(神代植物公園の梅園にて 2月8日撮影)
2. 主著『秘密曼荼羅十住心論』
2.1. 『十住心論』と『秘蔵宝鑰』
密教は曼荼羅の世界を説く教えです。ところが曼荼羅の世界は真実在であっても、われわれにとってはまだ開顕されていないから、それは秘密の世界であるのです。
秘密の世界は他に求めるのではなく、自分自身の心の内奥に深く秘められていること、これが真言密教の思想的基盤になっているのです。
このことは、空海の著作の中に見ることができます。
(1)『秘密曼荼羅十住心論』について
本著は、『十住心論』と略称します。秘密曼荼羅とは、さとりの絶対者からみた真実在、すなわち大日如来の世界であり、それは同時にわれわれひとりひとりの心の本性として内在しているものです。われわれはこの絶対者と交通するために唯一われわれの心を通路とすることができます。しかしその通路は障害によってさまたげられており、空海はそのもとを唯一根源的な無知にあるとしているのです。その無知によって人間の煩悩が現出し、さまざまな虚妄の世界が展開しているとしているのです。
空海は、あらゆるものはそのままのかたちで本来仏すなわち目ざめた者であるとし、絶対の存在だとしています。これを「本有本覚門(ほんぬほんがくもん)」と呼びます。胎蔵曼荼羅の絶対の理法の世界は「*本覚」であり、金剛界曼荼羅の完成された知恵の世界は「*始覚(しかく)」にあてはめられ、そのあるべきすがたにおいて、二つの曼荼羅世界は二つにして唯一絶対なるものであると説いているのです。
*本覚:われわれの心の本性はもともと清らかなさとりの絶対智を本体とするということ
*始覚:煩悩にけがれた迷いをしだいに打ち破って心源を覚知すること
(2)『秘蔵宝鑰』について
『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』は、『十住心論』を要略したものです。「秘蔵」は秘密蔵のことです。「宝鑰」は宝に特に意味はなく、秘密つまり、この秘密の曼荼羅世界をわれわれの目におおわれたもの、すなわち蔵にたとえて、この蔵を開く鍵を教えるという意味です。
2.2.さとりへの階梯
空海は『十住心論』の序において、われわれの心のなかの秘密の世界にはあらゆる世界(*)が共存しているとしています。
*(例)地獄と天堂、仏性と無仏性、煩悩と菩提、生死(まよい)と涅槃(さとり)、辺邪と中正、空と有、偏と円、二乗と一乗(仏乗)、・・・
さらに、この経典の最初の章を<住心>と名づけ、この経典によって真言を実践する者の心の発達の順序(10の区分)を明らかにするとしています。顕教と密教の区分もまたこのなかに含まれる。心の世界は無量であるが、かりに10に分けて、それらのいずれかをすべて、これにおさめるのである、としているのです。(十住心の世界 下表26)
2.3. 空海の教相判釈-精神の発展段階-
空海の十住心体系は、教相判釈といえるものですが、仏教に限らず仏教以外のあらゆる思想が対象となっており、日本人の書いた仏教関係の著作で、このような広い視野にたって、いっさいの思想をとりあげているのは異例といえることです。
(十住心体系=空海の教相判釈 図5)
ここでは、われわれの心の世界の実相と同じように、この世におこなわれているあらゆる諸思想は、すべて曼荼羅世界の顕現にほかならず、曼荼羅という全体的な世界像のなかにおいて矛盾することなく統一されているのです。
(本文では、この後、十住心体系個々の詳細説明が続きますが、概要としては省略します。)
2.4. 十住心体系の構成
十住心体系は以下(表27)の四つの構成となっています。
2.5.十住心体系のまとめ
(1) 十住心体系にみる空海の思想
第三住心から第九住心までの各住心は、それぞれの思想を一応そのもの特質においてとらえる浅略釈に対して、もう一つの深秘釈が説かれていることを注意すべきでしょう。深秘釈は、いかなる思想においても密教の意趣を見いだそうと企図する解釈となっています。これは一つの思想に二つの認識のしかたがあることを示しているものです。
空海の基本的な考え方に従えば、仏説といわれる釈尊の教えは、時と場所と素質とに対応して説かれるものでるから、その教えはじつにさまざまであるのです。しかし、高次元にたった絶対的な批判からすれば、有機的な生きた現実情況のもとの思想が理解されるべきであるとするのです。そうした意味で思想が機能的に把握されるとき、思想の価値判断の転換がおこなわれざるをえないでしょう。これは一種の相対的な価値判断の停止ともいってよいものです。相対的な思想でありながら、その思想そのものに即して深秘な絶対性を発見するのであるから、これは高度な思惟方法といわなければならないでしょう。
(2)思想の統一
空海の十住心体系は、すぐれた意味において普遍的な宗教をめざしているものです。しかもその普遍たるものは個々の思想を否定的に統一したものではなく、相対的並列的にではなく、絶対の立場で肯定的に統一する方途をとったものであるのです。
深秘の秘密荘厳すなわち曼荼羅世界はあらゆる心の世界、すべての諸思想を内に深くつつみこみながら、全体的世界像としてそれらを越えているところの絶対なのです。絶対は相対において現象し、その現象の相において絶対を見ることができる。だから曼荼羅は宇宙的な心理図であるとともに、心理的な宇宙図として存在しているということができるのです。
3.自己を完成する-真言密教の実践
3.1.即身成仏
3.1.1.即身成仏とは
(1)即身成仏の意義
曼荼羅を説く密教において、宗教としての実践面の中核をなすのは、自己の宗教的な人格の完成にあることはいうまでもない。これを空海は端的に「即身成仏」という言葉で表しています。
大乗仏教の究極の実践目標は仏陀としての釈尊と同じ自覚にいたることであり、仏教の本来の教えは自覚であって救済ではありません。
空海は『請来目録』のなかで、仏教は広大無辺なものであるが、一言でいえば、自利と他利とにあると説いている。しかし、両者は不可分の関係にあり、まずは自己の宗教的人格の完成が究極の理想として願わなくてはならないと説いているのです。
(2)即身成仏への道
空海は『即身成仏義』のなかで次のように説いています。「まず絶対者である大日如来は自覚の本体であって、ことにわれわれの本性は本来同一なものであるべきである。ところがわれわれはこのことを十分認識していない。だからこの理法を絶対者がわれわれに認識させるのである。」と。
自己がそのまま絶対者であることを現証することが、真言密教のあらゆる実践において究極とするところのものであると説いているのです。
(3)即身成仏の現証を保証することばと「菩提心」
このことについて空海が好んで引用するのが龍猛(りゅうみょう)著『菩提心論』の次のことばです。
「もし人、仏慧を求めて菩提心に通達すれば、父母所生(ぶもしょしょう)の身に速やかに大覚の位を証す」(もしも人がさとりの絶対智を求めて、そうしたもとめる心の深く到達したならば、この肉体のままで、たちまち偉大なさとりの境地を証すことができる、との意味。)
さとりの知恵を得んとする心を菩提心といっているのです。密教では生命にかえてもこの菩提心を捨ててはならぬと説いているのです。
3.1.2.物質と肉体の肯定
(1)色心不二(色心為本)
顕教に限らず、一般に観念論的な傾向の哲学は肉体に対する精神の優位を主張します。古来仏教では、このような思惟を「心本色末(しんぼんしきまつ)」といっています。(一方では、精神とか意識とよばれるものは物理的なものより現れ出たものであるとする唯物論的な見解も仏教の流れの中には認められる。これを「色本心末(しきほんしんまつ)という。」)
これに対して空海は「色心不二(しきしんふに)」(または「色心為本(しきしんいほん)」)と主張して、真言密教を特徴づけています。
物質とか精神は生きた現実においては、両者は混然として密接不可分の状態においてはたらいているから、分かつことはできないとしたのです。胎蔵曼荼羅は物質的な存在により、金剛界曼荼羅は精神的な存在により象徴されており、両者は二元にして絶対の一者であるゆえんも、ここにあるのです。
(2)慈雲尊者の『真言宗安心』にみる「即身成仏」の理想
仏教に限らず宗教一般に肉体は魂の牢獄であるとの見方が支配的です。しかし、空海ほど宗教的な意味で肉体の存在を尊重した人はないでしょう。
肉体をもった自己の全存在がそのまま絶対者であるとする「即身成仏」理想を慈雲尊者の『真言宗安心(しんごんしゅうあんじん)』にいっそうわかりやすくみることができます。(表28)
3.1.3.生きとし生けるものすべての成仏
空海以前の奈良仏教では、人はだれでも宗教的な自覚によって絶対の人格を完成すると説く大乗仏教にあっても、その理想の実現には長い年月をかけて修行し、さまざまな修行の段階をへなければならないとした。これを一般に「歴劫成仏(りゃっこうじょうぶつ)」または「三劫成仏(さんこうじょうぶつ)」と呼びます。
これに対して空海は、現世において宗教的に最高の自覚が得られたら、ただちにこの肉体をもった自己の全存在をあげて、そのまま宗教的理想の境地に到達すると説き示したのです。→「即身成仏」
その理論的な根拠は、絶対者および曼荼羅世界が、生きとし生けるものすべてのもの(草木さえも)に本来平等にそなわっているところにあるからとしたからです。→「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)」(日本密教の主要テーマ)
3.2.真言密教の実践法-深秘の瞑想
3.2.1.加持と三摩地
(1)加持とは
「加持」とは、絶対者である大日如来と交わる方法のことで、「即身成仏」の構造的論理のことをさします。
(『即身成仏義』による加持の説明 表29)
(第二部より:加持の意義)
「加持は宇宙の実在となってその力を借りる、加わることである。如来の絶対の実在の力が自分に加わるわけだが、そのためにはそれを受けとめるテレパシー受信器がないとだめである。これを密教では信心があるとか、加持力といい、両方の力が合体することである。その結果自分のもっていない力が出る、それが三密加持である。
⇔自分が真実在の中に入っていく、自分の生命というものを生命の中で見出す。そこにおいて結果的に奇跡が起こる。それを奇蹟をねらうという最初から目的論になると、功利的になり、加持祈祷がおかしなものに形を変えてしまう。」
(2)三摩地とは
三摩地とは、加持というかたちにおける絶対者と自己との出会いを可能ならしめる「本尊の三摩地(さんまじ)」または「密教の三摩地」とよばれる密教独自な深秘の瞑想のことをいいます。
3.2.2. 三密加持
(1)『即身成仏義』の二頌八句の詩
空海は『即身成仏義』のなかで、二頌八句の詩で「即身成仏」理論と実践を示しています。
(『即身成仏義』の二頌八句の詩(原文) 表30)
(2)三業と三密
仏教ではわれわれの身体のはたらきと言語活動と精神のはたらきを「三業(さんごう)」(身(しん)・口(く)・意(い)の三つのはたらき)といっています。
これに対して密教では、これらのはたらきを三業といわず「三密(さんみつ)」(身密(しんみつ)・口密(くみつ)・意密(いみつ))と呼びます。ここであえて三密とするのは、本来絶対者の三業は秘密のものとして、われわれにはかくされたものであり、しかもそれは三業の本来のありかたでなければならないから秘密の三業、すなわち三密というのです。
したがって、われわれの三業も本来絶対者の清らかな三密であり、三業を三密まで高める必要があり、われわれの三業が絶対者の三密と冥合することによって、絶対者の三密となるのです。さらに、絶対者の三密が自己において顕現することで、自己の三業は本来の三密のかたちに立ち還るといえます。
(3)密教の実践と無相の三密
空海は『請来目録』で、三密の実践法を以下(表31)の如くと述べています。
この実践法は三密実践の典型的なものですが、さらに日常の全人格的な行為がことごとく三密となるのを「無相の三密」とよんでいます
(第二部より:護摩の意義、禅の立場と密教の立場)
「護摩は不動明王が祈祷者のかなにはいって、祈祷者と一体になる、そして不動明王となることで大宇宙と一体になることと思われる。不動に象徴される宇宙の力と実在とに一体となって、それによって生命が小我の立場(分別計算で生きる立場)から大我の立場に昇華して、その結果不動ばかりでなく、大日如来とか、文授菩薩とかいろいろな諸相が次々と自分のかなで展開されている。これが護摩行の本質と思う。(梅原氏体験談)
坐禅が一種の無となって宇宙の実在と一体化する、生命の洗い清めがあって、それは否定の方向が強い。極論すれば、禅の場合はともかく全部捨ててしまう立場といえる。
密教の場合は煩悩だって捨てないで、全部あらいざらい出してしまう。悟りも迷いもすべてのものが同居している。その中において自分をもっている生命がだんだん清らかに洗い清められていくという過程がみられる。「曼荼羅は動くものである」(梅原氏のことば)護摩の火の中にたくさんの仏が出てくる。弘法大師はイマジネーションの豊かな人だったといえる。
小さな我に伴ういらないエネルギーを全部捨ててしまって宇宙の大我と一体になる時、その人間は一つの目的に集中できる人間になりうると考える。しかしそうした加持祈祷の加持の意味が見失われたのが密教の堕落で、その一面を見て祈祷仏教と判断されたと考えられる。」
3.2.3.曼荼羅世界の実現
(1)三密の意義
曼荼羅世界はわれわれ自身の内奥の世界の理想的なものであっても、それは三密の実践においてのみ、宗教的人格形成というかたちをとって具現することはできるのです。三密の実践を表とするとき、空海密教を三密宗とか三密経と呼びます。
曼荼羅は図画によって表現される絵画的な世界ではなく、われわれの人格的な全行為において行為的に実現するものでなくてはならないのです。
(2)顕教と密教の宗教的実践の違い
顕教の各宗の実践行を整理すると以下(表32)の如くであり、要するに、一心だけを観想するのが顕教であるといえます。
これに対して密教は身体とことばと心との、三つのはたらきによって代表されるわれわれの全行為を、すべて絶対者の全行為へと高めてゆくことであるのです。観想の仏教に対する行動の仏教といえます。
空海はこのことを三密の金剛杵(こんごうしょ、具体的には三密を象徴する三鈷杵)をふるうのは密教であると述べて、顕と密とを分けているのです。
(3)儀礼主義の密教
一般的に密教では儀礼主義をとります。これは三密の実践の行為的、行動的な表現において宗教的理想をはかるからです。
空海によってもたらされた宗教的儀礼が、やがてさまざまな法会、年中行事となって世俗化され、上代平安文化の絵巻物をいろどっていったのです。
(4)あらゆる人間的行為はすべて三密行
空海の密教においては造形美術に限らず、例えば文芸活動もまた三密行によって完成されます。すなわちいかなる世俗的な文化といえども、密教においては三密の実践的展開であり、曼荼羅世界の形成を意味したのです。
インド以来、密教はゆたかな複合文化の形態をとってきました。この宗教現象もまさしく三密行に求めることができるのです。
本日はここまでです。
次回は「4.密教のシンボリズム」を取り上げます。