杉田劇場から

2005年2月5日にオープンした磯子区民文化センター杉田劇場のスタッフが綴るブログ。公演案内の他に美味しい情報も♪

大岡川を歩く~旧かねさわ道から旧すぎた道~

2022-08-16 | 公演・イベントのご報告

 5月17日に開催した第55回いそご文化資源発掘隊では、上大岡駅から大岡川沿いを栗木まで歩き、最後は旧すぎた道に入って京急杉田駅に至るコースを走破しました。

 上大岡駅前に集合した参加者は予定人数よりも若干増えて32名となり、この方々を2班に分けて出発。

 上大岡駅をスタートした一行は、カミオ横のアーケードを抜けて大岡川を目指します。アーケードを抜けたところに酒屋「成田屋」がありました。

 店舗の横に回ると、そこは角打ち場でした。角打ちというのは、酒店で購入した酒類を持って帰らずにその場で飲むことを言います。いわゆる立ち飲みとは違います。

 成田屋を過ぎると大岡川。そこに架かる橋が久保橋です。 

 大岡川は水面近くまで降りて、川のせせらぎを感じながら歩くことができるのですが、参加者は高齢の方々が多かったので、安全のため上のプロムナードを歩いていくことに。

 プロムナード沿いには、こんな門柱が。現在は広い駐車場になっていますが、昔は大きなお屋敷でもあったのでしょうか。

 ここには木があったはず。だんだん大きくなり、フェンスの中に食い込んでいき、いよいよ厳しい状態になったところで切られてしまったようです。

 やがて見えてきたのは青木橋。この橋際に青木神社があります。

 大正時代、昭和2年当時、そして現在の神社の写真です。

 鳥居の手前に神社の由来などを書いた案内板があります。ここでそれを記載するのは大変なので、港南区役所のホームページをリンクしておきますね。

 ヌエが運んだ青木神社

 青木神社を拝観したら、神社と大岡川の間にある遊歩道を進みます。

 川辺に降りてくつろいでいる学生たち。

 今回のツアーでは通りませんでしたが、ここは日野川との合流地点。

 神社を回り込んで裏道に出ると、NTTの電柱にこんなプレートが張り付いているのを見つけました。ケーブル名を表す札で、これには古い地名や昔あった有名な施設名などが使われていることが多く、これもその一つのようです。その答えは少し歩いた先にありました。

 あのケーブル名は、おそらく朝倉病院に由来するものでしょう。念のため朝倉クリニックのホームページを確認してみると、やはり明治31年に朝倉病院が日野で開設されたということが書いてありました。案内では「当時無医村であった日野村現港南区日野に診療所を開設」としています。

 さらに旧道を歩いていくと、こんな二股路に出ました。左の太い道を行くとその先は関の下交差点で鎌倉街道にぶつかります。右のひなびた古そうな細い道は、同じくその先で鎌倉街道にぶつかります。

 一見、右の方が旧道のように見えますが、実際は左の太い道が旧道です。しかし我々は旧道ではないけど古そうな道に向かいました。

 レトロな理容店「イワタ」。

 誰でも休憩できる「休処 ひとやすみ」。歩き出してそれほど時間が経っていないので、休まずに通り過ぎるとすぐに橋が現れました。

 大岡川(笹下川)に架かる松本橋です。松本というのは昔の村名。磯子区森2丁目にある森浅間神社の宮司のお名前は松本さんといい、松本村との関係が深い。

 神社の創建は鎌倉時代の末で、社伝によると、追い詰められた鎌倉幕府最後の将軍守邦親王から守り本尊を託された熊野修験者がこの地(森)へ逃れ、安置したのが始まりと言われています。江戸時代には、森三か村の鎮守となりました。代々この社を守ってきた熊野修験者の子孫19代目の時に松本村(現港南区)に移り松本権現堂を創建し、その後も社を管理し続けました。明治初年の神仏分離により、僧侶から神職に還俗した後も守り続け、現在の松本宮司は36代目とのことです。【出典:壱十五の神社と祭り】

 親柱。

 昭和10年の架橋です。この先、大岡川に架かる橋の多くは、昭和10年、11年に架けられています。もしかしたら、これらは震災復興橋なのかもしれませんね。都心部の大岡川では昭和3年ごろに架け替えられた橋が多く見られますが、それらは「復興局」の銘が刻まれた震災復興橋です。その後、郊外区の橋も架け替えが進んできたのではないかと思われます。

 橋の姿を見れば分かるように、コンクリート部分が昭和10年製で、青色の鉄柵は戦後、危険防止のために増設されたようです。

 さて、この橋を渡り鎌倉街道を横切ると、やがて港南ふれあい公園に至ります。ここで最初のトイレ休憩です。

 その向かい側には「あさの屋差入店」がありました。拘置所や刑務所にいる人たちへの差し入れ品を売っているようです。

 『磯子の史話』に載っている刑務所跡地の地図。

 港南区に刑務所ができる前は、磯子の堀割川沿いにありました。明治から大正まであった通称「根岸監獄」です。

 今回のウォーキングでは行きませんでしたが、参考に港南区総合庁舎の自転車駐輪場横のフェンスを載せておきます。コンクリートの中に、なにやら茶色いものが混じっています。

 昔の刑務所のレンガを混ぜているようです。

 さて、横浜刑務所の敷地に入ると横浜少年鑑別所、横浜刑務所、横浜拘置支所が並んでいますが、写真は撮影禁止なのでありません。

 刑務所の敷地内には刑務所作業製品展示場があります。ここでは全国の刑務所で作られている品物が展示・販売されていて、だれでも買うことができます。

 

 運営しているのは「公益財団法人矯正協会 刑務作業協力事業部」。上の棚に乗っているのは横浜刑務所で作っているトートバッグ。税込み400円です♪ ここでは良い品物が安く買えます。

 他に横浜刑務所製の乾麺もありました。参加者も購入していましたが、地元の方々が何人も来ていたのが印象的でした。

 これは富山刑務所で作ったお神輿(数年前に撮影したもの)。栗木町や田中町の町内会でも購入したそうです。

 洗濯をする前に汚れている襟首や袖口などをこれで擦ってから洗濯機に入れると、よく落ちるそうです。

 いい靴が揃っていました。

 焼き物です。

 メイド・イン・プリズン。購入した乾麺の袋には、製造 横浜刑務所と印刷されていました。

 刑務所作業製品展示場の隣にある広場。そこに一本杉が立っています。

 船村徹先生 別れの一本杉 15,000日
 船村徹先生の作曲家生活40周年を記念してここに植樹する
 平成3年6月12日

 「別れの一本杉」は1955年12月にリリースされた春日八郎のシングル。作詞:高野公男、作曲:船村徹。
 船村徹は、昭和33年から全国の刑務所を慰問して回っていたというので、もしかしたらこの横浜刑務所にも来たのかもしれません。
 ちなみに、「悲しき口笛」が大ヒットしたあと、美空ひばりは加古川刑務所で慰問演奏をしていたといいます。

 広場の奥にはなにやら記念碑のようなものが2つ建っていました。

 「赤誠隊及図南報国隊殉職者碑銘」。

赤誠隊 昭和14年、行刑局は海軍省の要請に応え、残りの刑期が1年半以上かつ45歳以下の建設工事に向く受刑者を全国から選び、横浜刑務所を集合基地とし、受刑者部隊を 「赤誠隊」 と命名し、その年の12月、海軍の御用輸送船で南洋諸島へ向けて、先遣隊の職員9人と受刑者20人が横浜港から出港しました。

 

 「南方殉職刑務官碑銘」。

碑文)先の大戦中 図南報国隊が戦火の下で完遂し トラック島海軍基地建設の作業は 行刑史上まことに壮烈無比なものである 選ばれてこの隊の指導者として派遣された同僚諸君は 前後を通し三百六十四名に達したが この全員の帰還を祈った一同が願いもかいなく 戦局悪化するに及んで 或者は隊員に付き添って海に沈み 或者はその作業督励中病と被爆にこの島で散ったのである(以下略)

 さて、刑務所作業製品展示場で買い物をしたり、広場で記念碑などを見学した一行は、大岡川に沿って笹下釜利谷道路を進んでいきます。すると、こんなものが現れました。コイン精米機です。

 

 やはり、海側の地域とは違って、こちらでは農業文化が息づいているようです。

 笹下釜利谷道路から離れて、再び大岡川に沿って、のどかな道を歩いていくと、こんな水門が出現しました。

 大岡川取水庭です。昭和36年6月の梅雨前線による豪雨、昭和41年6月の台風4号による洪水のため、大岡川は中下流域で氾濫し、共に数千戸が浸水するという大被害が発生しました。

 そのような大災害を防ぐため、ここに巨大な取水庭を造り、大雨の時は雨水をためて分水路に流すようにしたのです。

 この先が大岡川分水路です。地下を通って、最後は森町から根岸湾につながっています

 (碑文の一部)そこで神奈川県と横浜市は、このような災害を防止するため、日野川と大岡川の洪水を直接根岸湾に放流する大岡川分水路計画を樹立し、昭和四十四年に着工いたしました。以来、家屋の移転、用地の提供など多くの市民の方々の絶大なるご協力のもとに十二年の歳月と百六十六億円余の事業費を投じ昭和五十六年三月ここに完成したものであります。

昭和五十六年三月 神奈川県知事 長洲一二  横浜市長 細郷道一 

 歴史的農業環境閲覧システムから、現地の新旧対比地図。もともと曲がりくねった川筋で、左地図の「く」の字の部分に取水庭ができました。

 そのため立ち退きをせざるを得なかった人たちがいました。

 その経緯を記録した「かわじまの碑」。

 大岡川取水庭を見学したら、次は日下小学校の郷土資料館へ向かいます。

 空き教室を利用して郷土資料館がつくられています。昔の農機具や生活用品、衣料品などが展示されています。

 資料館の外壁には昔懐かしい写真が飾られていました。

 館長の北見さんから解説がありました。

 農機具や生活用品です。

 海軍のセーラー服と帽子。

 謄写版印刷機。インクの付いたローラーを手で転がして紙に印刷します。原紙はロー紙で、鉄筆を使って文字を書いて版下を作っていました。昭和28年のもの。

 湯たんぽ。金属でできた容器の中にお湯を入れて、布団の中に置いて暖を取っていました。下は蚊取り線香を入れる豚型の容器。

 郷土資料館で北見館長のお話を聞いたら、再び笹下釜利谷道路に出て少し進むと二股の分かれ道に。

 こちらが、かねさわ道の旧道です。狭い道ですが自動車が対面通行していますので要注意。

 しばらく川沿いに歩いていくと、現れたのが小さな元笹下橋です。ここを渡っていくと、幻の笹下城があったという高台に至ります。

 

 この日は行きませんでしたが、元笹下橋を渡って道なりに進んでいくと、このような場所に出ます。この坂道を登っていったところに笹下城がありました。

 これは『磯子の史話』に掲載されている笹下城跡想定図です。大岡川(笹下川)やその支流が天然の堀になっていたようです。赤丸で囲んだ若宮社と御霊社は合わさって、現在、洋光台の若宮御霊神社となっています。

 笹下城跡想定図で「堀」と書かれた部分の先は、現在、こんな姿になっています。手前の道路は笹下釜利谷道路。それを横切って奥へ向かう部分は暗渠になった堀の部分と思われます。この先に若宮御霊神社があります。

 そこからさらに大岡川を遡っていきます。そうするとこんな二股が現れました。左が大岡川で右が左右手(そうで)川、その合流点です。

 秋は紅葉が美しい渓谷のような雰囲気♪

 このあとは、大岡川に近づいたり離れたりしながら、さらに遡って行きます。やがて旧道は笹下釜利谷道路に合流し、栗木の根岸線ガードに至ります。これをくぐり、環状3号線を越えると、左に入っていく細い道があります。これが旧すぎた道。

 舗装された道路はここで終わり。この先は薄暗い未舗装の道です。

 しばらく登っていくと、突然、こんな祠が現れました。中には4基の石塔が収められていました。

 

 左の2基は青面金剛(しょうめんこんごう)。日本仏教における信仰対象のひとつで、青面金剛明王とも呼ばれます。

 インド由来の仏教尊格ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊格である。庚申講の本尊として知られ、三尸(さんし)を押さえる神とされる。【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)】

 夜叉神が足で三尸(さんし)を押さえています。その周りには見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が配置されています。 

 その右には道標が。「左新まち江」と読めますが、新町とはどこを指すのでしょうか。「右すぎたみち」と読むのかな。

 一番左の石塔は、文字だけの青面金剛です。

 左の道がさっき登ってきた道です。すこし登りながら向こう側へ向かっているのが「すぎた道」。撮影地点から後ろに向かうのが「かねさわ道」です。

 参加者は樹林の中にひっそりと佇む石塔群を眺め、しばし江戸時代の空気を吸ったあと「すぎた道」に向かいました。その先は杉田坪呑の住宅地です。ここを突っ切って根岸線のガードをくぐり、細い道をたどっていくと、京浜急行の杉田第2踏切に飛び出しました。

 解散地点の京急杉田駅はもうすぐそこです。

by うめちゃん



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