たまきさん 再コメント 有難うございます。伯母様が お寺の坊守様でいらっしゃったのですか!驚きました。
私は 昭和30年生まれの54歳ですが、私達の親の世代 昭和の一桁から終戦までに生まれた世代は、先の大戦の影響もあり 全ての人々が 想像を絶する様な大変な人生を送られました。長編小説が書けるくらいの大変な想いをして毎日毎日 頑張っていました。終戦で 男はいなくなり 食べ物も 着る物も 何も無い社会での生活をスタートし、昭和30年代40年代と 高度経済成長時代を駆け抜けたのです。皆 必死に生きました。必死に生活しました。前向きでした。目標がありました。自分を犠牲にしました。
時代は貧しく大変でしたが、絆がありました。人と人との結びつきは とっても深かったのではないでしようか?人と人が想いあって 気遣いあって 感謝し合って 生きていました。これこそが まさに 「生かされて 生きる」でしよう。
現代社会では 縁が薄くなりつつあります。お坊さん達が 「生かされて 生きる」との講話をして説明をしなければならない社会になってしまいました。
私達の親の世代は 「生かされて 生きる」など 当たり前で 説明など不要だったのです。
お2人の伯母様の人生をしんみり振り返って 「生かされて 生きている」意味を再度噛締めてみる事が、結果として たまきさんのこころの整理の手助けになるのかも知れません。
称讃寺 住職
たびたび温かいお話を本当にありがとうございます。
拝読して色々思いあふれてコメントがなかなかまとまらず、お送りできませんでした。失礼しました。
先だって亡くなった伯母は昭和8年生まれ、20歳でお寺さんに嫁ぎました。
妹である母の述懐を借りると「正直言うて『姉ちゃん、とんでもない貧乏寺に嫁いだなあ~』と思ったわ。義兄さんも姉さんも、それこそ馬車馬みたいに働いとった。うちの父さん母さんも、黙って牛を売ってはお寺さんを助けとった。義兄さんも、うちの父さん母さんに足を向けて寝ることは絶対になかったね」と。
ご院家さまの言われる通り、親の世代は、私たちには想像も出来ないような厳しいぎりぎりの暮らしの中で、文字通り「助けられ」「生かされ」の日々だったでしょう。それが大きな支え、大きな絆、大きな感謝になっていたのだと思います。
翻って私たちの世代は「生かされている」でなく「生きている」としか思えなくなったようです。
私自身、長らく都会に暮らして「自分はこんなに働いてるんだ!」「この収入も、高級マンションも、海外旅行も、ブランドの服も、ぜんぶ自分が頑張った結果だ!」と驕った気持ちで居りました。
離婚し身体を壊してボロボロになって車椅子に乗せられて郷里に帰ってから「なぜ私がこんな目に」「いったい私がどんな悪いことをした」とウロウロ惑うばかりでした。周囲に八つ当たりもしました。でも、家族親族は、優しかった…!「たまきはどがしとる?」「たまきは病院いったか?」徹底的に私を心配してくれました。そのうち、この地でドッシリ生きて行こう、この人この地のお役に立とうと思えるようになりました。
そして今回、2人の伯母が亡くなったことで、さらに深いご縁に気付かせて頂きました。色んな事を思い出し、自分がこれから日々どう過ごせばいいのか考えさせて頂くきっかけを得ました。本当に感謝です。
応援いたします。
温かいコメントありがとうございます、お返事が遅くなり恐縮です。
得度、ですか・・・!無知なもので、得度とは何か、さっぱり知りません。でも、なぜか印象に残るお言葉です。これから調べたり話を聞いたりして学んでいきます。分からないことがあったらまたこちらで質問させて頂こうと思います。よろしくお願いします。
話は変わりますが、先日、750年大遠忌記念の門徒式章を、京都のお出入りさんを通じて譲って頂きました。とても綺麗で嬉しいです。
なんだか「ファッションから入ってる??」みたいな感じですが=笑=、信仰とともにある日常は、心が落ち着きますわ。
神様仏様を拝んだり頼ったり恨んだりするのでなくて「一生懸命やってみるから、時々バカなこともするだろうけど、見ててください、よろしくね」という気持ち。背中にいつでも大きい誰かがいてくれる気持ち。
本当に感謝です。