SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

仏教思想概要4:《唯識》(第5回)

(府中市郷土の森公園・修景池のハス      6月21日撮影)

 

 仏教思想概要4《唯識》の第5回目です。
 前回より唯識思想の本論に入り、最初に「実在論と唯識思想」についてみてみました。本日は前回の最後に課題とした「識の変化」を取り上げます。

 

2.識の変化

2.1. 「識の変化」の概念形成
2.1.1.識の変化の意義
『唯識三十頌』の冒頭でヴァスバンドゥは次のように説いています。「実に、さまざまな転義的に自己や客体的存在をあらわす表現が世に行われているが、その表現は『識の変化』にもとづくところとしている」と。
 つまり、「人格的実体(自己(アートマン)、生命(ジーヴァ)、生きもの(ジャントウ)、人間(マヌジャ)など)や客体的存在(壺、布など、仏教における蘊、処、界やヴァイシェーシカ学派の実体、属性、運動など)は実在していない。人格的実体は、実は、生じた瞬間に滅する識が次々に継起して形成する「識の流れ」である。そして、客体的存在も、識の内部にある表象にすぎない。識が瞬間ごとに表象をもつものとして発生することが「識の変化」である。」としているのです。
『唯識三十頌』でヴァスバンドゥは「変化は三種である」としています。(表21)


 変化とは、以上の三種の「識」そのものであるのです。識は実体ではなく認識機能そのものですから、識が機能することが「変化」という作用名詞であらわされているのです。つまり、「識の変化」は、識が識として機能することと理解できます。「識」がその様相を変えるということを意味しているわけではないのです。

2.1.2. 「識の変化」の定義
(1) サーンキャ学派における変化
 識が機能することが、なぜ「変化」と言われるのかをここで検討してみます。「変化」とは元来サーンキャ学派を特徴づける概念です。彼らは、現象的存在はすべてその質量因の中に潜在的に存在しているという学説をたてました。
 つまり、「原因の中に存在していないものが、結果として生じてくることはない。したがって、原因と結果は等質的であり、原因が変化したものが結果である。共通性をもった現象的存在はすべて同一の原因の変化によって生じた結果である。すべての現象的存在は三要素(純質(サットヴァ)・激質(ラジヤス)・翳質(えいしつ、タマス))から構成され、変化とは質量因が本質的に同一を保ちながら、あらわれ方(構成要素の排列のし方)を異にすること。」としているのです。

(2)唯識派の定義
 サーンキャ学派の変化の概念を「識」にそのまま適用できません。
 唯識派では「「識の変化」とは、識という基体がその本質を失うことなしに様相を変えることではなく、「識の流れ」において、その瞬間の識が直前の識とは別のものとして発生することを意味する。」としています。
 ここで、瞬間ごとに生ずる識を内容的に決定する要因はといえば、それは、「アーラヤ識」の存在です。アーラヤ識の潜在意識(善・悪・無記の性質をもった現勢的な認識機能の根底にあるもの)の中に瞬間ごとの識を決定する潜勢がたくわえられているのです。アーラヤ識の中に自己及び客体的存在を主観的に構成する潜勢力があるのです。

2.1.3.「識の変化」説の成立の経緯
 それでは、以下で「識の変化」説がどのように成立したかの経緯をみてみたいと思います。

(1)経量部の「随眠」説
 アーラヤ識説形成に深い関連をもっているのは、経量部の「随眠(ずいみん)」の解釈です。
 随眠とは、表面にあらわれた煩悩に対して、いまだ表面化しない煩悩、すなわち心内にひそむ悪への傾向を意味します。そして、それが現勢化することが、「纏綿(てんめん)」という術語であらわされています。
 これに対して、有部は、現在の心の性質を決定する要因を「結合」と「分離」という術語で表しています。
 「結合」:現在の心の性質を決定する要因として、心に伴わない存在要素(心不相応行法)、それは瞬間ごとに人間存在を構成しては過去の領域に去っていく多数の存在要素の流れの中で、特定の要素を現在の瞬間に集めるはたらきをする。
 「分離」:「結合」に対して、特定の存在要素が現在に生起するのを妨げるはたらきをする。(「結合」「分離」の事例)
 煩悩を伴った心の直後に善心が生ずるのは、善の心作用を集める「結合」のはたらきによる。それと同時に、煩悩の心作用が現在に生起するのを妨げる「分離」が作用する。

(2)経量部の種子説から『俱舎論』へ
 経量部は有部説に反対し、「種子(しゅじ)」説をたてます。
 経量部は、有部説の現在の心の性質を決定する要因として「結合」「分離」が要請されるとすれば、さらに「結合」「分離」作用を促す別の要因が必要となり、無限遡及に陥るとしたのです。経量部では、それらに代わるものとして、善や煩悩の心作用が現在に生起してくる原因を説明するために「種子」説をたてたのです。
 種子とは:すでに過去の領域へと去った心が、個体を構成する存在要素の中にのこした余習であり、時が至れば種子から芽が生ずるように現勢的になる可能性をもった潜勢力である。種子には三種類ある。「善心の種子」「悪心の種子」「無記の心の種子」、悪心の種子を「随眠」と呼ぶ。(有部では随眠は煩悩の一種とみなしている)

(3)『倶舎論』から唯識説へ
 ヴァスバンドゥは『倶舎論』において経量部の「種子」説を認めています。
 ヴァスバンドゥは、『倶舎論』において以下のように種子説を展開しています。
 種子を、結果の発生に対して直接的に、あるいは間接的に能力をもつ名色(みょうしき、心的・物的要素の集まり)と定義して、その能力が現実あらわれるのは、個体を形成する存在要素の流れの特殊な変化(相続転変差別)によるとしています。
 ヴァスバンドゥの種子説と唯識説の「識の変化」の概念には、明らかな関連性が認められます。個体を形成するのは、因果関係によって瞬間ごとに継起する多数の存在要素と『倶舎論』では説いていますが、唯識説では、すべての存在要素は識の中に収めとられるから、種子が現勢化するのは「識の流れの特殊な変化」によることになるとしているのです。

(4)『成業論』の異熟識
 ヴァスバンドゥは『成業論(じょうごうろん)』において、「異熟識」説を展開し、「アーラヤ識」説につなげました。
 経量部内において、個体を構成する存在要素の流れの中に置かれている種子を現勢化するまで保持していくのは「心」か「認識器官」か、という論争が起こります。ここで、「心」であることを説明するために、ヴァスバンドゥが認めた「通常の心の根底にあるいまだ現勢化しない心の種子を保持する識の存在」を「異熟識」としたのです。
 つまり、無想定(むそうじょう)・滅尽定(めつじんじょう)とよばれる瞑想に入ったときには、心の流れはいったん停止して無心の状態になるが、その瞑想を中止すれば、心は再び生じてくる。この無心の状態の間も異熟識は存在し、種子を保持しつつ流れを形成しているからと説いたのです。
 瞬間ごとに継起する心が異熟識から生ずるとする『成業論』の思想を徹底させれば、心の認識機能は外界の対象をまつことなく、全く自発的なものであることになります。そこから「唯識」であって外界の対象は存在しないという思想が生まれるのは自然な流れであるのです。

 以上、ヴァスバンドゥの著書と思想展開を整理すると以下のようになります。(表22)

2.2. 煩悩・業・輪廻

2.2.1.三種の識の特性
「識の変化」とは、アーラヤ識・自我意識・六識が機能することであり、これら三種の識の特性は以下のように整理できます。(表23)


2.2.2.潜在意識と現勢的な識
(1)ヴァスバンドゥ以前での「識の変化」
 「識の変化」という用語は使われていないが、三種の識はアサンガの『摂大乗論』に説かれています。またマイトレーヤの『中辺分別論』『大乗荘厳経論』には三種の識の名称はないが、「非実在の仮構」(既述第1章2.1.3.(3)参照)という概念はそれらの機能を総括しており、潜在意識と現勢的な識の区分は設けられています。

(2) 原因としての変化と結果としての変化
 唯識説における「識の変化」は、種子の厳正化と同時に、識が種子を生ずることを含めた概念です。スティラマティは『唯識三十頌注解』において、「識の変化」を「原因としての変化」と「結果としての変化」に区分して説明しています。(表24)


 異熟・等流の潜在力とは、異熟果・等流果を生ずべき潜勢力ということです。異熟果は原因とは種類の異なる結果、等流果は原因と同種類の結果のことです。
 現勢的な識とその余習との関係をスティラマティは次のように説明しています。
「善・悪の現勢的な六識はアーラヤ識の中に異熟の潜在力と等流の潜在力を置く。無記の六識及び汚れたナマスは等流の潜在力のみ置く。」と。
 このことから、「原因としての変化」は、六識(善・悪・無記)・自我意識(無記)がアーラヤ識の中に、同類の結果を生ずる潜勢力を置き、その潜勢力が成長することを意味します。
(現勢化した識(六識及び自我意識)は善・無記であっても有漏(煩悩をもつもの)であり、生ずると同時にその余習が潜在意識の流れの中にとどめられ未来に同類の識を生起させる。)

 「結果としての変化」の①は後述します。②は、アーラヤ識の流れの中で成長した潜勢力が、その力の頂点に達したときに、識の流れに変化がおこって、それぞれの潜勢力に応じた六識・自我意識が生ずることを意味します。
 現勢化した六識と自我意識とは、機能すると同時にその余習をアーラヤ識の中に置く。こうしてアーラヤ識と七種の識とは、交互に因となり果となる関係をなすことになるのです。

(3)「結果としての変化の①」について-業の世界
ⅰ) 「結果としての変化の①」について
 アーラヤ識と現勢的な識との相互因果の関係によって、煩悩の世界が描きだされます。
 ある瞬間に生起する識は、六識(五識と意識)と自我意識とのコンプレックスです。その識は道徳的には善・悪・無記のいずれかですが、悪である場合はもちろん、善あるいは無記である場合も二元性を離れた超世間的知識を持っていないかぎり、有漏(煩悩をもつもの)です。
 この煩悩の世界は、現在の生存が終わるとともに消え去るものではありません。アーラヤ識の流れは次の生存においても絶えることなく、そこに再び煩悩の世界を現出させるのです。このことが、先述で保留した「結果としての変化の①」のことを説明するものです。

 異熟果を生ずることが出来る原因(異熟因)は、有漏の善・悪の現象的存在のみです。(無記、及び無漏(煩悩がない)存在は果実を実らせることはできない。)したがって、「結果としての変化の①」の場合、異熟果の潜勢力をアーラヤ識の流れの中に置くことが出来るのは、現勢的な善・悪の六識のみです。
 富貴の家に生まれたり、天上界に生まれたりするなどの好ましい結果を招くのは、善業すなわち善い六識であり、地獄・餓鬼などの好ましくない境遇は、悪業すなわち悪い六識の招く結果です。

ⅱ)業とは
 現在の生存は過去世における業(ごう)の異熟果です。三界(欲界・色界・無色界)のいずれに生まれるか、地獄・餓鬼・畜生・人間・天人のいずれの境遇に生まれるかなどを決定する要因はすべて過去の業に求められます。
 業は現勢的な識のはたらきであり、潜勢力もアーラヤ識の中に置くが、同時に一生の間の業が未来の生存を規定するとも考えられます。業は以下に区分されます。
「引業(いんごう)」:次の一生をけん引する特定の業(例:「布施」の結果、富貴の家に生まれる、その場合の「布施」)
「満業(まんごう)」:一生の間の諸条件を満たすはたらきをする業(例:「布施」以外のさまざまな業、結果として容貌、健康、寿命などが決まる)

2.2.3.輪廻
(1)輪廻と「唯識」
 『大乗アビダルマ経』の詩節に、「無始の時からの要素が、一切の現象的存在のよりどころである。それがあるので一切の境遇があり、また涅槃の証得もある」と述べられていますが、この「無始の時からの要素」こそ、アーラヤ識にほかならないのです。
 識には以下二つの潜勢力があります。(表25)


 以上の二つで煩悩と業と後の世への出生の連鎖、つまり輪廻が無始の時から続けられているのです。

 「アーラヤ識は現在における煩悩の根拠であると同時に輪廻的存在の根拠である。ただし、「非実在の仮構」としてのアーラヤ識であり、過去・現在・未来の三世にわたって描き出される世界はただの表象にすぎない。」これこそが「唯識」という語の意味なのです。

(2)『中辺分別論』にみられる「非実在の仮構」の例
 『中辺分別論』の第一章には、「非実在の仮構」がさまざまな観点から考察されていますが、汚れという観点から見られる「非実在の仮構」が「十二支縁起」(下表26参照)であって、それは過去・現在・未来にわたる二重の煩悩-業-生(出生と生存)の関係を明らかにするものです。

2.2.4.実践への導き
 唯識思想は、既述のように、『般若経』や中観派の空の思想を前提に形成されました。その空の思想は、有部のアビダルマの「存在の分析」の批判を通して展開されました。
 つまり、アビダルマ・中観・唯識の思想展開をみてみると以下のように整理できます。

 アビダルマ:客観主義的な「存在分析」
  ↓ 批判として
 中観:自己も客体的存在も本来空である
  ↓ 自己と客体的存在への執着による煩悩世界の現出
 唯識:煩悩を断とうとする瑜伽行の実践

 唯識において、現勢的な識とアーラヤ識との交互因果の関係と次の生におけるアーラヤ識の発生についての理論的説明は、アビダルマのような客観的立場からの考察ではなく、実践的関心がその理論背景をなしているのです。

 

 本日はここまでです。次回は輪廻的存在を如何に超越するか、「唯識の実践」について取り上げます。

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