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シドニーの風

シドニー駐在サラリーマンの生活日記です。
心に映るよしなしごとをそこはかとなく書き綴ります…祖国への思いを風に載せて。

アンザック・デーに思う

2009-04-28 01:17:49 | シドニー生活
 週末の土曜日(4月25日)はアンザック・デー(ANZAC Day)でした。
 第一次世界大戦において、オーストラリア・ニュージーランド軍を中心とする遠征隊(ANZAC=Australia and New Zealand Army Corps)が、ガリポリ半島に展開するトルコ軍戦線を突破するため、半島南端に上陸した日(1915年4月25日)に因むもので、もとはこのガリポリの戦いで勇敢に戦って散った兵と、当時、国のために尽くした人々を追悼するものでしたが、今では、戦争で亡くなった全てのオーストラリア人を追悼する日になっています。
 当日は朝9時から、延々、6時間もの時間をかけて、退役軍人や遺族の方々のパレードがシティのど真ん中で行われます。連隊、中隊、飛行隊などごとに分かれ、それぞれどこで戦ったと刺繍を入れた軍旗を掲げ、楽隊を従えつつ、多くの人々が人垣をつくり拍手で見守る中を、行進します。また、かつての武勲のメダルをいくつも胸につけた老人が、街のそこかしこに見られ、誇らしげです。
 以上は、昨年のアンザック・デーの日、ペナンから出張で滞在していたホテルがパレードにぐるりと取り囲まれた中で書いたブログの再録(抜粋)です。今年はパレードを見に行かず、買物に出掛けた不届きモノの家族ですが、その不届きモノ振りを嘲笑うかのように、近所のショッピング・モールもスーパーマーケットもレストランもシャッターが降りたままの半休で、どうやらアンザック・デーは、クリスマスやイースターに次ぐ重要な祝日であるようでした。
 これは、歴史浅いこの国の建国伝説の一つなのだろうと思いました。
 例えば先のガリポリの戦いでは、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド各軍併せて実に3万3千人以上の戦死者を出したと言われ、作戦としては失敗しましたが、この悲劇によって、まだ独立後間もないオーストラリアは愛国心を高揚させ、一つの国民国家としてのアイデンティティを形成する重要なエポックとなったそうです。戦争とは多かれ少なかれ国として纏まるきっかけを与えるもので、オーストラリアにとっても重要な意味合いをもつものだったと言えます。
 オーストラリアをはじめとして、およそ旧・連合国側に属する国々にとって、第二次世界大戦は旧・枢軸国の全体主義に対する自由を防衛する戦いという大義名分があったことでしょう。またノーブレス・オブリージェという騎士道精神もあり、戦争への取り組みと戦争を戦った人たちへの敬意には並々ならぬものがあります。それに引き換え日本では、残念ながら当時の事情は霞んでしまって、戦後の教育とマスコミの論調は、基本的に東京裁判史観に則ったものとなり、戦争そのものへの拒絶反応を誘発しているのはご存知のとおりです。田母神氏の論点は、いまだにその呪縛から逃れられない苛立ちに起因すると思われますが、日本の社会はまだその状況を克服できていません。
 戦前と戦後で日本の社会が如何に変わってしまったかを、ある事件に即して考えてみたいと思います。
 1970年代初頭は、日本にはもはや革命が起こり得ないほど豊かな社会が現出していることが誰の目にも(ごく一部とは言え全共闘の目にも)明らかになった、一種騒然とした時代でしたが、終戦を知らずに戦争状態にあった旧・軍人が相次いで発見され、タイムカプセルを覗くかのように、あらためて日本という国に戦争があったことを再認識させられた時代でもありました。1972年2月に横井庄一さん(歩兵第38連隊伍長)が28年振りにグアム島から帰還され、1974年3月に小野田寛郎さん(比島軍指令部参謀部付杉兵団参謀部少尉)が30年振りにフィリピン・ルバング島から帰還されました。しかしこの30年近い月日におけるお二人の境遇はやや対照的で、その後の日本での生活に影響を与えることになります。横井さんは、戦争色が相対的に薄く、子供心に興味が掻き立てられるほどに、グァム島でのサバイバル生活が喧伝され、その分、戦後の日本にも比較的スムーズに適応されたようですが、小野田さんは、30年間、常に戦闘状態にあったという、子供心にも価値判断は保留しなければと思うほどの迫力で、戦後日本人の理解を遥かに超える軍人精神と行動力が伝えられ、戦後の日本社会とのギャップが大き過ぎたためか、その半年後には逃れるように次兄を頼ってブラジルに移住されたのでした。
 小野田さんを戦前の軍人の典型と見るべきかどうかは議論があるでしょうが、一つの典型であることには間違いないでしょう。その小野田さんは、30年振りに日本に降り立った羽田空港での記者会見で、人生の最も貴重な時期である30年間をジャングルの中で過ごしたことについて問われた時、質問者を凝視し、暫く考えた後、若い、勢い盛んな時に大事な仕事を全身でやったことを幸福に思うと答えられました。私も(私だけでなく誰もが)その場にいたら、同じ問いかけをしたことでしょう。そして小野田さんの答えを聞いて、なんと馬鹿な問いかけをしたものかと思い直したことでしょう。
 戦後の自由で豊かな社会を知らない可哀相な軍人だと思ったとしたら、これほど愚かなことはありません。そんな戦後の日本人の驕りははかない夢であるかのようにいとも簡単に撃退されました。もとより戦前の全体主義的・軍国主義的な規律と不自由さを懐かしむ気持ちなど毛頭ありません。自由でより豊かな生活を求める傾向は、人類の歴史に潤いを与え、絢爛たる文化の華を咲かせるものとして積極的に評価されるべきものでしょう。一方で、戦後の豊かな生活と引き換えに失ったものもあることを思わずにはいられませんでした。それはもう一つのエピソードからも知れます。
 広島の平和記念公園にある原爆犠牲者の慰霊碑に刻まれた言葉、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」を見て、小野田さんは先ずアメリカ人が書いたものではないかと疑問を持たれたそうです。それを日本人自らが書いたものだと知らされると、次には裏の意味があるのではないかと勘繰られたそうです。負けるような戦争は二度としないというような。
 あの記者会見で突きつけられた、私たち現代の日本人が失ったものは、日本人としての誇りではなかったかと思います。日本の歴史は日本人の存在理由そのものでありながら、戦後の日本人は自らの歴史を否定するという屈辱を受け入れ(万世一系の皇室の維持によって辛うじてアイデンティティを維持しながら)、経済的繁栄に邁進して来たのではなかったか。私たちの姿を、小野田さんという一種の戦前の化石のような鏡に映してみて、ふとそう思います。そしてまたオーストラリアのアンザック・デーだけでなく、アメリカのメモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)やベテランズ・デー(退役(復員)軍人の日)を目にするたびに、屈折した日本人とは裏腹に、無邪気な西欧人の心性を半ば羨ましくも思います。

フレンチ・フライ

2009-04-26 22:21:46 | シドニー生活
 オーストラリアにいるとアメリカ英語が通じないことが時々ありますが、先日、マクドナルドでフライド・ポテトを「フレンチ・フライズ」と呼んで全く理解して貰えなかったのもその事例の一つです。昨日、一昨日と触れてきたように、イギリス英語では「フレンチ」を冠することを好まないようです。オーストラリア(イギリス英語)では単に「フライズ」または「チップス」と呼ぶのだと子供たちに教えられました。
 アメリカで「フレンチ」を冠するのは、アメリカにフライドポテトを持ち込んだベルギー移民がフランス語を話していたことによる誤解があったようです。イラク戦争の時は、フランスがアメリカに批判的だったことから、一部で、「フレンチ・フライ」と呼ばずに「フリーダム・フライ」と呼び変えていたことがありました。今はまた「フレンチ・フライ」と呼んでいるのでしょうか。

ビーフとポーク

2009-04-25 20:26:21 | シドニー生活
 昨日触れたイギリスとフランスの微妙な関係が、英語という言語に影響を与えている一つの事例があります。
 牛肉をビーフと言い、豚肉をポークと言うのは、元はフランス語だったのだそうです。イングランドの農民が家畜として牛を育てる間は、もともとの英語である牛(Cow)であったり豚(Pig)であるわけですが、それがフランス人の貴族の食卓にのぼると牛肉(Beef、仏語Boeuf)であったり豚肉(Pork、仏語Porc)と呼ばれ、それがいつしか英語に取り入れられたというわけです。支配階級、被支配階級とからんで、余り面白いネタではありませんが、ご存知の通り、食事が美味しくないイギリスでは、食に関する語彙が貧しいと見えて、食のフランスから言葉を輸入したと考えると、なかなか味わい深いと思いませんか?
(追記)
 ポークではありませんが、米国で感染者が出た豚インフルエンザについて、人から人に感染するウイルスだと断定されたようで、ちょっと今後が心配です。

イギリスのはじまり

2009-04-25 08:22:06 | シドニー生活
 昨日、ノルマン人が“S’Deni”という言葉をイギリスに持ち込んで、やがてSidneyなりSydneyになったという話をしました。これは所謂Norman Conquestとして、歴史の教科書に出て来る、1066年、ノルマンディー公ウィリアムがイングランド王を倒して王位についた、所謂ノルマン朝の成立の頃の話と思われます。
 「英仏百年戦争」(佐藤賢一著)という集英社から出ている新書があり、百年戦争当時の英・仏の歴史が詳しい。これによると、ウィリアム公の血筋はヴァイキングだったというのは教科書にも出ていたように記憶しますが、北フランスのノルマンディの地に定住するようになると、歴代ノルマンディ公はフランス化し、イングランド王になったウィリアムも正式にはノルマンディ公ギョームというフランス人の名前で、(今の)フランスに生まれ育ち、フランス語を話す、歴としたフランス人だったそうです。征服王ウィリアムスと呼ばれて、イギリス人は(そして私たちも)イギリス王がフランスの一地方(ノルマンディ公領)まで支配していたかのように信じていますが、史実は逆で、フランスの豪族がイングランドの地を征服したもので、イングランド王国は実はノルマンディ公領の属国だったというのが正しい理解のようです。
 当時のイングランド(敢えて現在の所謂イギリスと区別します)では、大陸から乗り込んだフランス人が貴族の地位を独占し、王の直属の家臣となった貴族180人の内、アングロサクソン系は6人に過ぎず、残りは皆フランス人だったと言います。従来からそこに住んでいた英語を話す人々は町人や農民という構図で、支配階級のフランス語は高級な言葉、被支配階級の英語は農奴の言葉と見なされました。シェークスピアの英語にもその名残りがあり、フランス語としてしか読めないような記述が少なくないのだそうです。ウィリアム公はイングランドの地に王国を得た後も、あくまでフランス屈指の豪族としてノルマンディ公領を本拠としました。遺産相続の際、長男に父祖伝来の本拠ノルマンディ公領を、三男に植民地イングランド王国を継がせるという遺書を残していることからも、イングランドの地の序列の低さが明らかです。
 百年戦争の記述には、何代にもわたる王・貴族、そして領地が入り乱れて複雑なので、詳細は本書に譲りますが、結論として、百年戦争(1337~1453)は、恰もイギリスとフランスという国家の戦いだったというのは、私の俄か受験勉強による誤解、更に言うなら近代国家に住まう私たちの価値観に歪められた幻想に過ぎません。そもそも現在の私たちがイメージするイギリスという国家は当時はまだ存在せず、ノルマン朝の成立によってイングランドはフランスの政治文化圏に組み込まれた領地(植民地)に過ぎなかったからです。かくして百年戦争は、それ以前から続くフランス王位をめぐる争いを繰り返しながら、イングランド王とフランス王に、それぞれの王国を一元的に支配する力を与えて終了し、その結果、国王が引いた国境線の中に暮らす人々は、イングランド人あるいはフランス人としてのそれぞれの国民感情を抱き始め、イングランド王はもはやフランス人であることを止め、大陸の領地に固執しなくなり、完全にフランスから切り離され、今日に至るイギリスやフランスの国民国家の基礎が形作られたものと言えそうです。両国の、近いほどに仲が悪いという事情が垣間見えて興味深いとともに、私たちの歴史観を規制しかねない国民国家の成り立ちがまさにこの時に始まったと思うと感慨深い。

シドニーという名前

2009-04-24 10:27:05 | シドニー生活
 ファーストネームで呼び合う(主に欧米)社会に馴染むため、呼びにくい日本人の名前に代えて、イニシャルが合う現地人の名前を呼び名(渾名)にすることがよくあります。例えばカズヒコはKenとか、シゲルはSam、ヒロシはHankといった具合です。また、名前の一部の音に引っ掛けてそれに近い現地人の名前を呼び名にすることもあります。例えばイサムをSamと呼ばせたり、ハジメをJimmyと呼ばせるなどです。
 アジアで日本人は“Surname+San”と、わざわざ名字で呼んでくれることが多く、時々、ところで“San”ってどういう意味?と聞かれることがあります。私もペナンにいる間は、そのまま“Surname+San”で呼ばれるに任せていたのですが、オーストラリア転勤が決まると、中国系マレー人の上司から、突然、Sidneyに名前を変えたらどうかと提案され、気が進まずにぐずぐずしていたら、本人が同意しない内に勝手に会社のE-Mailアドレス表示をSidneyに変えられて、慌てさせられたものでした。
 Sidneyは男性の名前、Sydneyは女性の名前としても使われることを、その時初めて知りました。そう言われてみれば、シドニー・ポワチエ(Sidney Poitier)とかシドニー・シェルダン(Sidney Sheldon)などの有名人もいたことにあらためて気がつきました。もともとはイギリスの名字で、広くて水分の多い(水に恵まれた)土地という意味だそうです。これは、更に元を辿ればフランスの地名“Saint-Denis”がノルマン地方で縮められて“S’Deni”と呼ばれていたものが、ノルマン人によってイギリスに持ち込まれてSidneyになったという説があります(証拠はないようですが)。
 実際、シドニーの町の名前も、Wikipediaによれば、イギリスの政治家、シドニー卿(シドニー子爵)トマス・タウンゼントに因むとあります。イギリス人が入植し始めた1788年当時、ニュー・アルビオンと命名されたのに、間もなくシドニーと呼ばれるようになったのは、植民地開設の特許状がシドニー卿の斡旋で交付されたことに由来するのではないかと説明されています。
 イギリスの地名(名字)が、世界中、あちらこちらで使われるのも、かつてイギリスが世界進出した名残りで、よく目にするところです。カナダのノバスコシア州の北の果てにSydneyという町があり、去年、アルゼンチンの女性旅行客がインターネット予約する際に目的地を間違えて入力したらしく、オーストラリアに行くはずがカナダに到着してしまったという、俄かには信じられない失敗談が報道されていました。現地の旅行会社によると、こうした間違いは何年かに一度あるそうです。カナダの西端ブリティッシュ・コロンビア州にはSidneyという町があり、同じように旅行者が間違えてやって来たことがあると言うのは、生い立ちが同じ単語でも、スペルが違うので、そこまで間違うものかと思ってしまいますが。

競泳用水着の熱き戦い

2009-04-23 09:40:12 | シドニー生活
 競泳用水着でミズノの反撃が始まったとの報道がありました。フランスとイタリアで新商品のテスト販売を開始するそうです。昨年の北京オリンピックでは、スピード社のレーザー・レーサーが独り勝ちの様相だったのが、まだ記憶に新しい。とりわけミズノにとっては、2年前にスピード社との国内販売ライセンス契約を解消して以来、自社ブランドを展開し、スポンサー契約を結んでいた北島康介選手が北京オリンピックでは結局レーザー・レーサーを選んでアテネに続く二冠を達成したとあっては、当然、期するところがあったでしょう。先の水泳日本選手権では、ミズノ製水着を着用した選手が3つの日本新記録を達成し、対するレーザーレーサーは4つとほぼ互角の戦いを見せましたが、さて販売の方はどうなるでしょうか。
 スピード社は、今ではイギリス・ペントラント社に買収され、スピード・インターナショナルとして傘下のブランドになっていますが、そもそもの始まりは、ボンダイ・ブルーでお馴染みシドニー・ボンダイビーチの靴下製造会社(1914年創業)だったそうです(というのは地元ミニコミ紙情報ですが、Wikipediaにしっかり書いてありました)。1928年に今日の競泳用水着の定型となるものを開発・製造し、Speedoブランドを初めて使用したそうです。1955年には新素材としてナイロンを使用して脚光を浴び、1968年メキシコ以降のオリンピック三大会で、メダリストの7割近くが同社の水着を着用していたと言いますから、老舗でありながら常に技術革新でリードして来た会社なのですね。手ごわい。
 ボンダイ・ビーチに縁があったとは言え既に離れてしまった以上、選手じゃないけど「頑張れニッポン」と言いたくなりますが、翻って、こうした技術革新の競争が市場を活性化するのを見るのは元気が出る一方で、技術革新が記録更新を助けているであろう現実を思うと、やや複雑なものを感じてしまいます。

ウォンバット

2009-04-20 22:22:56 | シドニー生活
 オーストラリアに来て初めて知った動物の一つに、ウォンバットがあります。黒や褐色や灰色をしていて、体長70~120cm、体重15~35Kg、脚と尾が短く、ずんぐりした体つきの夜行性の動物で、一見、タヌキの仲間かと思うのですが、カンガルーと同じ有袋類で、「ウォンバット」と言う名前はアボリジニの言葉で「平たい鼻」を意味するのだそうです。
 上の写真は、先日、ブリスベンのLone Pine Koala Sanctuaryで撮ったものですが、この鼻をもう少し小さくすると、誰かに似ていませんか? オーストラリアに来て、何度か目にするたびに、トトロに似ているなあと思っていたのは、どうやら私だけではないようで、ワーホリで来ている日本人の間でも噂になっているらしい。
 もっともトトロは、ウォンバットだけでなく、コアラを足して二で割ったようなところがあります。特に手の爪の大きさは、コアラにそっくりですね。コアラもウォンバットも草食性で夜行性で、のっそりしていて、なんとなく愛らしいところが、トトロのイメージに合います。

コモンウェルス

2009-04-20 12:37:40 | シドニー生活
 昨日、ちらっと、Britain’s Got Talentというタレント発掘番組が、ここオーストラリアでもAustralia’s Got Talentとして放映され、どうやら同じ趣向の番組が大英帝国圏にあるらしいと書きました。この大英帝国圏、所謂コモンウェルス(英連邦)について、ちょっと旧聞に属しますが、3月9日が、“British Commonwealth”から“Commonwealth of Nations”に改称され、いわば植民地「連邦」から53ヶ国の独立国家「連合」に移行して60周年の節目にあたり、宗主国側(イギリス)の意識調査がネット上で行われたそうです(2119人が回答)。
 それによると、コモンウェルスの元首はエリザベス女王であると正しく答えたのは70%、イギリスがコモンウェルスを脱退することに反対と答えたのは42%で、過半数はどうでもいいと答えたそうです。そもそもコモンウェルスと言っても、実質的な活動としてオリンピックに準ずるコモンウェルス・ゲームズがあることなど、正しく認識しているのは20%どまりで、今や重要な国際機関としてのコモンウェルスは、NATO(44%)、国連(42%)、EU(37%)に次ぐ存在でしかないようです。
 ネット上でのアンケートなので、比較的若い世代が多く回答したと想像され、多少は偏っている可能性があることは否定出来ませんが、日本人の私にとっては、むしろこういったコモンウェルスという呼称と実体がいまだにこれだけのレベルで存在すること自体が驚きでした(とは、別のブログでも触れたことがあります)。仮にコモンウェルスという正式な機関に対する意識が低くなりつつあっても、依然、クリケットやラグビーなどを通して、文化的な性行がお互いに極めて近いことは、ここオーストラリアにいると痛いほど感じます。
 それからもう一つ、EUの位置づけが低いのはイギリスらしいですが、国連と同じくらい(やや上回るくらい)NATOが重要であると理解されていること(日本で国連と言わず日米安保と言う人は、なかなかいないでしょう)、国連と地域的な機関とがほぼ同列なのも、なかなか興味深く、随分、日本人の世界観、国際意識とのギャップがあるのを感じました。

現代のおとぎ話

2009-04-19 10:49:45 | シドニー生活
 朝チャネル7のニュースを見ていたら、British Singing Sensationと題して、最近、話題のSuzan Boyleさんがブレークした時の番組が放映されていました。
 彼女はスコットランドに住む47歳の独身女性で、11日にイギリスのタレント発掘番組に出演した際、容姿に似合わず夢はミュージカル女優エレイン・ペイジのようになること、では何故そうならなかったと思うかと聞かれて、これまでチャンスがなかっただけだと答えて、審査員は引いてしまい、観客から失笑を買ったのでしたが、いざミュージカル「レ・ミゼラブル」の名曲「夢破れて」を歌い始めると、エレイン・ペイジのような歌声に、会場の雰囲気は一変、審査員も苦笑い、やがて観客はスタンディング・オベーションで彼女を称えたのでした。
 この番組は、Britain’s Got Talentという番組で、ここオーストラリアにもAustralia’s Got Talentと、全く同じ趣向の番組があり(どうやら大英帝国圏に広くあるらしい)、我が家も楽しみにしている数少ない番組の一つです。日本のスタ誕に近いですが、出演者の年齢層が幅広く、芸も多岐に亘っていて、鼻つまみモノも含めて芸そのものだけでなく番組の構成自体も娯楽性が高く、大人も楽しめるつくりになっているのが特徴です。その時の模様がYouTubeに投稿されてアメリカやオーストラリアにも広まり、今朝YouTubeを見たら、再生回数は既に2500万回を越えていました(http://www.youtube.com/watch?v=9lp0IWv8QZY)。その後、彼女はCNNのラリー・キング・ライブにも出演したり、今朝のチャネル7のニュースでは、テレビに出なかったら歌の契約(CDデビュー)には至らなかっただろうと、「英国発のアメリカン・ドリーム」として俄かに話題沸騰しているというわけです。
 先のBritain’s Got Talentという番組自体が、本当の意味でのタレントを見つけるだけでなく、こうした外見と実質のギャップや、人の意外性を楽しむという別の一面もあり、またそれが、現代社会はドリームを渇望しているという一面に繋がり、うまく“はまった”ということなのでしょう。これまで男性にキスされたこともないという彼女が、CD一枚で素敵な伴侶を見つけるきっかけになり、幸せな余生を過ごすことが出来ました・・・となれば、本当のおとぎ話として、めでたしめでたし(They lived happily ever and after.)なのですが。
 なお上の写真は、勿論、彼女ではなくて、2004年のAustralian Idol 2というタレント・スカウト・キャラバンに似た番組で、トップ7で敗退したものの、オーストラリアのポップ・シンガーとして人気のRicki-Leeで、総領事館に立ち寄った後、チャネル7の収録スタジオ前でたまたま撮影したもの。

運転免許証をめぐる話

2009-04-16 22:26:05 | シドニー生活
 ニューサウスウェルズ州では、国際免許証のほかに、日本の免許証を英文に翻訳したものを携行すれば(翻訳専門の公的機関があります)、学科・技能試験免除でそのまま運転することが出来ます。これは日・豪という国家間の取り決めですから、他州でも同様だと思いますが、地元(例えばニューサウスウェルズ州)の免許証に書き換えるためには、半年以上継続してオーストラリアに滞在しなければなりません(一度でも出国すればダメ)。
 実は今回のブリスベン・ゴールドコースト紀行の本文では触れませんでしたが、一つ事件と言うほどのことはない事件がありました。私の日本の免許証が今月3日で切れていたため、英文翻訳書の有効期限も4月3日迄になっていたことに、ブリスベン空港のレンタカー会社のカウンターで手続きをしている時に気がついたのです。当然、無免許の扱いになるため、レンタカー会社としては、レンタカーを貸す訳にはいかないという一点張りです。昨年7月の着任以来、9ヶ月が経過しているので、さっさと地元の免許証に切り換えていれば問題なかったはずですが、後の祭り。カウンターの担当者はマネージャに電話してくれて、確かに今は失効しているけれども、日本に戻れば、試験なしで更新できるという意味では、法的に日本の免許の有資格者なのだと屁理屈をこねて粘ったのですが、許可されず、結局、家内名義でレンタカーを借りることでその場は凌ぎました(実は家内は英文翻訳書を持っていなかったのですが)。
 さて困ったのは、シドニーに戻ってから、毎日の通勤で車を運転しているわけで、法的に保護されない無免許という地位にあると思うと、なんとなくお尻がむずむずして、落ち着きません。経験的に免許証提示を求められる機会は極めて稀とは言え、事故があって警察が絡む時には命とりになります。そこで日本総領事館のホームページを調べてみると、仮に日本の免許証が失効していても、一定期間内(3年)であれば、日本から運転経歴証明書を取り寄せることによって、地元の免許証を申請することが出来るという記述があることに気がつきました。俄かに光明が差して来たのを感じ、確認のためにいそいそと総領事館に電話してみると、担当者に行き着くまで三度たらいまわしにあった挙句、その担当者はホームページの内容を知らないと見えて、国際免許証を取得するか日本の免許証を更新するしかなさそうですね(つまり、いずれにしても日本にいったん戻るしかない)と全くつれないアドバイスです。
 現地人の同僚に相談してみると、総領事館で日本の免許証の更新手続きを取れば良いじゃないかと簡単に言われましたが、まさに理屈では簡単なことなのに、日本は縦割り行政の弊害か、いまだに実現出来ていません。結局、ニューサウスウェルズ州のRTA(Roads & Traffic Authority、運転免許証の交付や道路の安全管理を行なう政府機関)で直談判するのが良かろうという結論になって、必要書類(身分証としてのパスポートや現住所確認の郵便物など)を携えて窓口に出向いてみると、何の問題もなくあっさり了承され、ものの30分で免許証が交付されました。さすがに移民の国オーストラリアは、外国人への対応も柔軟です。
 さて、くどくどと経緯を書き連ねて来たのは、役所のあり方にも日本らしさが表れているのではないかと思ったからです。
 以前、マレーシア・ペナンの警察署でも、何故、日本の免許証は西暦の記述になっていないのかと質問されたことがありました(マレー語だらけのマレーシア警察署の人に言われたくないですが)。今はどうなっているか正確には知りませんが、伝統的に日本の役所は文書上の年度を「昭和」「平成」などの元号で記載して来ました。国内で完結する事務処理は構いませんが、海外に露出する時には困ります。免許証を作成するシステム改定が大変だとか、対応が難しい理由を挙げるのは簡単ですが、そういう時、残念ながら海外に向かっての配慮は一切見られず、閉鎖的です。
 また、以前、アメリカに滞在していた頃、日本の免許証が失効し、帰国後一ヶ月以内に手続きを取れば、学科・技能試験は免除されるのは良しとして、それでも「更新」ではなく「交付」になるため、過去10数年にわたる安全運転の履歴を失ったことがありました。アメリカでは当然のように、毎日の通勤で運転し、日本のペーパードライバーよりよほど運転慣れして安全運転を心がけていたつもりで、割り切れないものを感じて、つい不満を吐露すると、顔色を変えず「規則」ですからの一言で軽くあしらわれてしまいました。別に規則を曲げることまで期待していませんでしたが、せめて同情の一言でもあったら救われたことでしょう。そして今回もまた「規則」により、その後の日本での安全運転履歴を失い、また一から出直すことになるのでしょう。
 最後に、外務省は国益を守るために諸外国と折衝し、領事館はその出先として在外邦人をもサポートしてくれるもの、普段は余り付き合いがありませんが駆け込み寺だと思っていました。外国にいて選挙権を行使出来るようになったのに、とりわけ車社会のアメリカやオーストラリアで日本の免許証の更新が出来ないのはちょっと納得が行きません。折りしもイチロー選手は日米通算で3085安打を達成しましたが、そういう国境の壁を越えた制度の透明性は、この分野では難しいのでしょうか。実は、こんな私も幼少のみぎりは外交官に憧れた時期が一瞬あって、大学卒業の記念に外交官試験(今は国家公務員上級試験に統合されたはずですが)なるものを受験したことがありましたが、当時、大学の教授からは、外交官なんて政治家(及びその一族郎党)の旅行代理店に過ぎないよと言われて、若さ故に戸惑ったものでした。それでも一度は憧れたからこそ、その期待値(理想)は今でも私の中に残っています。
 よく言われるように、役所と民間企業の違いは顧客志向性の違いだろうと思います。民間企業は売れてナンボ、儲かってナンボの世界で、顧客にソッポ向かれたら商売になりませんが、役所は昔から親方日の丸と呼ばれ、競争原理が働かない独占事業体のため、顧客(国民・県民・市民・村民だったり、今の私のように在留邦人だったりする)に関心を払う必要がありません。民間企業では、トヨタのカイゼン・システムに見られるように、現場の意見が反映されてシステムが進化して行くものですが、役所では規則通りに淡々と事務処理を進めることが重要であって、現場で規則に疑問をもつことは無く、フィードバックのループが働きにくい。
 各国とも、こうした役所の対応の中に、その国の海外への開かれ度合いが表れるのではなかろうかと、ふと思いました。それとともに、シドニーでの迅速な対応は、いくら大都会とは言え、この程度の人口密度だからこそあり得たのだろうと思います。日本の(と言うより東京の)警察・行政窓口の対応は、一極集中の過密さにも影響されるところがあるような気がしました。

ブリスベン・ゴールドコースト紀行(下)

2009-04-15 22:47:03 | シドニー生活
 今回の旅行は残念ながら天候に恵まれませんでした。全般的に天気が良いとされるクィーンズランド州、ゴールドコーストにあって、半分くらいは雨にたたられるという“大当たり”でした。それもあってか、ゴールドコーストの印象は、やや雨に煙ってしまいました。
 ゴールドコーストの浜辺の砂は木目細かくて美しくて、子供たちは砂遊びに大喜びでしたし、素足で散歩するのもとても気持ち良いくらいです。ただ、ご存知の通り、サーフィン向きの海岸なので、子供を波間で遊ばせるのもためらわれるほど波が荒く、飛沫のせいか海岸線を遥か遠くに目で追うと湯気でも立っているかのように霞んで見えます。最終日に、海岸沿いをサーファーズ・パラダイスから南に向かってドライブしてみましたが、浜辺が見える道路は極めて限られていて、日本であれば海岸沿いに小じゃれたレストランやカフェが多いでしょうに、ゴールドコーストにはそういった気の利いた店は殆ど無く、プライベートの家やマンションに遮られているあたりは、まさに欧米的だと思いました。サーファーズ・パラダイスで日本人が経営するオパールの宝飾店にたまたま立ち寄ったら、オーナーが芸能人やスポーツ選手と一緒に写った写真が一杯飾られていて、まさに有名人の別荘が多いのだと教えてくれました。見晴らしの良い海岸沿いは別荘の一戸建てや低層マンションに独占され、一歩引いたところで高層ホテルがやや遠慮がちに建ち並んでいるといった印象です。
 そういう意味で、ゴールドコーストは純粋な観光地であるばかりでなく、食事や買物などの生活にも便利なところと言え、ここを起点にしながら、三大テーマ・パーク(ドリーム・ワールド、シー・ワールド、ムービー・ワールド)はもとより、世界遺産で世界最大の砂の島であるフレーザー島や世界で三番目の砂の島モートン、世界遺産のラミントン国立公園やスプリングブルック国立公園、オーストラリア大陸最東端のバイロンベイ、チュラルブリッジ国立公園の土ボタル・ツアー、ホエール・ウォッチング(6~10月)、更にはちょっと足を延ばしてグレートバリアリーフをかすめたり、はたまたホテルのカジノに興じるなど、ちょっと長期滞在型で腰を落ち着けて訪れるのが良いのかも知れません。
 四日目の最終日、空港に戻る前にブリスベンの街に立ち寄りました。シドニー、メルボルンに次ぐ、オーストラリア第三の都市で、街の中心をブリスベン川が流れ、高層ビルが建ち並ぶ中にも、コロニアル風の建物や、公園や街路樹などの緑が多く、きれいな街並みを保っています。時間がなかったので、シティホールと議事堂を見ただけですが、古さと新しさが溶け込んだ落ち着いた街という印象を持ちました。
 クィーンズランド州の車のナンバープレートに書かれているキャッチ・フレーズはSunshine State。私たちにはイヤミなフレーズですが、晴れていれば、きっと印象がコロリと変わったことでしょう。太陽の光に溢れたゴールドコーストを、いつかしっかり見てみたいものです。

ブリスベン・ゴールドコースト紀行(中)

2009-04-14 23:34:11 | シドニー生活
 今回の旅行では、フライト予約だけでなく、ホテル予約にも出遅れたため、ちょっと値段が張りましたが、サーファーズ・パラダイスの一等地、シェブロン・ルネッサンスに泊まることにしました。サーファーズ・パラダイスのような騒々しい盛り場は余り好まないのですが、便利さは何物にも替え難い。歩いて行けるレストランやショッピングが多く、ゴールド・コースト界隈にあるテーマ・パークへの車のアクセスも良いのです。そのテーマ・パークの中から選んだのは、シー・ワールドとムービー・ワールドでした。
 二日目にシー・ワールドを訪れました。サーファーズ・パラダイスから車でほんの15分程度の立地です。あるサイトの情報を見て8時に出掛けたところ、アトラクションは10時から、入場は9時半からということで、随分待たされましたのでご注意下さい。ここは水族館ではないので、海の動物の数や種類に見るべきものはなく、ペンギンの餌付けや、イルカやアシカのショーや、水上スキーのショーが目玉になります。そのほか、遊園地のアトラクションが若干あるくらい。遅くなるほど混みあうのは何処も同じで、先ずは人気のアトラクションに乗ってしまうのが、こういったテーマパークでは常道ですが、それほど綿密に計画を立てていた訳ではないので、イルカやアシカのショーの時間を睨みつつ、Vikings RevengeやBermuda Triangleや4Dをトライした程度です。小さい子供向けテーマ・パークのため歩き回れる広さも頃合いで、我が家は3時前にはホテルに引き揚げてしまいました。かつてサンディエゴのシー・ワールドを訪れた時はもっと感動したような気がしますが、当時はまだ子供が小さくて、その同じ目線で見ていたせいでしょうか。
 三日目にはワーナー・ブラザーズのムービー・ワールドを訪れました。いろいろな映画のテーマに沿ったアトラクションが多数用意された遊園地で、シー・ワールドよりももう少し大きい子供でも楽しめるつくりになっています。しかし、最初に入ったShrekの4D映画で、20分ほど並んで待たされた挙句、プロジェクター故障により上映中止、次に並んだScooby-DooのSpooky Coasterでも15分ほど待たされた挙句、点検のため中止、ようやく再開したらしいところで再び30分以上並んだ挙句、まさに乗ろうとした矢先に、再度、点検のため中止と、安全確認が最重要であるのは認めますが、本番でこれほど不手際が続いたのは、運が悪かったと言うよりも、日頃の品質管理上の問題があるのではないかと疑いたくなります(このあたりは、がっかりしないように、多少覚悟しておいた方が良いかも知れません)。実際、Shrekの4D映画はよく出来ていましたし、Scooby-DooのSpooky Coasterも、コワガリの子供たちには不評でしたが親の私たちにはスリル万点で大喜びだっただけに、しこりを残して残念でした。こわがりの我が家にはついぞ無縁だったSupermanのEscape(ジェットコースター)やBatwing(バットマン)のSpaceshot(シートベルトで固定され、塔を急上昇したり急降下(重力よりも早く)する、よみうりらんどのクレイジー・ヒューストンに似たもの)などの絶叫系アトラクションは見るからに迫力がありそうですし、ほかにもいろいろ童心に返って楽しめそうですが、午後3時半からのパレードを見る限り、(どうしてもディズニーランドと比べてしまって)役者不足は否めませんし、夕方5時半には全てのアトラクションが終わってしまう商売っ気の無さも、オーストラリアらしいと言えるかも知れません。
 なお、インターネットでチケットを購入することが出来ます(http://seaworld.myfun.com.au/)。私たちは三日間で2つのテーマパークを選べるEscape Passを購入しましたが、単純合算と比べ一人当たり20豪ドルほどお得です。更に会員登録すると10%割引になります。

ブリスベン・ゴールドコースト紀行(上)

2009-04-13 23:46:21 | シドニー生活
 イースターの休暇を利用して、三泊四日でブリスベンとゴールドゴーストに行って来ました。
 実際にはゴールドコーストを中心に遊びと宿泊を計画したので、ゴールドコースト空港との往復であれば楽だったのですが、計画性のない私は相変わらずギリギリまで予約を入れなかったため、人気の高いゴールドコースト便は取れず、ジェット★は完売、辛うじてヴァージン・ブルーのブリスベン往復を押さえたので、折角だからと、レンタカーを借りて、行き帰りでブリスベン界隈にも立ち寄ることにしました(ブリスベンからゴールドコーストまでは車で1時間弱)。
 朝二番くらいでブリスベンに到着して、Lone Pine Koala Sanctuaryに立ち寄りました。ブリスベンの南西約11キロのところにある、オーストラリアで最大・最古と言えば世界で最大・最古のコアラ保護区で、1927年設立とありましたから80年以上の歴史を誇ります。園内には130頭以上と言われるコアラがそこかしこにいて、夜行性のため大半は眠っていますが、それでも一本の木(と言っても切り出した自然の木を立てかけてあるだけですが)に何頭ものコアラが丸まってしがみついて眠っている様は壮観でした。コアラだけではなく、ウォンバット、タスマニア・デビル、ディンゴなどのオーストラリアらしい動物を見ることが出来ますし、ネイチャー・キングダムでは、カンガルー、ワラビーやエミューが放し飼いにされており、餌付けすることが出来ます。
 実はニューサウスウェールズ州では一般観光客のコアラ抱っこは禁止されているため、越境して、ここクィーンズランド州で実現しようというのが、今回の旅行の最大の目的でした。抱っこして写真撮影するのに一人16豪ドル、ファミリーパス(大人2人子供3人まで65豪ドル)で入場したので3豪ドル割引されて一人13豪ドルは、決して安くありませんが、ここでしか出来ないだろうと清水の舞台から飛び降りるつもりで(ちょっと大袈裟)家族4人が一人づつ個別に撮影するという豪華版でした。両手を揃えてお腹の前あたりで手のひらを上に待っていると、係の人がコアラを手のひらに載せて、しがみつかせてくれます。その間わずかに15秒。しかしコアラは大人しくしがみついてくれて(眠いからに違いないけど)、ふわりとした感触は夢心地、コアラの愛くるしさは格別でした。因みにクィーンズランド州の規則で、コアラのこのお仕事は、五日に一度、しかも一日30分以内という制限つきだそうです。コアラちゃん、お疲れさま!
Lone Pine Koala Sanctuary: http://www.koala.net/lonepine/

イースター

2009-04-10 02:22:03 | シドニー生活
 明日10日(金)は復活祭前の金曜日、イエス・キリストが十字架に架けられた日で、こちらではGood Fridayと呼ばれて祝日です。三日目にイエス・キリストは蘇るわけで、今年は4月12日(日)が復活祭の祝日になります。春分の日の後の最初の満月の次の日曜日に祝われるものだそうで、年によって日付が変わる移動祝日です。
 イースターと言えば、イースター・エッグが有名で、アメリカにいた頃、子供の幼稚園で、卵の殻に彩色を施したり、卵を庭に隠して子供たちに探させる遊びをやっていたものでした。オーストラリアも同じ英国圏で、イースター・エッグやイースター・バニーをかたどったチョコレートが売られているのは、卵やウサギが生命力の象徴とされ、イエス・キリストが復活したことを連想させるものだからだそうです。
 キリスト教徒にとっては大事な祝日で、レストランが休みになったり、スーパーも働かなかったり、いろいろですが、宗教心が乏しい私のような者にとって、もともと祝日が少ないオーストラリアにあって、土・日を挟んで四連休になる貴重なLong Holidayとなります。我が家はゴールド・コーストに出掛けて来ます。

オーストラリア経済近況

2009-04-08 09:23:37 | シドニー生活
 私のオフィス界隈では不思議な光景が見られます。シティの南、空港との間にあって、交通至便のためオフィス街や倉庫街が続くところで、目の前には大きなビジネス・パークが完成目前で最後の工事を進める一方、従来からあるオフィス・ビルには“For Lease”の大きな看板が目立ちます。つい半年前までは好景気に沸いて、取り掛かっていた新しいビジネス・パークも、今さら投げ出すわけには行かなくなったのでしょう。
 昨日、オーストラリア準備銀行は、主要政策金利を0.25%引き下げ、年3.0%とすることを発表しました。利下げは昨年9月以降6回目、現行の政策金利制度を導入した90年以降では最低レベルだそうです(朝のニュースでは49年振りのレベルとも)。声明の中で、各国の景気刺激策の効果が認められず、オーストラリア経済の縮小は続いていると指摘しています。
 これまでオーストラリア政府は、豊富な財政黒字と突出した高金利(利下げ余地大)を背景に、比較的強気な姿勢を崩しませんでした。実際、小売業はじめ内需は他国ほど落ち込んでおらず、大幅な経済成長率の収縮は見られないと言い続け、私も周囲を見渡して、それほど疑問に感じていませんでした。3月の連邦銀行理事会で政策金利据え置くことを決定したのも、依然、FRBがオーストラリア経済そのものには信頼を置く一方、世界経済が更に悪化した場合の切り札として残しておくというような観測でした。しかし、ここ一ヶ月前後で状況は随分変わって来ました。
 3月の連邦銀行理事会の翌日(3月4日)に発表になったオーストラリアの12月期(四半期)GDP成長率は8年振りに前期比0.5%の減少となり、2四半期連続で経済成長がマイナスになると不況とされる定義上、さすがのオーストラリアも不況に突入した可能性が高まりました。そしてラッド首相は訪米前夜の22日に初めて不況(Recession)という言葉を使い、オーストラリアは不況に向かって滑り落ちていると認めました。世界経済は益々悪化し、その規模は、オーストラリアが今後しばらくプラスの経済成長を維持することが不可能なほどの大きさで、それが更に財政や雇用に影響する、従い、全世界が協力して世界不況に対処することが重要だと語りました。その後、ラッド首相は米・英を歴訪し、世界経済浮揚に向けた意識合わせを行った上で臨んだG20ロンドン・サミットで、経済回復に向けた世界的なフレームワークが出来たのは既にご存知の通りです。帰国後は、世界経済回復を見込んだ5月予算案の仕上げに取り組んでいます。
 昨日は、向こう8年間で430億豪ドルを投じて全豪に光ファイバーによる高速通信網を整備することが発表されました。年間2万5千人の雇用創出効果を見込むとともに、短期的な刺激策だけではない気骨も示しました。これにより政府の財政出動は950億豪ドルと、2008年GDPの8.7%にも達すると言います。
 先日、オバマ大統領は、世界不況を食い止めるために適切な経済政策を実施している国として、中国やイギリスとともにオーストラリアを名指ししました。世界の貿易相手国の影響を受けやすい資源大国ではありますが、ラッド首相の指導力には敬服しますし、その機動力には国としての若さを感じ、羨ましく思います。これは私個人の印象だけでなく、3月末に行われた調査でも、ラッド首相の支持率は依然上昇を続けて74%に達し、元銀行家マルコム・タンブル野党保守連合リーダーをはるかに引き離しているところからも、国民的人気のほどが知れます。危機にこそリーダーが現れ(あるいはリーダーがリーダシップを発揮し)、危機に際して国民が結束する(結束させる)ところを見ていると、日本人として、日本の政治の混迷状況がもどかしくもあります。