SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

仏教思想概要3:《中観》(第9回・最終回)

2023-06-18 08:04:42 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第9回です。そして最終回です。
 前回は、ナーガールジュナ以後の中観派として「後期中観派」、そのうちのシャーンタラクシタの思想について取り上げましたが、今回は、「後期中観派」の実践面と、ラトナーカラシャーンティ(ラトナーカラ)の思想について取り上げます。

 

3.2.3.後期中観派の実践大綱
 シャーンタラクシタが中観派と唯識派(瑜伽行派ゆがぎょうは)を総合した、ということは理論的な領域においてだけ果たされたわけではありません。むしろ実践面でそれはもっと完全に行われました。
 初期・中期の中観派も菩薩の十地(じゅうじ)というヨーガの方法を無視していたわけではありませんが、後期中観派において、十地をはじめとして、瑜伽行派が体系化し、実践してきたヨーガがほぼ全面的に受け入れられたのです。

 以下、後期中観派の実践の大綱(ヨーガの階梯)をカマラシーラの『修習次第(しゅじゅうしだい)』などによりながら順次みていきます。

(1)知恵の習得
 知恵は三種の方法によって得られます。(下表36参照)


(2) ヨーガの種類
 三種の知恵のうち修(ヨーガ)は次の三種があります。(下表37参照)


(3)止心の過程
 止心の過程は次の三工程に分類できます。(下表38参照)


(4) 「観(観察)」の段階
 「観(観察)」の段階は『入楞伽経(にゅうりょうがきょう)』の第十章第二五六~二五八詩頌の方法により行われます。(カマラシーラの解釈:下表39参照)

 三詩頌により、シャーンタラクシタの哲学の四つの階梯(第8回・図5参照)が修習されることになります。「①実存する物と心(有部・経量部)②形象ある心(有形唯識派)③形象ない心(無形唯識派)④空性(中観派)」という四つの瞑想の対象を直観するとともに、低い階梯の対象を批判して、高い段階に昇っていくことを意味します。

(5)十地
 双運(止観の統一の完成)後、瞑想者が仏の境地に至るまでに十二の段階があります。
「信解行地(しんげぎょうじ、予備段階)」→「十地(じゅうじ、菩薩の十地)」→「仏地(ぶつじ、仏の境涯)」(下表40参照)



3.2.4. ラトナーカラの思想-光り輝く心-
 後期中観派の主要思想家シャーンタラクシタの思想、カマラシーラを代表とした後期中観派の実践面、とみてきましたが、後期中観派の思想の最後に、シャーンタラクシタとともに後期中観派をけん引したラトナーカラ(ラトナーカラシャーンティ)の思想についてみてみたいと思います。

(1) ラトナーカラの略歴
 ラトナーカラの略歴を以下に示します。(表41参照)


(2)ラトナーカラの各会派批判
 ラトナーカラは他派及び自派のシャーンタラクシタなどの思想も批判し、自らの主張を論じています。(下表42参照)


*「照明」とは:ラトナーカラは世界のあらゆる現象はわれわれの認識の表象にすぎないが、この表象は青や赤という「形象」とそれを現象させる「照明」とからなりたっており、それらの形象は非実在であるが、照明は実在すると主張する。青の形象の認識は誤りとして赤の形象によって訂正されるが、認識の照明作用はつねに変らず自覚される。

(以上のまとめ)
 ラトナーカラは、心の本質を照明そのものとし、そこに唯識と中観の一致した真理を見つけました。『般若経』の「清く光り輝く心」にもう一度立ち帰って仏教哲学を統一しようとしたのです。

(3)ラトナーカラのヨーガの階梯
 ラトナーカラのヨーガの階梯は、カマラシーラの階梯と大体において同じですが一点で相違します。
それは、形象を離れた照明そのものとしての心が最高の段階を占め、それを越えた段階は設定されないとしているのです。
 学習(聞)と批判(思)を修習したのちに、瞑想(修)が行われるが、ラトナーカラはこれを四つの段階に分けています(それぞれの段階が止心・観察・両者の統一に分けられるのはカマラシーラと同じ)。止心においては瞑想の対象は直観されるが、理性的推究はそれに伴わない、観察においてはそれが伴う、としているのです。
(ラトナーカラの瞑想の四段階(下表43))

 ラトナーカラの特徴である瞑想の四段階の解釈は、『入楞伽経』の三詩頌の解釈の違いによるものです。
 つまり、「無顕現は照明そのものを越えるといわれるが、それは照明そのものを対象とすることを越え、それと一体になることである。」、と。「照明そのもののほかに、より高い立場で空があるわけではない。照明そのものと一体になった立場が唯識の真理の実在であり、中観の真理としての空性の知である。」、としているのです。

 

(4) ラトナーカラの思想のまとめ
 シャーンタラクシタは「最高の真実を心の形象や照明を越えた絶対の「空」」として表現しました。
 ラトナーカラは「最高の真実としての空が単なる無知とは異なるものであることを強調して、それを知の本質としての「光り輝く心」」と表現したのです。
 中観の空が、有に対する無、知に対する無知でないことははっきりしており、その点を強調する方法として、両者の違いがあるのであって、表現の違いにすぎず、最高の真実が、人がヨーガによって到達する究極の境涯であることには変わりがないのです。

 「仏教思想概要3 《中観》」完

 なお、本文は、三部構成で、二人の著者(仏教専門の学者と西洋哲学者)によって書かれています。概要は主となる第一部(仏教専門の学者)をまとめたものです。第二部は二人の学者の対談、第三部は西洋哲学者が担当しています。
 その第三部では、『中論』について取り上げて深堀した内容となっています。興味のある方は本文をお読みください。

 

 以上、長らくお付き合いありがとうございます。後期中観派では、唯識派と統合してしていきます。それは、特にヨーガという実践面で強く表れています。
 次回「仏教思想概要4」では、その《唯識》を取り上げます。しばらくお待ちください。


仏教思想概要3:《中観》(第8回)

2023-06-10 07:33:50 | 03仏教思想3

 「仏教思想概要3:《中観》」の第8回です。
 中観思想の本論の終盤に入っています。
 今回は、ナーガールジュナ以後の中観派として「後期中観派」、そのうちのシャーンタラクシタの思想について取り上げます。

 

3.2.後期中観派(瑜伽中観派)
 次に後期中観派の思想概要についてみてみます。後期中観派についてもすでに第1章でその概要を説明していますが、ここではその代表者でもあるシャーンタラクシタ、ラトナーカラシャーンティ(ラトナーカラ)の2人の思想を中心にみてみます。

3.2.1.インド仏教哲学の発展と二つの知識論
 シャーンタラクシタの思想をみる前に、当時の仏教哲学の状況をまずみてみます。

(1)インド仏教哲学の発展状況
 五世紀ごろ(世親の活躍時代)のインド仏教哲学及び以後の状況を整理してみると以下のようになります。(下図4参照)

(2)二つの知識論
 各学派の主張を整理してみると、小乗系(有部と経量部)と唯識系それぞれが知識論においては、二派(無形象知識論派と有形象知識論派)にわかれていることも分かります。(下表34参照)

3.2.2. シャーンタラクシタの批判哲学
(1)シャーンタラクシタの哲学体系分類
 シャーンタラクシタの批判哲学の説明に入る前に、彼の考える哲学体系をまずみてみると、次のように整理できます。(下図5参照)

(2)シャーンタラクシタの各会派批判
 上記体系を基に、シャーンタラクシタの各会派の批判・評価内容を整理すると、次のようになります。(下表35参照)


 シャーンタラクシタは、唯識を有部や経量部より高いもの、一般の理解においてはもっともすぐれたものと評価しました。
 中観と唯識を馬車の二つの手綱にたとえて、二学派の理論を習得してはじめて大乗仏教者いえるといっているのです。

 

 本日はここまでです。次回は「後期中観派」の実践面と、ラトナーカラシャーンティ(ラトナーカラ)の思想について取り上げます。そして、次回が最終回となります。

 

 

 


仏教思想概要3:《中観》(第7回)

2023-06-03 08:32:14 | 03仏教思想3

「仏教思想概要3:《中観》」の第7回です。
 中観思想の本論に入っています。
 前々回、前回と「中観派の批判哲学」をご紹介しました。今回は、空の理論のまとめと、ナーガールジュナの思想を宗教面から分析します。さらに、ナーガールジュナ以後の中観派として「中期中観派」をみてみます。

 

2.3.ナーガールジュナの論理形式-本体の論理と現象の論理-
 以上、『中論』を中心として、批判の哲学ともいえる中観哲学の性格をみてきましたが、最後に空の論理のまとめとして、ナーガールジュナの論理形式についてみてみます。
 ナーガールジュナの論理形式の特徴は、定言的論証(三段論法)は多用せず、仮言的推理(条件的論証)、ディレンマ、四句否定を武器としたことです。それは、自己の論理の主張より、他学派の理論の批判に専念したからです。

以下、四句否定から、その内容をみてみましょう。

2.3.1.四句否定
(1)四句否定の問題点と性格
 四句否定はナーガールジュナの創見ではなく、初期経典にも見られるもので、彼はその伝統を受け継いだだけのことです。例えば、『中論』(第二十五章第十七詩頌)の「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」という詩頌はブッダの教えとして伝わるものです。
 ここで、四句否定は、論理的には、第三句は矛盾の原理に反する、第四句は第三句に等しいという問題をもっています。(下表29参照)

 したがって四句否定を形式論理の中で理解することは困難です。むしろ、ある論議領域において成り立っている一つの命題を、それと異なった、より高次な論理領域から否定していく過程として、弁証法的性格をもっていると考えなくてはならないのです。

(2) 教育的段階としての四句
 四句否定の論理は、教育的な手法としても活用されています。(下表30参照)

(3)四句否定の意義
ⅰ)中観における四句否定の意味
 以上のように、「すべてのものは真実である」「いかなるものも真実でない」「あるものは真実であり、あるものは真実でない」「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」というものをはじめとする多種類の四句は、それぞれの問題に関するさまざまな人々の意見としてあるものです。四句の一々の見解はそれをもつ人の特定の理論的立場、特定の論議領域においてのみなりたち、いずれも一定の条件のもとでのみ肯定、否定されるものです。無条件に、絶対的な真であることはできないのです。
 このように、中観の真理では、四句のいずれも絶対的なものとしては否定するのが「四句否定」の意味であるのです。

ⅱ)最高の真実としての第四句が否定される理由
 第四句「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」は、最高の真実として中観の宗教的真理を示しているから、その点では否定されるべきものではありません。但し、第四句も第一、または第三句の成り立つ領域では否定されるべき性質をもつものです。つまり、中観の真理も一般的な論理領域では真であるとは限らないのです。
 例えば、『般若経』では、空を執着するものに対しては空をも空ずる必要があることが強調されます。
 つまり一般の理解(世俗)の世界と最高の真実(勝義)の世界を弁別し、二つの領域を一応異なったものと自覚する必要が生じるのです。

2.3.2.ディレンマの意味と名辞と実在の関係
 この後本文では、ナーガールジュナのディレンマの論理的手法、名辞(ことば)と実在の関係の論理的展開について詳細に説明しています。
 しかしいずれも、既述の「2.2.3. 原因と結果の否定(2)ディレンマ」及び「2.2.7. ことばと対象の関係の否定」の詳細説明となっています。このため、「概要」という趣旨からここでは省略します。ご興味のある方は是非本文をお読みください。
 ただ、本文最後に次の説明がありました。「ナーガールジュナの論理形式と本質は、彼を継いだ中観者たちによって必ずしも彼の意図どおりに正しく理解されなかった。」と。(詳細は後述)

 

2.4.ナーガールジュナの宗教
 ここでも、本文では空性(くうしょう)についての説明が続きますが、内容的には既述の空の論理に関する内容となっていますので、概要としては省略します。
 ここでは、「宗教」という視点で、ポイントとなるとと思われる部分を抜き書きしてご紹介しておきたいと思います

(1) アビダルマ仏教-区分された要素-の批判
 ナーガールジュナはアビダルマ仏教の区分された要素の世界を信じていません。区分されたもの、たとえば愛着がそれ自身で存在するならば、人がなくして愛着があることになります。
 ナーガールジュナは、『ラトナーヴァリー』第一章第四十、四十一詩頌(下表31)にて、次のように説いています。

(2) 迷悟一如
 ナーガールジュナは、『中論』第二十二章第十六、十五、十九・二十詩頌(下表32)にて、如来と輪廻について次のように説いています。

 

3.ナーガールジュナ以降の中観派

3.1.中期中観派
 ナーガールジュナ以降の中観派の動向については、すでに第1章にて説明しています。ここでは、その思想概要についてご紹介をしていきます。

3.1.1. 帰謬論証派と自立論証派
 第1章でも説明したように、中期中観派は帰謬論証派と自立論証派に分かれますが、その二つの論証方式は次のようです。(下表33参照)

 帰謬論証は当初は正式な論理法とは認められていなかったが、八世紀以後の後期の仏教論理学では、定言法と並んで、推理としての位置を確立していきました。
 インド論理学の領域では、定言論証と帰謬論証との関係は次のようになります。(下図3参照)

3.1.2.『中論』解釈の諸問題
 ナーガールジュナの論理は、ニヤーヤ学派やディグナーガの論理学のようにインド論理学の主流とは異質的なものでした。このため、中観派は他派との論争のため、ナーガールジュナのディレンマや四句否定をインド論理学の形式で表現する必要があったのです。
 しかし、帰謬論証派も自立論証派も中論の論理的証明に成功しませんでした。
 このため、帰謬法の支持者だったチャンドラキールティは、帰謬ということばを論理の超越という意味にとって、中観の論理的証明そのものを放棄し、その非論理性ないし超論理性を主張することで、中観を主体の問題、実存の思想ととらえようとしました。しかし、それにも成功しているとはいえないものでした。
 つまりは、中観につては、これを「弁証法」として理解すべきですが、これまでのインドや中国の仏教者がこれに成功したとはいえません。現代の課題といえる問題点です。
 なお、本文では、帰謬法の推進者ブッダ・パーリタ、定言法の推進者パヴィヤ、それぞれの主張と問題点が記述されていますが、ここでは省略しています。興味のある方は本文をご確認ください。

 

 今日はここまでです。次回は後期中観派を取り上げます。少しお待ちください。