SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

仏教思想概要12:《日蓮》(第1回)

2024-06-29 10:02:30 | 12仏教思想12

(神代植物公園のアジサイ)

 

  本日は、「第1章 日蓮の経歴」を取り上げます。

 

第1章 日蓮の経歴

 日蓮の思想を取り上げる前に、まずは日蓮の経歴についてみてみたいと思います。
 (下図1参照)

 この経歴でもわかるように、日蓮の布教活動は苦難の連続でした。それは一般的に日蓮の四大法難と呼ばれています。

 ①伊豆法難  弘長元年(1261)5月12日 40歳 伊豆への流罪

 ②小松原法難 文永元年(1264)11月11日 43歳 小湊帰省時に地頭東条景信の襲撃にあい負傷する

 ③瀧口法難  文永八年(1271)9月12日 50歳 『立正安国論』に平左衛門尉頼綱(執権の執事、御家人の筆頭)あての手紙をそえて幕府に提出するも、激怒した頼綱にとらえられ、処刑されかけるが異変が起こって助かる。

 ④佐渡法難  文永八年(1271)10月28日 50歳 佐渡流罪 

 これらの法難は、いずれも日蓮の情熱的、過激な布教活動の結果でした。それは、『法華経』のみが正法であり、あとはすべて邪教であるという極端な他宗派の排撃によるものであり、排撃された他宗派、特に念仏信者から激しい反感をかった結果でした。

 それでは、そんな日蓮の仏教思想はどのようなものであったのか、それは鎌倉時代に書かれた主著といわれる『立正安国論』など、それと佐渡で著された二つの著書で明確に述べられています。以下その内容をみていきたいと思います。

 

 本日はここまでです。次回よりは「第2章 日蓮の主な著作と思想」に入り、「1.鎌倉時代」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要11:《道元》(第6回・最終回)

2024-06-22 08:11:20 | 11仏教思想11

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日撮影)

 

 仏教思想概要11《道元》の第6回目、そして最終回です。
 前回は「第3章 道元の思想」「3.道元の無我」「4.道元の思想の核ー「無常」「起」-」をみてみました。
 本日は「5.道元の無常観の解析」「6.まとめ」を取り上げます。

 

5.道元の無常観の解析

 以上から、道元の思想の核となるものが「無常」であることがみえてきました。そして、無常のおこり方は「起」という言葉で表されますが、道元の無常観、そして「起」ということについてこのあとみていきたいとおもいます。

 

5.1.諸行無常

(1)諸行無常の一般的な理解
 仏教におけるもののとらえ方の基本は、すべてのものがつねに変化しつつある、刹那といえどもとどまるところはない、ということです。それが道心をおこす(発菩提心)原動力としての無常観であり、一日として光陰をむなしくすることなく努め励むための理由とされてきました。この背景にある事実としては、人間の生死の問題があります。

(2)「諸行」の本来の意味
 仏教用語としての<諸行>とは、現象をつくり出すはたらきと(サンスカーラ)とそれにより現成する諸現象(生死も含む)、さらに山河大地などにいたるわれわれの生活にかかわるすべてをさします。
 つまり「有為(うい)」の諸法とよばれるものと同じで、うゐとは諸縁によってつくられたもの(サンスクリタ)という意味です。つくるはたらき(サンスカーラ)とつくられたもの(サンスクリタ)が同じものを意味し、相互依存する関係にある。つまりは<縁起>ということになります。

 

5.2.「起」とは

(1)「起」ということば
 道元は以上のような一般的な無常観にとどまらず、無常の構造そのものに着目します。
 その一つは、諸行がもろもろの集まりより生ずる、縁起するものであるということの認識、今一つは、集まり生ずる(または滅する)という現象のおこり方です。
 第一を理由として、第二が規定される。つまり縁起しているから無常である道理で、無常とは、その現象のおこり方を表しているわけです。そのおこり方を道元は「起」ということばで表しています。
 ここで、「起」を説明している例をご紹介します。(下表26『正法眼蔵』「海印三昧」より)


 つまり、何かが生まれ現れるときは、ただ世界の現実・実態がその瞬間に起き上がる。まさに時節到来というわけです。自分の身体も様々な実態が集束したこの瞬間の現象である、というわけです。

(2)起のあり方
 次に、無常そのもの、起のあり方(縁起しているから無常であるということ)を考察してみます。海印三昧はこのことについて以下(表27)のように説明します。


 海印三昧はさらに「滅時唯法滅」と「滅」の解明が続きます。滅には、涅槃と同義の衆法の合成、起滅をこえた世界(「生滅滅已(しょうめつめつい)」「寂滅為楽(じゃくめついらく)」があります。これは『涅槃経』にあることばで、生じて滅することにとらわれなければ、こころ静かな楽しみに至る、という意味です。
 この意味の滅に相対すると、常(=絶対)なる 滅に対して、無常なる起ということになります。起とは生滅の世界、無常の世界、縁起の世界のあり方であり、それをここでは「時」ととらえている。ただ起(起也)なのです。

(3)唯起とはー前後際断の<経歴>
 この「ただ起こる」を説明すると、前後際断(ぜんごさいだん、一般的には、「過去や未来との対比として現在をとらえるのでなく、絶対の今の一瞬一瞬ととらえて、刻々を大事に生きる」意味。)ということになると思われます。前後際断も理屈をつければ「刹那生滅」の諸法の実状、非連続の連続といえます。それはあたかも時間・継起を否定しているかのようにみえるかもしれません。

 つまり、

 「前念後念 念念不相応

  前法後法 法法不相応」

ということです。この意味は「一瞬前の観念と一瞬後の観念は、時間的に相対関係にない。一瞬前の事象と一瞬後の事象は、空間的には相対関係にない」ということになります。
 これは「現成公案」の巻の一節、「薪と灰の関係」にたとられる生死の問題、冬から春への移り変わりと、われわれに感じられる<時>の経歴(けいりゃく、時間の経過)についての考察につながってきます。(下表28参照)


(以下、本文では、前後際断にかんする道元の説の事例が、「生死」の巻、「有時(うじ)」の巻などについて続きますが、ここでは省略します。)

 以上をまとめてみると、「生・死」「春・夏・秋・冬」「薪・灰」そして「発心・修行・菩提・涅槃」、また「青原・南岳・馬祖・黄檗・百丈等々の諸仏諸相」、かれもわれも、ひともおのれも、すべて時であり、そして有であり、起であり、成である、と説いているわけです。

(下図4参照)

 有時発心ないし発心現成、有時涅槃ないし涅槃現成、というわけです。

 

5.3.無常は仏性なり

(1)「悉有は仏性なり」
 以上のことを念頭におくとき、『涅槃経』の説く「一切衆生悉有(しつう)仏性、如来常住無有変易」を道元はどう解釈したのでしょうか。道元は「悉有は仏性なり」と説いているのです。
 悉有は仏性であるから、「仏性の義知らんと思はば、当歓時節因縁(とうかんじせついんねん)、時節若至(じせつにゃくし)、仏性現前(ぶっしょげんぜん)」(『涅槃経』、『正法眼蔵』「仏性」より)
→ここで<しる>とは「ただ知るのみにあらず」、「行ぜんとおもはば、証ぜんとおもはば、とかんとおもはば、わすれんとおもはば」というのです。この説・知・行・証・忘も時節因縁なのです。そこで、仏性まさに「しるべし、時節因縁これなり」、「時これすでにいたるゆゑに仏性現前す。時これ仏性なり」、というわけです。

(2)本証妙修
 以上道元が「悉有は仏性なり」と経文を曲げて読み、「当歓時節因縁」を「〔仏性とは〕当に時節因縁なりと歓(知)すべし」と改読し、「若至」を「既至といはんがごとし」と強弁しているのは、仏性常住の見を打破して、「無常は仏性なり」という六祖慧能のことばをたてるため、「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)」をいわんとするためなのです。

 有が仏性である。時は仏性である。仏性常に(いま)現前す。仏性現成それゆえに、仏性は無常であるということなのです。
 仏性は無常なるゆえに、仏性現成し、発心・修行・菩提・涅槃するわけです。公案は現成せしめざるべからず、現成せるとき公案あり、なのです。
 「ゆたかにそなはれといへども、修せざるには現はれず、証せざるにはうることなし」(『正法眼蔵』「弁道話」より)。修・証、これ有なり、時なり、時節因縁なり、無常なり、というわけです。

(3)いまの行持(道元の無常観のまとめ)
 道元が最後にいわんとするところは、結局本証妙修の修であり、行持であるわけです。行持の無限、無窮(むぐう)であること、それが前後際断せる「いま」の連続以外にないことなのです。
 「かの行持を見成(けんじょう、現成に同じ)する行持は、すなわちこれ、われらがいまの行持なり、行持のいまは、自己の本有元(本)住(ほんぬげんじゅう)にあらず。行持はのいまは自己に去来出入(こらいしゅつにゅう)するにあらず。いまといふ道(ことば)は行持よりさきにあるにあらず、行持現成するをいまといふ」」(『正法眼蔵』「行持」上より)。

 これに先立って、道元は「縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、工夫参学を審細にすべし」と言い切っています。
 無常観が、いまの行持に結論づけられるところに、道元の意図がはっきりと知られます。「生死事大(しょうじじだい)無常迅速」(時は過ぎゆく、命は短い)が「勿放逸(もつほういつ)」(怠ってはならぬ)を導き出すのは仏教の正統なのです。

 

5.4.無常仏性説

(1)『涅槃経』後半の解釈
 『涅槃経』の後半「如来常住無有変易」(5.3.(1)「悉有は仏性なり」参照)について、本来は「如来は常住にして変易あることなし」と読むべきを、道元は「如来は常住にて変易なり」、つまり如来は変易するもの、と解釈しています。ここには道元独自の思想があります。
 道元は、『正法眼蔵』「仏性」の中で、『景徳伝灯録』の六祖慧能の次の言葉「無常は即ち仏性也、有常は即ち善悪一切諸法分別心也」をとりあげさらに展開しています。道元は道元独自の説である「仏性無常論」を説いているのです。

(2)道元における三つの世界
 いったい仏性は有なのか、無なのか、常住なのか、無常なのか、道元にとって有仏性説より無仏性説の方がすぐれていて、無常仏性説は無仏性説よりすぐれていたようです。

 ではいったい、無常仏性説とは何か?それは有仏性説や無仏性説とどう関係するのでしょう。

(3)道元の三つの世界の図式説明

 上図5に示された三つの世界は以下(表29-1)のように整理できます。

以上をもとに、道元の有仏性説、無仏性説、無常仏性説を以下(表29-2)のように分析できます。

 

6.まとめ

 道元の思想、非常に深いものがあり、非常に難解で、入門用の解説書とはいえその内容も、全12巻の「仏教の思想」の中でも特別に難しかったというのが私の感想です。

 最後に、本文の著者である、高崎氏と梅原氏両氏のまとめの言葉をそのままご紹介して、まとめとしたいと思います。

 ①高崎氏のむすび(苦・集に触れなかった道元)
 釈尊がペレナス鹿野苑(ろくやえん)においてはじめて説法したのは四諦(苦・集・滅・道)についてであったとされる。
 つまり、この四項目に仏教の人生観・世界観・目的とするところと、その手段が全部含まれているが、どうも道元は滅(さとりの風光)と道(さとりにいたる学道、功夫弁道、修行法)の二諦の理想だけ説いて、苦(人生は苦であるという真理)・集(その原因=我執や煩悩)の現実にはほとんど触れていないという、仏教における片手落ちがみられる。
 唯物与仏(*ゆいぶつよぶつ)の当体を自任し、仏祖正伝を確信する禅家の人々は道元に限らず、総じて、志気を尚(たっと)ぶあまり志気をもたぬ人々の気持ちに「同生・同修・同参・同証」できないきらいがある。この禅の<貴人>性を率直に認めることは、禅を理解し、公平に評価するゆえんである。

 *唯物与仏とは:ただ仏のみがよく仏を知っている、諸法の実相を究め尽くしている、という意味。

 ②梅原氏のむすび(永遠の循環)
 道元は慧能が用いた見性ということばをきらう。見性した人間は、何をしてもいいわけではない。見性した人間といえども修行しなければならない。さとりの証は修行の上にある。自然的人間から倫理的人間へ、宗教的人間へ、そしてまた倫理的人間へ、人間はたえず循環の中にあるというのが、彼の人生であった。
 永遠の循環が彼の人生であり、彼の思想はこの永遠循環を通じてますます深くなった。しかし、このくりかえしはまさに彼が生まれたときからの運命ではなかったか?

 

 道元は主に二つ経験から、彼の思想を生み出したのではないかと思います。一つは貴族の生まれでありながら、日陰の身として生まれた幼児体験、それと特に入宋後の師如浄のもとでの修行の二つの体験です。
 この二つの体験は、道元に権力におもねらないという強い意志と、自己及び弟子に対しての非常なまでの厳しさ、つまりは彼の倫理観にもとづく仏教思想というものを創造させたのではないかと思います。
 しかし、その倫理性を追求することは、結果として、全ての人に仏性があるという大乗仏教の根本思想に反する結果になります。そこで彼が生み出した思想が、「無常仏性」であり、実践としての「只管打坐」であったということではないでしょうか。
 おのれにも人にも厳しかった道元、苦・集に触れなかった道元、そこには大乗仏教のある意味根本ともいえる「慈悲」に欠けているようにも思えます。
 しかし、道元は彼の体験したものを「道得」ということばで表現したように、言葉で何としても伝えようとしました。「わからなかったら坐ってみなさい!」だけでなく、何としても伝えようとした結果が『正法眼蔵』として結果した、彼の慈悲の現れだったのではないでしょうか。 

 ただただ残念なことに、それは我々凡人には難しすぎたようです。やはり「坐ってみろ!」しかないのかもしれませんね。 

 と最後に、よく分からなった私のまとまらないまとめをしてみました。

 

 以上で、「仏教思想概要11:《道元》」の終わりです。長らくお付き合いありがとうございました。

 次回からは、いよいよ最終巻となります。「仏教思想概要12:《日蓮》」です。しばらくお待ちください。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要11:《道元》(第5回)

2024-06-08 08:07:21 | 11仏教思想11

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日撮影)

 

 仏教思想概要11《道元》の第5回目です。
 前回から「第3章 道元の思想」に入り、「1.「現成公案」の背景-「法の体系」」、「2.『正法眼蔵』と「現成公案」」をみてみました。
 本日から「3.道元の無我」「4.道元の思想の核ー「無常」「起」-」を取り上げます。

 

3.道元の無我

3.1.仏教一般の無我とは
 「無常」「起」の前に道元の無我について簡単に触れておきます。
 仏教以外のインドの伝統的な宗教(外道)では我(アートマン)の常住を主張します。これに対して仏教は無我を説きます。常住不変の実体は存在しないとしているのです。我々の存在は身体の要素(仏教ではこれを「五蘊」と呼びます)が諸縁によって集成されたもの(つまり縁起したもの)だとしています。そして無我の理を知る時、これがさとりであり、悟ったものには我執がないとしているのです。

3.2.道元の無我
 一般的な仏教の無我に対して、道元は次のように説きます。
 「我はないといいながら、心性常住という。これは大いなる誤りである。常住不変の本性(<性>)とか<心>があり、自己だと考えるのは、すべて外道の有我(うが)の見である」と(『正法眼蔵』「弁道話」より)。
 「*即心是仏(そくしんぜぶつ)というと、心性が常住でそれが仏だと思うのはとんでもない間違いである」と(『正法眼蔵』「即心是仏」より)。
 道元は性や心があるごとく説く「見性(けんしょう)」の語のある『六祖檀経』を偽経といい、同一派(大慧の一派)をきらっています。
 「即心是仏とは、発心(ほっしん)・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず」(『正法眼蔵』「即心是仏」より)と、教えています。つまり、実践の裏付けがなければ即心是仏とはいえないと説いているわけです。そもそも、心を身体と区分し、二つと考えるのは間違いで、<即心是仏>=<即身即仏>であり、<身心一如(しんじんいちにょ)>が仏教の正しい見方です。

 『「人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、修せざるには現れず、証せざるにはうることなし」であります。しかも道元さまは「ただ我わが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて、仏の方より行われてこれにしたがいてもてゆくとき、力をもいれず、心をもついやさずして仏となる」と示されて、無我の三昧を説かれました。』(曹洞宗東海管区教化センターHP「正法眼蔵即心是仏の巻より」一部参照)

 *即心是仏:一般的な解釈では、文字どおり、心の本体は仏と異なるものではなく、この心がそのまま仏であるということ。

4.道元の思想の核ー「無常」「起」-
 本文は三部構成になっています。一部は仏教学者による道元思想の解説、三部は、哲学者の立場での道元思想の分析、そして、中間の二部は両氏の対談になっています。その二部の終盤のあたりに、私の理解では、核となる道元の思想がまとめられていると思い、その部分を示してみたいと思います。(対談形式のため、それぞれどちらの意見かが本文にはありますが、それは省略しています。対談のため原文は「ですます調」ですが、「である調」で整理しました。)

4.1.修行の必然性
 『華厳経』の「法界」とは究極の世界、無限の世界というが、それは仏の世界、その仏を無限に拡大してしまう。あらゆるものが仏ならざるなしということで、ここでは毘盧遮那仏を登場させている。つまりこの仏の慈悲に基づいて、仏の智恵があまねく及ぶというわけである。われわれが悟るとか、仏になるというのは仏の慈悲のおかげだというわけである。
 しかし、それだと、なにも修行しなくてもいいということになってしまう。そこで道元は「修」ということを非常いう。これはやってみなければ悟れるかどうかわからないというのとはちがう。道元の本証妙修は、われわれがすでに如来のはたらきによって悟っている、悟っている以上は、こうしなくてはいけないという気持ちではないか?つまり仏ならこういうことはしない、悪いことはしないはずだ、そういう自覚を各人にもたせる、そういう解釈となる。

4.2.永遠観の空間と時間性
 「現成公案」で無我の理を、つづけて無常の理を説いている。無我の理を説くところの、山川草木一切が仏のあらわれだ、というようなことだけではいわば空間的・平面的な説明で、それだけでは修行という面が出てこない。修行はどうしたって無常という面からしか出てこない。無常を感じて、発心して修行することになる。道元にいわせれば、発心修行する、それが仏性なので、発心して修行することを除いては、仏性の存在説明なんてないことになる。この発心し修行することは時間的存在だということになる。

 仏教の無常ということの理論的な説明は瞬間である。仏教では瞬間を「刹那(せつな)」とよぶが、阿頼耶識思想において、阿頼耶識という構造の原子核みたいなものを図式で示せば、瞬間ごとに切られた意識の構造となる。そういう点で阿頼耶識の識の思想と結びつく。
 瞬間というものは無常でなければ出てこない。華厳そのものからは時間は出てこない。

4.3.道元の時間論
 道元の思想の中には華厳、あるいは如来蔵思想と阿頼耶識思想の両方がはいっている。
 「有時(うじ)」という思想、時の経過、時々刻々で断絶しながら、しかもつながっている時の位そのものを絶対視しながら、しかもつながりがありとしている。このつながりがなぜ生ずるのかを分析したのが阿頼耶識思想で、有時と阿頼耶識思想は理論的にまったく同じことを説いている。

 現実の存在というものを問題にするとき、どうしても時間の問題、無常ということが出てくると考えられる。華厳にも、密教にも時間の考えはない。道元の思想を華厳の思想だけで割り切ってはいけない。割り切ってはいけない面というのは、結局、時間の問題に出ていると言っていいと思う。

 仏教の出発点はあくまで無常。無常ということからはいるといっていい。そうすると釈迦の四諦(苦・集・滅・道)の苦は、結局死の問題、生死という形で出てくる。仏教にはバラモンの永遠の命の思想や、ヨーロッパ哲学の魂の不死の思想みたいなものはない。大乗仏教ではその永遠の命としての法性を唱える。そこには大乗仏教の苦悩みたいなものがあると思われる。その問題が道元においてははっきりと自覚されている。

4.4.仏教の哲学的決算
 道元は、仏性というものを、そういう永遠に続く霊魂みたいなものであるということは、極言して排斥している。にもかかわらず、そういう実体と似かよったものをどうしてもいわざえるを得ない。道元が、それは何だろうかということを考えたとき、結局、仏のわれわれにおけるあらわれ、仏性というものが出てきたのだと思う。仏のわれわれにおけるあらわれというものは、たえず仏らしくふるまうということであった。だから悟ることが目的で坐禅するのではなく、坐禅をしていること、それが仏性のあらわれだという形で、絶えざる精進、たえざる努力を重ねていくということが要求されるのである。それ以外に仏性というものは何もない。だからそれは、仏だといってしまってもかまわないのである。では、仏とは何ぞや、ということになると、これは禅のいき方にそのまま逆説的に出てきているわけである。「乾屎橛(かんしけつ)*1」とか「庭前の栢樹子(はくじゅし)*2」とかいうことである。つまり仏というものは、実体がどこにもあるわけではないのであるから、そういうものを立てたら仏教でなくなってしまう。そういうことを論理的ではなく、そのものズバリで、逆説的にやっているのが禅というものである。

 そういう逆説的な言い方が、中国の禅からずっと道元の時代まで積み重なってきた。その考え方をひとまとめにする時期だったのではないか。その仕事はだれがやってもいいけれど、前の集積がないと、道元の思想はやっぱり出てこない。無常の問題でも、無常仏性という言い方でも、いろんな禅の師匠たちが断片的に言っている。そういうことを全部取り出してきて、そこから一つのまとまったアイディアというものを、道元は見せてくれたのではないだろうか。

 *1乾屎橛:乾いた棒状の糞、仏とは何かにという問いに対する答え
 *2庭前の栢樹子:「如何なるか是れ祖師西来意(達磨大師が西から来たこと)」と問われた趙州和尚の答えで、単に庭前の栢樹子に過ぎないという意味。「無心」というった意味。なお、栢樹子は日本の柏の樹とは違う。

 教外別伝とは一つの経典に固執しない自由さともいえる。だから、拾い出されたものを体系的に説明していくと、これは華厳的なもの、これは唯識的なもの、これは天台的なものと、何かに関連付けらえたものが出てくる。それをさかのぼるとお釈迦さんの教えに、全部戻ることになる。こう考えると、道元は仏教の歴史における哲学的総決算を行ったことになる。

 

 本日はここまでです。次回は第3章の最後として、「5.道元の無常観の解析」「6.まとめ」を取り上げます。
 そして、次回が最終回です。

 

 

 

 


仏教思想概要11:《道元》(第4回)

2024-06-01 10:06:11 | 11仏教思想11

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日撮影)

 

 仏教思想概要11《道元》の第4回目です。
 前回は、第2章の続き「3.道元の禅宗批判」「4.証上の修」をみてみました。
 本日から「第3章 道元の思想」に入り、「1.「現成公案」の背景-「法の体系」」、「2.『正法眼蔵』と「現成公案」」を取り上げます。

 

第3章 道元の思想

 

1.「現成公案」の背景-「法の体系」

1.1.<仏>と<法>

(1)道元の宗教・思想
 道元にとって実践そのものが思想でした。道元の行持は仏法の<正伝>に尽き、正伝がその宗教の生命でした。命がけで学んだことを、道元はまた命をかけてすべてはき出してしまったのです。仏道=仏法=仏教、そして=仏である完結体として仏を把握したところに、おのれを「仏のいへになげ入れて、仏のかたよりもて行く」(すべてを仏様(自然)におまかせして、 仏様(自然)がなさることに素直に従っていく)ことができたのです。実践の世界、宗教の世界においてすべてが<仏>一本である。これが道元の宗教であり、そして思想であるのです。

(2)法の存在
 しかし一方で、単伝し正伝されるべき内容としての妙法・正法・正法眼蔵・阿耨菩提(あのくぼだい*)の内容(所証の法)、仏の教え(所説の法)、そして「人々の分上にゆたかにそなわる」法、さらには「諸法」「万法」といわれる法の別のことばが仏教にはあります。
 すべてを仏に帰着させるとき、<仏>についてのイメージはお釈迦さん、阿彌陀さん、寺の本堂の金仏から生き仏・死人にいたるまで、さまざまな差があるにしても、宗教的情操の世界においては、その仏は見えない一本で結ぶことが出来ます。
 しかし、<法>の場合はそうはいかない。法は〔仏教〕の理論です。それは<仏>との一体感を成立させる根拠となるべき理論です。そして仏教の特色は実はこの仏との一体となる<法>の理論のうちに見い出せるのです。

*阿耨菩提とは:阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、サンスクリット語のアヌッタラー(無上の)・サムヤク(正しい、完全な)・サンボーディ(悟り)anuttarā samyak-sa bodhiの音写。)の略、

 

 

1.2.<法>の絶対性

(1)仏と法の関係
  仏と法の関係の要点を以下(表22)のように整理できます。 


 仏教は<仏>中心の宗教といってよいものです。仏教の三宝、その原型は仏=釈尊、法=仏の教え、僧=仏弟子の教団でした。仏を中心とするつながりであり、仏はこの場合絶対です。ところが教義上、仏が絶対者であることはでてきません。

(2)仏教は<法>中心の宗教
 仏が絶対者とするためには、それは仏がさとりをひらいたから尊いという理由づけを必要とします。つまり仏とは悟ったという原体験そのものを表わすことばであるのです
 真理を悟ったものが仏であり、真理は永遠不変である。この不変の真理を<法>とよぶ。したがって、悟られた法(所証の法=真理)は仏より絶対性が強い。法(真理)は独立して絶対である。仏は法(真理)とのつながりにおいて絶対である。仏教は<法>中心の宗教であり、非人格的な絶対者をもつ宗教であるのです。

 1.3.法の原型-<さとり>と<おしえ>
 インドシャカ族の王子シッダールタはマダカ国ガヤーの地、菩提樹の下で瞑想に入りさとりをひらいた。しばらくの自愛用三昧ののちブラフマン神(梵天)のすすめにより、ブッダ(仏陀)となったシッダールタは、ペレナスの地でかってともに修行した五人の修行者にはじめてその悟った真理を説き、五人は心服して弟子となった。これが仏教のはじまりです。これが仏の説いた<法>であるのです。

 この場合、法(仏の説いた教え)は、それ自体独立で絶対的なものではなく、宗教的感情として仏が説いたから、仏教の理論からいえば、仏のさとりを内容としているから、尊いし、信仰され、帰依せられることになるのです。

1.4.法の諸類型
 二種の法(真理と教え、所証法と所説法)を基本としての教理の変遷を以下(表23)に示します。

 

1.5. 法の一元論=現成公案
 前述の内容を図式化すると、以下(図3)のようになります。

 この基本構造は、縦に対立しつつ相関するそれぞれの系列が横にまた同一性をもつという形で関連しあっていますが、さらに真理(法)と体験(人)が一体とみなされることによって完全な<一如>となっているのです。

 現成公案は、この基本構造を含んだ道元独自の<道得(どうて)>であるのです。以下、この基本構造にてらしつつ、道元の思想をみていきます。

 ここで「道得」ということばが出ましたので、話が少しそれますが、この言葉について取り上げます。

1.6.道得について

1.6.1.道元の言う<道得>とは
 道得(どうて)の一般用法は道を「いふ」の意味で使い、この字のままの意味で使用します。つまり「いいうる。そういえる。」の意味です。
 これに対して道元の用法はただ口で言うということではなく、さとりの体験をことばで表現する、真理をことばで表現する、という意味で使用しています。「道取」とほぼ近い使い方です。
 そして、「道」は「言」とはっきり区分されているのです。「海印三昧」の巻で、「此法起時(しほうきじ)、不言我起(ふごんがき)」とある「不言」を説明するのに、「不言は不道にあらず、道得は言得にはあらざるゆゑに」と言っているのが、これを証明しているのです。

1.6.2.道得と不道得

(1)『正法眼蔵』「道得」より 
 ここで『正法眼蔵』「道得」より、その一部を示します。(表24-1)


 ここで「道得也未(やみ)」とは「どうだわかったか、わかったら言ってみろ」という意味です。つまり質問のし方はことばとは限らない、棒を喰らわすこともあるし、払子を振ることもある。道得とは<見得(けんて、みえた=さとり)を前提として、さとりと同体である。転法輪(てんぼうりん、釈迦が弟子の迷いをたち切っていくこと)と成道(悟りを開くこと)と不離である、というわけです。

 さらに、見得(成道)と道得(=転法輪)が互いに照らし合い、三年、八年、何十年と間断なくつづく、これが功夫(=弁道)である。この功夫弁道にあって、脱落を目標として、現出していくところ、正当脱落するやいなや、おのずから(*)に道得せられるものである、と説いているのです。

*「おのずから」:心の力にあらず、身の力にあらず、ということ。上表の「他人にしたがひてうるにあらず、わがちからの能にあらず」に同じ。

(2)不道得とは
 ここで道元は先につづけて、ただしと以下(表24-2)のように説いています。


 ここでは、「道得も必ずしもことばによる表現とは限らない。むしろ道(い)い、得ることは、これを道い、道い得ざること(不道得)はこれを道(い)わない(不道)というのが真の道得である。つまり広義の道得=真理の現成は、道得(ことばによる表現)と不道得(ことばによらざる表現)を含むことである。」と説いているのです。

 

2.『正法眼蔵』と「現成公案」

2.1.『正法眼蔵』の成立
 『正法眼蔵』の構想時期については明確ではありません。しかし、今日の推定では、道元が永平寺に入った後示衆(じしゅ、一般大衆を指導すること)する回数が急に減っているため、そのころから諸巻の整理がはじめられ、まず七五巻が選ばれたようです。道元はさらに全巻を百巻にすべく、新たな書下ろしをはじめますが、その第十二巻目「八大人覚(はちだいにんがく)」が最後になっています。

2.2.「現成公案」の概要

(1)成立と位置付け
 道元の整理において、第一巻に配当されたのが「現成公案」でした。この巻は示衆ではなく、鎮西(ちんぜい、九州)在住の俗弟子楊光秀(ようこうしゅう)という人に「書き与えしもの」とされており、道元示寂の前年(1252年)に『正法眼蔵』に集録された旨の奥書があるとのことです。

 この巻が巻頭にあるということは、この巻が教えのかなめであると道元自身が考えたことを意味しており、<現成公案>は道元によってえらびとられた<道得(どうて)>であると言えます。

(2)「現成公案」の由来と道元の立場
 <現成公案>は、<古則公案>に由来しています。<古則公案>は、古則を公案とする禅の修行法である<公案禅>で利用されたものです。「公案」は本来政府の公文書の意味で、「古則」は古人、つまり仏祖の行履(あんり、日常の一切の行為=行住坐臥)・言行で修行の手本とするもの、を意味します。
 道元もこの<古則公案>を大いに利用していますが、<公案禅>の大成者といわれる大慧宗杲(だいえそうこう)などの考えに反対しています。それは「さとりをあてにしての坐禅のやり方」や、公案の工夫を手段としての<大悟>だとか<見性(けんしょう)*>などに反対したのです。

 *見性:自己の本性、本性を発見すること。一度悟ったものは普通の人間より高い人間になれるという考え方。

2.3.「現成公案」の意義

2.3.1.「現成公案」の意味
 <現成公案>は<現成>と<公案>に分解でき、つまりは「公案が現成す」となりです。<公案>は法性、仏であり、したがって、「ほとけがあらわれる」となりますが、「あらわれる」は生ずるのではなく、見えなかったものが見えるようになることです。仏教一般の「現証(げんしょう)、現前(げんぜん)、顕現(けんげん)」などと同意義で、つまりは、<現成公案>は「現象」+「本体」といった関係にあることになります。

2.3.2.「現成公案」の世界と実践的要請

(1)『華厳経』の<法界>と<現成公案>
 『華厳経』には仏教世界をあらわす用語として<法界(ほっかい)*1>があります。<法界>は、<法性(ほっしょう)>(法の本性(諸法の実相))をあらわすと同時に、<一切法の世界>(あらゆる現象(諸法即実相))を意味します。つまり、<法界>=「本体」+「現象」=<公案>+<現成>=<現成公案>ということになります。

 ここで、この法界における諸現象、つまり諸法はそれ自体なんら実体を伴わないもので、そこから<現成公案>の世界も、<諸法無我><空>の世界ととらえることができます。

 *1法界:すべてを肯定する世界であり、一切は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ*2)のあらわれである、とする『華厳経』の根本真理。

 *2毘盧遮那仏:仏教真理を体現する実体を伴わない仏=法身仏(ほっしんぶつ)。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。

(2) 「現成公案」の四句にみる<現成公案>の世界

「現成公案」の四句を以下(表25)に示します。

 以下は四句の解説です。

①について
 法の世界とは純粋客体的な存在というのではない。法はわれわれにとっての規矩(のり)なのである。このような規矩としての法は、まさに<仏法>よりほかにない。『華厳経』流にいえば、一切はビルシャナ仏のあらわれであり、なにひとつとして仏の外にいるものではない。法界とはすべてを肯定する世界である。<現成公案>のうち<現成>に力点がある・

②について
 一方、この法界にある諸現象つまり諸法はそれ自体、なんら固有の実体のあるものではない。つまり無我である。(諸法無我)つまり<空>の世界、一切否定の世界である。
 ①の肯定に対して、否定の違いはあるが、おなじ真理を表現したものである。こちらは<公案>に力点がある。

③について
 ①②の二つも超えた根元的なもの<仏道>自体を表現している。
 ここでは二元対立を超越するゆえに二元対立をあらしめている。③の中身は①と同じであるが、②の否定を経た点にその表現の意義がある。<現成公案>が、<諸法無我>が<空>を内に含まぬ単純な肯定としたら、そこには修行も行持も無意味になる。

④について
 ①~③で<現成公案>の道理を示しているが、現実世界のありようはこうだと言っている。これは理屈ではなく、凡人の感慨であると同時に、さとりの究極である。
 この中身の隔たりを埋めるもの、それが<現成>のもつ、次の意義である。

(3)<現成>の実践的要請=<本証妙修>
 一切は毘盧遮那仏のあらわれであるこの法界=現成公案は、「修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」であり、一方、迷悟あり、差別的対立のある世界、いやがっても草の生える世界、そのままが仏法であり、真理の顕現する世界であるわけです。しかし、これをそのままにしておくことは許されないわけです。

 公案は現成しているがなお、公案を現成せしめなければならない、一切は仏であるが一切を仏せしめなければならない、つまり、「現成公案」の巻でも道元は<本証妙修>を説いているわけです。その事例を「現成公案」の巻末にある麻谷宝徹(まよくほうてつ、馬祖の弟子。八ー九世紀の人。)の話にみることができます。(少し長いですがここにそのまま示します)

「 麻谷がある時、扇子をつかっているところに僧がやってきて質問した。
 『仏教の教理によると、風性(ふうしょう)は常住であって、どこにでもないところはないということです。それなのに、和尚はどうして、ことさら扇子をつかうのですか』

 麻谷は言った。
 『汝は風性常住ということはわかったらしいが、まだ、無処不周(むしょふしゅう、どこにでもないところはないの意味)ということがわかちゃいないぞ』

 そこで僧は再問した。
 『では無処不周ってどういう道理です』

 麻谷は無言で扇子をあおいでいた。僧は黙って礼拝した。

 おそらく説明はいるまい。しかし、道元は親切に教えてくれるのです。
 『”常住あればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべき”といふは、常住をも知らず、風性をもしらぬなり』
 『風性常住なるがゆゑに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河(ガンジス川)の酥酪(そらく、発酵食品)を参熟せり』」

 本書では、さらに以下のように結論の説明がされています。

 「証究(しょうきゅう)すみやかに現成すといえども、
 密有(みつう、現成と対立するあり方、つまり隠れひそんでいる状態=公案)かならずしも現成にあらず
 見成(げんじょう、現成におなじ)これ何必(かひつ)なり 」
→公案はたとえさとりを完成したといっても、いつもそこにそれと知れるように現成しているとはかぎらない。またそこに現成しているものは、それ以外にありようがないと断定できるものではない。と説いているわけです。

2.3.3.<現成>と<無我><無常>の理
 ここで、現成せしめるための修行の心構えと、<現成>する諸法のあり方をを整理すると以下のようになります。

(1)修行の心構え
 一言では「自己をわすれること」である。万法を悟ろうとすれば、万法は逃げていく。万法の内に入りこんで、そこになりきることが大事である。これは無我の教えである。悟る自分があるということをわすれたもの、それが仏である。これは仏教の真理の内容としての<諸法無我>の体得ということである。としています。

(2)<現成>する諸法のあり方
 つまりは、生滅(しょうめつ)・生起(しょうき)・縁起(えんぎ)の起や生のもつ意味は何かということです。
 起や生は、滅の対立概念である。この生滅があり、生死輪廻(しょうじりんね)があるあり方が<縁起>であるが、それは時間的変化性であり、つまりは<諸行無常>ということである。としています。
 無常なるゆえの生や起と、常住なる何かはどうつながるのか。以下、時間概念である「無常」「起」についての説明に入っていきます。

 

 本日はここまでです。
 次回は第3章の続き「3.道元の無我」「4.道元の思想の核ー「無常」「起」-」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要11:《道元》(第3回)

2024-05-25 09:03:50 | 11仏教思想11

(神代植物公園にて・しゃくやく     5月6日撮影)

 

 仏教思想概要11《道元》の第3回目です。
 前回は、「第2章「正伝」の意義」に入り、「1.仏道=仏法」、「2.正伝の方法」をみてみました。
 本日は、第2章の続き「3.道元の禅宗批判」「4.証上の修」を取り上げます。

 

3.道元の禅宗批判

3.1.禅宗の号の批判
 以上のように、道元の主張する正伝とは、釈尊の教え(正法)が摩訶迦葉に伝えられ(<拈華微笑>)、何代もの祖師を経て二十八代の達磨にまで伝えられ、さらに道元がその正法を受け継いで日本にまで伝えたということになります。それは道元が創造したものではなく、禅宗(細かくは曹洞宗)において信じられてきたことを、道元が踏襲したものと言えます。
 ところが、道元は自らが曹洞宗に属するという意義をもたず、これを拒否し、当時中国にて確立していた5つの禅宗の宗派(五家)の区分はもちろん、禅宗という称もおかしいと、これを拒絶しています。
 その理由について、本文にも明確な解説がありませんが、道元の次の言葉を参考に示しておきます。(下表15)

 

3.2. 道元のその他の批判

(1)<不立文字><教外別伝>批判
 また、道元の批判は<不立文字><教外別伝>(以心伝心)に及びんでいます。(下表16)

(2)経典の意義と長老批判
 道元は如浄の教えとして「焼香・礼拝・修懺(しゅうさん)・看経(かんきん)を用ひず」、ひたすら参禅することを強調しています。と同時に経典・経巻の意義をけっして忘れないのです。
 しかし、道元は<経巻>だけが<仏経>であり、<仏教>であるとは説いていません。「渓声山色(けいせいさんしょく)すべてこれ〔仏の〕広長舌(こうちょうぜつ)である。山水そのままが経である」(『正法眼蔵』「山水経」より)ということがその積極的な主張であり、それこそ、看経眼をそなえた者は、いかなる自然の風光・音声からでも、仏の声・法の音を聞くことができる、まして、経典が仏法でない道理があろうか、としているのです。
 「いま現成せる正法眼蔵は、すなはち仏経なるがゆゑに、あらゆる仏経は正法眼蔵なり」(『正法眼蔵』「仏経」より)

 道元は五家の区分や禅宗の称の不当であること、ないし仏経を大事にしないことの誤り、四料簡(しりょうけん*)や五位(*)を学道の標準にすることの間違いを、先師古仏如浄がつねに教えてくれたということをくり返し述べているのです。

*四料簡とは:臨済玄義の機根や時と場合に応じた弟子を指導する4つの方法
*五位(洞山の五位)とは:曹洞宗の開祖洞山良价(807-869)が説いた五つの禅の境地(正中偏、偏中正、正中来、兼中至(または篇中至)、兼中到)

 

4.証上の修

4.1.行持

4.1.1.行持は道環

(1) 『正法眼蔵』「行持」の巻より
 道元は、『正法眼蔵』「行持」の巻で以下(表17)のように説いています。


 以上の意味は次のとおりです。
 「<行持>とは修行者の日常全般(行住坐臥)をさしていう用語であって「修行」というにほぼ等しい。「行も禅、坐もまた禅」(『永嘉大師証道歌(えいかだいししょうどうか)』)という意味では「参禅即行持」である。また行住坐臥すべて仏の行為であり、<行仏(ぎょうぶつ)>であるという意味で「行仏の威儀(ぎょうぶつのいぎ)」ともよべる。あるいは「発心・修行・菩提・涅槃」という一生がすべて行持である。悟ってもなお行持はつづく。行持に休止はない(「行持は道環」)。
 あるいは、われわれの行持は諸仏の行持をまねること、ならうことである。そこに仏の道があらわれる。
 さらに『正法眼蔵』「行持」の巻は、この諸仏諸祖の行持を、歴代祖師について取り上げたもので、そこにあげられているものは、学道に励むものたちへの手本ということになる。」と。

 ここには道元のいう「行持」が、行持即正伝という仏法の本質にかかわるものであることが知られます。

(2) 行持の具現化された仏法の例
 行持が具現化(現成)されている仏法を、幾つか列挙してみると、以下(表18-1)のように整理できます。

 以上をまとめて、道元は以下(表18-2)のように述べています。

 

4.1.2.行持は報恩
 「行持」の巻後半で、道元は、この世俗の恩愛を断ち切って行持することが、実は仏祖の恩に報ゆるゆえである、としています。
 道元は説く「『いま田夫農夫、野老村童までも〔仏法〕を見聞する。しかしながら(たたひとえに)祖師(菩提達磨)航海の行持にすくわるるなり』・・・初祖の恩だけではない、二祖(慧可)がもし行持せずば『今日の飽学措大(ほうがくそだい*)あるべからず』まさに、いま<見仏聞法(けんぶつもんぽう)>できることは『仏祖面々の行持より来れる慈恩』である。『仏祖もし単伝せずば、いかに今日にいたらん』」、と。行持は報恩行であるとしているわけです。

 *飽学措大:学道にあきるほど恵まれた中でさとりという大事を終えることができること。

4.1.3.証上の修=不染汚の行持

(1)「報恩の行」の意義
 行持が、行住坐臥、発心・修行・菩提(さとり、成道(じょうどう))・涅槃であり、仏作・仏行であるということは、以上のように「報恩の行」ということに落着しましたが、これは裏を返せば、道元の宗教の本質といわれる<証上の修(しょうじょうのしゅ)*1>、あるいは<修証一如(しゅしょういちにょ)*2>ということにほかならないことになります。「悟った後でなにゆえ行を必要とするのか」の道元の参学の出発点となった疑問、その答えがここに与えられているわけです。

 *1証上の修:悟後の修行。悟ったとでもなお修行すること。
 *2修証一如:さとりと修行は一つ、という意味。

(2)不染汚の行持と坐禅
 道元は『正法眼蔵』「弁道話」で<証上の修><修証一如><本証妙修>(<証上の修>に同じこと)について詳しく説いています。
 そこでは「修のほかに証をまつおもいなかれ」と教えています。つまり、<修証一如>ですから、修行の結果として悟りを待つ思いを持ってはいけないと教えているわけです。悟りは終わりなく、悟りは修行そのものなので、修行にはじめないと説いているのです。
 このことは、もとは六祖慧能と南岳の問答(下表19)に帰着するものです。


 それは<不染汚(ふせんな)の修証*>の名で道元が説いているもので、そのもっとも具体的なあらわれが坐禅だ、とするのが道元の宗教の一番のかなめとなっています。「坐禅は習禅にあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」(『正法眼蔵』「坐禅儀」より)
 ではなぜ坐禅なのかは、道元自身の只管に打坐して身心脱落したという体験が、本証妙修を確信させたわけで、「わからなければ、坐ってみろ」というほかないわけです。その意味では、行持が報恩だというのも体験抜きにはいえることではないのです。

 *不染汚の修証:「染汚」とは分別をもって対象を判断することで、したがって「不染汚」はとらわれない心境で修行する必要性を説いている。

                                                 

4.2. 妙修と道心

4.2.1. 妙修は信の現成(あらわれ)

(1) 妙修の結果
 <妙修>とか<仏行><行仏威儀>ということは、かくあるべきという世界ではないのです。おのずからそうなる、そうせざるを得ないということなのでしょう。「不曾染汚の行持は、みずからの強為にあらず、他己の成為にあらず」(『正法眼蔵』「行持」より)であり、そこには報恩ということばが生きています。

(2) 妙修の要因分析-事例:礼拝
 礼拝は道元の専売ではありませんが、このことばは「参禅は焼香・礼拝・念誦(ねんじゅ)・看経(かんきん)を用ひず」(『宝慶記』より)と説いているにもかかわらず、道元の体験のなかで無数に出てきています。『正法眼蔵』「陀羅尼」の巻においては「礼拝は正法眼蔵なり、正法眼蔵は大陀羅尼なり」と説いています。ここで陀羅尼(だらに)は真言の呪言(じゅごん)ではなく、<一切を総括するもの>の意であり、『円覚経(えんがくきょう)*』の意図ではその経典が正法のすべてであり、それが人事(子弟の挨拶、問候(もんこう). 季節の節目に挨拶に伺うこと))に体現されているということであるのです。

 この礼拝もまた、おのずからなるべきものであるべきことで、礼拝と打座のかかわりを考えると、打座をあらしめているものが、また礼拝となってあらわれているわけで、そこにはいわゆる<思想でない>宗教、<哲学でない>宗教があるものと思われます。道元はあまり表明しないが、それは<信>の風光であるのです。

*『円覚経』:唐の仏陀多羅(ぶっだたら)訳とされる。大乗円頓(えんどん、円満にして欠けることなく速やかに成仏するという法華経の教え)の教理と観行(かんぎょう)の実践を説く。偽経ともいわれる。

(3) 「信」の風光とは、道元と親鸞の同一性
 「信根」「信力」について、道元は以下(表20)のように説いています。


 ここで「信」とは何を信じるのか?

 ①「信仏語」、つまりほとけのことばを正しいと信じること。
 ②正師、教えが仏らか祖へ正伝し来たったことを信じること。
 ③「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」ないし、もろもろの経のことば(仏語)として信じること。

 この点では親鸞の浄土信仰も構造的に差異はないのです。ことに仏性を普遍的に認める点、すなわち「本覚」の宗教である点において両者の基盤は同一であるといってよいのです。ただ、親鸞が仏性を「大信心(だいしんじん)」それ自体に見い出したのに対して、道元は「行仏」としての打坐にその証明を見い出したという違いであるのみです。

4.2.2. 道心-慈悲心

(1)道心とは
 「信」とも関連しますが、道元の学道に不可欠な心として、如浄も同様でしたが、<道心(どうしん)>をあげることができます。
(道元の<道心>に関することば(「重雲堂式(じゅううんどうしき)」(興聖寺僧堂における規則) 表21)


 <道心>はいうまでもなく、道を求める心、菩提を求める心です。その心をおこすことを<発菩提心><発無上心>略して<発心(ほっしん)>と呼びます。発心は出家修行の前提です。
 道元の著作全体からうける印象としては、「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の巻などで慈悲、利他行を説くにもかかわらず、もっぱら学道・自己の究明に急であるように思われます。

(2) 道元の慈悲心
 仏教の本筋からいえば、仏の説法(転法輪(てんぽうりん))(次章で説明あり)こそ仏の慈悲行であり、それは「道得」(九五巻)に、道元の大慈悲がみられます。『宝慶記』にも「仏祖の大慈悲を先として、誓って一切衆生を度するの坐禅」とあります。しかしここには「おれがすくってやるぞ、おれが救わねば」という<上からの慈悲性>があるのです。これは道元の貴族性もあるが、禅のもつよくも悪くも一つの特質であるといえます。

 以上、第2章までで、道元の思想の根本が見えた気がします。それは、釈迦以来の仏教の教え(正伝)をインド、中国を経て道元が日本にもたらしたこと。そして、その正伝とは、まさに「只管打坐(しかんたざ)」であり、悟ってもなお修行を続ける「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)」だったわけです。

 ではなぜ、「只管打坐」「本証妙修」なのか、それは道元自身の厳しい修行の中から得たもので、まさに「わからなければ、坐ってみろ!」ということになるのですが、その体験から出たものを言葉として著したものが、主著『正法眼蔵』だったわけです。
 ということで、以下、『正法眼蔵』の内容、特にその中心をなす、「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻についてみてみたいと思います。

 

 本日はここまでです。次回からは「第3章 道元の思想」に入り、「1.「現成公案」の背景-「法の体系」」、「2.『正法眼蔵』と「現成公案」」を取り上げます。