づれづれ気儘日記です

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好きな歌

2019年05月22日 22時41分23秒 | 日記

 JR西日本のCMで使われているので、知ってる人も多いと思う。

40年以上も前にヒットした有名な曲、『切手のないおくりもの』。

チューリップの財津和夫さんの曲で、いろんな人がカバーしている。


 発表当時は、まだ若かったせいで、さほど思い入れはなかったけど、

数年前、CMで聴いてから時折聴く好きな歌になった。



 生活のストレス発散、解消には、涙を流すのはとてもいいことらしい。

自分にとってこの曲は、ほどよく涙が出る一番の曲かなと思う。

涙に種類があるのかどうかは分からないけど、

この歌を聞いて出てくる涙は、なんとなく健康的な感じがする。

・・・凄い主観だが。


 『広い世界にたった一人のわたしの好きなあなた

この言葉を、時には『母親』、時には『妻』、時には『子供』、

そして時には『亡き愛犬』。

 置き換えて口ずさむと、自然と涙が出てくる。

世界にたった一人のわたしの好きな人、が何人もいるの、

と茶化されるかもしれないが、

実際はその通りで、好きな人は、何人もいるものだと思う。



 母は、今の自分の年齢で亡くなった。しっかりしてない子供を置いて、

さぞかし未練だったことだろう。母から一度も怒られたことのない不肖の息子は、

いまだに母のことを思うと、悲しみに暮れる。


 妻は、やはり長い時間を過ごしてきた、戦友、だろうか。

いろいろなことを乗り越えてきて、今更愛だの恋だのということはないが、

絆の深い相棒という思いは深い。

もうお互いいい年。どちらかが先に逝ってしまうこともそんな遠い先の話ではない世代に入っている。

どちらかが先に逝った時のことを想像すると、やはり悲嘆に暮れてしまうだろう。


 子供への愛情は普遍。いずれ順番通り子より先に親が逝ってしまう。

いつまでも子供を見守っていることもできない。

なんとか今のうちに伝えたいことを全部伝えて、教えたいと思っても、

そんなことは不可能で、親が亡くなってから一人前になるなんてことも

きっと多々あることなんだろう。


 そして、世界でたったひとつの愛する、亡き愛犬への恋慕、愛着。

言葉にならないくらい、存在の大きさと失った無力感に覆われる。

思いながらこの歌を聴くと、涙が止まらない。



 寄る年波、というけれど、本当に涙腺は緩い。

 でも、これが健康的にもいいことだとすれば、

好きな歌として聴き続けてもいいのかな、と思う。

本当に素敵な歌。


 個人的には、小野リサさんの『切手のないおくりもの』が好きだ。

https://www.youtube.com/watch?v=luwd5Wnleb4




時代の移ろいと共に

2019年05月09日 22時00分02秒 | 日記

 ブログを登録していると、一年前の記事が自動的にメールで送られてくる。

ほぼ10カ月間なんの記事も書かなかったのに、キチンと送ってくる。うまくできている。

機械的とはいえ、一年前の記事を見ると、懐かしい気持ちになるし、

再開のきっかけにもなりそう。


 ただ、一年前と決定的に違うのは、

花の咲く時期だとか、実った果実たちのみのり具合とか、起こった出来事の違いではなく、

ほぼ四六時中一緒にいた愛犬、スミレがいなくなったこと。


 丁度2カ月前。いろんな病状が重なって、わずか二日でスミレは逝った。

12歳と4カ月、短い命。

クルミが亡くなって2年。スミレの不調はクルミの死以降、いろいろと続いていた。

クルミという相棒がいなくなって、調子が悪くなったのだろうか。

人間よりも繊細なところがあるのかな、と毎日スミレの体調や顔色をうかがっていたのだが。

今年に入ってくらいからは、腹水がたまってきたり、ひどい下痢が続いたり・・・。

お医者さん通いで、腹水がおさまり、一時は小康状態だったんだが・・・。


 亡くなる前、数か月間は、いろんな好きなもの、食べたいものをあげていた。

柔らかいパンや牛肉、ハムやビッツウインナー、鶏のささみを軽く塩味で炒めたもの。

それでも食が進まない時は、ゴハンとおかずを噛んで、口移しであげたり、

犬用ミルクで牛肉や、鶏肉を煮たり・・・・。

毎日、夫婦で悩みに悩んで、結局スーパーで買う食材がスミレ用のものが半分以上になることもあった。



でも、好きなものを食べさせて、少しはそれで、気もすんだ気もする。

とはいえ、なんとかできなかったものだろうか、といまだに思いは、辛く重たいものがある。



 日にち薬、という言葉をよく言われるが、これはなかなか難しい。

ふと気づくと、スミレのいない空間を思い、涙が出る。

居ない姿を思い出すと、空虚とか虚ろってこんなことを言うのかな、と

ことばの重さを思い知らされる。

仕事でもしていれば気が紛れて、少しは楽になるんだろうけど、

隠居の身では、そうはいかず、スミレの姿を追ってしまって、ついつい涙が溢れる。

のがれようもない。

毎日涙を流さない日はなく、人間の涙はいったいどの位身体ににあるのか、と思う程。

情けないが、これが現実で今のところ如何ともしがたい。

忘れようがない現実は、避けることができないものだなと思う。


もし言葉が喋れたら、どこが痛い、ここが変、としゃべることができるんだったら、

なんとかしようがあったんだろうけど、犬とはそれができない。

一生懸命目を見たり、動きを見たりして、分かろうとしても限界はある。

だから、ペットに対する思いは、人間に対する思いより以上に深くなるのかもしれない。

そんな気がする。

そして、その悲しさ、虚しさに、涙が流れて仕方がないのかもしれない。




 クルミの3回忌が終わった、と思っていたところの、スミレの死。

ペットロス、という体験をしているおおぜいの人たちが、

同じような辛い思いをしているんだろう。立ち直るのはむつかしい。

一番頑張っているのは、立ち直ったふりをすることなんだろう。




でも、時代も変わった。

出戻りの娘が、一緒につれ帰ってきた犬もいる。

また、日中の面倒を見る羽目になってしまっている。犬との縁は切れないのかな、と

少し自虐的に運命的なことを考えなくもないが、所詮飼い主は娘、と思い込むことにしている。

それはそれで、違う犬の姿を見ることも悲しさを思い出すこともあるのだが・・・。



 日常のリズムが変わってきて、どこか区切りをつけないといけないかな、と

自分の中でいろんな葛藤が出てきているのも事実だ。そこで、ブログを再開しようか、と思う。


あまり力を入れずに。


    <少し前、今年咲いたリンゴの花>