「仏教思想概要3:《中観》」の第9回です。そして最終回です。
前回は、ナーガールジュナ以後の中観派として「後期中観派」、そのうちのシャーンタラクシタの思想について取り上げましたが、今回は、「後期中観派」の実践面と、ラトナーカラシャーンティ(ラトナーカラ)の思想について取り上げます。
3.2.3.後期中観派の実践大綱
シャーンタラクシタが中観派と唯識派(瑜伽行派ゆがぎょうは)を総合した、ということは理論的な領域においてだけ果たされたわけではありません。むしろ実践面でそれはもっと完全に行われました。
初期・中期の中観派も菩薩の十地(じゅうじ)というヨーガの方法を無視していたわけではありませんが、後期中観派において、十地をはじめとして、瑜伽行派が体系化し、実践してきたヨーガがほぼ全面的に受け入れられたのです。
以下、後期中観派の実践の大綱(ヨーガの階梯)をカマラシーラの『修習次第(しゅじゅうしだい)』などによりながら順次みていきます。
(1)知恵の習得
知恵は三種の方法によって得られます。(下表36参照)
(2) ヨーガの種類
三種の知恵のうち修(ヨーガ)は次の三種があります。(下表37参照)
(3)止心の過程
止心の過程は次の三工程に分類できます。(下表38参照)
(4) 「観(観察)」の段階
「観(観察)」の段階は『入楞伽経(にゅうりょうがきょう)』の第十章第二五六~二五八詩頌の方法により行われます。(カマラシーラの解釈:下表39参照)
三詩頌により、シャーンタラクシタの哲学の四つの階梯(第8回・図5参照)が修習されることになります。「①実存する物と心(有部・経量部)②形象ある心(有形唯識派)③形象ない心(無形唯識派)④空性(中観派)」という四つの瞑想の対象を直観するとともに、低い階梯の対象を批判して、高い段階に昇っていくことを意味します。
(5)十地
双運(止観の統一の完成)後、瞑想者が仏の境地に至るまでに十二の段階があります。
「信解行地(しんげぎょうじ、予備段階)」→「十地(じゅうじ、菩薩の十地)」→「仏地(ぶつじ、仏の境涯)」(下表40参照)
3.2.4. ラトナーカラの思想-光り輝く心-
後期中観派の主要思想家シャーンタラクシタの思想、カマラシーラを代表とした後期中観派の実践面、とみてきましたが、後期中観派の思想の最後に、シャーンタラクシタとともに後期中観派をけん引したラトナーカラ(ラトナーカラシャーンティ)の思想についてみてみたいと思います。
(1) ラトナーカラの略歴
ラトナーカラの略歴を以下に示します。(表41参照)
(2)ラトナーカラの各会派批判
ラトナーカラは他派及び自派のシャーンタラクシタなどの思想も批判し、自らの主張を論じています。(下表42参照)
*「照明」とは:ラトナーカラは世界のあらゆる現象はわれわれの認識の表象にすぎないが、この表象は青や赤という「形象」とそれを現象させる「照明」とからなりたっており、それらの形象は非実在であるが、照明は実在すると主張する。青の形象の認識は誤りとして赤の形象によって訂正されるが、認識の照明作用はつねに変らず自覚される。
(以上のまとめ)
ラトナーカラは、心の本質を照明そのものとし、そこに唯識と中観の一致した真理を見つけました。『般若経』の「清く光り輝く心」にもう一度立ち帰って仏教哲学を統一しようとしたのです。
(3)ラトナーカラのヨーガの階梯
ラトナーカラのヨーガの階梯は、カマラシーラの階梯と大体において同じですが一点で相違します。
それは、形象を離れた照明そのものとしての心が最高の段階を占め、それを越えた段階は設定されないとしているのです。
学習(聞)と批判(思)を修習したのちに、瞑想(修)が行われるが、ラトナーカラはこれを四つの段階に分けています(それぞれの段階が止心・観察・両者の統一に分けられるのはカマラシーラと同じ)。止心においては瞑想の対象は直観されるが、理性的推究はそれに伴わない、観察においてはそれが伴う、としているのです。
(ラトナーカラの瞑想の四段階(下表43))
ラトナーカラの特徴である瞑想の四段階の解釈は、『入楞伽経』の三詩頌の解釈の違いによるものです。
つまり、「無顕現は照明そのものを越えるといわれるが、それは照明そのものを対象とすることを越え、それと一体になることである。」、と。「照明そのもののほかに、より高い立場で空があるわけではない。照明そのものと一体になった立場が唯識の真理の実在であり、中観の真理としての空性の知である。」、としているのです。
(4) ラトナーカラの思想のまとめ
シャーンタラクシタは「最高の真実を心の形象や照明を越えた絶対の「空」」として表現しました。
ラトナーカラは「最高の真実としての空が単なる無知とは異なるものであることを強調して、それを知の本質としての「光り輝く心」」と表現したのです。
中観の空が、有に対する無、知に対する無知でないことははっきりしており、その点を強調する方法として、両者の違いがあるのであって、表現の違いにすぎず、最高の真実が、人がヨーガによって到達する究極の境涯であることには変わりがないのです。
「仏教思想概要3 《中観》」完
なお、本文は、三部構成で、二人の著者(仏教専門の学者と西洋哲学者)によって書かれています。概要は主となる第一部(仏教専門の学者)をまとめたものです。第二部は二人の学者の対談、第三部は西洋哲学者が担当しています。
その第三部では、『中論』について取り上げて深堀した内容となっています。興味のある方は本文をお読みください。
以上、長らくお付き合いありがとうございます。後期中観派では、唯識派と統合してしていきます。それは、特にヨーガという実践面で強く表れています。
次回「仏教思想概要4」では、その《唯識》を取り上げます。しばらくお待ちください。