SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

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仏教思想概要11:《道元》(第2回)

2024-05-18 07:32:08 | 11仏教思想11

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日撮影)

 

 仏教思想概要11《道元》の第2回目です。
 前回は「序章」と「第1章 道元の生涯」をみてみました。
 本日からは、「第2章「正伝」の意義」に入り、今回は「1.仏道=仏法」、「2.正伝の方法」を取り上げます。

 

第2章「正伝」の意義

1.仏道=仏法

1.1.仏道の意義

(1)まなぶはまねる
 本文のタイトルは「古仏のまねび<道元>」となっています。ここで「古仏」とは釈迦をはじめとする先師のことです。「まねび」は学ぶ、まねるということで、タイトルの意味は「先師をまねる」ということになり、つまりはこれが端的には「正伝」ということになります。

 すこし長くなりますが、「まなぶはまねる」についての本文をそのまま抜き書きしてみます。
 「人類の歴史は<まね>の歴史である。人はすべて、先人-親・兄弟・師・仲間・隣人・異邦人・旅人のいずれであれ、先人のなしわざを見・聞きして、そのまねを通して、<ならい>、覚えて、これを後人に伝えるということを繰り返してきた。<学ぶ>とは<まねぶ>(<まねる>)である。<ならう>ことは<なれ>によって<ならわし><ならい>となる面をもつと同時に、「右にならえ」で、やはり<まね>を出発点とする。 イミテーションと聞くと<まがいもの>を思いうかべるが、<イミテート>の原義は「古人、先人を手本としてまねる」ことである。その意味から少し違った意味を出すには<まねび>という日本語がぴったりした語威をもっているようだ」

(2)仏道をならう
 そこで、ならうものは何か?といえば、ここでは「仏道」ということになります。では、仏道とは、ということになりますが、仏道とは<仏になる道>であるとともに<仏の歩む道>となります。つまり、ならうのはほとけのまねということになります。
 さらに、仏道とは具体的に何か?何をなすべきか?といえば、これに対する道元の答えは明快です。いわく、「坐禅」「只管打坐」。「なんとなれば、それはかっての諸仏が行で、それによって証悟した行為、行であるから」、と。

1.2.道元のいう<正伝>とは
 釈迦の生涯ー修行し菩提(さとり)を得、涅槃に入る仏の行-を今日我々が学ぶことができるのは何故か?それは釈迦より弟子にそのまた弟子に、そしてインドから中国へ、さらに中国の僧(禅宗では達磨)から弟子にやがて道元にと伝来されたからです。道元はこの伝わり方を「ほとけ仏にさずけてよこしまなし」と言っています。受ける方から言えば、それが仏に学ぶ、仏のまねをすることで、そこに<正伝>が実現するわけです。
 <まなぶ>のには時代を隔てて古人のまねをすることも可能ですが、道元にとって<ほとけ仏にさずく>のくりかえしによる相続以外には<正伝>は認めらなかったわけです。(このくりかえしの相続を<単伝>と呼びます)そこにはまた、誰から学ぶかという<正師(しょうし)>の問題も出てくるわけです。
 (「第1章 道元の生涯」でも、入宋後如浄に会うまでの間、諸方遍歴の旅をしますが、これこそ<正師>を求めての旅であり、これは禅宗の伝統でもあったわけです)

1.3.仏道=仏法
 仏道をならうことによって、仏の体験(つまりはさとり)が<正伝>することになります。つまり仏の体験以外に伝えるものは何もないということです。一方で、この仏の体験を<妙法>また<正法>と呼びます。<正法>とは真実の教え、仏の教えで、仏のさとりを内容とし、真実の表現であるから、こう呼ばれます。つまりは<仏法>と同意義でもあります。
 以上をさらに要約すると、仏道とは仏の体験そのもので、それだけが<正伝>されるものであり、それは、<妙法>または<正法>つまりは<仏法>であるわけです。
 この仏道=仏法という構造が実は道元の宗教のかなめであり奥義です。さらに道元に限らず、禅のめざすものであり、仏教の根本的構造にほかならないのです。

 <仏法を説く>ことではなく、<仏道>をならうことに全身全霊をかたむけたのが道元の特色であったというべきでしょう。<ならう>ことによって、そこに<仏法>がおのずからあらわれるのです。

 

2.正伝の方法

2.1.<正法眼蔵>の由来、正伝のはじまり

2.1.1.<正法眼蔵>の意味と<拈華微笑>
 『正法眼蔵』とすれば書名としてのそれでですが、<正法眼蔵>の意味は正法眼の蔵と区切って解釈され、<蔵>は宝物をしまっておく蔵を意味します。
 <正法眼蔵>のことばは禅宗の「*正法伝持の次第」の中で、その伝灯のはじまりとして大事にされている次のことにもとづいています。(*ろうそくの火をつぎつぎと新しいものに移して絶やさず伝えていく(<伝灯>)のこと。『景徳伝灯録』(1004年宋の道原著)などにみられることば)
 (拈華微笑(ねんげみしょう) 下表8)


 この釈尊と迦葉のあいだの以心伝心のやりとり、釈尊の<拈華(ねんげ)>と迦葉の間髪入れね<微笑>という対応を。禅宗では<拈華微笑(ねんげみしょう)>と称して、仏々祖々、仏法が正伝して今日にいたる出発点としています。

2.1.2.<正法眼>の意味

(1)<正法眼>=<法眼>
 <正法眼>をさらに分解すると<正法の眼>となります。眼は感覚器官としての眼の意味ですが、<みちびく>という意味をもっています。
 一方<正法>は<仏法>であり、<法>の一字で示されるものであり、以上から<正法の眼>=<法の眼>つまり<法眼(ほうげん)>となります。(図1)

(2)<法眼>の意味
 <法眼>ということばには二つの意味があり、一つには<法をみる眼>という意味で、四諦の理を悟った時「清らかなる法眼を得た」といわれるもので、たいへん古い用法であるわけです。
 <正法眼蔵>の場合の<法眼>は『景徳伝灯録』では「復(ま)たいはく、吾れ清浄法眼を以て将(まさ)に汝に付せんとす」とあり、「眼も蔵も心もみな大事なもの、核心」と解釈でき、この解釈が伝統的であるようにみえます。

 一方の<法眼>の意味の今一つは、大乗経典に出てくる語で<法に導くもの>であります。法に導くものとは、具体的には経典など<説かれた法>すなわち釈尊一代の説法たる八万四千の法門をさすと考えられます。
 この第二の解釈には、文献的根拠をつきとめていないが、次の項のインド仏教史の史実の関連で推定することができることです。

2.2.正伝のながれ

2.2.1.法と律の伝承
 拈華微笑の逸話にあるように、釈尊の死後、その教えは摩訶迦葉に伝えられましたが、仏教の基礎知識として参考になる内容のため、このことについてもう少し詳しくみてみます。
 釈尊の入滅後、弟子たちは教団の根拠地であるマダカ国の王舎城に集まって、将来の教団のあり方を相談しました。釈尊は仏の教えを基準にして真偽善悪を判断し、自己の判断に従って行為せよとの遺言を残したため、最長老であった摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が音頭をとり、各人の記憶を整理し、この会合で以下を決定しました。ここに釈尊一代の教訓は<律>と<法>とにまとめられました。(下図2参照)

 

 後代の仏教徒は、この結集の事実を認め、信ずるかぎり<律>は優波離を通して弟子から弟子に伝えられたもの、<法>については、阿難から弟子から弟子に伝えられたものを身につけていることになります。

 

2.2.2.『付法蔵因縁伝』
 釈尊の入滅後100年以上たつと、教団は保守派と改革派に分裂、それらはさらに分裂し十八の部派になったといいます。そしてそれぞれの部派は、我こそ釈尊よりの正統の部派であると主張しだします。
 それらの主張の中で作られた一つに『付法蔵因縁伝(ふほうぞういんねんでん)』があり、釈尊入滅後の付法相伝した二十三祖師の因縁が記述されったものです。禅宗ではさらに二十四代から二十七代までを架空して第二十八祖菩提達磨につながっているとしています。
 この本の<付法蔵>とは、<法>を弟子に付属(依嘱)することを意味しており、この考えを土台として<拈華微笑>の話のおこり(『吾に正法眼蔵涅槃妙心(しょうぼうげんぞうねはんみょうしん)あり、これを汝摩訶迦葉に付属する』)の話も付属している(師から弟子に依嘱されている)と禅宗ではしています。

 以上のことから、一般的な<法>を禅宗では<正法眼蔵涅槃妙心>だとしているといえます。

2.2.3. 教外別伝の法

(1)禅の法<涅槃妙心>の背景
 大乗経典の一つに『楞伽経(りょうがきょう)』という経があり、そこには「さとりをひらいた日から、涅槃に入った夜まで、四九年間仏陀は一語一句たりとも説かなかった」という説があります。つまり、さとりは「自内証」(みずから体得すべきこと)であって、「言語道断・言詮不及(ごんせんふぎょう)」(ことばで表わす方法はない)ということを意味しています。
 となると、何が後世に伝えわったかということになると、つまりは<拈華微笑><以心伝心>というわけです。これを禅宗では<教外別伝(きゅげべつでん)>・<不立文字(ふりゅうもんじ)>などと呼びます。

(2) 達磨から慧可へ
 達磨は伝説のヴェールにつつまれた人ですが、西域又はインドからの僧で、嵩山(すうざん)で壁に向かって坐ってばかりいたのです。慧可は四十までの儒教などの勉強をすべてすてて、この比丘から教えを受け坐禅を学んだのです。こうして『楞伽経』の「四十九年間一字不説」の仏の法そのものにふさわしく西天二十八祖菩提達磨より、坐禅を旨とする以心伝心の法(正法眼)の相承が確立したのです。
 したがって、禅宗に属する人々は、しばしば拈華微笑を<公案>つまり禅宗修行の際の工夫の課題とするだけでなく、みずから正法眼蔵を弟子に伝えることを確信しているのです。

 

2.3.面授

2.3.1. 嗣法

(1)嗣法の意義
 『正法眼蔵』「仏道」の巻の冒頭に次の曽谿古仏(そうけいこぶつ、六祖慧能)の示衆(師家が学人に対して説法し指導することがあります。(下表9)


 これは道元の嗣法観(しほうかん)の由来するところがどこにあるかを示していますが、さらにさかのぼれば『法華経』の「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ) 乃能窮尽(だいのうぐうじん)*」の一句にもとづくと考えてよいのです。
*「唯仏与仏 乃能窮尽」:仏と仏のみが諸法実相を究め尽くすことが出来るの意。ここでは釈迦も仏、慧能も仏であって、慧能あっての釈迦であるから、慧能を祖として釈迦もまたその祖の系列につらなるということを説いている。

(2)嗣法の形式
 曹洞宗では現在にいたるまで、その形式化が時として嘆かれることもありますが、<嗣法(しほう、法統を受けつぐこと。弟子が師の法をつぐこと。)>を宗門の生命として重大視しています。
(礼拝の作法(表10))

(3) 嗣法の意義
 礼拝の作法や嗣書の書き方(*)は宗教的儀礼にすぎないとの思いもあると思われます。しかし正伝とか単伝、嗣法とかは宗教の世界、信仰の世界の問題であるのです。そこには体験からにじみ出た信念に由来するものとして思想表現をながめていかなければならないのです。
*嗣書の書き方:<嗣書>(弟子が仏になった証明として師匠より受け取るしるし)には、七仏から本人にいたる相承の次第が一本の系線で表され、その系線の先はまた釈迦牟尼仏に還る円環をなしている。これは仏から仏へ、祖から祖へ、祖から仏へ、仏から祖への向上向下の相承の理念を図式化したものである。

2.3.2. 単伝

(1)単伝とは
 菩提達磨以前にもインドから経文を伝えた僧は多いが、菩提達磨がはじめて、釈迦牟尼仏から摩訶迦葉へ、そして達磨に到るまで次々と伝えられた仏心印(仏の教えの核心のしるし)を東上に伝えたのです。しかもそれは諸々の教義ではなく、この心印だけというのが単伝の原意のようです。つまり<教外別伝>(言葉によってではなく、心から心へ直接伝達されるという考え方=不立文字)と同義となるものです。
 しかし、常識的に理解され、道元もそうとったと思われるのは、この心印がひとりからひとりへ伝わったこと、したがって西天から東上へこの心印を伝えたのは菩提達磨ただひとりという見方が一般的であるのです。

(2)単伝と現実
 以上の単伝の考え方に対して、事実は矛盾をきたこととなります。六祖慧能は北宗禅の祖神秀(じんしゅう、605-706)を排除して北宗禅を正伝と認めないことで六祖の地位を確保しましたが(*)、弟子たちの間で両系(南岳の懐譲(えじょう、臨済宗の祖)と青原の行思(曹洞系の祖?-740))に分かれたのです。
 <単伝>は正統争いの根元であったのです。また禅宗の優位が中国史上確立した時期(八世紀)には、五門が確立していたのです。
*事実としては、六祖は慧能自身の考えというより、その門人、荷沢神会(かたくじんね、668-760)の師に対する思い、神会の自己主張から出ている。

(3)単伝と道元の立場
 道元は圧倒的多数の例で<正伝><仏祖正伝>のことばを使用しています。そして単伝ではなく<正伝>を前面に出すところに、禅の排他性を除いて、教を正伝の仏法に包含し五家の区分を無としたわけですが、それでもわれこそ正伝中の正伝(つまりは単伝)という自負心をぬぐい去ることはできなかったのです。
 しかし道元が五家の区別、禅宗の呼称を排しながらも、なお青原下曹洞宗における仏法の正伝=単伝を無意識に強調していることには別の理由を考えなければならないのです。それは仏法を正伝するには「正師に会わねばならない」ということ。そしてそこから<面授>ということが強調されることとなるのです。

2.3.3.面授とは

(1)面授の定義づけ
 道元は以下(表11-1)のように面授を定義づけています。


 この面授の巻は、仏法の正伝ということを、はっきりと<面授>ということによって定義づけています。
 しかし、身心脱落(さとりの完成)は面授後のことであり、面授すなわち嗣法とはならないのです。ただ、面授即嗣法とはいえなくても、嗣法は面授なしではありえないという道理であるのです。

(2)道元にとっての面授の重要性
 道元は、『正法眼蔵』「面授」の巻で<面授>を前述のごとく定義していますが、さらにみていくと、以下のような記述がみられます。(表11-2)


 これでみると、面授=嗣法=証悟(しょうご)であるのです。
 このように面授を大事にする道元ですが、いわゆる曹洞宗の系譜をみてみると、その嗣法は途中で途切れており、その事実を道元も知っていたのです。
 つまりは、道元にとって、如浄との出会いがもった意義がまことに量り知れないことなのです。面授を強調するのは、他の例をみない道元の特色であるのです。圭峯宗密(けいほうしゅうみつ*)の著に一度だけ用いられていますが、道元のほとんど独創といえるものなのです。<出会う><人に逢う>ということの意義はなんとも不思議なはからいと思ってきますが、おそらく道元もその思いが深かったにちがいありません。そこから道元の<宗教>があらわれ出たといえるのです。
*圭峯宗密:781-841唐代の僧。禅宗の一派も荷沢宗や華厳宗を中心として、仏教思想を統一する「教禅一致」の特異な教説を説いた人。

2.4. 徧参

2.4.1. 正師を求むべし
 『学道用心集(がくどうようじんしゅう)』(『正法眼蔵』「弁道話」などと同じく道元帰国まもなくの著)において、「参禅学道は正師(しょうし)を求むべき事」の一項が立てられ、わが国にはまだ正師がいないので、「若し無上の学道を学ばんと欲せば、遥かに宋土の知識を訪ふべし」と言い、「正師を得ざれば学ばざるにしかず」と道元は言い切っているます.
 道元は、正師とは何か。年は老若を問わず、ただ、以下(表12)のとおりだと説いています。


 しかし正師を求めて嗣法するのはべつに道元の独創でもなく、師如浄の発明でもないのです。馬祖、石頭(せきとう)(分派した六祖慧能の孫弟子に当る)の昔から、学人(がくにん)修行者たちは、各地の知識を訪ねて参禅し(このことを<徧参(へんざん)>という)、その所々での体験のなかで、機熟し、師と弟子の気持ちがあいかなった時にはじめて嗣法したのです。
 ここでは正師を求める弟子の立場が強調されるています。こちらから出向いて教化し、法を伝えることに対して重要な意義を認めないのです。これは道元の山居することを正当化し、鎌倉への行化(ぎょうけ)も、権威に近づこうとしなかったことの根底にある思想であるのです。
 禅がしょせん本質的に求道の宗教であり、布教の宗教ではなかったことは銘記すべきであるのです。

2.4.2. 徧参の意義

(1) 徧参についての考察
 道元は、<徧参>について『正法眼蔵』「一顆明珠(いっかみょうしゅ)」の巻の冒頭で詳しく述べています。
 ことは雪峰(せっぽう、義存)と玄沙(げんしゃ、師備)のやりとりにはじまります。玄沙は元漁師であったが、三十にして発心し、舟を捨てて山に登ったのです。(下表13)

(2) 徧参の意義
 徧参とはまさに正師に参じ、正法を嗣ぐことをいうのだというわけです。だから「徧参」の巻の末尾に近く、雲巌(うんがい)や道吾(どうご、円智769-835)が薬山(やくさん)の下にあって四〇年ひたすらに参学したこと、三祖が八年も参学をつづけたすえ、得髄(とくずい)したことを、まことの徧参とたたえ、「徧参とはただ只管打坐身心脱落なり」と言っているのです。
 玄沙の『達磨東上に来たらず、二祖西天に往かず』は、けがをしたことと結びつけて解釈することができます。玄沙は修行の当体は自分にあること、全身をうちこんで修行すること(「渾体徧参(こんたいへんざん)」)であること、他に求めることの誤りであることを悟って山に帰ってきたのです。

(3) <嗣法の宗教>・<道心>・<行持>
 道元が引用する玄沙のつぎのことばに<嗣法の宗教>というべきものの構造をみることが出来ます。(下表14)


 以上を一言でいえば「徧参」の巻の冒頭の「仏祖の大道は究竟参徹(くぎょうさんてつ)なり」に帰着すると思われます。今日のことばでいえば、とことんやりぬくということであるのです。
 仏法が正伝するか否かは、ひとえに修行者がとことんやりぬく覚悟があるかどうかによるのです。その覚悟というのは<道心>であり、その道心のあらわれが、毎日の<行持>であるのです。その人の行持のしかたで、「修行の真偽」を知ることができるのです。したがって正師として選ぶべき人もまた<行持の人>でなければならないわけです。如浄はまさにその「行持の人」であったのです。

 

 本日はここまでです。次回は第2章の続き「3.道元の禅宗批判」「4.証上の修」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要11:《道元》(第1回)

2024-05-11 07:54:31 | 11仏教思想11

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日)

 


仏教思想概要10:《親鸞》(第6回・最終回)

2024-05-04 09:04:20 | 10仏教思想10

(神代植物公園にて・関山     4月19日撮影)

 

 前回は、「第3章 親鸞の信仰・思想」「1.煩悩具足の凡夫」「2.信心ということ」をみてみました。
 本日は、「3.「義なきを義とす」」「4.まとめ(個人のの感想)」を取り上げます。

 

3.「義なきを義とす」

3.1. 「義なきを義とす」の意義

3.1.1. 親鸞思想の鍵
 晩年の親鸞が好んで用いた句の一つに「義なきを義とす」もしくは「無義をもって義とす」という句があります。この句には親鸞の思想の秘密を解く鍵がひめられていると思われます。この句の用例は書簡の中、『和讃』、さらに『歎異抄』にもみられます。
(『歎異抄』、『正像末和讃』の事例 表21)

 この「義なきを義とす」の句は親鸞の書簡六通にも見ることができます。(事例略)

3.1.2. 「義なきを義とす」の意味するもの
 「義なきを義とす」(「無義をもって義とす」)の句には、主に二つのことが繰り返し語られていることが知れます。
 第一は、この句が誰によって語られたかということです。
 それは「大師聖人のおほせに候き」などと数次にわたり語られていることであり、ここで「大師聖人」としたのは、親鸞自身の恣意によるものでなく、法然聖人よるものであることを強調するためのものと思われます。
 なお、法然がこの句を語ったという裏付けは知恩院に蔵する『阿彌陀経』の奥書(下表22)にのみしるされていることが知られます。

 第二に、この句の意味するところが語られています。
 この句の意味するところは、『「行者のはからひ」もしくは「凡夫のはからひ」は、ここではありえない。なんとなれば、この本願念仏のおしえは「仏と仏の御はからひ」によってなり「如来の御ちかひ」を体とするものであって、その「仏智の不思議をはからふべきひとは候はず」である。』としています。つまり、それが「義なきを義とす」ということであるというわけです。
 本願念仏のおしえの受領のし方は、すべて自力のはからいを捨てて、他力にまかせまいらせる。それが「義なきを義とす」ということだとしているのです。

 

3.2.二つの世界

3.2.1. 二つの義と二つの世界
 親鸞の考える「義」には二つあると考えられます。
 一つは、人間の考える道理。人間の考える道理では、仏智・誓願・念仏は考ええないことです。
 もう一つは、仏と仏のあいだではあきらかにわかっている道理。凡夫としての人間にはそれは商量することもできない、説示することもできない、また思義することもできないだけのものです。

 二つの義が存在するということは、二つの世界が存在するということになります。
 一つは、凡夫としてのわれわれ人間が住む世界、この現実世界であり、他の一つは、彌陀の誓願によってなれる名号不思議の世界です。
 親鸞の思想と信仰のいとなみは、この二つの世界をめぐっていとなまれたものであることは疑いの余地もないことです。
(『教行信証』「信証念仏偈」の例にみる二つの世界 表23)


 ここで、前半三行は、現実地上の世界、後半二行は、彌陀の世界を表しています。

3.2.2.親鸞の二つの海
 親鸞はその著作のなかでしばしば「海」という比喩的表現をこころみており、その海には明らかに対照的な二つの海が存在するのです。
 一つは、「生死(しょうじ)の苦海」です。ここには「煩悩の濁水」がみちているとも語られる。それは現実の人間世界のことなのです。
 いま一つは、「彌陀の願海」、あるいは「弘誓(ぐぜい)の智海」とよばれる海です。そこにみつるのは、「名号不思議の海水」であって、「功徳の大宝海」をなすとも説かれています。

3.2.3.三帖和讃にみる二つの世界
 親鸞が晩年制作に没頭した「三帖和讃」にも二つの世界があったと思われます。
 『浄土和讃』『浄土高僧和讃』は、七十六歳正月頃の成立で、ここには阿彌陀仏の誓願による名号不思議の世界が描かれています。
 一方、『正像末和讃』はその十年後の八十六歳九月に成立したもので、善鸞事件の介在したそのいたましい現実世界の体験に彩られ、そこには「生死の苦海」のありようと、その中に沈淪(ちんりん)するわが身のうえにそそぐ悲嘆のなみだが描き出されています。

3.3.現代に生きる親鸞
 親鸞のこの現実の地上における生はけっして絢爛たるものではありませんでした。むしろ絶望と挫折と埋没をもって特徴づけられ、在世における影響力もわずかに東国辺陬(へんすう、かたいなかの意)の念仏者に限られたものでした。
 しかし、彼のまいた種はやがて年を経て芽を出して花を咲かせ、実を結んで今日に及んでいます。
 それでは彼のまいた種とは何であったのか?
 それは「ただ信心を要とすとしるべし」といえるでしょうか。ここで「信心」とは、古いことばで「己証(こしょう)」、つまり自己の身証、わが身にうちあてての領解のことです。つまり、体験的な把握ということであるのです。
 親鸞が、その絶望と挫折と埋没のなかにありながら、なおよくぴたりと彌陀の本願のかなたに一向(ひとむき)となり、それによって絶望のかなたにうたいあげた生涯。それが信心における範例であり、またそれが親鸞の思想にほかならないのです。

 

4.まとめ(個人の感想)
 親鸞は「信楽(しんぎょう)」ということを言っています。信ずることそれが一番大事だといっているのです。
 浄土教の主要経典の「阿彌陀三部経」のうち、親鸞は自身の思想形成において唯一『大無量寿経』をとりあげています。『大無量寿経』は、阿彌陀浄土の世界を教える『阿彌陀経』、阿彌陀浄土への行き方を教える『観無量寿経』に対して、阿彌陀仏の本願というものを教えています。
 その内容は、阿彌陀如来がまだ法蔵菩薩という修行時代に、師の世自在王仏(せじざいおうぶつ)より仏国土の優れた点を聞き、そこから48を選び取った「四十八願」を教えています。
 この四十八願のうち親鸞は特に第十八願(「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽してわがくにゝむまれんとおもうて、乃至(ないし)十念せん。もしむまれずば、正覚(しょうがく)をとらじ」)を彼の思想の基本におきます。
 つまり阿彌陀様は菩薩の修行時代に、すべての衆生が私を信じて、極楽浄土に行けないのなら、さとりの世界には行きませんと願って、いま如来になっているのだから、この本願は成就しているのだ。みんなこれを信じなさい、そうすれば、みんな極楽浄土へ行けますよ、というわけです。

 まさに、「内省の人親鸞は、阿弥陀の本願に自らの救いを見つけ、歓喜したのです。」

 親鸞は言います。自力の人は自分を頼るから「信楽」できない。他力の人はもっぱら、阿彌陀の本願を頼るから極楽浄土へ行ける。まさに「悪人正機」というわけです。
 流罪・肉食妻帯・善鸞事件(実の息子の裏切り)など苦難の中で、阿彌陀の本願を知った親鸞は歓喜し、これぞ「真宗」師法然にどこまでもついて行くと。思想家というより実践の人、非僧非俗、愚禿親鸞、人間親鸞であったわけですが、どうやらその思想は師法然とは違っていたようです。

 

 以上、「仏教思想概要10:《親鸞》」の終了です。如何でしたでしょうか。

 次回からは、「仏教思想概要11:《道元》」です。しばらくお待ちください。

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要10:《親鸞》(第5回)

2024-04-27 09:03:19 | 10仏教思想10

(神代植物公園にて・江戸     4月19日)

 

 前回は、「第2章 親鸞の著作」「2.『教行信証』以外の親鸞の著作について」をみてみました。
 本日は、「第3章 親鸞の信仰・思想」「1.煩悩具足の凡夫」「2.信心ということ」を取り上げます。

 

第3章 親鸞の信仰・思想
 第1章の親鸞の経歴から、以下の示唆をしています。
「親鸞の信仰・思想を考えるとき、これら人生の経験を背景として、以下のようなキーワードを上げることができます。
 ① 師法然への傾倒
 ② 妻帯
 ③ 「悪人正機」
 ④ 主著「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」と。
 このうち、①と④はすでに取り上げています。残るキーワードの②と③はこの第3章の中で取り上げたいと思います。
 さて、1章、2章からも分かるように、親鸞の思想を語る時、彼にとって決して論理的な整合が究極の目的ではなかったし、あるいは合理的な追求が唯一の方法でもなかったのです。それらに代えて、彼がひたすら追求したものは、人間としての自己の真相とその救済であったし、その著作の色どるものは、抽象される論理の整合性ではなく、むしろ生ける人間のしとどにぬれる悲嘆と歓喜であったのです。
 ということで、これらの点を以下みていきたいと思います。

1.煩悩具足の凡夫

1.1. 煩悩ということ
 親鸞の思想を説いていくうえで、「煩悩」ということばほど重要な役割をになっていることばはありません。それを『歎異抄』にみることができます。(以下事例 表17)

 上記表の内容をよく吟味してみると、おおよそ、三つの観点から、この煩悩ということばが語られていることがわかります。

 第一:彌陀の本願のがわからの観点
    第一段、第三段、第九段の②
 第二:人間性に即しての観点
    第九段の①、③、④
 第三:人間性(人間くささ)による観点(煩悩というものはおぞましいもので、なげかわしい曲者であるが、そこにはふしぎな魅力があるということ)
    第九段の⑤

1.2. 煩悩具足の凡夫とは

1.2.1. 親鸞の思想における「煩悩具足の凡夫」の意義
 親鸞は「煩悩具足の凡夫」ということば、そのような人間性のうえに立ってその論理を展開しています。そのような人間性は「喜ぶべきことが喜べない」「いそぎ赴くべき浄土にいそがずして、いつまでも苦悩の旧里にとどまりたい」という矛盾を胎(はら)んでいるのです。
 本来論理はそのような矛盾を排除することを根本とするのですが、そのような人間性抜きでの論理など、彼にとってまったく意味がないものであったのです。なぜなら彼にとっては、そのような人間性を背負った人間の救いこそが、唯一の価値ある論題であったからです。

1.2.2. 「悪人正機」の理論
 以上から、親鸞の論理は、しばしば世の常識の論理から逆倒したものとなります。

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と親鸞は説きます。

 「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」と一般的には説きます。

 親鸞は説きます。「自力作善の人(いわゆる善人)は」「ひとへに他力にたのむところ」に欠けているから、それは「弥陀の本願にあらず」と。
 阿弥陀仏が「願をおこしたまふ本意」は、「煩悩具足のわれわれは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあわれみて」つまり「悪人成仏のため」であるから、「他力をたのみたてまつる悪人」こそが、だれよりもまず往生の正機であるとしなければならない」としているのです。

 このように、そこにはまことの人間臭い人間があり、煩悩にさいなまれた人間のすがたがあります。そして親鸞の思想とは、そのような人間を主役とする「ある人生」のストーリーに他ならないと言えます。
 親鸞は、『涅槃経』の「*アジャセ王の懺悔」を引用しています。この話はまさに「悪人正機」の趣旨に沿ったものです。ここで、親鸞は自らの息子の起こした事件(*善鸞事件)を頭に浮かべているとも考えられます。父に背き父を苦境におとしいれ、父のまいた信仰の種をも絶滅させようとした善鸞に懺悔せよと、説いているように感じます。同時に、息子をそうしたのは親鸞自身と、自らも懺悔しているのです。
 親鸞はまさに内省の人であったのです。次項目の肉食妻帯肯定の思想においても、親鸞は自己の心にある愛欲と名利(みょうり、またはめいり、名誉欲の意味)の心を悲しげに凝視しています。愛欲と名利は人間にとって業(ごう)のごときものである。業を否定しても不可能であり、業を受け入れつつ、彼は阿弥陀如来にそういう業深い自己の救済を願っているのです。
 「内省の人親鸞は、阿弥陀の本願に自らの救いを見つけ、歓喜したのです。」

*アジャセ王の懺悔:父である王を殺し、母を殺そうとしたアジャセ王が病に苦しみ、釈尊に懺悔、帰依したお話。

*善鸞事件とは:

・善鸞事件の概要と関連書簡
 事件は建長七年(1255)、親鸞の名代として京より関東に下った親鸞の三男慈信(じしん、善鸞)によって起こされた。
 彼は自身の関東における立場を目立たせるため、主に2つの「うそ」を念仏者(主に常陸の奥郡や鹿島方面の人々)に広めた。それは、「第十八願(念仏往生の願)はしぼめるはなだ」として念仏をすてることを勧めた。いまひとつは実母(恵信尼)を継母といつわり、その継母に「いひまどはされ」と言いふらした。

 親鸞は、後者は身内のことゆえどうでもよいが、前者はどうしてもゆるせず、善鸞に絶縁の手紙を送った。それが「慈信房義絶状(じしんぼうぎぜつじょう)」といわれるものである。
 また、親鸞は信頼する弟子性信房にはことの経緯を示した手紙を同時に書き送っている。

・「慈信房義絶状」について
 「古書書簡」第三書簡としてのみ集録。高田の顕智が嘉元三年(1305)七月、八十歳の頃に書写したもの。事件後四十九年後のことである。

1.2.3.肉食妻帯肯定の思想
 親鸞に妻が何人いたかはわかっていません。具体的にその人物がある程度特定できているのも越後流罪時の妻恵信尼ですが、その恵信尼は流罪前の妻と同じではなかったと考えられています。
 親鸞が肉食妻帯に踏み切った理由の一つに、彼の偽善を憎む精神があったと考えられます。最澄の『末法燈明記(まっぽうとうみょうき)』には、今は末法の時代、戒のない時代である。その戒のない時代に、持戒の人をさがすのは、虎を市でさがすほど困難なことである、と説かれています。親鸞はこの書をしばしば引用しており、これを信じたのです。
 親鸞は、彼の天台の師慈円について、天台座主を務めて持戒堅固の顔をしているが、恋歌の達人でもあって、そういった偽善が許せなかったということのようです。
 親鸞の立場からは、法然にも矛盾があったと言えます。法然は念仏を簡便にし、愚痴無智の凡夫にまで、知的道徳劣等者にまで浄土への道を開いたが、比類なき程の知恵・知識をもった持戒堅固な高僧であり、専修念仏への非難が起こったとき、七か条の起請文をつくり、弟子に署名させ持戒を求めているのです。親鸞にはこの法然の立場さえ偽善とうつったのです。

 肉食妻帯思想として、有名なのは、叡山から下りて、京都の六角堂での百日参籠時の聖徳太子の夢告の内容です。一つは法然のもとへ行けと命じていますが、いま一つは、以下の七言律詩です。

 行者宿報設女犯 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽

 これは肉食妻帯の肯定であり、しかもこの思想の趣旨を宣説して一生群生(多くの衆生の意味)にきかしめよ、とさえ言っています。
 念仏の大行は善悪を超越している。この他力に自己をまかせる深い宗教的歓喜に比べれば、女を抱くか、抱かないかは、いったい如何ほどのことなのか。ここに自己の内面を覗く親鸞の姿を、あるいは人間というものの根源を覗いている人間の姿をみることができます。

 

2.信心ということ

2.1.信心と念仏

2.1.1. 本願念仏のおしえの骨格
 『歎異抄』の第一段は本願念仏のおしえの総論で、その骨子をなすものは本願の信(信心)と念仏の行の二つです。(以下原文)
 「彌陀の誓願不思議にたすけまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて」(信)「念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨(しょうじゅふしゃ)の利益(りやく)をあづけしめたまふなり」(行)
 ここでは、ただひたすら信じて、本願の名号をとなえるということのみあって、そのほかには、知恵も学問もいらぬ。善業も修行もいらぬ。悪業さえ恐れる必要はないと説いているのです。

2.1.2. 信心と念仏について他の僧のことば
 信心と念仏について、親鸞以外の僧のことばをみてみると以下のとおりです。

 法然「ふかく本願をたのみ、一向に名号を唱べし」
 聖覚「専修(念仏)といふは、極楽をねがふこころをおこし、本願をたのむ信をおこすより、ただ念仏の一行につとめて、また余行をまじえざるなり」

 これらのことばはその大体において異なることはないのですが、微妙な差も感じます。それは後代の宗学のことばでいえば「念仏為先(ねんぶついせん)」か「信心為本(しんじんいほん)」かということであり、さらにそれを裏返していうと「一念往生」か「多念往生」かということでもあるのです。

2.1.3. 一念と多念
 一念と多念の問題に対する親鸞の立場は『一念多念文意』の中で示されています。
 この著作は隆寛の『一念多念分別事(いちねんたねんふんべつのこと)』の注釈書ですが、隆寛は自著の中で、法然ののこした本願念仏のおしえは、一念多念のいずれにも偏することなき念仏往生の道であることを説いている。つまり親鸞もその立場をとったのです。
(事例『一念多念文意』より 表18-1)


 この一念多念の問題を裏返してみると、それがそのまま信心と念仏の問題となりますが、このことについても、親鸞は、その両者を詮ずるところ一つのものであって、それをあえて別々のものと思い計らうことを極力いましめています。
(事例「信行一念章」にて覚信房よりの問いの答え 表18-2)


 以上、一念多念どちらにも偏するな、信と行は一体の立場をとった親鸞でしたが、本願念仏の教えについて、あるものはそれを念仏の方から掘りさげ考えてみる、またあるものは、それを信心のほうから吟味をふかめていく、この二つの行き方があります。親鸞が選んだ道はうたがいもなく、後者の行き方の、もっとも徹底した掘りさげであったといえます。

2.2. 信ずることのむつかしさ

2.2.1.虚仮不実のこのみ
 親鸞は信心を強調していますが、信ずるということは、言うはやすく、その実現は容易ではないのです。そのことの親鸞の自覚と省察について、自著に残しています。
(親鸞の自著にみる信心の難しさの二つの事例 表19)


 前半の①の句で、親鸞は八十六歳という年齢になってもなお、真実の心のありがたきことを嘆き、虚仮不実のわが身に涙をそそいでいるのです。
 後半の②の句は『無量寿経』の巻下に「若聞斯経、信楽受持、難中之難、無過此難」となるのを和らげ讃えたものにちがいありません。その意味は「いずれの経の説くところにしても、けっして難しくはないが、この経『無量寿経』の語る本願念仏のおしえを信じ楽(ねが)うことは、いずれにもましてむつかしい。難きがなかの難きであると説かれ、それに過ぎたる難きはなしと宣べられている。」と歌いあげられているのです。

2.2.2.信ずることのむつかしさの訳
 本願念仏のおしえを信ずることは、いずれの経の説くところより難しい理由には以下の二つをあげることができます。
(第一の理由)
 本願念仏の対機(教える相手)は誰よりも凡愚のやからであること。
 一代諸経の語るところの対機は、知恵や実践の力のある人を予想するものであった。一方本願念仏のおしえの対機とされる人々は、知恵や実践の力を思いすてた人々である。このことを法然は感銘ぶかいことばで「しかるにこのごろのわれわれは、知恵のまさこし(盲)ひ、行法のあしなへたるともがらなり」というのである。

(第二の理由)
 本願念仏のおしえを説いている『無量寿経』(特に第十八願の彌陀の本願)そのものの理解のむつかしさ。(以下、第十八願、彌陀の本願 表20-1)

 この本願の内容は、われわれ人間の知恵をもってしては、とうてい理解し納得し信ずることができがたいことです。このことは、著者が推測したことではなく、『無量寿経』そのものの「流通分(るずうぶん)」(表20-2)のなかでもその難しさを説いているのです。

 

 本日はここまでです。次回は3章の残り「3.「義なきを義とす」」「4.まとめ(個人のの感想)」を取り上げます。そして、次回が最終回です。

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要10:《親鸞》(第4回)

2024-04-20 10:24:42 | 10仏教思想10

(神代植物公園にて・関山     4月19日)

 

 前回は、「第2章 親鸞の著作」「1.主著『教行信証』をみてみました。
 本日は、「2.『教行信証』以外の親鸞の著作について」を取り上げます。

 

2.『教行信証』以外の親鸞の著作について

 

2.1.『歎異抄』について

 親鸞の著作といえば、一般的にはまず『歎異抄(たんにしょう)』ということになります。『歎異抄』は親鸞の弟子唯円(第三祖覚如という説もある)が親鸞の説法を書きまとめ編集したもので、親鸞の死後起きた様々な異議を正して、親鸞の教団を親鸞の教義そのものに帰そうとする意図をもってつくられています。
 江戸期までは真宗の信者にも知られていなかった著作ですが、明治末期に清沢満之(明治期に活躍した真言宗大谷派の僧侶、哲学者)に取り上げられて以降日本人に知られるようになり、親鸞の著といえば、『歎異抄』となっているようです。
 ただ、本文でも解説の事例として『歎異抄』の親鸞の言葉が随所で紹介されますが、唯円という弟子のプリズムを通しているという点で欠点があり、主著『教行信証』や親鸞の晩年の著作に中心をおくべきとの立場をとっています。

2.2.親鸞の著作一覧(内容の概要)

 親鸞の著作は次の5つに分類できます。(1.文類(もんるい)、2.文意(もんい)、3.和讃(わさん)、4.抄録(しょうろく)、5.書簡)
 それぞれの内容を以下の一覧(表16)に整理してみました。

 親鸞の著作は『教行信証』が関東布教時代に書かれたのを除くと、いずれも京都隠棲後、しかも晩年にかけてまで書かれたものもあります。
 もはや引退のつもりで京都に帰った親鸞でしたが、結果として彼には90年という長い年月が必要だったようです。

 

 短めですが、本日はここまでです。
 次回から「第3章 親鸞の信仰・思想」に入り、「1.煩悩具足の凡夫」「2.信心ということ」を取り上げます。