朱雀庵 のほほん京日記

源氏物語探訪改題。

日常の出来事など、気楽に発信していきます。

『KOBE 三国志ガーデン』

2011-03-27 03:25:47 | my 三国志

2011.3.27(日)

26日、神戸市兵庫区和田岬にて。清盛公ゆかりの地、ウオーキング。そのあとの『KOBE 三国志ガーデン』のことを記しておこう。

神戸市営地下鉄ハーバーランド駅には、ドカーンと「五将軍」の壁画がありました。市営地下鉄の車両にも、三国志の絵があります。地下鉄各駅にも、三国志の名シーンの壁画があるようです。3月19日オープンした『KOBE 三国志ガーデン』は、地下鉄海岸線 駒ケ林駅下車徒歩2分のところです。

駒ケ林駅前にて。周ゆ像。コミック『三国志』の原作者 横山光輝は神戸の出身です。近くには、鉄人28号の展示公園があります。このあたり、大正筋商店街は16年前の震災で焼失しました。今、大きなビルジングの商店街となっています。『三国志ガーデン』はその一角にあります。『ジオラマ館』がよかった。


苦肉の策

2011-01-23 00:35:38 | my 三国志

2011.1.23(日)

魏の水軍司令蔡(さいぼう)は、曹操に疑われ、殺される。曹操は、このことを利用して、甥、蔡加(さいか)、蔡仲(さいちゅう)を呉軍へ送り込んで、敵を内部から滅ぼそうと計った。(埋伏の毒)

ところが、周瑜(しゅうゆ)、孔明は、いち早くそれを見破っていた。周瑜は、蔡加、蔡仲を利用して、曹操の陣に偽りの降伏をする人を黄蓋(こうがい)に託す。黄蓋:呉の老将。孫堅、孫策、孫権と三代に仕えた。

周瑜は、諸将を集め、命令を下す。ところが、黄蓋が異論を唱える。周瑜は、命令に従わぬ者は斬る、と激昂する。周囲の者が止めて、一命はあずけられたが、「杖百打の刑」を申し渡される。黄蓋は、満座の中で百打の刑を受けた。

黄蓋は、部下・かん沢(かんたく)に曹操の陣に降伏の手紙を託す。かん沢はよく出来た人物で、黄蓋の意を察していて、曹操と丁々発止の末、策略を成功させる。(日本外交にかん沢のような人物はありやなしや)黄蓋は、かん沢に命じ、曹操の内通者(祭加、蔡仲)が気づくように、周瑜への不平不満をたらたら云う。内通者は、すっかり黄蓋の降伏を確信することになる。赤壁の戦いの前哨戦である。

「苦肉の策」。文字どおり、血と肉ををささげての計略。苦肉の策です、などどよくいうが、三国志のこよようなエピソードがあったのですね。おもしろいですね。

参考:横山光輝『三国志』 潮出版社より

 

 

 


草船借箭

2010-09-25 23:47:28 | my 三国志

2010.9.25(土)

こないだまでは暑い暑いと云っていたのが嘘のよう。今朝は肌寒い。着る服のことを心配せねばならない。

草船借箭(そうせんしゃくせん)。圧倒的な軍勢を誇る曹操軍が攻めてきた。劉備は、呉、孫権と軍事同盟を結んで対抗するしかないと考え、孔明を孫権のもとへ派遣した。呉では、曹操の軍門に下るか、戦うか、国論を二分にしてもめていた。孔明は、主戦論を展開し、降伏論者をことごとく論破した。呉の提督周瑜(しゆうゆ)は、そんな孔明の慧眼と智慮に恐れをなし暗殺を決意する。

周瑜は、曹操と戦うためには矢が不足している、といって、孔明に10日間で10万本用意するよう命じる。
孔明は3日で用意しましょう、と応える。2日間で500人の兵士と船、ワラ人形を用意した。1日前の靄の夜、
曹操の陣へ侵入した。曹操軍は敵が攻撃してきたと思い。雨あられのごとく弓で攻撃してきた。弓矢はまたたく間に集まった。大収穫であった。一休さんの話みたいでおもしろかった。



嵯峨野にて。本日風つよし。たんぼの畦には彼岸花が続いています。イノシシ除けの電線がたんぼのまわりをかこっていました。弁財天さんの島では映画?のセット工事中でした。

ふわふわのススキ。




松花堂庭園・美術館(八幡市)の女郎花。白い彼岸花の一群も満開でした。








三顧の礼

2010-09-23 07:12:07 | my 三国志
2010.9.23(木)

20日、京都から大津まで東海道を歩くなり。京都は三条大橋西、野弥次さん喜太さん像前スタート、終点は大津市京町札の辻跡まで、三条通りをひたすら歩く。約11キロメートル。峠を二つ越える。日ノ岡峠と逢坂の峠である。

札の辻を東に行ったところ商店街あり。その商店街で大津祭の曳山を展示していた。来る10月10日大津祭とのこと。13基の曳山が巡行する。その曳山のひとつに、孔明祈水山(こうめいきすいざん)というものあり。三国時代、蜀の軍師諸葛孔明に因むものである。

劉備玄徳は、民や国の惨状を憂え、何とかしたいと考えていた。ブレーンとしての「人」を探していた。徐庶(じょしょ)(劉備のもとにいたが、曹操の計略により曹操のもとへ行くことになる)が劉備のもとを去る際、置き土産として、孔明の存在を劉備に伝える。

劉備は、閑羽、張飛を伴い、庵を訪ねる。留守もあり、何度も訪ねる。張飛は「素性のわからん者のところへなんで来なあかんのか。」と不満たらたら。劉備は、小僧に手紙を託す。(この手紙の文面がよかった。)
ある時、孔明は在宅していた。が、昼寝中であった。劉備は、昼寝の邪魔をしていけない、と思いずーと立ったまま待つのであった。(劉備らしい)

やっと面会でき、劉備はせつせつと懇願するのであった。孔明は劉備のもとに行くことになる。『天下三分の計』を述べる。劉備が孔明を迎えるときの状況を『三顧の礼』を尽くして・・・などという。



酔芙蓉。日ノ岡峠大乗寺近くにて。このあたりの旧東海道、道幅狭し。車一台がやっと通れるほど。昔は、車石の大八車用の道と人用の道があって、だいぶ広かったそうです。

23日。本日雨天により消防訓練中止。JR運転取りやめの報。大阪地方大雨警報出ている。京都南部に竜巻注意情報出る。




『水魚の交わり』

2009-03-17 00:23:34 | my 三国志
2009.3.16(日)

<吾得孔明、猶魚之得水也。

私が孔明を得たのは、魚が水を得たようなものだ。

劉備は孔明を敬愛し、師として待遇した。嫉妬した義兄弟の関羽・張飛は『孔明は若造だ。兄貴は奴を大事にしすぎだ。それにやつのほんとうの腕前もみていない』などと文句を言う。

これに対して、劉備が上記を答えたのである。

親密度の高い交際を「水魚の交わり」というのは、このときの劉備の言葉に由来する。

のち、孔明は、劉備から指揮権を得て、綿密な作戦をたててデビユー戦を飾る。冷ややかに見ていた関羽・張飛は思わず平伏してしまう。固い信頼関係が構築されるのである。20歳も年上の関羽・張飛を心服させたののだから、孔明がいかに傑出した軍師だったかうかがい知れる。>

『三国志名言集』井波律子 岩波書店 2005年 より引用

三国志の名言、格言、エピソードなど折に触れ書き出していきます。生きる勇気を与えられる気がします。







関羽像/中華店にて

2009-02-06 23:50:31 | my 三国志
2009.2.6(金)

三条会商店街を歩いていたら、中華料理店のガラスケースに「関羽」らしき人形があった。「これ、関羽ですか」と尋ねたら、「さあ、知りません。中国の土産です」とつれない返事。赤い顔、立派なひげ、そして青龍えん月刀(『三国志演義』によれば、重さ約50キロ、長さ2メートルだそうだ)のいでたちは関羽に間違いないと思う。

店の人にお願いして写真を撮らせて貰った。商店街、何故か『フランシーヌの場合』が流れていた。

連環の計 董卓暗殺さる

2008-12-11 01:02:48 | my 三国志
○連環の計

董卓の横暴が強まる中、王允(おういん)は、秘かに重臣たちと董卓誅殺の秘策を練るのである。

王允がわが子のようにかわいがっている美しい歌妓の貂蝉(ちょうせん)が、自分を役立ててくれ、という。王允は、感謝して、呂布(董卓の腹心の部下)を食舎に招き、呂布が見初めた貉蝉を興入れさせようと約束する。一方、董卓にも貂蝉が気に入ると「献上」をしてしまう。

呂布には、董卓が横取りしたことを思い込ませる。これが、成功し、呂布が董卓を暗殺するのである。この二つの環をたくみに重ねて、目的をとげた計略である。

中国の四大美人。①西施(せいし)春秋時代、②王昭君(おうしょうくん)前漢、
③楊貴妃 唐 ④そしてこの貂蝉である。

<参考資料>
・三国志 横山光輝 潮出版社
・三国志 群雄データーフアイル 「歴史読本」編集部

乱世の奸雄・曹操

2008-12-05 00:07:01 | my 三国志
○寧教我負天下人、休教天下人負我。

寧ろ我をして天下の人に負(そむ)かしむるも、天下の人をして我に負(そむ)かしむる休(なか)れ。

俺の言うことは正しい、なすことも正しい。俺が天下に背こうとも、天下の人間が、俺に背くことは許さん。


董卓暗殺に失敗した曹操は、全国に指名手配されついに捕らわれの身となる。しかし、県令の陳宮に助けられ、共に逃避行をする。

一夜の宿を求め、知人家に立ち寄る。この家にも曹操の人相書きが回っていた。主人は、歓迎のため町へ酒を買いに行った。曹操らが別室にいると、刃物を研ぐ音がする。また、「早く縛るんだ」「殺すんだ」の声。

曹操は、先手を打って一家を皆殺しにする。ところが、庭には料理のためのイノシシ縛り付けられていた。曹操は、早合点したのであった。

逃げる途中、酒を買いに行った主人と出会う。この主人も、後難のため殺すのである。

陳宮は、「罪なき者を殺すは、人道に反しますぞ」と苦言する。

それに対して、曹操は、上記の言葉を喝破したのであった。

劉備、警察署長に・・・

2008-11-30 01:24:13 | my 三国志
○枳棘非鸞鳳所棲
(くきょくは、らんぼうのすむところにあらず)

棘や枳のように、トゲのある木の中には、良い鳳は住まぬ (関羽)

義勇軍で手柄をたてた劉備玄徳は、安喜県の田舎の警察署長に任命された。

がしかし、帝の使者に賄賂を拒絶したため、罪人に陥れられる。
激怒した張飛が、帝の使者を痛めつけるのである。ここで、関羽が上記の言葉を呟くのである。劉備、張飛も勿論同感だ。

劉備玄徳は、漢王室を再興して中原の覇者になりたい、という願望があった。天下万民のために尽くすのである。劉備の最大の長所は、「人望ないし人徳」である。
それゆえ、関羽、張飛それに孔明という有能な人材を置くことが出来た。

「我、住むところ誤てり」と言って、関羽、張飛とともに放浪の旅に出るのであった。

桃園の誓い

2008-11-21 23:16:03 | my 三国志
三国志について、故事成語などを記録していきます。

横山 光輝『三国志』潮出版社 2002年
『三国志 群雄データーフアイル』三笠書房 1999年 より。

○黄巾の乱
 中平元年、今から約1800年前のこと。後漢王朝の政治腐敗、悪疫の流行の中で、張角は、道術によって、人々の病気を治し、全国各地に信者を持つようになる。
 数十万の信者を組織し、反乱を起こす。184年。黄色の頭巾をまとっており、黄巾の乱と呼ばれた。各地に、義勇軍がつくられ、郡雄割拠の状況となる。曹操、劉備。董卓らが義勇軍で活躍する。

○桃園の誓い
 楼桑村には美しい桃園があった。劉備の母は、今ここに宴席を設けた。劉備、関羽、張飛は「生まれた日は違えども、死す時は、同じ日、同じ時を願わん」と、義兄弟の誓いをたてた。