八祖菩提達磨につながっているとしています。
 この本の<付法蔵>とは、<法>を弟子に付属(依嘱)することを意味しており、この考えを土台として<拈華微笑>の話のおこり(『吾に正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)あり、これを汝摩訶迦葉に付属する』)の話も付属している(師から弟子に依嘱されている)と禅宗ではしています。

 以上のことから、一般的な<法>を禅宗では<正法眼蔵涅槃妙心>だとしているといえます。

2.2.3. 教外別伝の法

(1)禅の法<涅槃妙心>の背景
 大乗経典の一つに『楞伽経(りょうがきょう)』という経があり、そこには「さとりをひらいた日から、涅槃に入った夜まで、四九年間仏陀は一語一句たりとも説かなかった」という説があります。つまり、さとりは「自内証」(みずから体得すべきこと)であって、「言語道断・言詮不及(ごんせんふぎょう)」(ことばで表わす方法はない)ということを意味しています。
 となると、何が後世に伝えわったかということになると、つまりは<拈華微笑><以心伝心>というわけです。これを禅宗では<教外別伝(きゅげべつでん)>・<不立文字(ふりゅうもんじ)>などと呼びます。

(2) 達磨から慧可へ
 達磨は伝説のヴェールにつつまれた人ですが、西域又はインドからの僧で、嵩山(すうざん)で壁に向かって坐ってばかりいたのです。慧可は四十までの儒教などの勉強をすべてすてて、この比丘から教えを受け坐禅を学んだのです。こうして『楞伽経』の「四十九年間一字不説」の仏の法そのものにふさわしく西天二十八祖菩提達磨より、坐禅を旨とする以心伝心の法(正法眼)の相承が確立したのです。
 したがって、禅宗に属する人々は、しばしば拈華微笑を<公案>つまり禅宗修行の際の工夫の課題とするだけでなく、みずから正法眼蔵を弟子に伝えることを確信しているのです。

 

2.3.面授

2.3.1. 嗣法

(1)嗣法の意義
 『正法眼蔵』「仏道」の巻の冒頭に次の曽谿古仏(そうけいこぶつ、六祖慧能)の示衆(師家が学人に対して説法し指導することがあります。(下表9)


 これは道元の嗣法観(しほうかん)の由来するところがどこにあるかを示していますが、さらにさかのぼれば『法華経』の「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ) 乃能窮尽(だいのうぐうじん)*」の一句にもとづくと考えてよいのです。
*「唯仏与仏 乃能窮尽」:仏と仏のみが諸法実相を究め尽くすことが出来るの意。ここでは釈迦も仏、慧能も仏であって、慧能あっての釈迦であるから、慧能を祖として釈迦もまたその祖の系列につらなるということを説いている。

(2)嗣法の形式
 曹洞宗では現在にいたるまで、その形式化が時として嘆かれることもありますが、<嗣法(しほう、法統を受けつぐこと。弟子が師の法をつぐこと。)>を宗門の生命として重大視しています。
(礼拝の作法(表10))

(3) 嗣法の意義
 礼拝の作法や嗣書の書き方(*)は宗教的儀礼にすぎないとの思いもあると思われます。しかし正伝とか単伝、嗣法とかは宗教の世界、信仰の世界の問題であるのです。そこには体験からにじみ出た信念に由来するものとして思想表現をながめていかなければならないのです。
*嗣書の書き方:<嗣書>(弟子が仏になった証明として師匠より受け取るしるし)には、七仏から本人にいたる相承の次第が一本の系線で表され、その系線の先はまた釈迦牟尼仏に還る円環をなしている。これは仏から仏へ、祖から祖へ、祖から仏へ、仏から祖への向上向下の相承の理念を図式化したものである。

2.3.2. 単伝

(1)単伝とは
 菩提達磨以前にもインドから経文を伝えた僧は多いが、菩提達磨がはじめて、釈迦牟尼仏から摩訶迦葉へ、そして達磨に到るまで次々と伝えられた仏心印(仏の教えの核心のしるし)を東上に伝えたのです。しかもそれは諸々の教義ではなく、この心印だけというのが単伝の原意のようです。つまり<教外別伝>(言葉によってではなく、心から心へ直接伝達されるという考え方=不立文字)と同義となるものです。
 しかし、常識的に理解され、道元もそうとったと思われるのは、この心印がひとりからひとりへ伝わったこと、したがって西天から東上へこの心印を伝えたのは菩提達磨ただひとりという見方が一般的であるのです。

(2)単伝と現実
 以上の単伝の考え方に対して、事実は矛盾をきたこととなります。六祖慧能は北宗禅の祖神秀(じんしゅう、605-706)を排除して北宗禅を正伝と認めないことで六祖の地位を確保しましたが(*)、弟子たちの間で両系(南岳の懐譲(えじょう、臨済宗の祖)と青原の行思(曹洞系の祖?-740))に分かれたのです。
 <単伝>は正統争いの根元であったのです。また禅宗の優位が中国史上確立した時期(八世紀)には、五門が確立していたのです。
*事実としては、六祖は慧能自身の考えというより、その門人、荷沢神会(かたくじんね、668-760)の師に対する思い、神会の自己主張から出ている。

(3)単伝と道元の立場
 道元は圧倒的多数の例で<正伝><仏祖正伝>のことばを使用しています。そして単伝ではなく<正伝>を前面に出すところに、禅の排他性を除いて、教を正伝の仏法に包含し五家の区分を無としたわけですが、それでもわれこそ正伝中の正伝(つまりは単伝)という自負心をぬぐい去ることはできなかったのです。
 しかし道元が五家の区別、禅宗の呼称を排しながらも、なお青原下曹洞宗における仏法の正伝=単伝を無意識に強調していることには別の理由を考えなければならないのです。それは仏法を正伝するには「正師に会わねばならない」ということ。そしてそこから<面授>ということが強調されることとなるのです。

2.3.3.面授とは

(1)面授の定義づけ
 道元は以下(表11-1)のように面授を定義づけています。


 この面授の巻は、仏法の正伝ということを、はっきりと<面授>ということによって定義づけています。
 しかし、身心脱落(さとりの完成)は面授後のことであり、面授すなわち嗣法とはならないのです。ただ、面授即嗣法とはいえなくても、嗣法は面授なしではありえないという道理であるのです。

(2)道元にとっての面授の重要性
 道元は、『正法眼蔵』「面授」の巻で<面授>を前述のごとく定義していますが、さらにみていくと、以下のような記述がみられます。(表11-2)


 これでみると、面授=嗣法=証悟(しょうご)であるのです。
 このように面授を大事にする道元ですが、いわゆる曹洞宗の系譜をみてみると、その嗣法は途中で途切れており、その事実を道元も知っていたのです。
 つまりは、道元にとって、如浄との出会いがもった意義がまことに量り知れないことなのです。面授を強調するのは、他の例をみない道元の特色であるのです。圭峯宗密(けいほうしゅうみつ*)の著に一度だけ用いられていますが、道元のほとんど独創といえるものなのです。<出会う><人に逢う>ということの意義はなんとも不思議なはからいと思ってきますが、おそらく道元もその思いが深かったにちがいありません。そこから道元の<宗教>があらわれ出たといえるのです。
*圭峯宗密:781-841唐代の僧。禅宗の一派も荷沢宗や華厳宗を中心として、仏教思想を統一する「教禅一致」の特異な教説を説いた人。

2.4. 徧参

2.4.1. 正師を求むべし
 『学道用心集(がくどうようじんしゅう)』(『正法眼蔵』「弁道話」などと同じく道元帰国まもなくの著)において、「参禅学道は正師(しょうし)を求むべき事」の一項が立てられ、わが国にはまだ正師がいないので、「若し無上の学道を学ばんと欲せば、遥かに宋土の知識を訪ふべし」と言い、「正師を得ざれば学ばざるにしかず」と道元は言い切っているます.
 道元は、正師とは何か。年は老若を問わず、ただ、以下(表12)のとおりだと説いています。


 しかし正師を求めて嗣法するのはべつに道元の独創でもなく、師如浄の発明でもないのです。馬祖、石頭(せきとう)(分派した六祖慧能の孫弟子に当る)の昔から、学人(がくにん)修行者たちは、各地の知識を訪ねて参禅し(このことを<徧参(へんざん)>という)、その所々での体験のなかで、機熟し、師と弟子の気持ちがあいかなった時にはじめて嗣法したのです。
 ここでは正師を求める弟子の立場が強調されるています。こちらから出向いて教化し、法を伝えることに対して重要な意義を認めないのです。これは道元の山居することを正当化し、鎌倉への行化(ぎょうけ)も、権威に近づこうとしなかったことの根底にある思想であるのです。
 禅がしょせん本質的に求道の宗教であり、布教の宗教ではなかったことは銘記すべきであるのです。

2.4.2. 徧参の意義

(1) 徧参についての考察
 道元は、<徧参>について『正法眼蔵』「一顆明珠(いっかみょうしゅ)」の巻の冒頭で詳しく述べています。
 ことは雪峰(せっぽう、義存)と玄沙(げんしゃ、師備)のやりとりにはじまります。玄沙は元漁師であったが、三十にして発心し、舟を捨てて山に登ったのです。(下表13)

(2) 徧参の意義
 徧参とはまさに正師に参じ、正法を嗣ぐことをいうのだというわけです。だから「徧参」の巻の末尾に近く、雲巌(うんがい)や道吾(どうご、円智769-835)が薬山(やくさん)の下にあって四〇年ひたすらに参学したこと、三祖が八年も参学をつづけたすえ、得髄(とくずい)したことを、まことの徧参とたたえ、「徧参とはただ只管打坐身心脱落なり」と言っているのです。
 玄沙の『達磨東上に来たらず、二祖西天に往かず』は、けがをしたことと結びつけて解釈することができます。玄沙は修行の当体は自分にあること、全身をうちこんで修行すること(「渾体徧参(こんたいへんざん)」)であること、他に求めることの誤りであることを悟って山に帰ってきたのです。

(3) <嗣法の宗教>・<道心>・<行持>
 道元が引用する玄沙のつぎのことばに<嗣法の宗教>というべきものの構造をみることが出来ます。(下表14)


 以上を一言でいえば「徧参」の巻の冒頭の「仏祖の大道は究竟参徹(くぎょうさんてつ)なり」に帰着すると思われます。今日のことばでいえば、とことんやりぬくということであるのです。
 仏法が正伝するか否かは、ひとえに修行者がとことんやりぬく覚悟があるかどうかによるのです。その覚悟というのは<道心>であり、その道心のあらわれが、毎日の<行持>であるのです。その人の行持のしかたで、「修行の真偽」を知ることができるのです。したがって正師として選ぶべき人もまた<行持の人>でなければならないわけです。如浄はまさにその「行持の人」であったのです。

 

 本日はここまでです。次回は第2章の続き「3.道元の禅宗批判」「4.証上の修」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要11:《道元》(第1回)

2024-05-11 07:54:31 | 11仏教思想11

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日)

 


仏教思想概要10:《親鸞》(第6回・最終回)

2024-05-04 09:04:20 | 10仏教思想10

(神代植物公園にて・関山     4月19日撮影)

 

 前回は、「第3章 親鸞の信仰・思想」「1.煩悩具足の凡夫」「2.信心ということ」をみてみました。
 本日は、「3.「義なきを義とす」」「4.まとめ(個人のの感想)」を取り上げます。

 

3.「義なきを義とす」

3.1. 「義なきを義とす」の意義

3.1.1. 親鸞思想の鍵
 晩年の親鸞が好んで用いた句の一つに「義なきを義とす」もしくは「無義をもって義とす」という句があります。この句には親鸞の思想の秘密を解く鍵がひめられていると思われます。この句の用例は書簡の中、『和讃』、さらに『歎異抄』にもみられます。
(『歎異抄』、『正像末和讃』の事例 表21)

 この「義なきを義とす」の句は親鸞の書簡六通にも見ることができます。(事例略)

3.1.2. 「義なきを義とす」の意味するもの
 「義なきを義とす」(「無義をもって義とす」)の句には、主に二つのことが繰り返し語られていることが知れます。
 第一は、この句が誰によって語られたかということです。
 それは「大師聖人のおほせに候き」などと数次にわたり語られていることであり、ここで「大師聖人」としたのは、親鸞自身の恣意によるものでなく、法然聖人よるものであることを強調するためのものと思われます。
 なお、法然がこの句を語ったという裏付けは知恩院に蔵する『阿彌陀経』の奥書(下表22)にのみしるされていることが知られます。

 第二に、この句の意味するところが語られています。
 この句の意味するところは、『「行者のはからひ」もしくは「凡夫のはからひ」は、ここではありえない。なんとなれば、この本願念仏のおしえは「仏と仏の御はからひ」によってなり「如来の御ちかひ」を体とするものであって、その「仏智の不思議をはからふべきひとは候はず」である。』としています。つまり、それが「義なきを義とす」ということであるというわけです。
 本願念仏のおしえの受領のし方は、すべて自力のはからいを捨てて、他力にまかせまいらせる。それが「義なきを義とす」ということだとしているのです。

 

3.2.二つの世界

3.2.1. 二つの義と二つの世界
 親鸞の考える「義」には二つあると考えられます。
 一つは、人間の考える道理。人間の考える道理では、仏智・誓願・念仏は考ええないことです。
 もう一つは、仏と仏のあいだではあきらかにわかっている道理。凡夫としての人間にはそれは商量することもできない、説示することもできない、また思義することもできないだけのものです。

 二つの義が存在するということは、二つの世界が存在するということになります。
 一つは、凡夫としてのわれわれ人間が住む世界、この現実世界であり、他の一つは、彌陀の誓願によってなれる名号不思議の世界です。
 親鸞の思想と信仰のいとなみは、この二つの世界をめぐっていとなまれたものであることは疑いの余地もないことです。
(『教行信証』「信証念仏偈」の例にみる二つの世界 表23)


 ここで、前半三行は、現実地上の世界、後半二行は、彌陀の世界を表しています。

3.2.2.親鸞の二つの海
 親鸞はその著作のなかでしばしば「海」という比喩的表現をこころみており、その海には明らかに対照的な二つの海が存在するのです。
 一つは、「生死(しょうじ)の苦海」です。ここには「煩悩の濁水」がみちているとも語られる。それは現実の人間世界のことなのです。
 いま一つは、「彌陀の願海」、あるいは「弘誓(ぐぜい)の智海」とよばれる海です。そこにみつるのは、「名号不思議の海水」であって、「功徳の大宝海」をなすとも説かれています。

3.2.3.三帖和讃にみる二つの世界
 親鸞が晩年制作に没頭した「三帖和讃」にも二つの世界があったと思われます。
 『浄土和讃』『浄土高僧和讃』は、七十六歳正月頃の成立で、ここには阿彌陀仏の誓願による名号不思議の世界が描かれています。
 一方、『正像末和讃』はその十年後の八十六歳九月に成立したもので、善鸞事件の介在したそのいたましい現実世界の体験に彩られ、そこには「生死の苦海」のありようと、その中に沈淪(ちんりん)するわが身のうえにそそぐ悲嘆のなみだが描き出されています。

3.3.現代に生きる親鸞
 親鸞のこの現実の地上における生はけっして絢爛たるものではありませんでした。むしろ絶望と挫折と埋没をもって特徴づけられ、在世における影響力もわずかに東国辺陬(へんすう、かたいなかの意)の念仏者に限られたものでした。
 しかし、彼のまいた種はやがて年を経て芽を出して花を咲かせ、実を結んで今日に及んでいます。
 それでは彼のまいた種とは何であったのか?
 それは「ただ信心を要とすとしるべし」といえるでしょうか。ここで「信心」とは、古いことばで「己証(こしょう)」、つまり自己の身証、わが身にうちあてての領解のことです。つまり、体験的な把握ということであるのです。
 親鸞が、その絶望と挫折と埋没のなかにありながら、なおよくぴたりと彌陀の本願のかなたに一向(ひとむき)となり、それによって絶望のかなたにうたいあげた生涯。それが信心における範例であり、またそれが親鸞の思想にほかならないのです。

 

4.まとめ(個人の感想)
 親鸞は「信楽(しんぎょう)」ということを言っています。信ずることそれが一番大事だといっているのです。
 浄土教の主要経典の「阿彌陀三部経」のうち、親鸞は自身の思想形成において唯一『大無量寿経』をとりあげています。『大無量寿経』は、阿彌陀浄土の世界を教える『阿彌陀経』、阿彌陀浄土への行き方を教える『観無量寿経』に対して、阿彌陀仏の本願というものを教えています。
 その内容は、阿彌陀如来がまだ法蔵菩薩という修行時代に、師の世自在王仏(せじざいおうぶつ)より仏国土の優れた点を聞き、そこから48を選び取った「四十八願」を教えています。
 この四十八願のうち親鸞は特に第十八願(「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽してわがくにゝむまれんとおもうて、乃至(ないし)十念せん。もしむまれずば、正覚(しょうがく)をとらじ」)を彼の思想の基本におきます。
 つまり阿彌陀様は菩薩の修行時代に、すべての衆生が私を信じて、極楽浄土に行けないのなら、さとりの世界には行きませんと願って、いま如来になっているのだから、この本願は成就しているのだ。みんなこれを信じなさい、そうすれば、みんな極楽浄土へ行けますよ、というわけです。

 まさに、「内省の人親鸞は、阿弥陀の本願に自らの救いを見つけ、歓喜したのです。」

 親鸞は言います。自力の人は自分を頼るから「信楽」できない。他力の人はもっぱら、阿彌陀の本願を頼るから極楽浄土へ行ける。まさに「悪人正機」というわけです。
 流罪・肉食妻帯・善鸞事件(実の息子の裏切り)など苦難の中で、阿彌陀の本願を知った親鸞は歓喜し、これぞ「真宗」師法然にどこまでもついて行くと。思想家というより実践の人、非僧非俗、愚禿親鸞、人間親鸞であったわけですが、どうやらその思想は師法然とは違っていたようです。

 

 以上、「仏教思想概要10:《親鸞》」の終了です。如何でしたでしょうか。

 次回からは、「仏教思想概要11:《道元》」です。しばらくお待ちください。