SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

仏教思想概要6:《中国華厳》(第3回)

(巾着田の曼珠沙華     9月25日撮影)

 

 

 仏教思想概要6《中国華厳》の第3回目のご紹介です。
 前回は、「第2章 『華厳経』の意味と構成・主な教え」のうち「『華厳経』の意味と構成」をみてみました。今回は「3.「十地品」、「入法界品」の概要と意義」を取り上げます。

 

3.「十地品」、「入法界品」の概要と意義

3.1. 『華厳経』における「十地品」の位置づけ
 十地品は『華厳経』の巻末をかざる善財童子求道遍歴を描いた「入法界品」とともに、『華厳経』のなかでも成立年代の古い部分に属します。『華厳経』に組み入れられる以前は、それぞれ『十地経』、『不可思議解脱経』として独立した経典として流布されていました。
 つまり、両経は『華厳経』でもっとも重視された部分であり、まず、『華厳経』の構成における十地品の位置づけを明らかにする必要があります。

 前述の表11において、『華厳経』全体としては、「十地品」を中心とする(二)十地系諸品を中心として、その前後に文殊経典と普賢経典とが連結したものが、華厳の胴体にあたる部分です。これに序文と入法界品を結合するとき完全なる大華厳となります。
 文殊経典では理論智の文殊菩薩を主役として「歴史的に華厳思想に先行する般若の空の思想の再確認が」され、普賢経典では、実践智の象徴たる普賢菩薩を中心として、「華厳独自の菩薩行の理想」が述べられており、両者の中間にある十地系経典では、「菩薩の修行道にかんする考察が、般若の十地思想を踏まえながらも、それを克服する華厳独自のものとして」展開されています。

3.2.「十地」の構成と意義

3.2.1.「十地」の構成
 十地とは、大乗仏教における修行の階梯をさし、「覚り(さとり、菩提)を得ることを予め確定されている主体(有情)」を意味する菩薩(菩提薩埵(ぼだいさった))が、覚りを求める気持ちを生ずる段階(発菩薩心)から出発して覚りを得る段階にいたるまでを、10段階に分けたものです。(下表12参照)

3.2.2.十地の果報にみる十地の二段構造
 菩薩の十地の果報(修行の結果得られる善い報い)をナーガールジュナの小論『ラトナーヴァリー』(宝のつながり)にみることができます。(下表13参照)


 上表にみるように、初地~七地には十地の果報が以下のように割当てられています。

  初地・二地:地上の王位

  三地~七地:欲天

  つまり、欲界(*)の人と天が割り当てられています。これは、煩悩によって汚されているわけではないが、煩悩を超えてはいないことを表しています。
 さらに、八地~十地の果報では、色界(*)の諸天(梵天が住む世界)が割当てられており、この段階では、煩悩を超えていることを表しています。

*三界:無色界・色界・欲界(詳細は後述)

3.3.十地のかなめ

3.3.1.第七地の意義
 前述のように、七地までは悟りを得たいという欲望にとらわれて、煩悩をすっかり離脱してしまったとは言えない。その悟りの欲望の頂点に達したのが七地で「遠行」の名が与えられています。これは、遠くに旅することを意味し、迷いの此岸から悟りの彼岸へとはるばる赴くことを意味します。
 つまり、第七地が、十波羅蜜(*)と十地とを具足し、それによって「一切の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみょくさんぼだい:無上のさとり)を助くる法」を具足するということは、大乗菩薩の修行道であり、菩提を助ける法である十地の核心があることを意味するといえます。

*十波羅蜜:「十波羅蜜」も菩薩の修行道を意味するが、十地との関係では、十地の一つの段階(第七段階)に位置づけられ、「十波羅蜜」と「十地」の10のカテゴリーは1対1の対応を示しておらず、両者の性格はいささか異にしている。
「戒・定・慧」(三学)に『般若経』では「布施・忍辱・精神」を加えて「六波羅蜜」とよび、『華厳経』ではさらに「方便・願・力・智」を加えて「十波羅蜜」とよぶ。

3.3.2.第七地の位置づけ(まとめ)

・十地を第七地以前と第八地以降の二段階に区分できる

・第七地が十地のカナメである

・十地品が文殊系経典と普賢系経典の媒介の役割でありように、十地のカナメ第七地は第六地以前と第八地以降の媒体の役割をはたしていること

(参考資料:初地~十地の概要(表14))

3.3.3.第六地の意義と位置付け
 第四地と第五地に代表される小乗から大乗にいたる論理的成果をふまえながら、縁起説をてことして、菩薩系実践の立脚点を確立したものと言えます。
 ここで悟った内容は「三界虚妄但是一心作(さんがいこもうたんぜいっしんさ)」(「三界唯心偈(さんがいゆいしんげ)」)であり、般若の知恵を発得することです。
 第六地までは向上面で、第七地からは向下面が現れる。第七地以降、般若の知恵は必然的に慈悲として具体的に生かされて来なくてはならないことを説いています。
 同じく十地品では、「智波羅蜜(ちはらみつ)」を説くが、第六地の慧と第十地の智とは異なるものです。第六地の慧は悟りへの知恵であり、第十地の智は世間にかえって働く知恵です。
(第六地(現前地)の偈の一部:表15)


 ここで「三界唯心」という用語が登場しました。「十地」を理解するうえ重要な内容のため、以下で説明しておきます。

 

3.4.三界唯心とは
 三界唯心は十地の第六地(現前地)を特徴づける思想となっていますが、「三界は虚妄にして、但是の心の作なり」という一句に尽くされています。
 そこで、「三界」と「心」について、仏教ではどう解釈されてきたのかをみてみます。

3.4.1.三界と五趣
 インド仏教においては、あらゆる生きものは、その生存期間中に積み重ねられた行為(業ごう)の如何によって価値の異なる生存様式のあいだを上昇したり下降したりしながら生死をくりかえす(「輪廻転生」)と考えられました。
 三界は、それぞれの生存様式を異にするさまざまな生きものの生存の場(生存領域)の総括した名称であり、それぞれの生きものの生存様式を「五趣」と呼びます。
 小乗仏教・部派仏教の理論学者ヴァスバンドゥ(世親*)の『倶舎論』では、以下(図3)のように説明しています。

*世親:部派仏教有部の代表的な理論家であるが、その後兄とともに、「唯識」思想を唱え、「空」思想を体系化した龍樹(ナーガールジュナ)とともに、大乗仏教の代表的な理論家の一人となった。

 

3.4.2.「心」:五位と五蘊
『倶舎論』によれば、「心」(意識)は五位や五蘊に分類されています。(下図4参照)

 ・五位:全存在(一切法)の基本的な分類原理

 ・五蘊:五位のうち有為法のみにかんする分類原理 

3.4.3.「三界唯心」のまとめ
 以上をまとめると、以下のように整理できます。

 ・三界に輪廻転生する生きもののあり方は心の所産である

 ・その心は貪欲から生じたまよいの心である

 ・輪廻転生のすがたはまよいの心の所産であるから、まよいの心をなくしさえすれば輪廻から脱却できる

 これらは、アーガマ(原始仏教)、アビダルマ(『倶舎論』)に説かれた仏教の基本テーゼであり、華厳思想の特徴とはいえません。ポイントは、これらのテーゼの『華厳経』における位置づけということになり、それは十地の第六地(現前地)で説かれているということになります。

3.5.「入法界品」の意義と十地・八会・三四品の関係

3.5.1.「入法界品」の意義
 入法界品(にゅうほっかいぼん)は、十地品(じゅうじぼん)とともに菩薩の修行の段階を説いています。会座の第八会に位置し、各会座は複数の品名により構成されていますが、第八会は入法界品のみで構成されています。

 入法界品は、毘盧舎那仏とよばれる法界に充満する真理の場において、その真理を衆生に説き明かそうとする普賢菩薩の願望にもとづき、文殊菩薩の指導に従って、善財童子が菩薩道の師を求めて南方へ遍歴をつづけたあげく、「灌頂地に住する諸仏の長子」として彌勒菩薩にめぐりあうことによって目的を達する、という構成になっています。
 このように、讃仏文学ないし仏伝文学を手がかりとする点では、十地品と軌を一にしながら、十地品のように菩薩の修行段階を論理的に解明するのでなく、菩薩道の構造を比喩的に描き出す形になっています。
 ↓
 『華厳経』の成り立ちはまず入法界品と十地品との巨視的な対応関係が確立されたうえで、十地品の構成にしたがって、全巻の構成がつくられたのではないかと考えられます。

3.5.2.「入法界品」にみられる『華厳経』の世界観
 善財童子は五三人の善知識(先生)をたずね仏法の真理を求めました。
 五三人の職業は「海師(かいし)・長者・賢者・婆羅門・外道(仏教以外の宗教を信じる人)・王・道場地神・天・夜神・仙人・比丘尼・女性 など」です。
 ここでは、あらゆる職業の人に参究しています。これは、「人間の価値は出家や在家などの外形の区分になるものではなく、ただ菩薩心の有無によるものであるという『華厳経』の思想を表わしており、思想的にはわれわれ凡人であっても、宗教的願心をもつときには、たとえ日常生活のどんなささいなことでも、社会生活のふとしたできごとであっても、宗教的向上の道に役立たないものはない。」ことを示しています。
「菩提心という立場からは」世間から忘れられ、見捨てられているよう人々の生活や態度にも、無限の精神的教訓が含まれていることを述べているわけです。
 善財童子は、最後に彌勒・文殊・普賢の三菩薩を尋ねて、菩薩行を求めるのに必要な心がまえを問うています。
 彌勒は「浄き真心と知恵がたいせつである」と答える。さらに善財童子は彌勒に求め楼観(ろうかん)の門に入ることを許されます。
→これは『華厳経』の世界観の広大無辺にして、円融相即しているのは、見仏(*)という宗教的体験によって開かれる点を述べたものです。

*見仏の体験とは:『華厳経』に現れた無辺広大の世界観は、単なる夢物語や空想の世界ではない。ほとけの境地に入る三昧である海印正覚(かいいんしょうがく=悟り)の内容を説いたものである。われわれの心が浄(きよ)らかな仏心になりきるとき、ほとけを見ることができる。浄心になりきる方法は=「自我を空ずること」

3.5.3.八会と華厳三十四品、十地との関係
 六十華厳は三四品から成り立っているが、この三四品は八会(はちえ)にまとめられています。
 八会の「会」とはブッダ(毘盧舎那仏)の説法の場所を意味し、第一会と第二会はブッダが悟りを開いた場所として伝えられているマダカ国の仏蹟、第三会から六会は欲天、第七会(マダカ国)、八会(コサラ国)は再び地上となっています。
 八会と華厳三十四品、十地の果報との関係は(下表16)のとおりとなっており、第一会から六会と十地の初地から七地は軌を一にしています。

3.5.4.十地品・入法界品の意義
 後述のように、『華厳経』の中心思想は「性起品」にみられるように、ほとけの生命の現れを説くが、それだけで本来衆生はほとけ、などということになると、修行はいらないことになります。
 本来ほとけであるところのわれわれ衆生が、無限向上の修行を続けていくのだ、と説いたところに十地品などの意義があるわけです。

 

 本日はここまでです。次回は「性起」について取り上げます。

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