2011年3月11日の東日本大震災から、12年目が経過した。
吾は当事者ではないので、被害に遭われた方の苦しみは解らない。
どれだけ辛かったのか、幾ら心を寄せても其の苦しみ、辛さ、悲しさは解らない。
全く当事者でも無い、余所の県の者が、
「被害者の事を思うととても辛くて、悲しい」
等と、如何にも当事者の様な感想を宣う連中がいる。
解かる筈が無い。
当事者ではないからだ。
全くとんでもない偽善者が多数いる。
まぁ、そんな輩の事はさて置いて。
あの大津波に飲み込まれた方々は、色んな人生を送っていただろう。
心優しく、他人を思いやり、自分の事よりも他人を優先する。
他人を苦しめて追いやり、泣かせ、他人の事はどうでもよく己の事のみを優先する。
幼き子供、余命幾ばくも無い者、元気溌剌な者、高齢者.....。
だが、等しく皆が津波に飲み込まれてしまった。
人の寿命は、日頃の心掛けや行為の善し悪しは一切関係ないと云う事である。
他人を陥れて苦しめ、搾取しても尚、悠々自適に能々能と人生を謳歌し長生きしている輩が多くいる。
宗教で云う処の、因果応報(原因と結果=因果律)等は妄想に過ぎないと云う事である。
こんな事を云うと、浅はかな考えだとお叱りを受けるかも知れぬ。
では、逆に問いたい。
戦争や、災害等で無辜の民が命を落とす事に対して、どう説明するのか。
因果律から云えば、善人は幸せになり健康に過ごし、長生きし、悪人は不幸に見舞われ、病苦に苛まれ、短命である。
だが、遥か過去から此の理に当て嵌まる事は無かった。
神仏がいるのであれば、此れ等の事に手を差し伸べて止める事が出来た筈である。
世の宗教家に、此の事に対して明確に説明出来る者は一人としていないであろう。
だからと云って、悪行三昧でやって行けばいいと云う訳ではない。
ただ、人生途上に於いて、因果律(因果応報)に四角四面に捉われる必要は無い。
そんな事に気を取られるのは窮屈である。
其の捉われがストレスとなり健康を害してしまう。
善人と称される人に病苦が多いのは、其の窮屈さと自己嫌悪、クヨクヨと反省する行為が自分を苦しめ気が滅入り、其のストレスから病苦に罹るのである。
ルーティンを律義に守る人もいるが、ストレス此の上無い。
右足から出ようが、左足から出ようが関係無い。
何時に家を出ようが関係無い。
どの方角に向かおうが関係無い。
名前で人生どうなるものでもない。
人生を有意義に過ごすのは、己次第である。
人生の濃密さは千差万別であるから、他人と比べる必要は一切無いのである。
占いや宗教に、己の人生を翻弄される事程、愚かな事は無い。
目を醒ませ。