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仏教思想概要10:《親鸞》(第3回)

2024-04-13 09:27:40 | 10仏教思想10

 

(神代植物公園にて・大寒桜     3月15日)

 

 前回は、「第1章 親鸞の思想背景」「2.親鸞の信仰・思想の背景」をみてみました。
 本日は、「第2章 親鸞の著作」「1.主著『教行信証』について」を取り上げます。

 

第2章 親鸞の著作

1.主著『教行信証』について

1.1.主著『教行信証』とは

 後ほど少し詳しく説明しますが、『教行信証』は親鸞の諸著作の中で、「文類(もんるい)」という部類に属するもので、彼の思想を著したものです。その大半は、経典、論文、注釈書など主要な仏教関連著書からの抜粋で、そこに親鸞のわずかな見解が付加された構成になっています。
 その『教行信証』では前述の彼の立場を明確に記しています。つまり、大事なのは「信」(彼は「信楽(しんぎょう)という言葉でこれを表現しています)ということを、この書で語っているのです。

 『教行信証』の名は仏教の歴史観から来ています。仏教一般では「教:教えを説いた経典」と「行:それを行ずる人間」と「証:その救いの証拠」の三要素(教・行・証)が必要と言われています。そして、釈迦の死後この要素が次第に失われ、末法の時代になると「教」のみの時代になるとの説があります。そして、この末法の時代に今入っているとの自覚が、鎌倉時代の仏教界の共通認識であったわけです。
 このため、法然はこの末法の時代には、念仏往生の一門しか残らないと、その論拠として『選択本願念仏集(選択集)』を著したわけです。

 これに対して、親鸞は末法の時代には、末法の時代に即した「教・行・証」があると考え、さらに親鸞は、これに熱い信仰の「信」を加えて『教行信証』を著したのです。(なお、『教行信証』には「教・行・信・証」の4巻のほかにさらに2巻が加えられ6巻の構成となっています。)

(『教行信証』の製作概要(表8))

(『教行信証』の序 表9)

 

1.2.真実の教え『大無量寿経』(「教の巻」)

 『教行信証』の第一巻「教の巻」で親鸞は、彼の依拠する経典を『大無量寿経』(いわゆる「浄土三部経」(下表10)の一つ)としています。

(『教行信証』「教の巻」の冒頭の文と意味(下表11))


 これは、中国浄土から源信、法然と続く浄土思想において、『観無量寿経』及び『阿弥陀経』を重視するこれまでの流れとは違った、親鸞の独自の考えで、しかも『観無量寿経』及び『阿弥陀経』の二経典は全く取り上げておらず、唯一の経典として『大無量寿経』を選んでいます。
 親鸞はその理由を、「阿弥陀仏が自らの身をもって証(あかし)をたれ、釈迦が勧めた経だから。そして、その教えの中心は、本願つまり阿弥陀四十八願の中の十八願『どんな悪い人間でも必ず、念仏さえ唱えれば、極楽浄土へ往生することができる』という願であるから。その念仏とは『ナムアミダブツ』の言葉である。」と、この「教の巻」で説いているのです。

 三部経のうち、『阿弥陀経』は極楽浄土世界そのものを、『観阿弥陀経』はその極楽浄土への行き方を示しており、まさに先の「念仏為本」か「信心為本」かといえば、前者の「念仏為本」をつまり「起行」の立場を示しており、中国浄土以来法然までは、その点に重点が置かれていたわけです。

 一方、親鸞は起行の結果得られる安心、ここでは「阿弥陀の本願」が大事だと説いているわけです。
 このことは、『教行信証』で親鸞が最も説きたかった「信の巻」でより明確となります。

 

1.3.口称念仏の保証、阿弥陀の十七願(「行の巻」)

 次の第二巻「行の巻」では、親鸞は、行はもっぱら「口称念仏」であると説きます。ここでも彼は『大無量寿経』、阿弥陀の十七願を取り上げます。「十七願:『たとひ、われ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、わが名を称せずば、正覚を取らじ。』(意味:たとえ私が仏になったとしても、 全ての仏達が「南無阿弥陀仏」と私をほめ称(とな)えなければ、私は仏にはなりません。)」この願の中に親鸞は口称念仏の保証を見出したのです。(「行の巻」の一文 下表12)


 前述のように、『教行信証』において大事なことは、その様式ではなく、要文の間にさし挟まれた親鸞自身の領解と讃嘆のことばにあります。その意味で、特に重要なものは「行巻」の末尾の百二十句にわたる韻文で、題して「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」といいます。
 かなりの長文ですが、ここに正信念仏偈の原文(漢文体)の書き下し文を注釈付きで示します。(表13)

 

1.4.信仰の歓喜(「信の巻」)

1.4.1.三心とは

 いよいよ第三巻の「信の巻」にて、親鸞の信仰の本質が明らかになります。「信の巻」の特徴は、「三心(さんじん)」という『教行信証』の中心思想で、自問自答の形式をとっています。

 この巻の中心思想三心は阿弥陀の十八願にあります。「十八願:『たとひ、われ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて(欲生)、乃至(ないし)十念せん。 もし生ぜずば、正覚を取らじ。ただ、五逆と誹謗正法とをば除く。』(意味:たとえ私が仏になるとしても、全ての人びとが心より争いも貧困も差別も無く、 他者と比べることのない浄土に生れたいと心より念(おもう)ってほしい。 もしその人びと浄土に生まれることがなければ、私はまことの仏にはなりません。 ただ、殺父・殺母・殺阿羅漢(阿羅漢=聖者を殺すこと)・出仏身血(仏の身を傷つけ血を流させること) ・破和合僧(仏弟子の集団を乱すこと)の罪を犯す者、真実の法である仏法をそしる者は除きます。)」

 ここで、至心(ししん)とは、阿弥陀の真実の心、信楽(しんぎょう)は 阿弥陀の救いのはたらきに全くの疑いをいだかないこと、そして欲生(よくしょう)は阿弥陀浄土へ生まれることがはっきりして、ホッとしている心といった意味合いになります。

1.4.2.「三心は一心に帰す」

 親鸞は心の主体の変化とともに、心の内容の変化を三心釈においても大切なものとしています。 
 深心を彼は信楽ととらえる。「深くといふは利他真実の心これなり」と。利他真実の心とは、それは信楽つまり信仰の楽しみである。親鸞は結局、三心を一心に帰せしめ、そしてその一心は「信楽の心」の一心である、と説いているのです。
 信仰は楽しいものだ。絶望の中に自分を救ってくれたあの光の強烈さはどうだ。それを親鸞は、無量光、無辺光、清浄光などと呼びます。その光に照らされた自分、それはまさに喜びそのものであり、楽しみそのものであると。(「三心は信楽の一心に帰する」を証明する親鸞の言葉(表14))

1.4.3.善導の三心と親鸞の三心

 親鸞は「信の巻」で、三心説を説き、そこから信仰の喜びを高らかに宣言しますが、その三心説は、もともと中国浄土宗の高僧善導が説いた説です。
 ただし、善導の三心説は『観無量寿経』をもととしたものであり、親鸞は『大無量寿経』の立場に立って「至心信楽欲生」と、解釈しなおしたのです。
 『観無量寿経』の三心は「一、至誠心(しじょうしん)、二、深心(じんしん)、三、廻向発願心(えこうはつがんしん)」で、この経では九品往生の思想を説きます。つまり人間の位によって九つの極楽往生の仕方があるとしています。極楽へ往生するには、まことの心、深い心、全ての善をささげてどうしても彼の国へ往生しようとする心が必要だというわけです。
(『観無量寿経』の三心(表15)

 善導は説きます。「外に賢善精進の相を現して、内に虚偽を懐くことを得ざれ」と。つまり「外に偉そうに装って、内に虚偽の心をいだいてはいけない」と倫理的要請をしているわけです。

 これに対して、親鸞は「外に賢善精進の相を現すことを得ざれ、内に虚偽を懐けばなり」と。つまり「外に偉そうな顔をするな、おまえの心は虚偽でいっぱいではないか」というわけです。純粋な心、そんなものは人間には不可能だ。人間の心は徹底的な虚偽の心、醜い心である。ただ、その仏の心のみが真実である、と説いているわけです。
 「廻向発願心」についても、親鸞はこう反論します。人間が善を積んで浄土に行くことはできない。人間の善はあまりに小さく、しかも浄土の喜びはあまりに大きいからだ。人が浄土に行くのではない。仏が人を浄土へ向けかえすのであると。

1.4.4.死後の浄土から生の浄土へ(「信の巻」まとめ)

 善導は、その倫理観とともに浄土を願生(がんじょう)する悲劇的な絶望者であった。彼を尊敬した法然もまた、人間の知恵のむなしさを知る絶望者であったのです。

 一方「信の巻」では、親鸞は歓喜を爆発させています。信仰する楽しさの手放しの賛美がそこにはあります。あそこに往生できるかは、もはや第二の問題であるかの感さえあります。これほどのこの世の歓喜、きっと歓喜そのものの世界に往生できるに違いないと。この境地そのものを親鸞は「等正覚(とうじょうがく、彌勒と等しい境地の意味)」と呼んでいます。

 善導も法然も、念仏による死後の極楽浄土の立場にたっていましたが、親鸞にとっては念仏なり、信仰は死に方ではなく、生き方だったのです。

 

1.5.曇鸞のユートピア思想(「証の巻」)

 「証の巻」は浄土へ必ず行くことができるという、浄土往生の保証です。極楽浄土の素晴らしさが『観無量寿経』や『阿弥陀経』にあります。しかし、親鸞は極楽は決してそういう美的な場所、享楽の場所ではない、むしろ実践の場所、衆生(しゅじょう)救済に励めとしています。(これを親鸞は「還相廻向(げんそうえこう)」という言葉で表しています。)

 そして、親鸞は「証の巻」を説く典拠として曇鸞(どんらん、中国浄土の開祖者)の『浄土論註󠄀』(世親作といわれる『浄土論』の注釈書)によっています。この著は夢のような浄土を否定して、より現実的なユートピアを著したもので、親鸞は曇鸞の理想主義に共感したものと思われます。
 なお、親鸞の名の「鸞」の字は、この曇鸞から取り、「親」の字は『浄土論』の著者世親(せしん、または「天親」ともいう、倶舎論や唯識思想を説いたインドの大仏教思想家)からとったと言われています。

 

1.6.二つの極楽浄土(「真仏土の巻」と「化身土の巻」)

 『教行信証』では仏教一般の歴史観「教・行・証」に親鸞の独自思想「信」が加えられていますが、極楽浄土についても彼の独自思想が表れており、それは第5巻、第6巻に示されています。親鸞は極楽浄土を二つに分けます。

 一つは、真仏土:本当の極楽、第十八願にもとづく人間永遠不滅の喜びの世界

 一つは、化身仏土:『観無量寿経』『阿弥陀経』にもとづく仮の極楽浄土、辺地にあり十分な楽しみを得られない浄土

  ここには、親鸞の美的浄土に対する反発が見られます。源信以来の平安浄土仏教への反発があります。法然もそのような古代貴族文化の残滓(ざんし)を否定することはできなかったのです。
 法然の教えを「真宗」として信仰し続けた親鸞ですが、『観阿弥陀経』の否定は、法然をも辺地の仮の浄土に追いやって、彼は阿弥陀様とのみ会話しているように思われます。

 

 本日はここまでです。次回は「2.『教行信証』以外の親鸞の著作について」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要10:《親鸞》(第2回)

2024-04-06 09:23:06 | 10仏教思想10

 前回は、「第1章 親鸞の思想背景」「1.親鸞の略歴」をみてみました。
 本日は、「2.親鸞の信仰・思想の背景」を取り上げます。

 

2.親鸞の信仰・思想の背景

 以上、親鸞の生涯をみてみると、一家離散、出家、流罪・還俗、晩年には実の息子の裏切りと、波瀾をもって彩られ挫折と絶望、苦難の人生であったことが知られます。
 また、当時の僧の常識としては許されない妻帯の身での布教活動は決して容易なものではなかったと想像されます。
 親鸞の信仰・思想を考えるとき、これら人生の経験を背景として、以下のようなキーワードを上げることができます。

 ① 師法然への傾倒
 ② 妻帯
 ③ 「悪人正機」
 ④ 主著「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」

 以下、これらを念頭にして、特に第2章以降で、親鸞の信仰・思想を明らかにしていきたいと思います。ここでは、法然への傾倒をみてみます。

2.1.法然への傾倒

 親鸞は、京都六角堂での百日参籠の95日目に聖徳太子の夢告により、100日法然のもとに通い、私の学ぶべきものはこれしかないと確信し、法然のもとに入門します。そして、この確信は生涯変わらなかったと言われています。

 「たとえ地獄に落ちようと法然について行く」と。「浄土真宗」の「真宗」とはまさに法然の教えそのものを指しており、彼自身は新しい宗派を起こしたとは思っていませんでした。(浄土真宗の開祖は親鸞ということになっていますが、実質的な開祖は三祖覚如(かくにょ、親鸞のひ孫)と言われています。)(法然への傾倒事例:下表7)

 それほどまで法然に傾倒した親鸞ですが、それでは法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗はまったく同じ教え・思想だったのでしょうか?法然の教えには、肉食妻帯を認め、「悪人正機」という思想があったのでしょうか?
 親鸞がどんなに傾倒し、まさに「真宗」と唱えたとしても、その主著「教行信証」などを検証する限り、彼の思想は師法然の思想とは違ったもの、極論すれば、それを否定するものであったともいえそうです。

2.2.法然までの浄土思想

 そこで、親鸞の信仰・思想を考える前に、法然を中心にそれまでの浄土思想の流れを簡単に整理してみます。

 インドの大乗仏教の教えの一つとしてスタートした浄土思想(阿弥陀信仰)は、中国において、曇鸞・道綽・善導の三人の高僧により成立・確立します。特に善導は「口称念仏(くしょうねんぶつ)」の実践により、阿弥陀仏のいる極楽浄土に行けると人々に広く流布します。
 こうした浄土思想・阿弥陀信仰は奈良時代に日本にもたらされますが、当初は鎮魂のための阿弥陀仏として信仰されます。特に聖徳太子一家暗殺による死霊への恐怖から逃れるために信仰されたものと思われます。そして、その鎮魂の役割が空海や最澄の祈祷仏教つまり密教に引き継がれると、阿弥陀信仰はこの世の苦しみや絶望から逃れるための夢の世界、西方浄土を求める信仰へと、その役割を変えていきます。

 その甘美でロマンチックな幻想の世界、西方浄土を描いたのは、平安期の天台宗の僧、源信(げんしん、恵心僧都942-1017)でした。彼は、天台流の止観(心を静めて、仏世界を頭に描く)の手法で阿弥陀浄土の世界を想像する行を説きます。しかし、その止観の行は必ずしも一般的には容易な手法ではありませんでした。また、そのロマンチックで幻想的な世界は、現実の苦難な世界に生きる一般の人々には、そこまでの余裕を持てる世界でもありませんでした。
 人々が源信の阿弥陀世界に不満を持っていた時期に登場したのが法然(1133-1212)でした。法然は説きます。「口でナムアミダブツと唱えればよい、誰でも極楽に行ける」と。
 叡山に学んだ法然は、「知恵第一」とのうわさをとる大秀才として有名でした。時は混乱の時代、末法の時代、もはや今の時代には「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」しかないと人々に説きます。大秀才法然のこの教えに人々は狂喜し、法然は生き仏と崇められます。

 法然は善導(中国禅の高僧)一辺倒だったと言われています。善導の著『観経疏(かんぎょうしょ、『仏説観阿弥陀経』の注釈書)の「口称念仏(くしょうねんぶつ)」の勧めから、やがて法然独自の「専修念仏」の思想を導き出します。この時期は、彼が主著『選択集(せんじゃくしゅう)』を書いた時期(66才頃)で、念仏仏教に対する旧仏教派の批判が激しくなっていた時代でした。同時に、この時期に親鸞は法然の弟子になっています。つまり、当然ながら法然は新しい思想を導き出した先生、親鸞はその生徒という関係に両者は立つことになります。そしてその立場の違いが、生徒としての親鸞に先生である法然とは違った考えをもたらすことになります。

2.3.信仰の人親鸞

 一般的に親鸞は法然の思想を引き継ぎ、さらにそれを発展させたととらえられているようですが、どうやらそれは間違えで、親鸞は法然の教えから、信仰の喜びを知り、法然とは違う思想をもった、と言えそうです。

 鎌倉仏教の代表者、法然、道元、日蓮はいずれも理論家であり思想家であったようですが、親鸞はこれらの思想家とは違っていたようです。たんなる凡人ではなかったことは間違いなく、大変な勉強家であったことは確かですが、思想家というより仏教の実践者、信仰者、つまりは人間親鸞としての面が強かった、そんな人だったようです。「真宗」を法然の教えそのものという意味で使った親鸞、彼はひたすらまさに法然の教えを信仰し続けた人であったようです。
 苦難の人生が親鸞に信仰の人生へと進めさせたのかもしれません。本著ではこのことははっきり書かれていませんが、私個人では、彼が妻帯していたことに対するうしろめたさ、人間的弱さを持っていたことも背景にあるような気がします。有名な『歎異抄(たんにしょう』には親鸞の人間臭さが随所に登場します。日本人の心に刺さる書として人気で、有名な学者、著作家に取り上げられているところです。

2.4.「念仏為本」と「信心為本」

 前述の「第1章2.2.法然までの浄土思想」の末尾で少し触れましたが、法然と親鸞の教えの違いには、それぞれの立場の違いがあったということがまず挙げられます。

 法然は自らが考えた他力の教え(「専修念仏})であって、先生の立場、親鸞はその他力の教えを受領する生徒の立場にありました。法然は「安心起行(あんじんきぎょう)」ということを説きます。「ひたすら念仏を唱えていれば(つまり起行のこと)、自然に心がそちら、つまりは安心の世界(極楽浄土)に向いてくる」と。つまり、法然の立場ではまずは起行、念仏を唱えることが大事なのです。一方、親鸞は教えを受け取る立場ですから、もっぱら念仏を唱えることが大事だが、その結果「安心」が得られるのだから、真の目的は「安心」を得ること、つまりはこちらの方がより大事だと受け取ることとなったと思われます。

 これは後に登場した用語ですが、「念仏為本(ねんぶついほん)」と「信心為本(しんじんいほん)」という言葉があります。簡単に言えば、念仏も信心も大事だが、どちらかといえば、前者は念仏がより大事、後者は信心がより大事ということです。つまりは親鸞の立場では一番大事なのは「信」(「信心為本」)ということになります。

 

 少し短めですが本日はここまでです。次回は、「第2章 親鸞の著作」「1.主著『教行信証』について」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要10:《親鸞》(第1回)

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