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シドニーの風

シドニー駐在サラリーマンの生活日記です。
心に映るよしなしごとをそこはかとなく書き綴ります…祖国への思いを風に載せて。

フェアリー・ペンギン物語

2009-01-10 00:32:07 | シドニー生活
 フェアリー・ペンギンは、リトル・ペンギン、コガタ・ペンギンとも呼ばれ、体長わずかに40cm、体重も1Kgほどの、世界最小のペンギンです。体が小さいために天敵が多く、サメ、シャチ、アザラシなどの海の動物のほか、キツネ、イタチ、イヌ、ネコなどの陸の動物、カモメ、ワシなどの大型の鳥からも狙われます。天敵を避けるため、朝日が昇る前に海に出掛け、夜はとっぷり日が暮れた後でないと陸に上がって来ません。一般にペンギンは黒色をしていますが、このフェアリー・ペンギンは深い蒼色で、空からも海中からも身を守る保護色になっていると言われています。
 そして、日没後に陸に上がって来るところを観察するのがペンギン・パレード・ツアーで、オーストラリア南部からニュージーランドに広く分布していて、先日、訪れたメルボルン郊外のPhillip島や、見損なったタスマニア州のBichenoのほか、同じタスマニア州のBruny島やStanley、サウス・オーストラリア州のKangaroo島やVictor Harbour、ウェスト・オーストラリア州のRockinghamなどでも見ることが出来るようです。
 メルボルン旅行の際、二日目に泊まったThe Great Ocean Roadの西の起点Warranmboolは、てっきり鯨の町だと思っていたら、ここにもフェアリー・ペンギンがいることが判りました。先日、新聞で見かけたのは、このWarramboolの沖合い150mほどのところに砂州で繋がっている小島Middle Islandのフェアリー・ペンギンの話です。
 長年、1000羽ほどのフェアリー・ペンギンがいたそうですが、キツネがペンギンを餌にし始めたため、三年前にはとうとう10羽まで減ってしまい、その後、ペンギン保護プログラムを実行した結果、100羽まで戻ったそうです。このペンギン保護プログラムで活躍しているのは、地元養鶏家が鶏をキツネの被害から守るために飼っているマレンマ種の牧羊犬で、さすがのキツネも警戒して近づけませんし、8千平方米のこの島に、マレンマ犬2頭を連れ込んで臭いを残すだけでも効果があるのだそうで、今では、世界中から問い合わせが舞い込んでいるということです。
 キツネがフェアリー・ペンギンを餌にするのは、所謂食物連鎖で、自然な行動と言えますが、あのヨチヨチ、ヒョコヒョコ歩くペンギン・パレードを見た後なので、キツネには申し訳ないですが、このWarramboolのペンギン保護プログラムを支持します。
 フェアリー・ペンギンは目が弱いため、ストロボやフラッシュなどの光は厳禁で、タスマニア島Bichenoでは三脚があれば暗がりでも撮影できますが、メルボルン近郊Phillip島ではカメラやビデオの撮影そのものが禁止されています。どれだけカワイイかお見せ出来ませんので、看板の写真で我慢して下さい。

タスマニアデビル物語

2009-01-09 08:12:24 | シドニー生活
 Wikipediaによると、タスマニアデビル(tasmanian devil)は、哺乳綱フクロネコ目フクロネコ科タスマニアデビル属に分類される現生で世界最大の肉食有袋類で、現在はタスマニア島のみに生息します。かつてはオーストラリア本土にも生息していたことが化石によって判明していますが、14世紀終り頃に絶滅したとされ、それはフクロオオカミと同様に、人類がもたらしたイヌが野生化したディンゴの影響によるものと言われます。その後、タスマニア島でも、19世紀から入植を始めたヨーロッパ系住民によって、家禽や家畜を襲う害獣として、また鳴き声や死体を漁る姿が“悪魔”に例えられて忌避され、フクロオオカミと共に、駆除することが奨励されました。しかし1936年にフクロオオカミが絶滅すると、タスマニアデビルを保護する気運が高まり、1941年に保護法が成立し、1996年に発見されたデビル顔面腫瘍症(単にデビル病(デビル癌)とも呼ばれるウィルス性の病気、または癌細胞自体が伝染性の病原体の可能性もある)により、個体数が激減し、2006年には絶滅危惧種に指定されたということです。
 最近、新聞報道されたのは、この奇病により生息数が半減(一説では64%減ったとも)している上、タスマニア大学で隔離・飼育し、免疫があるとされていたオスが発症してしまったという残念なニュースでした。このままでは2020年(または2030年とも)までには絶滅するのではないかと警告する専門家もおり、オーストラリア本土の自然動物公園に送り込んで隔離・飼育する「箱舟プロジェクト」も進行中です。
 最近の別の新聞報道では、クィーンズランド州南東部で、コアラの生息数が40%も減っており、根本的な対策が必要だと報じられました。そのため州政府は、2020年までにコアラ生息地を拡大すること、コアラ生息地のマッピングに2千万ドルを投じ、今年中にマッピングが完了するまでは州所有地の処分を凍結することを発表しました。また当面、コアラ生息に適したユーカリ林の保存などの行政規制を実施するとともに、コアラがよく横断する道路に安全な設備をつくるなどの対策費1千万ドルを計上することになりました。今後、飼い犬の規制や住宅建築認可条件を厳格化することなども検討していくそうです。
 こうした記事を読んでいると、希少動物が絶滅の危機に瀕するのも、また人間が善意であるいは罪滅ぼしのようにそれを救う行為も、どちらも人間の勝手な都合のようであり、自然に逆行するように受け取られ、まったく人間が自然と共生していくのは難しいことだと感じます。動物受難という意味では、昨年は、クィーンズランド州で、コアラ、カンガルー、マグパイ、犬、山羊などさまざまな動物がサディスティックに傷つけられたり殺されたりする事件が報道されました。文化・文明をもつ人間は自然と対峙するかのような存在と語られることが多いですが、如何に人間と言えども、同じ自然の中から生まれ、自然の摂理に従うことに変わりはありません。
 昨夏のナショナルジオグラフィック誌によると、通常5~6年生きるタスマニアデビルが交尾するのは2歳以降なのに、1歳やそれ以下の雌の半数以上が繁殖を開始していることが明らかになったそうです。この奇病によって個体数が減って食料が余り、繁殖相手を獲得する争いも減ったためと説明されています。このお陰で、絶滅の時期が先送りされているとも言え、この奇病に適応するための時間稼ぎになる可能性があるとともに、将来的に、繁殖時期の前倒しは、“進化の過程で修正された”形質になる可能性があるとも述べています。また、この奇病は、もともと気性の荒いタスマニアデビルが繁殖時に互いにかみ付き合うことで広まると考えられるため、今後も種として生き延びる場合には、余りかみ付かない温厚な個体が増えていく可能性があるとも述べています。
 生きることの可能性をちょっと垣間見させてくれる記事です。学術的で分りやすい議論で、机上の空論にならなければよいがと、切に思います。要領が悪い殺し屋と形容され、腐肉を食べるタスマニアデビルですが、動物に罪はありません。頑張れ、タスマニアデビル!
 上の写真は、タスマニア州RichmondにあるZoo Doo Wildlife Parkで撮ったもの。

魔女の宅急便・再び

2009-01-07 23:16:20 | シドニー生活
 クリスマスから新年にかけての休暇は、期せずして「魔女の宅急便」のモデルになったと言われる街を訪れる旅になりました。私自身、オーストラリアでの経験が限られているので、他にもモデルになった街がある可能性は否定できませんが、これがそうだと言われれば、なるほどと合点がいくことが多かったのは事実で、繰り返しになる部分もありますが、とりあえず思いつきで総括してみます。
 メルボルン、ホバート、どちらも古い港町です。山が近いという点では、基本的にホバートが舞台のようですが、街中のイメージは、路面電車などメルボルンからヒントを得ている部分も多分にありそうです。時計台はメルボルンのフリンダース・ストリート駅がモデルだと言われていますが、ホバートの街の郵便局にも似たような素敵な時計台があり、どれか一つではなく、そのいずれもがヒントになっているのでしょう(著作権の問題もありますから、その方が自然です)。一方、ロスの街は寂し過ぎて、映画との繋がりは乏しそうで、パン屋とかパンを焼く窯のイメージを貰っただけかも知れません。
 しかしモデル探しが目的の旅ではなく、強いて言えばあの映画に出てくるような街を訪れたかったという思いはあり、そういう意味では納得のいく旅になりました。映画のストーリー自体は、新しい街で、人との出会いや様々な事件を重ねるたびに、主人公とその街との関係性が深まり、街に溶け込んでいくというオーソドックスな流れですが、「トトロ」にしても「魔女の宅急便」にしても、描かれている村や街が素敵で魅かれますね。
 上の写真は、メルボルンのフリンダース・ストリート駅。

タスマニア紀行(下)落穂拾い

2009-01-06 20:28:22 | シドニー生活
 初日の夜は、RossではなくBichenoに宿泊したかったのですが、白い砂浜が美しく、オレンジの岩肌が映え、今の季節はペンギン・パレードもあるBichenoは、それなりに人気のスポットであるにも関わらず、それほど宿泊施設が多くないため、適当な宿が予約出来ずに諦めたのでした。
 三日目は(三日目と言わず、いずれの日でも)、世界遺産として有名なCradle Mountainを訪れたかったのですが、折からの悪天候と、Hobartから片道5時間のドライブだと言われて挫けてしまい(北の端LauncestonまたはDevonportからアクセスするのが常道らしい)、Hobartから西南方面の郊外Huon Valleyの先にあるHastings鍾乳洞でお茶を濁しました。ここですら片道2時間のドライブで、朝のんびりしていると一日コースになってしまいますが、オーストラリア有数の鍾乳洞と言われるだけあって、なかなかに見応えがあり、温泉も出るので、旅の疲れを癒すことも出来そうです。
 といった次第で、前回のメルボルン旅行は余り考えることなく(と言うことは、メルボルン発着でぐるりと一周するだけの単純な行程のため)スムーズに事が運んだのに対して、今回のタスマニア旅行はやや悔いが残る旅となりました。失敗の原因は、北(Launceston)からアクセスすべき観光名所と、南(Hobart)からアクセスすべき観光名所をよく見極めない内に、往復フライトはHobart発着、宿泊は三泊の内の二泊をHobartに、決めうちで予約してしまったことでしょう。タスマニア=Hobart空港と思い込んで、Launcestonにも空港があることに気がつかなかったのです。もし今回の旅をやり直すとすれば(あるいはツアコンとしてアドバイスするならば)、朝一番で島の南Hobartに降り立って、Port Arthurなどを訪れながらHobartに一泊、二日目はRichmondに立ち寄りながら東海岸を北上してBichenoで一泊、三日目はRossに立ち寄りながらCradle Mountainまで行って一泊、四日目の夕方Launceston空港を発つ形にすることでしょう(Sydney-Launceston間のフライトは、夕方から夜にかけての一往復しかないため)。
 タスマニアは、日本の北海道とほぼ同じ大きさで、緯度は札幌のちょうど対極、南緯42.5度付近にあります。今回、訪れたのは真夏でしたが、天気が崩れると長袖のトレーナーやジャンパーが必要なほど冷え込みます。オーストラリア本土(と呼ぶのかな?)で見かける動物に注意!の道路標識は滅多に見かけないほど、当たり前のように動物の死骸が道路に転がっていて、イメージ通り、自然に恵まれているだけでなく、州の三分の一は国立公園と言われるほど景観が素晴らしい。ただ、Rossへの道すがら、あるいは東海岸を走っていると、ここはカリフォルニアかと見紛うほどに、はげ山(雑草地帯)が続き、やせた土地なのかと訝りましたが、恐らく、島の西側に広がる世界遺産のCradle MountainやFranklinの山岳地帯に雨を降らせて、東側では相対的に晴れることが多いせいかも知れません。近年は工業の衰退著しく、熟練労働者はシドニーやメルボルンに逃げているようで、今や最大の雇用者は政府部門だそうです。まさに観光立地ですが、これだけの財産があれば観光で十分にやって行けることでしょう。世界遺産はいわばユネスコのお墨付き。いつかまた訪れたい街、それくらいの未練が残る方が、幸せな旅行と言えるのかも知れません。
 上の写真はHobartの街です。この写真では分かりにくいですが、海のすぐそばまで山が迫っていて、その丘陵地帯には瀟洒な住宅街が広がり、キキの気持ちがよく分ります。「魔女の宅急便」でキキが降り立つ街のイメージを見たいのであれば、この写真で言うともっと右奥に位置するMount Nelsonから一望するのが良さそうです。

タスマニア紀行(中)HobartそしてRichmond

2009-01-05 22:07:15 | シドニー生活
 二日目は、RossからCampbell Town、St. Marysを抜けて、東海岸のBichenoに立ち寄り、海沿いをHobartまで戻ってきました。Hobartは、タスマニア州の人口50万人の内、この界隈(Greater Hobart)だけで4割の20万人を擁する州都で、RossやBichenoに立ち寄った後では大都会だと感じます。1803年にシドニーから最初の植民が行なわれたという意味で、シドニーに次いでオーストラリアで二番目に古い街であり、ダーウィンも訪れた街、近代的な建物に交じって、古い時代(19世紀)の建物が残り、随所に当時の雰囲気を伝えます。
 港の周りに、恐らく観光客向けのシーフード・レストランが集まり、この日の夜は寿司屋(Orizuru)を見つけて、ついふらふらっと誘われるように入ってしまいました(毎度シーフードの揚げ物やフレンチフライやサンドイッチでは胃が疲れます)。レジのある壁には、日本競泳チームのサインが入ったTシャツが飾られていて、聞くところによると、シドニー・オリンピック前の調整をHobartで行ない、この店を二度、訪れたのだそうです。競泳チームだけでなく、日本の遠洋漁業のマグロ漁船の船員さん達も必ず立ち寄るオーストラリア最南端の寿司バーだそうです。やはり(私だけでなく)日本人にはお米がパワーの源なのですね。北島康介選手は当時まだ17歳の高校生で、シドニー・オリンピック100M平泳ぎでは日本新記録を出しながら4位、200M平泳ぎでは17位でした。サインも、山田沙知子選手や中西悠子選手の隣で控えめです。北島康介選手はじめ日本水泳チームが躍進するのは、その次のアテネ・オリンピックでした。翌日の夜は、恐らく地元の人たちが集うElizabeth通り沿い(港からは離れたFederal StからBurnett Stの辺り)のレストラン街の中から、カジュアルなイタリアン・レストランを見つけて入りました(名前は失念)。フレンドリーで、値段もリーズナブルで、大満足でした。
 最終日は、Hobart近郊(約25Km)のRichmondという古くて小さな街を訪れました。HobartとPort Arthurを結ぶ田舎町で、かつては囚人を移送する中継点として栄え、現在のA3/A9号線が出来てからは廃れて行ったようです。しかし、自然の中に19世紀の可愛らしい建物が多く残り、アンティーク・ショップやカフェがあって、今では多くの観光客が訪れます。お決まりのRichmond橋(囚人の手による1823年建造は、実際に使われている石橋としてオーストラリア最古だそうです)を見たあと、Zoo Doo Wildlife Parkで遊びました。
 ここは、その名の通り動物園と言うよりは公園か牧場みたいなところで、トラやライオンや猿はもとより、タスマニアデビルやコアラやウォンバットなどの地元の動物たちも隔離された檻の中に見ることが出来ますが、ここでは何と言ってもワラビーや鹿が放し飼いにされ、直接、触れ合えるのが子供たちには嬉しいようです。特に白いワラビーがいることでも知られます。またサファリ・バス・ツアーでは、エミューやラクダが餌をつつきに顔(嘴)を突っ込んでくるのが、驚きでもあり、楽しくもあります。
 上の写真は、Richmond橋。

タスマニア紀行(上)Ross

2009-01-05 01:00:24 | シドニー生活
 元旦から三泊四日でタスマニアに行って来ました。先週に引き続き遊び呆けていますが、異国でそれぞれに頑張る家族へのご褒美ということで大目に見ます。タスマニアと言えばタスマニア物語という映画があったように記憶しますが(観たことはありませんが)、自然豊かな最果ての地のイメージがあり、興味津々でした。今回も現地でレンタカーを借りて、タスマニアの風を感じるのが目的です。
 朝一番のフライトでタスマニア・Hobartに降り立ち、先ずはPort Arthurに向かいました。空港から南へ車で小1時間、1830年に入植以来、大英帝国からの囚人移送が1853年に途切れてからも、タスマニアの地を象徴するような監獄が1877年まで運営され、今でも街の中心に当時の面影を伝えます。などと見たようなことを言っていますが、ガイドブックを翻訳しただけです。聞くところによると、もはや住民はいなくて、一種のテーマパークとして、唯一の出入り口でコントロールされていて、街に入るのに一家族あたり最低60数豪ドル支払わなければなりません(さしずめ景観保存料といったところ)。私たちは単に監獄でも見ながら昼食を(と言うと趣味がよろしくありませんが)取るくらいのつもりでいたので、諦めてそのまま引き返したのでした。
 折角ここまで来たのに、という思いはやまやまですが、これでは街としては死んでいて冷凍保存しているようなもの、それ自体は否定しませんが(むしろ元・住民の総意であれば、尊重すべきこと)、私の期待・・・ローマのように、街自体が動態保存された博物館のように、外観は昔のままに内装を変えながら住みなして、今でも生きている街を期待していたのです。当然、古いものは朽ち果てます。でもそれを受け入れつつ、歴史が綿々と続いている、あるいは生活が息づいている街を期待していたのです。もっとも、そんなことは現代の便利な文明社会に生きる私のような都会人の身勝手な言い草であって、住んでいる人たちにとってみれば、生活問題そのものであり、いざ生きたまま保存しようとすれば、不自由に耐えつつ、現実問題として手間・暇・金がかかって難しいであろうことは想像がつきます。
 さて見晴らしの良い海岸で昼食を取ったあと、Hobartに戻り、更に島の中央の東寄りを南北に走る1号線をHobartから北に向かって約1時間半走ると、Rossという古い小さな街に着きます。どれくらい小さいかと言うと、200mくらいの目抜き通り一本だけで、そこに唯一の雑貨屋兼ガソリンスタンド(ATMあり)、郵便局、パン屋2軒、ホテル1軒、B&B数軒が集まっているだけのことです。既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、とても「魔女の宅急便」の舞台とはなり得ず、単にパン屋のイメージとか、パンを焼く窯のイメージを部分的に貰っただけのことなのでしょう。
 ディナーは一軒だけあるホテルで取らざるを得ないし、私たちが泊まったB&B(「魔女の宅急便」にヒントを与えたと言われるパン屋Ross Village Bakeryが経営する内の一つ)では濾過した水のタンクが置いてあって、水道水は飲まないようにと注意書きがあります。そう、この街も、もはや生活する街としては瀕死の状態で、実際に生活している人は多くなさそうです。でも、繰り返しになりますが、こうした古びた街や家並みを有難がるのは私たち都会人の身勝手であり、仮に生きた街として機能していなくても、そこに観光地として商圏が成立するわけです。住民としては、住みなれたその土地で多少不自由しながらも生活し続け、観光地として共存するのか、それとも住み慣れた街を捨てて、街を冷凍保存する道を選ぶのか。そんなことをつらつら思いながら、博物館のような建物のB&Bの一夜を過ごしたのでした。
 実際にRossの街は滞在すると言うよりも、タスマニアの中央に位置する利便性から、南の端Hobartと北の端Launcestonとの間を行き来する際の、あるいは東海岸に出る際の休憩場所として立ち寄られることが多いようです。日本人旅行者は年間1000人にのぼるとRoss Village Bakeryのガイドには書かれていますが(この日も我が家の4人のほかに若者3人組が宿泊していました)、日本人以外の観光客が圧倒的に多く、パン屋にはひっきりなしに客が訪れていました。Richmond橋と並んで有名なRoss橋を設計した、囚人でもあった彫刻家は、出来栄えの素晴らしさに女王から恩赦を与えられたと言われていて、細かい彫刻の装飾を施されたこの橋は一見の価値があります。

新年に向けて

2008-12-31 21:04:59 | シドニー生活
 31日には、恒例のハーバー・ブリッジNYE(ニュー・イヤー・イブ)花火大会が行なわれました。9時からはファミリー向けに、深夜カウントダウン後は豪華版が文字通り華々しく打ち上げられました。オペラ・ハウス、ハーバー・ブリッジ、ダーリン・ハーバー、更に北岸のミルソンズ・ポイントやタロンガ動物園界隈まで、朝から物凄い人出だというニュースが流れていました。シドニー・ハーバー周辺で推定150万人、花火の量は5トンと言われます。我が家も出掛けたかったのですが、明日朝が早いため、おとなしく自宅で観賞しました。上の写真は、ちょっと寂しいですが、自宅バルコニーから撮ったもの。手前の白く光る家の上にハーバーブリッジが微かに見えます。
 2008年最後のブログは辛口ではなく前向きに、この花火とともに、新らしい年は、人・地域・国それぞれに幸多かれとエールを贈ります。

年の瀬

2008-12-31 07:55:18 | シドニー生活
 昨日、残務処理のため半日だけ出勤しました。いつもは30分かかる通勤路は、交通量が十分の一で、殆どブレーキを踏むことなく、ものの15分で到着しました。近所のレストランでも、クリスマスあたりから二週間、場合によっては三週間以上も閉店するところが見られます。もともとオーストラリアは国民の祝日が少ないため、独自に休暇を(長く)取る傾向にありますが、こうしたところにもヨーロッパの文化が生きているように思います。
 真夏の年越しは、常夏のペナンで三度、今年のシドニーを含めると4度目になります。いつの間にやら季節感のなさ、あるいはミスマッチに慣れてしまいましたが、やはりコタツで過ごす年越しが懐かしい。
 日本の今年一年を象徴する漢字は「変」でした。漢字文化圏では、似たような発想をするのか真似するのか、台湾における一字は「乱」で、韓国における四字熟語は「護疾忌医」だったそうです。韓国の場合には所謂識者アンケートで選んだもので、病気にかかっても医者に行かない、問題や間違いにも周囲の忠告を聞かない意で、体制批判的な表現になっていますが、結局、世の中で起こったことが「変」であり「乱」であったことを暗示することに変わりありません。問題は起こるもの、その対応を誤るとすれば人災と言えます。しかし如何に政治と言えども、私たちが選択したものであり、私たち一人ひとりの危機意識や危機対処能力を反映したもの、つまり民度を映す鑑と考えるべきです。その意味で、政治を批判するのは天に唾するようなもの、つまるところ自己批判となりかねないことを弁えた方がよい。
 最近のNHKニュースを見ていると、派遣切りなる新語が出てきて、解雇される派遣労働者を守るキャンペーンでも張っているかのようです。もともと派遣労働者とは雇用が安定しないもの、もし企業が契約に則って行動していないのであれば追及すべきですが、そういう話は聞きません。それだけ派遣労働者の比重が増え、社会に与えるインパクトが大きくなった証拠だろうと好意的に解釈し、社会としてこうした人たちを守る動きは歓迎しますが、当の本人たちに被害者意識が強く依存心が高まっているのではないかと気になります。この最後の言葉は、派遣労働者だけに限ったものではありません。私たち一人ひとりがネガティブな意識をポジティブな行動に転換しない限り、地盤沈下する今の日本の状況は変わりそうにありません(これはまさに自戒するところ)。そんなことをつらつら考える、今日は大晦日。シドニーでは、抜けるような青空が広がっています。ちょっと身辺の掃除をして、心身ともにすす払いすることにします。

メルボルン紀行(下)落穂拾い

2008-12-29 20:10:00 | シドニー生活
 最後の日は、朝、散歩がてらフリンダース・ストリート駅まで歩いて(昨日の写真の通り)、カフェで朝食を取り(とカッコ良く言いたいところですが、実際に立ち寄ったのは子供が好きなマクドナルド)、ホテルをチェック・アウトした後はメルボルン・ミュージアムに行きました(これも子供のリクエスト)。そこの駐車場代が終日10豪ドルなので、そこを拠点に、州会議事堂やその裏手の聖パトリック大聖堂まで散歩したり、中華街で昼食を取ったりしました。この州会議事堂は、1856年建造のコリント様式で、1927年に首都がキャンベラに移るまで連邦議事堂として使用された由緒ある建物です。聖パトリック大聖堂の方はゴシック様式で、1858年から80年以上かけて1940年に完成し、内部のステンドグラスが素晴らしいことで知られますが、この日は大事な行事が入っていて(恐らく著名人のお葬式)、残念ながら拝観できませんでした。
 今回の旅行では、海岸通りを走ること、フリンダース・ストリート駅(「魔女の宅急便」!)を見ることの二つが主目的でしたが、もう一つ、カンガルーやコアラに注意!の道路標識の写真を撮ることも隠れた目的の一つとしていました。以前のキャンベラ紀行では果たせなかったその目的を果たすとともに、実際にいろいろな野生の動物たちに出会えたことも大きな収穫でした。
 初日の夜に泊まったのは、Apollo Bayそばの高原にある山荘でしたが、翌朝、コアラが20mほど先の藪の中に駆け込むのを偶然見つけました。カンガルーはまたしても道路傍に転がっている不幸な姿を見ただけでしたが、ペンギン・パレードのツアーでは、時間潰しに海沿いの高原の道をゆっくり走ってくれて、野生のワラビーを見ることが出来ました。そして、ペンギンはどこの動物園でも水族館でも見ることが出来ますが、野生のペンギンだけは南半球でしか見ることが出来ません。
 家族旅行を企画する者として何が嬉しいかと言うと、子供が喜んでくれるのが何よりも嬉しい。顧客満足度ならぬ子供満足度で、結局、その旅行が成功したかどうかが測られます。勿論、知らない土地を旅することは私自身も大好きで、自分の興味の対象もあり、それが子供の興味と一致するとすれば幸運なことですが、到底そこまでは期待できません。そういう意味で、今回の旅行は、子供を楽しませながら自らも楽しむことが出来た珍しいケースと言えます。その鍵となった最大の共通項は、恐らくどこの親子も同じだと思いますが、自然でした。オーストラリアの雄大な、神聖とも言える自然に抱かれ、その懐に触れて、その厳しさと暖かさを体感し得たことは、とても幸せなことでした。オーストラリアという国の豊かさを再び実感した旅となりました。

メルボルン紀行(中)Penguin Parade

2008-12-28 21:40:15 | シドニー生活
 さて、二日間かけてWarrnamboolまで行き、三日目に内陸の高速道路を突っ切ってメルボルンまで戻ってきた私たちは、休む間もなく、その夕方、メルボルンから南に車で約1時間半のところにあるフィリップ島まで、野生のペンギンを見るツアーに参加しました。
 今回、フライトだけは早めにJet Starを押さえて、余裕綽々だった私は、世の子供たちがSchool Holidayに入ったクリスマス休暇を甘く見ていたようで、ホテル予約ではすっかり出遅れてしまい、目ぼしいホテルは完売で、仕方なくStamford Plazaという、値段だけは高くて豪華だけれどこれと言って特徴のないシティ・ホテルに泊まることにしました。さすがにこういったホテルは日本人観光客が多いらしく、ロビーの一角にJTB提携のツアー・デスクがあり、日本語が話せるスタッフが常駐していて、日本語のペンギン・ツアーは売り切れていましたが、現地のツアーを予約してくれたのでした。
 夕方5時半、バスが出発するやいなや、いきなり飲・食料品の持込み禁止、写真・ビデオ撮影も禁止などとうるさいことを言われます。大人120豪ドル、子供60豪ドル、家族4人で360豪ドルもかけているのですから、俄然、見る目は厳しくなります。現地の食堂で高い夕食代まで払って、すっかりツアー側の思う壺の私たちには、既に海岸ベリの座席は埋まってしまって立見席しか残されておらず、半ば自棄気味に待っていたのですが、ペンギン・パレードが始まると、厳しい目はどこへやら、いつのまにかメロメロで、すっかりペンギンたちのとりこになっていました。
 人間の観客席は、あたり一面にペンギンの巣がある丘の中を細い一本道で通り抜けて、浜辺までせり出している形ですが、勿論、野生のペンギンですから、パレードと呼ばれても、そうすんなりと行進してくれるわけではありません。夜9時過ぎ、あたりが夕闇に包まれ始めた頃、ようやく第一陣の八羽が海からあがりました。毎日のこととは言え、約100人、200の瞳が闇夜に目を凝らしているわけですから、ペンギンたちも警戒してなかなか動き出す気配がありません。一同、何やら対策を協議しているようにも見えます。その内、意を決して、一斉に動き始めました。えっちらほっちら、人の視線を気にするかのように、ネグラを目指して、小走りに進みます。その成功を見届けたわけでもない第二陣が海からあがると、またしても全員で何やら協議しているかのように、立ち止まり、また海に戻ったりと、警戒しているのが見えます。その内、意を決して、ネグラを目指して一斉に歩み始めます。時折、立ち止まってじっと硬直したように見えるのは、実はフンをしているだけだったりする、とってもお茶目なペンギンたちです。海の中は冷えたのでしょうか。観客席で座って遠目に見るよりも、沿道に立って間近に見るペンギンたちが、とてもかわいい。10時出発までの小一時間は、人間の方が気を遣ってひそひそ声で、ペンギンたちがネグラを争っていがみ合う声が響く中、灯明の横をひょこひょこ通り過ぎるペンギンたちの姿は、幻想的ですらあり感動的でした。
 なおこのツアーには20豪ドル程の差の二種類の料金設定がありますが、高い料金の方がペンギンたちの通り道に近く、断然、お得です。一方、日本語ツアーの方は、恐らく、シティのST. Kildaの桟橋近くの石垣に棲んでいるペンギンたちを、海の上からボートで見るのだろうと思われます。いずれも世界最小、体長30センチほどのフェアリー・ペンギンで、フィリップ島には1万5千羽が棲んでいると言われます。
 残念ながら可愛いペンギンたちの姿を写真で披露することは出来ませんが、今回の旅行で、もう一つの目玉だったフリンダース・ストリート駅の時計台(例の「魔女の宅急便」に登場した時計台のモデルと言われるもの)の写真を添付します。

メルボルン紀行(上)The Great Ocean Road

2008-12-28 01:02:38 | シドニー生活
 オーストラリアは、25日(クリスマス)に続き26日(Boxing Day)も祝日で4連休だったので、School Holidayで退屈している子供たちを連れてメルボルンに行ってきました。一足早く24日も休暇にして、三泊四日で、今日、帰宅したところです。本稿タイトルはメルボルンですが、メルボルン市街に滞在したのは丸一日だけで、残り三日間は、レンタカーを借りて郊外の海岸沿いのドライブを楽しみました。
 メルボルンの西南Torquayから更に西のWarrnamboolまでの約300Kmにわたる海岸沿いの道はThe Great Ocean Roadと呼ばれ、所謂12使徒をはじめとする奇岩群や、日本人にはちょっと珍しい美しい断崖絶壁や、日本人には懐かしい美しい砂浜が続き、景勝の地として有名です。波が荒いため、Torquayなどサーフィンのメッカになるとともに、激しい波が描く模様が奇岩群を写す写真に彩を添えます。西の果てWarrnamboolは鯨の街としても有名で、その途中にはOtway国立公園の自然が残り、カンガルーやコアラや色とりどりのオウムなど野生の動物の宝庫になっています。
 私たちは子連れの旅のため、途中Apollo Bayで宿をとり、Warrnamboolまで丸二日かけましたが、大人だけなら一日で十分走れる距離ですし、メルボルンのダウンタウンから昼出発して夕焼けの12使徒を見て真夜中に再びメルボルンに戻る半日ツアーもあるようです。
 インターネットで調べると、このThe Great Ocean RoadはカリフォルニアのRoute 1にも比すべき美しさだと評する声もあり、ちょっと期待していたら、大いに期待を上回る素晴らしさでした。ご存知の方も多いと思いますが、アメリカなどはプライベート・ビーチが多いため、海岸沿いの道を探そうにもなかなか見つかりません。そうした中で、Montereyから南のロサンゼルスに向かうRoute 1は、Big Surと呼ばれる美しい海岸を走り抜け(マラソン大会も開かれ、アップ・ダウンが多い難所です)、途中にはアザラシが生息する自然も満喫できて、私のアメリカ滞在中、最も思い出に残るドライブの一つでした。このThe Great Ocean Roadも、世界で最も美しいドライブを楽しめる海岸道路の一つであることは間違いありません。いつもなら滅多なことでは興味を示さず、キャンベラ旅行で何が楽しかったかって(キャンベラは子供には退屈な街ですが)砂浜で砂遊びしたのが一番楽しかったと答えた下の娘が、12使徒の奇岩群を見て、あっと感動の目を見開いたほどです。ご覧の通り、日々、侵食が続いていて、上の写真の手前にさも崩れたあとの残骸らしきものが見えますが、買った写真集を見ると、確かに2005年に大きな柱が崩壊したのだそうで、あと数年、数十年すれば、また表情を変えているかも知れません。
 好天にも恵まれ、日焼け止めで武装していた子供たちはケロッとしていますが、Scenic Outlookで車を止めて、ちょっとした散歩をした程度のはずが、私のオデコはすっかり日焼けしてしまいました。それだけオーストラリアの紫外線は聞きしに勝る強さだということでしょう。くれぐれもお気をつけ下さい。

「魔女の宅急便」

2008-12-23 20:48:06 | シドニー生活
 映画ネタが続きます。今回は、オーストラリアにおける映画そのものではなく、オーストラリアが日本のアニメに材料(風景)を提供しているという話です。
 アメリカの映画・娯楽産業は世界を席捲していますが、その中で唯一頑張っているのが、麻生総理お気に入りの日本のアニメではないでしょうか(もっともアメリカ中心をグローバル・スタンダードと思い込んで、ヨーロッパ圏の文化に触れていないだけのことかも知れませんが)。アメリカにも「スーパーマン」や「スパイダーマン」はじめコミックがありましたが、アニメとなると、ディズニーですらかつての勢いはありません。これを以って、アメリカにおいては、コミックやアニメすら初めから商品の如く不特定多数の流れ作業で生産されたからだと評した人がいましたが、制作形態はともかくとして、そこに商品としてのコミックなりアニメの個性(商品力)を守り続ける意志が弱かったのは事実かも知れません。それに引き換え日本では、サザエさんにしても、ドラえもんやクレヨンしんちゃんにしても、もはや一人の作者の枠を越えて、一種の公共財としてプロダクション(グループ)によって制作され、最近は中国や韓国に下請けに出しているものも見かけますが、日本の場合には、あくまで特定の作者名が(原作者としてであれ)冠せられ、依然、その個性が脈々と受け継がれていて、その作者の作品であり続けていると言ってもよい状態にある点が異なると思われます。もっともアメリカでも、コミック・アニメの世界はCGに置き換えられ、ピクサーという個性が現れました。
 前置きが長くなりました。タイトルに挙げた「魔女の宅急便」は、誰もが知るスタジオ・ジブリ(宮崎駿さん)の作品ですが、この映画のシーンにはオーストラリアの街がいろいろ使われているそうです。
 初めて「魔女の宅急便」を見た時、ストーリーよりも先に、素敵な街だけれども、宮崎駿さんの頭の中の理想の街なのだろうか、それとも世界のどこかにモデルとなった街があるのだろうかと、ずっと気になっていました。どうやら映画の舞台となっているキリコの街の時計台は、メルボルンのフリンダース駅がモデルのようで、主人公キキが下宿したパン屋のモデルはタスマニア州の中ほどの小さな田舎町ロスにあり、キキが街に降りる時の風景はタスマニア州の州都ホバートの街並みで、キキが乗った電車は、シドニー~パースや、メルボルン~アデレード~ダーウィンと、オーストラリア大陸を縦横に走るインディアン・パシフィック号がモデルなのだそうです。
 「となりのトトロ」には日本の原風景が広がっていて、懐かしい思いをした人が多かったと思いますが、「魔女の宅急便」に風景を提供するオーストラリアの街並みもまた、その素晴らしさを実感します。

オーストラリアの映画

2008-12-22 23:49:54 | シドニー生活
 映画の話が出たついでに、オーストラリアの映画全般について。
 オーストラリアの映画産業は、他の英語圏と同じで、アメリカとの競争に晒され、むしろアメリカを中心とする映画文化に呑み込まれているのが現状だろうと思います。朝のニュース番組で、ハリウッド・ゴシップというコーナーがあるのは、以前、本稿でも触れた通りですが、才能ある監督や俳優はおよそハリウッドに吸い寄せられますし、鑑賞する我々もハリウッドを向いています。
 オーストラリアでハリウッド映画制作が行なわれているのも事実で、これを支えているのが、シドニー近郊で映画関係の人材育成を行なってきた国立演劇芸術学校(NIDA)と、98年にメディア王マードック氏がシドニーに開設した「フォックス・スタジオ」の存在です。「ムーラン・ルージュ」はバズ・ラーマン監督はじめ、脚本家や衣装デザイナーや俳優の多くがNIDA出身だったそうですし、オーストラリアを代表する映画俳優メル・ギブソンもその出身です。また、「マッド・マックス」シリーズや「クロコダイル・ダンディーⅠ&Ⅱ」、「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃」、「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」など世界的ヒット作品がオーストラリアで制作されました。
 しかしこれもハリウッドを中心に地球が回っていることの証左にほかならず、オーストラリアは相対的に人材が豊富な割りに人件費などのコストが安いという特殊事情に依るものでしょう。オーストラリアのスターと言えば、さきのメル・ギブソンのほかジュディ・デイビスがいますが、この二人に続くのはニコール・キッドマンくらいでしょうか。1996年に「シャイン」でオーストラリア人初のオスカー(アカデミー主演男優賞)に輝いたジェフリー・ラッシュ、続いて2000年に「グラディエーター」でアカデミー賞主演男優賞を獲得したラッセル・クロウがいるようですが、私はほとんど知りませんでした。ハリウッドのしがらみから抜け出すのは簡単ではなさそうです。