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日々冒険

船橋市在住のエディター、ライター陶木友治の活動記録および雑感

自転車トルコ横断記⑮「旅の終焉3“We got him!”」

2010-08-05 20:22:39 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

超久々となりましたが、「自転車トルコ横断記」の第15話をアップします。ちなみに最終回です。初見の方は、左下のカテゴリー欄にある「自転車トルコ横断記」をクリックして、できれば1話目からご笑覧ください。
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■前回までのあらすじ

2002年1月4日、雪中に埋設した自転車を取り戻すためエルマダへ向かった僕は、現地で予想外の事態に直面し愕然とします。何者かの手によって、自転車を含む装備一式が持ち去られてしまっていたのです。

地元の警察署を訪ねた僕は、荷物の捜索を依頼しました。捜索に前向きではないエルマダ警察を5時間半におよぶ粘り強い交渉の末に説き伏せ、どうにか捜査実施の約束を取り付けることに成功。その後、アンカラへと引き返します。

■アンカラのホテルに引きこもる

自転車を盗まれ、旅行を続けるための手段を失った僕は何もすることがなくなり、アンカラで無為に時を過ごすことになります。



アンカラ市内の様子。
行政都市としての性格が強く、見所が少ない。

であるならば、アンカラとその周辺を観光でもしてお茶を濁せばいいのですが、3日前に市内を歩き回ってすでにあちこち見て回っていたため特に訪れたい場所もありませんでしたし、そもそもトルコ共和国の首都であるアンカラは行政都市としての性格が強く、見所自体もそれほど多くありません。

それにエルマダ警察との取り決めでは、装備一式を発見した場合は、ただちに僕が滞在しているホテルに直通電話を入れてもらう手はずになっていましたから、四六時中、外をほっつき歩いているわけにもいきません。そのため、アンカラに戻ってからのほとんどの時間を、僕は安ホテルの一室で過ごさなければなりませんでした。

まさに進むことも退くこともままならない状況で、まるで入口と出口を塗り潰されたトンネルの中に閉じ込められたような絶望的な気分でした。

この状態は、悪く言えば「引きこもり」のようなものです。精神衛生上、よろしいはずがありません。次第に僕はネガティブな感情に支配されるようになり、心の中は強い不安と大きな焦りで満たされました。

エルマダ警察が自転車の捜索に真摯に取り組んでいない可能性もありますし、もっと言えば、捜索そのものを行なっていない可能性もあります。もしそうだった場合、寒々しい安ホテルの一室で今か今かと朗報を待っている僕の姿は、マヌケ以外のなにものでもありません。そうしたネガティブな考えばかりが頭の中を駆け巡りました。

同時に、脳裏には旅の過程で出会った人々の姿が浮かんでは消えていき、そしてまた浮かんできます。応援してくれた人、食事をご馳走してくれた人、土砂降りの雨の中、ずぶ濡れになりながら1時間も歩いてホテルまで案内してくれた人……。自分の不注意で旅が頓挫するようなことになれば、僕に対するトルコの人々の温かいサポートやおもてなし、親切心がすべて無駄になってしまいます。

加えて、日本のことも気になりました。僕は長期の休暇を取得してトルコに旅立っており、職場の同僚や上司などに大きな迷惑をかけてこの地にやって来ています。また、当時お世話になっていたS編集局長からは「もしかすると他の媒体で旅の模様をリポートする機会があるかもしれないから、写真をたくさん撮ってきてくれ」と言われ、大量のポジフィルムを預ってきていました。旅行を完遂できなかった場合、なんと言い訳してよいのやら……。

自分一人で完結する旅なら失敗しても自分が悔しい思いをするだけで済みますが、今回の旅はちょっと事情が違います。ある意味では多くの人を巻き込んだ旅とも言え、自分の失敗が他者の失望を招くことにもなりかねません。そのことが一種のプレッシャーとして僕の心に重くのしかかってきました。



こちらもアンカラ市内の様子。天気は好いが、気温は相変わらず氷点下だ。

■アンカラで心が折れる

夜が明けてからも状況は好転せず、僕の心は一向に晴れません。無気力感に支配され、テレビを見ても食事をしても本を読んでも楽しめない。大げさでも何でもなく、世界中の不幸が自分の身の上にふりかかってきたかのような惨めな気分で2日目を迎えました。

この日も、僕は安宿の一室で悶々とした時間を過ごしました。そして夕刻、突如として僕の心のダムは決壊します。僕は自転車の奪還を諦めてしまったのです。

よくよく考えてみて、自転車が自分の手に戻ってくる可能性は極めて低いだろうという結論に至ったのです。小さな街とはいえ、万単位の人間が生活しているエルマダを隅から隅まで捜索するのは時間がかかるうえに、すこぶる骨の折れる作業です。警察も暇ではありませんから、自転車の捜索だけに時間とマンパワーを割くわけにもいかないでしょう。

時間に糸目をつけなければ見つけることは可能かもしれませんが、残念ながら僕の旅には締め切りがあります。6日後には、必ず日本行きの飛行機に搭乗しなければならないのです。残された期間中に自転車が見つかる保証は全くありません。これらのことを踏まえ、トルコ滞在中に自転車を取り戻すのは不可能だろうという結論に至ったのです。

自転車を失ってから、まだ2日しか経っていません。なんという諦めの早さ、そして執着心のなさでしょう。2日前にエルマダ警察の面々を前に見せた粘り強さと豪胆さはいったいどこへ行ったのやら……。

「アンカラにいても仕方がない。イスタンブールに戻ろう」
そう決心した僕は、アンカラ駅のチケットオフィスで22:00発の夜行列車の切符を予約。傷心した僕を乗せ、列車は夜のアンカラ駅を出発しました。



アンカラ駅のプラットフォーム。

■イスタンブールで急転直下

列車がイスタンブールのハイダルパシャ駅(ボスポラス海峡の東側)に着いたのは、翌朝の7:12。適当な安ホテルにチェックインして一息つくと、とたんに自転車とエルマダ警察のことが気になり始めました。

もう少しアンカラで粘ってみても良かったのではないか、イスタンブールへの帰還は早計な選択ではなかったか……。そうした思いが浮かんでは消えていきます。きっぱり断念したつもりだったのですが、心のどこかに諦めきれない自分がいたようです。自分の一貫性のなさや往生際の悪さに情けなさを感じました。

見つかるはずがないという思い込みや、警察は本気で捜索しないだろうという勝手な推測からアンカラを飛び出してきた格好でしたが、冷静になって考えてみると、エルマダ警察は僕のために必死になって自転車を捜索してくれているかもしれないのです。あらためてその可能性に気づいた僕は、こちらから捜索を依頼しておきながら、彼らに一言も断りをいれずにイスタンブールに戻ってきてしまったことを強く後悔しました。僕の行動は、身勝手以外のなにものでもありません。

「エルマダ警察に、捜索の中止を要請しよう」

そう考えた僕は、電話をかけました。電話に出た相手に自分の名前と国籍を告げると、その人物は「君は、自転車を失くしたあのジャパニーズか?」と聞いてきます。

そうだと答えると、電話の向こうが急に騒がしくなります。「どうしたんだ?」という僕の問いに対する答えを聞いて、耳を疑いました。

「We got him!(奴を捕まえた)」

なんと! 僕の自転車を持ち去った人物を逮捕したというのです。寝耳に水とは、このようなことを言うのでしょう。聞けば、犯人を捕まえただけでなく、自転車とその他の荷物も確保したとのこと。事態のあまりの急転直下にうろたえる自分を感じつつも、「これからすぐにそちらへ向かいます」と伝え、僕は電話を切りました。

一刻も早くエルマダに戻りたかった僕は、アンカラ行きの特急列車のチケットを購入するために、今さっき到着したばかりのハイダルパシャ駅へ。時刻表によれば、アンカラ行き列車の出発時刻は22:00。発車までまだ10時間以上もありましたが、逸る気持ちを抑えることができません。先ほどチェックインしたばかりのホテルをチェックアウトし、列車の出発時間まで駅周辺で暇をつぶすことにしました。出発までの時間が永遠の長さに感じられたことは言うまでもありません。

■窃盗犯との対面

翌日の1月8日の早朝。僕は再びアンカラに戻ってきました。気温はマイナス15℃。極寒の中、路線バスに乗ってエルマダへと旅立ちます。

約1時間後にエルマダのバス停で降車。市の中心部に向かって歩いていくと、エルマダ警察署の前で談笑している数人の警察官たちの姿が見えてきました。そのうちの一人が僕を認めた瞬間、「ジャパニーズが戻ってきたぞ!」と大声で署内に呼びかけました。すると、建物の中から大勢の警察官たちがワラワラと飛び出してきて出迎えてくれます。どの警官も満面の笑みを浮かべています。僕の到着を今か今かと待ち構えていた様子でした。

「自転車が見つかったぞ。良かったな」
「これで旅行が続けられるな」

彼らは口々にそう言い、僕の肩をたたきながら署内に迎え入れてくれました。ほんの数日前、途方に暮れる僕を嘲ったり悪口雑言を浴びせかけたりした人たちとは思えないほどフレンドリーな対応。先日の態度とは打って変わって、彼らの顔には一種の誇りのようなものが浮かんでいます。やはり仕事でなにがしかの成果を挙げることは、公務員たる警察官たちにとっても嬉しいことのようです。

彼らは、僕を会議室のような部屋へと案内してくれました。そこには、二度と戻ることはないと諦めていた僕の自転車と装備一式が所在なげにたたずんでいます。紛失したものがないか装備品をあらためはじめたとき、会議室がにわかに騒がしくなりました。



警察署内の会議室に保管されていた自転車と荷物。

なにげなく部屋の入り口のほうを見やると、そこにはボロボロの衣服をまとった40歳くらいのトルコ人男性が呆然とした態で立ち尽くしています。その男性は屈強な警察官に両脇をがっしりとつかまれ、身体の前で手錠をはめられています。説明されるまでもなく、この人物が僕の自転車を持ち去った人物だと分かりました。

手錠をはめられた人間を間近で見るのは初めての経験です。このときになって、僕は事の重大さに戦慄します。

本来ならこの人物に対して怒りを覚えるのが普通なのでしょうが、不思議なことにそのような感情はいっさい湧いてきません。それは「ムスタファ」という名のその男が、あまりにも惨めに思えたからに他なりません。彼の表情を見ると、明らかに怯えきっています。日本では窃盗は微罪ですが、もしかするとトルコでは厳罰に処される可能性があるのかもしれません。

荷物をあらためたところ、驚いたことに何も盗られていませんでした。紛失したものは一つもなく、数日前に雪中に放棄したときの状態のままです。僕の頭には一つの疑問が浮かびました。

「この男は、いったい何のために自転車を持ち去ったのか?」

ムスタファ本人に尋ねてみましたが、彼は「悪意はなかったんだ。お願いだから許してくれ」と哀願するばかりで会話が成立しません。嘘をついている可能性もありますが、本当のことを言っている可能性もあります。なにしろエルマダ警察の話では、トルコの社会通念では道に放棄されているものを持ち去ることは犯罪には当たらないそうですから……。

仮にそれが事実だとすると、ムスタファには実際に悪意が全くなかったのかもしれません。たまたま道を通りかかって、放棄された自転車を見つけただけかもしれないのです。にもかかわらず、僕が騒ぎ立てたことでムスタファが逮捕されてしまうようなことになれば彼は不運以外のなにものでもないですし、こちらとしてもあまり良い気持ちはしません。

いずれにせよ、ムスタファがあまりにも哀れに思えたため、僕は警察に対し「何一つ盗まれていないようなので、彼を解放してあげてほしい。君たちも言っていたように、トルコでは落ちていたものを拾うことは犯罪に該当しないんだろう? 今回は僕にも非があるので、彼を釈放してくれ」と伝えました。

元はと言えば、今回の騒動は僕の不注意や準備不足が発端となって起きています。不測の事態だったとはいえ、万全の計画と準備を整えていれば騒動は起こらず、ムスタファも逮捕されなかったはず。僕にも責任の一端はあり、ムスタファ一人にそれを押し付けることに心苦しさを感じました。

僕の訴えが効いたのかどうかは分かりませんが、とにもかくにもムスタファは別室へと引き立てられていきました。その後、彼がどうなったのか知りません。今となっては、無事に釈放されたことを祈るばかりです。

その後、数日前に対決した警察署長に挨拶。彼も満面の笑みを浮かべながら、「良かったな」と言ってくれます。署長をはじめ、お世話になった警察官たちにお礼を述べたのち、僕はエルマダ警察を後にしました。

■旅の終焉



イスタンブールに戻る。とても美しく楽しい街だが、傷心の僕は何一つ楽しめず。

このような顛末で、僕は自転車と装備一式をこの手に取り戻しました。いま振り返ってみても、奇跡的な展開だったと思います。しかし一連の騒動で丸5日を浪費してしまい、帰国日が4日後の1月12日に迫っていました。目的地であるエルズルムまでの道のりはまだ1000km以上も残されており、どんなに頑張って自転車を走らせたとしても、期限内にエルズルムにたどり着くことは不可能です。

一瞬、「せっかくトルコまで来たのだから、行けるところまで行ってやろうか」という考えが頭の中をよぎりましたが、それにはかなりの危険が伴います。潔く、自転車旅行の継続を諦めることにしました。

残りの4日間、僕はイスタンブールを散策してまわりました。しかし、目標を失った僕の心にはポッカリとした大きな穴が開き、何をやってもどこへ行っても誰と話しても楽しめません。亡骸のような日々を過ごしました。

総じてトルコは素晴らしい国で、旅行するなら最高の国と言えるかもしれませんが、僕にとっては、敗北感と挫折感にまみれた苦い思い出の地以外のなにものでもありません。

「いつか再チャレンジしてやろう」

捲土重来を期す思いもありましたが、いまだに実現できていません。トルコでの冒険行をともにした愛車「WN2000」も、その後、回復不能のダメージを負ったため廃棄を余儀なくされ、今はもう手元にありません(終わり)。



帰国前日。失意のうちに旅行を終える。

自転車トルコ横断記⑭「旅の終焉2“エルマダ警察での攻防”」

2009-01-18 18:50:39 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

「自転車トルコ横断記」の14回目(全15回)をお届けします。初見の方は、左下のカテゴリー欄にある「自転車トルコ横断記」をクリックして、できれば1話目からご笑覧ください。
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        一時放棄した自転車と装備を回収するべくアンカラを出発。
        この後、事態は思わぬ方向へ展開することに…。

2002年1月3日の夕刻、-15℃の極寒と猛吹雪に耐えながらどうにか「エルマダ」という小さな町にたどり着いたものの、人口2万人程度のこの町には旅行者が宿泊できるような施設がありません。テント泊に凍死の危険を感じた僕は自転車と装備一式を雪中に放棄し、貴重品だけ持ってアンカラへ一時避難しました。

翌朝、6時半に起床すると幸いにして吹雪は収まっています。装備の安否が気にかかって仕方がなかった僕は、すぐさまエルマダへ向かおうと思ったものの、バスのタイミングがうまく合わず、けっきょくアンカラを出発できたのは11時。エルマダに到着したのは、その約1時間後です。

バスを降車すると脇目も降らずに自転車の埋設場所へ突進し、雪を掘り始めました。ところが、あるはずの自転車がそこにない! 最初は場所をまちがえたのかと思い、捜索範囲を広げてみたもののやはりどこにも見当たりません。何が起きたのか理解できませんでしたが、すぐに状況が飲み込めました。そうです。僕の自転車と装備は何者かによって盗まれてしまったのです。

それにしても、いったい誰が? 装備を埋めるとき、周囲に人気(ひとけ)がないことを確認してから作業を開始しました。したがって、誰にも見られていないはずなのです。とはいえ、現実問題としてあるはずの場所から自転車と装備が忽然と消えてなくなっているわけですから、誰かが装備を埋めている僕の姿を目撃し、僕がその場を離れた後に掘り出して昨晩のうちに持ち去ってしまったのでしょう。

一時的な茫然自失状態が過ぎると、次第に気分が悪くなってきました。吐き気とはまた違う、嚥下しがたいナニモノかが身体の奥深くからこみ上げてくるような不快感です。大事にしているモノや身近な存在を突如として奪われてしまったときに受ける、いわゆる精神的ショックというやつでしょう。ただそれもほんの一時のことで、すぐに怒りがこみ上げてきました。

「人の所有物を勝手に持ち去るとは許せん! 地元の警察に事情を話して、捜索してもらおう」

そう考えた僕は、町の中心部にあるエルマダ警察署を訪れました。

エルマダ警察署は、人口2万人のこの町には似つかわしくないほど広く立派な建物でした。中に入ると署員がいっせいにこちらを振り向き、困惑と緊張が入り混じったような表情を浮かべます。田舎町の警察署ということもあってか、見慣れぬ東洋人の突然の登場に戸惑っている様子でした。もしかすると、この警察署を訪れた日本人は僕が初めてかもしれません。

声をかけると、警察官たちがゾロゾロと周りに集まってきました。恐らくは下っ端の警察官たちで、日本で言うところの巡査のような立場の人間だと思われます。パスポートを提示し、身分と訪問の目的を説明しようとしたところ、困ったことに英語がほとんど通じません。すると巡査の一人が「ちょっと待っていてくれ」と身振りで示し、一人の警察官を連れてきました。彼らの上役と思しき人物で、役職としては係長あるいは課長クラスの人間でしょう。

幸いにして、彼はカタコトの英語が話せました。海外旅行の経験がある人ならお分かりだと思いますが、カタコト同士の会話は意外に通じ合うものです。そこで「雪中に一時放棄した自転車と装備が盗まれ、旅を続けられなくなって困っている。捜索を手伝ってくれ」と自分の窮状を訴えました。

すると次の瞬間、その場に爆笑が巻き起こりました。それも、僕に対する嘲りを多分に含んだ意地の悪い笑いです。彼らが嘲笑する理由が分からず、予想外の反応に僕は思わずきょとんとしてしまいます。ただカタコトの英語が話せる署員の説明で合点がいきました。

要約すると──

「盗まれたお前のほうに非がある」
「大事な荷物を放置するとは本当におめでたい奴だ。トルコ人ならそんなことは絶対にしない」

──ということのようです。彼らから見れば僕の行動は軽率かつ間抜け以外のなにものでもなく、そのあまりの滑稽ぶりにこみ上げてくる笑いを抑えることができなかったのでしょう。

そう言われても、昨晩は緊急事態だったのだから仕方がない。あの状況だったら、誰だって僕と同じ行動をとったはずです。しかし、いくらそう説明しても彼らは下級役人にありがちな下卑た笑みを浮かべるだけ。いっこうに取り合ってくれません。

「他人の所有物を勝手に持ち去るのは窃盗だろう。この町で犯罪が行なわれているのに、警察官である君たちが捜査しないとはどういうことだ。それでいいのか」

職務に対する責任感や使命感に訴えかけて協力を依頼したものの、警察官たちは態度を変えようとしません。彼らは、

「落ちていたものを拾うのは犯罪ではない」
「日本ではどうか知らないが、社会通念上、トルコでは遺失物は拾った人のものだ」
「探したってどうせ見つかりっこない。だから諦めろ」

という説明を繰り返すばかりです。とりつく島がないとはこういうことを言うのでしょう。実際にトルコでは遺失物は拾った人間のものになるのか、それとも「探すのが面倒だから」「外国人とのトラブルに巻き込まれたくないから」という理由でぞんざいに対応しているのか、彼らの表情からは読み取れません。

話がなかなか噛み合わず、「捜査してくれ」「諦めろ」という出口の見えない押し問答で2時間ほど費やした後、このままでは埒が明かないと思った僕はクレーマーよろしく「お前らでは話にならない。責任者を出せ!」と怒りも露わに詰め寄りました。

すると警察官たちもホッとしたのでしょう。一様に重荷から解放されたような安堵の表情を浮かべて、署長室(!)に案内してくれました。外国人旅行者に対して粗暴な態度を取るわけにもいかず、彼らとしてもどう対応すべきか判断に迷っていたに違いありません。

        
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        自転車が健在だった頃のアンカラ市内の様子。
        装備一式が行方不明になるとは想像もしていなかった。        

「エルマダにようこそ」と握手を求めてきたエルマダ警察署長はさすがに下級職員たちとは雰囲気が異なり、威厳と貫禄を備えた知的な風貌の持ち主で、率直に言って「話の分かる人のようだ」という印象を持ちました。しかしそれは見込み違いに過ぎず、署長も先ほどの警察官たちと同様に「諦めろ」という投げやりな対応に終始します。そのため、また2時間ほど堂々巡りの押し問答を繰り返さなければなりませんでした。

見方を変えれば、彼らの言うことにも一理あるのかもしれません。「郷に入れば郷に従え」という諺を実践するならば、僕はトルコの社会通念に従って装備の奪還を諦めるべきなのでしょう。しかし、旅を最後までやり遂げたいという思いが強かったですし、自転車および装備に対してひとかたならぬ思い入れを抱いていたこともあってどうしても諦め切れませんでした。

仮に装備一式を失った場合、僕が被る損失額は恐らく40万円ほどになるでしょう。自転車だけでも10万円以上する代物で、その他の装備にもけっこうお金をかけています。装備に対するこれまでの投資が無に帰すことに抵抗がありましたし、何よりも使用していた自転車やキャンプ道具はこれまで数々の冒険をともにしてきた相棒で、僕にとっては道具以上の存在でした。だから、何が何でもこの手に取り戻したかったわけです。お金だけの問題だけではありません。

そこで僕は粘り強く交渉を続けました。すると16時半を過ぎたころから風向きが変わり始めます。署長がしきりと時間を気にし始めたのです。厄介な訪問者を追い払うための芝居ではなく、何か本当に気がかりなことがあるような様子でした。もしかすると夕方以降に用事が入っているのか、あるいは終業時間が迫っていたのかもしれません。心なしか、焦っているようにも見えます。

これをチャンスと考えた僕は、攻勢を強めました。最後には「捜索を約束してくれるまで、ここから一歩も動かないからな」とむずかる子供のような態度に出て強い決意を表明したところ、ついに署長が折れました。

「お前には負けた。捜してみるから、とりあえず今日のところは引き払ってくれないか」

半ば懇願するような口調でそう言うと、署長は部下の警察官を自室に呼んで何やら指示を出しました。それからは、先ほどまでの停滞が嘘のように話はとんとん拍子で進行していきます。

まず現場確認が行なわれました。現場確認といっても、自転車を埋めた場所に警察官を案内して昨晩の状況を簡単に説明するだけです。その後で、装備品のリストを書かされました。装備が見つかったときに、紛失したものがないか照合するために使うのでしょう。それから、エルマダ警察は「盗難証明書」なるものを発行してくれました。最後に彼らと相談し、自転車が見つかったらホテルまで連絡してくれるように頼みました。

こうした手はずを整えた後、僕はエルマダ警察を辞去しました。時刻はとうに17時を過ぎており、5時間以上もここで粘っていたことになります。諦めずに交渉を続け、最後に望みどおりの成果を手にした僕はその安堵感と達成感から、心なしか気持ちが高ぶっていました。

しかしアンカラに戻るバスの車中で、一転して言いようのない不安に襲われます。

「彼らはきちんと自転車を捜索してくれるのだろうか?」
「そもそも捜索する気があるのだろうか?」
「署長が“探す”と約束したのは、僕を追い払うためのその場しのぎの策略だったのではないのか?」
「探す素振りだけ見せて、実際には何もしないのではないか?」

こうした不穏な考えが毒のように全身を駆け巡り、胸苦しさを覚えました。こうなるともはや何もかもが信じられなくなり、不安と猜疑心だけが募ってきます。まるで疑心暗鬼にからめとられた虜のようでした。

だからと言って、僕にはどうすることもできません。手をこまねいて、待っているしかない。独力では事態を打開することができず、自転車をこの手に取り戻すにはエルマダ警察の協力を仰がなければならないのです。帰宿後、寒々しい安ホテルの一室で僕は強い無力感と孤独感に打ちひしがれました。(次回に続く)

自転車トルコ横断記⑬「旅の終焉1“このままでは凍死する”」

2008-12-14 20:51:11 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

「自転車トルコ横断記」の13回目(全15回)をお届けします。初見の方は、左下のカテゴリー欄にある「自転車トルコ横断記」をクリックして1話目から笑覧ください。
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         ↑アンカラ市内を快調に走行。しかしこの後、天候が急変する。

2002年1月3日(木)、僕の自転車トルコ横断は志半ばで唐突に終焉を迎えます。その顛末を、これから3回にわたってリポートしていこうと思います。

前々日の1月1日(火)、つまり2002年の元旦に、僕はトルコの首都であるアンカラに到着。翌日の1月2日(水)を休息日とし、アンカラ観光に費やしました。ちなみにその日の気温は-8℃で、天候は大雪。凍てつく寒さの中、僕は震えながら市内観光に勤しみました。

そして翌日(1月3日)。7時に起床してみると、相変わらず気温は氷点下でしたが、前日の悪天候がウソのような好天に恵まれていました。その中を、僕は東を目指してペダルを漕ぎ始めました。

約2時間で広大なアンカラ市を抜けることができたものの、昼過ぎから雲行きが怪しくなってきました。上空に重く暗い雲が垂れこめ始め、気温が急激に下がってきたのです。路上に設置されていた気温計の数値を確認してみると、驚いたことに-15℃を表示していました。およそ12~13km/hのスピードで自転車を走らせていたので、体感温度は-20℃を下回っていたに違いありません。

しかも運の悪いことに、猛烈な吹雪に見舞われます。四方八方から雪混じりの暴風が容赦なく吹きつけ、思うように自転車を走らせることができなくなりました。それだけでなく、視界も急激に悪化。気づくと、いつの間にか路上からはクルマの姿が消え失せていました。数メートル先の視界が利かない危険な状況でしたから、地元のドライバーたちは走行を自粛したようです。

         
         ↑いきなり濃霧が立ち込めてきた。この数分後、猛烈な吹雪に見舞わ
          れる。

あまりの寒さで全身が大きく震え始め、指先や爪先、鼻の頭の感覚もなくなっていき、しまいには意識まで遠のいていくような感覚を覚えるようになりました。危険を感じた僕はいったん立ち止まり、かじかんで動かない指先を意志の力でどうにかコントロールして地図を開き、現在地を確認しました。

地図によれば、東へ30kmほど行ったところに「エルマダ(Elmadag)」という小さな街があります。天候が回復する気配は微塵も感じられず、いつものように陽が沈むまで目一杯走り続けると身に危険が及ぶことも考えられる状況でしたから、今日はとりあえずエルマダまで自転車を走らせ、そこで行程を終了させることに決めました。

エルマダには17時前に到着しました。-15℃という極寒の中を走り続けてきたため、当然のことながら全身は冷え切っています。一刻も早く暖をとりたかった僕は、すぐに宿泊施設を探し始めました。しかし、いくら探してもホテルやモーテルを見つけることができません。たまたま通りかかった中年のトルコ人男性に尋ねてみたところ、エルマダには旅行者が宿泊できる施設は1軒もないとのことでした。
(ちなみにエルマダの地図は、「こちら」を参照してください)

これにはショックを受けました。聞けば、エルマダの人口は2万人程度。確かに、観光地でもなんでもないこんな小さな街にホテルがあるはずもありません。こういうときのためにテントやシュラフ、ロールマットなどのキャンプ道具を持参していましたが、この寒さの中で野営すると確実に凍死します。所持しているすべての衣服を身にまとい、シュラフにもぐりこんで身体を丸めながら眠ったとしても生存は難しいでしょう。冬山用の装備があれば話は別ですが、僕はそんなハイスペックな装備を持ってきていません。

中には「凍死するなんて大げさな」と思う人もいるかもしれませんが、これはもう、その場にいた人間にしか分からない感覚です。このとき、僕には「屋外で寝たら、数時間以内に死んでしまうだろう」ことが本能的に分かりました。

途方に暮れましたが、グズグズしてもいられません。周囲はすでに濃密な闇に包まれており、気温はさらに下がっています。そこで僕は、「いったんアンカラに避難しよう」と決意しました。問題は、自転車と装備の処遇です。路上に放置していくわけにもいきませんし、再び自転車に乗って来た道をアンカラまで戻るだけの気力・体力も残っていません。

けっきょく僕は、自転車と装備を隠すことにしました。幸いにして辺り一帯には雪が降り積もっていましたから、人気(ひとけ)のない場所を探して自転車を横たえ、貴重品を取り出して身につけた後、自転車に雪をかぶせて目立たないようカモフラージュ。その作業を終えるとバスに乗ってアンカラへ舞い戻り、ウルス地区にある「アズ」という名のホテルにチェックインしました。

無事にホテルに到着して安堵したものの、エルマダに放棄してきた自転車と装備のことが気になって仕方がありません。もし隠しているところを悪意を持った人間に見られていたとしたら、掘り出されて持ち去られてしまっている可能性も考えられます。一刻も早く荷物をこの手に取り戻したいと考えた僕は、翌日は夜明け前に起床して始発のバスでエルマダまで行き、装備一式の安否を確認しようと心に決めて眠りにつきました。(次回に続く)

自転車トルコ横断記⑫「トルコなら住んでもいいと思ったワケ」

2008-11-21 08:05:43 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

「自転車トルコ横断記」の12回目(全15回)をお送りします。初見の方は、左下のカテゴリー欄にある「自転車トルコ横断記」をクリックして1話目からご笑覧ください。
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        ↑食堂の入口付近におかずが並んでいる。
         この中から食べたいものを選ぶ。
         どれも実に旨い!
         あまりにも美味しいので、
         ついつい3~4品ほどたのんでしまう。

海外旅行の良い点の一つに、日本という国を客観的に眺められるようになることが挙げられます。日本にいるとなかなか気付きませんが、海外に出かけるとそれまで見えていなかった日本の良さや素晴らしさが見えるようになります。

では日本の良さが何かと言えば、一般的には「治安が良い」「親切で正直な人が多い」「電車がきちんと定刻どおりにやって来る」などが例として語られることが多いと思います。確かにそのとおりなのですが、これら以上に素晴らしい点として僕が挙げたいのは「食事の美味しさ」です。

日本食は本当に美味しい。世界中のすべての国と地域を訪れたわけではありませんが、少なくとも十数カ国を旅した僕の経験で言えば、いまのところ美味しさという点で日本食を凌ぐものに出会っていません。

もちろん僕は日本人ですから、日本人の舌や好みに合わせて作られている日本食が美味しく感じられるのは当然でしょう。ただ外国人から見ても、どうやら日本食というのはとびきり旨いものらしいのです。中国を旅行したとき、日本を訪れたことのある中国人男性と会話する機会があったのですが、彼は「日本はご飯が美味しくてビックリした。特にラーメンが」と言っていました。スウェーデンやヴェトナム、シンガポールで出会った現地人も同様のセリフを口にしていました。

外国に長期滞在(長期旅行)する場合、食事が「美味しいかどうか」が旅の印象や顛末を左右することが多く、はっきり言って食事が不味いと旅はあまり楽しめません。その意味で、食事が美味しい日本は外国人にとって魅力のある訪問先と言えるのではないでしょうか。

余談になりますが、僕が今までに訪れた国の中で最も食事が不味かったのはインド。インドの方々にはたいへん申しわけないのですが、「これが本当に人間の食べるものなのか」と首を傾げるほどの不味さでした。自分の口に合わないだけなのかと思いきや、インドを訪問したことがある知人の話などを聞いてみると、大半の人が僕と同様の印象を抱いていました。

そのため、インドでは食事時になると「またあれを食べなければいけないのか…」と憂鬱になったことを覚えています。本来、楽しいものであるはずの食事が憂鬱に感じられるとは悲劇以外のなにものでもありません。あらゆるものが混沌としているインドはたいへん魅力的な国だとは思うのですが、食事のことを考えると再訪には二の足を踏んでしまうというのが僕の正直な気持ちです。

話を戻しますと、とにもかくにも日本食は素晴らしく、日本料理は世界に誇れる食文化なわけです。その日本食に匹敵するほど美味しく、また素晴らしいと思ったのがトルコ料理でした。

        
        ↑トルコは肉料理のイメージが強いが、
         地中海に面しているため魚も豊富に出回っている。

誰が決めたのか知りませんが、世の中には「世界三大料理」というものがあるようです。内訳は「中華料理」「フランス料理」「トルコ料理」で、このうち中華料理とフランス料理に関しては、“なんとなく”ですが世界を代表する料理と言われても納得できるような気がします。しかしトルコ料理については、以前は「なぜ世界三大料理の一つに数えられているのだろう?」と釈然としないものを感じていました。

ただトルコを訪れてみて、合点がいきました。本当に美味しかったんですよ。僕は食通でもグルメでもないのでうまく表現することができないのですが、トルコ料理は「西洋料理と東洋料理の良いところをバランスよくミックスさせた料理」だと感じました。

しかも日本食と共通していたのは、いわゆる「大衆料理」がすこぶる旨いこと。ありふれた大衆食堂で供される食事がすごく美味しいわけです。どんな国でも、高級店の料理が美味しいのは当たり前。しかし、当該国の食文化を象徴するのは大衆料理です。この大衆料理の旨さという点で、日本食にかなうものはないだろうと以前までの僕は思っていたわけです。

        
        ↑トルコの代表料理といえばドネルケバブである。
         とはいえ、ただの焼肉なので、
         ケバブ自体は特筆するほど旨いわけではない。


例えば僕は中国を1カ月ほど旅行した経験がありますが、大衆食堂で供される中華料理にそれほど魅力は感じませんでした。もちろん不味いわけでもないのですが、「世界三大料理」に数えられるほどの料理だとはとても思えませんでした。

しかしトルコは違うのです。掛け値なしに旨い。出される料理のすべてがとことんまで美味しいわけです。それまで多くの国を旅してきましたが、食事の美味しさという点で「この国には長居できないな」と思う国が大半でした。しかしトルコだけは「この国なら住んでもいいな」と思えるほど食事が美味しかった。大げさに表現しているわけでもなんでもなく、トルコは食事を楽しむという目的のためだけに訪問する価値のある数少ない国の一つだと思いましたね。(次回に続く)

        

自転車トルコ横断記⑪「トルコで見かけたクルマたち」

2008-10-15 23:56:36 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

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         ↑路駐天国のトルコ。
           別に渋滞しているわけではない。

自転車トルコ横断にチャレンジしていた当時、僕は自動車雑誌の編集部に在籍していました。作っていたのが輸入車に特化した雑誌だっただけに、トルコ滞在中、現地にはどんなクルマが走っていて、またトルコの人々がどのようなカーライフを志向しているのか興味を持って眺めつつデータを取っていました。そんなわけで今回は、「トルコで見かけた自動車ランキング25」を紹介してみようかと思います。

といっても、交通量調査よろしく見かけたクルマをいちいちカウントしていたわけではありません。あくまでもランキングは「このクルマをたくさん見かけたな~」という僕の印象で作成しています。この記事の下部にまとめていますのでご参照ください(2002年時のデータです。悪しからず)。

輸入車に詳しい人が見れば一目瞭然ですが、小型・中型車が圧倒的多数を占めています。トルコのような歴史の古い国は得てして道路計画がずさんで、街の発展に伴って少しずつ道路が整備されてきたようなところがありますから、往々にして道幅が狭く、しかも道が入り組んでいることが多い。そのため、小回りの効く小型車が重宝されるのでしょう。

またヨーロッパ圏の国だけあって、日本ではほとんど目にすることがないルノー車がたくさん走っていました。さすが欧州最大の自動車メーカーだけのことはありますね。

加えて、トルコの古めかしい街中を走る輸入車の姿が本当に美しかったことを覚えています。なんといいますか、街並みにすごく映えるんですよね。恐らくは、周囲の風景と調和するようにクルマがデザインされているからでしょう。

ヨーロッパは多くの国と民族が入り乱れながら発展してきた地域ですから、社会環境的に自ずと周辺や他人との「調和」が強く求められてきたのだと思います。そうした意識が、自動車のスタイリングにカタチとして現れているのではないでしょうか。

「調和」という言葉には、「相手を慮って、自分の身を引く」といったような後ろ向きの響きを感じますが、そのイメージとは対照的にヨーロッパ車のデザインはどれもすこぶる個性的です。一歩後ろに引いたような印象は微塵もなく、「自分なりの個性を主張しながら、なおかつ周囲と調和する」といった前向きな姿勢が強く感じられました。

日本人も「調和の精神」に富んだ民族と言われますが、ヨーロッパ人とは違って、日本人の場合はどちらかと言えば自分を「抑圧」することで周囲との調和を図ろうとする意識が強いように思います。その影響でしょうか、日本車には個性があまり感じられません。機能性や信頼性などの目に見えない部分の性能はピカイチですが、はっきり言ってスタイリングには魅力がない。最近はやや改善されてきているようですが、それでもヨーロッパ車に大きく水を開けられていることに間違いはないでしょう。

そのため、クルマが単なる「道具」にとどまってしまっています。走る姿も美しくありませんし、どことなく風景から浮き上がってしまっているような印象を受けます。この辺は、日本車の改善すべきポイントと言えるかもしれません。

機能性や信頼性などのメカニカルな部分に関しては追随がたやすく、一方でデザイン的な感性はそう簡単に磨かれないことを考えると、現時点では世界最強の競争力を誇っている日本車も安穏とはしていられないでしょう。トルコを走りながら、そんなことを考えていました。

■トルコでよく見かけたクルマのランキング

1.ルノー・9(ヌフ)
2.ルノー・19(ディズヌフ)
3.プジョー・206
4.オペル・アストラ
5.フォード・フォーカス
6.オペル・ヴィータ
7.フォード・Ka
8.フォルクスワーゲン・ポロ
9.フォルクスワーゲン・パサート
10.トヨタ・カローラ
11.ホンダ・シビック
12.フィアット・プント
13.ルノー・クリオ
14.シトロエン・AX
15.メルセデス・Eクラス
16.ホンダ・CRV
17.プジョー・パートナー
18.フォルクスワーゲン・ゴルフⅣ
19.フォード・モンデオ
20.ルノー・セニック
21.メルセデス・R107およびW113
22.アウディ・A4
23.ルノー・ラグナ
24.フィアット・ティ-ポ
25.シトロエン・ベルリンゴ

         

(次回に続く)

自転車トルコ横断記⑩「旅行メモを紹介します」

2008-10-05 02:49:37 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

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旅行中に、僕は見聞きしたことや気づいたことなどについて丹念にメモを取っていました。そのメモの内容を紹介したいと思います。「箇条書き」および「だである調」にて失礼します。

●当時のトルコは極度のインフレに悩まされており、そのためお札の桁数が極端に多かった。トルコには目立った産業がなく、また天然資源も少ないので、必然的にモノの価値が高まり貨幣の価値が下がってしまうのだろう。当時の最高額紙幣は2000万トルコリラで、銀行で1万円を両替すると1億1000万トルコリラになって返ってきた。金持ちになった気分だが、詐欺にあったような気がしなくもない(ただ2005年にデノミネーションが実施され、100万トルコリラを1トルコリラとする新通貨が発行されている)。


↑今はなき2000万トルコリラ札。

●2001年~2002年当時のトルコ物価事情
 ・通貨感覚──1000万トルコリラが日本円にすると1000円くらい。
 ・大衆食堂では、日本で言うところの定食が100万トルコリラくらい。
 ・タクシーの初乗り運賃は105万トルコリラ。
 ・マクドナルドのビックマックセットは285万トルコリラ。
 ・トルコ産タバコは60万トルコリラ~150万トルコリラ程度。
 ・街角で売られているドネルサンドは、概ね100万トルコリラ。

●大都市であるイスタンブールやアンカラを除けば、街中で女性の姿を見かけることはあまりない。トルコ人は大半がイスラム教徒だから、女性が人前に出ることをよしとしない文化が根付いているのだろう。とはいえ、アラブ地方ほど戒律は厳格ではない印象。

●そうしたこともあり、(地方の)女性は男性に声をかけられることをあまり好まない。ある街で、たまたま近くを通りかかった中年のトルコ人女性に道を尋ねようとしたところ、ダッシュで逃げられたときには驚いた。道を聞きたかっただけなんだけど……。


↑至るところにモスクがある。

●少数派であるキリスト教徒は、イスタンブールに固まって存在している印象。

●トルコの3大人気スポーツは、「サッカー」「バスケットボール」「バレーボール」。中でもサッカーの人気がダントツに高く、当時イタリア・セリエAで活躍していたハカンシュキュルという選手が国民的英雄になっていた。また元サッカー日本代表の中田英寿氏のトルコにおける知名度および人気の高さはすさまじく、中田氏の名前を知らない人はまずいなかった。当時、中田氏はセリエAのACパルマに所属していたが、直前までASローマに在籍していた。そのASローマではトッティという名選手と激しいポジション争いを演じており、それがトルコ人のあいだに強い印象を残していたよう。僕が日本人だからリップサービスしてくれたのかもしれないが、トルコ人のあいだでは「トッティよりも中田のほうが実力は上だ」という評価が大勢を占めていた。また中田氏以外では、稲本選手の知名度も高かった。

●元サッカー日本代表の中田英寿氏と並ぶほどの知名度を誇る日本人が、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃ち破った東郷平八郎元帥。トルコでは英雄視されている人物で、街を歩いているとよく「トーゴー」と呼びかけられる。

●家々の外壁は青色やオレンジ色に塗装されているケースが多く、見た目はたいへん綺麗だった。


↑ビルや家の壁面は色とりどり。

●トルコでは、男同士でも手をつないで歩いている人が多い。だからといって、同性愛者というわけではなさそうだ。仲の良い人のあいだでは、男女を問わず手をつなぐことが習慣化しているよう。日本ではちょっと考えられないが、あまり他人の目を気にしない文化なのかもしれない。最初はかなり戸惑ったものの、そのうち気にならなくなった。

●ホテルを「Otel」と表記する点は、ヨーロッパと同じ。そのためか、自動車ディーラーの「Opel(オペル)」の看板と見間違えやすい。離れたところから見るとOtel とOpelの区別がつかず、ホテルだと思って行ってみたら実際にはオペルのディーラーだったことが何度もあった。

●反米感情がひじょうに強い。トルコ人の大半は、アメリカを嫌悪している。とはいえ、これはトルコに限った話ではないだろう。これまで色んな国を訪れてきたが、どこに行ってもアメリカはたいてい嫌われていた。

●街中で自転車とオートバイを見かけることは少ない。トルコ人の移動手段は、主にクルマと電車である。

●トルコ人の主食はパン。そのためか食堂のパンは食べ放題だった。ライス(タイ米のようなパサパサタイプ)を食べる人も少なくないが、こちらに関してはおかわり自由ではない。ちなみにトルコのライスは、大半がバターライスである。

●男女ともに喫煙率がとても高い。個人的な印象では、喫煙率90%以上。

●安ホテルばかりに泊まっていたせいか、暖房器具としてのエアコンをほとんど見かけなかった。僕が出会った暖房器具は、下の写真にあるようなタイプ。どういう仕組みなのか分からないが、スイッチを入れると表面の金属部分が熱くなってくる。中のパイプにお湯を通しているのか、それとも中の金属棒に電気を通して暖めているのか? いずれにせよ、この器具だけでは部屋全体を暖めるまでには至らない。器具の周辺1メートルくらいの空間のみが暖まるので、ホテルの部屋に滞在しているときはこの装置のそばにぴったり張り付いていなければならない。


↑トルコの暖房。ほぼ役に立たない。

●英語はほとんど通じない。イスタンブールのような観光地でも、あまり通じなかった。世界的な観光地なのになぜだろう? まあでも、よく考えてみたら東京も似たようなものか。

●行程中、毎日のように雪に見舞われた。しかしトルコ人によると、雪が降るのはひじょうに珍しい。ふだんは年に一度、降るか降らないかくらいとのこと。要するに、関東以南の日本と似たような気候である。緯度がほぼ同じだから、当然と言えば当然か。

●たまたまかもしれないが、旅行中、コンビニエンスストアを1軒も見かけなかった。トルコにはないのだろうか? 遺跡や歴史的建造物の多い国だから、もしかすると景観上の理由からコンビニの普及・発展を奨励していないのかもしれない。

●最近はテロが頻発しているようだが、僕が旅行していた当時のトルコの治安状態は良かった。トルコはクルド人とのあいだに民族問題を抱えていることもあり、治安悪化や世情不安定化の火種がところどころで燻っている。だからか、街中では警察官の姿をよく見かける。常にパトロールしているため、必然的に治安が保たれるのだろう。しかし、威圧的な感じは全く受けなかった。加えて、郊外では軍隊の基地をたくさん見かけた。不測の事態に備え、いつでも出動できるようにしているのだろう。

●大半のガソリンスタンドに、食堂と宿泊施設が設置されている。日本で言えば「ガソリンスタンド+ドライブイン+ビジネスホテル」のようなイメージで、アメリカの「モーテル」みたいなものだろう。郊外にもたくさんあるので、トルコでは宿泊場所に困ることはあまりない。料金も安価であり、使い勝手はひじょうに良い。


↑トルコのガソリンスタンド。
 奥の建物が、食堂(1F)と宿泊施設(2F)になっている。

(次回に続く)

自転車トルコ横断記⑨「トルコ写真集」

2008-09-25 10:43:37 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

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今回は閑話休題ということで、トルコの様々な風景を紹介します。僕はカメラマンではありませんし、そもそも写真を撮る目的で旅していたわけではないので大した写真は紹介できませんが、トルコの雰囲気の一片でも感じ取ってもらえれば幸いです。

         
         ↑イスタンブールの夜明け。
           まさに息を呑むような美しさだった。

         
         ↑イスタンブール市内の様子。
           歩道のすぐ脇を電車が走る。

         
         ↑こちらもイスタンブール市内の様子。
           よく見ると、馬車が走っている。

         
         ↑イスタンブール中心部にあるガラタ橋の上では、
           多くのトルコ人が釣りを楽しんでいる。
           日本で言えば、日本橋の上から釣り糸を垂らしているイメージだ。

         
         ↑イスタンブールのはずれ。
           ほぼ高速道路状態である。

         
         ↑都市や街の外には何もない。本当に何もない。
           荒野と道が存在するばかりだ。

         
         ↑同上。

         
         ↑同じく。たまにガソリンスタンドを見かける。

         
         ↑トルコの道路は舗装状態が良くなく、
           また荷物を積載しているため、すぐにタイヤがパンクする。
           修理キットを携行していたが補修するのが面倒なので、
           パンクするたびにチューブを交換していた。

         
         ↑「ゲレード」という街の道端で、チキンが売られていた。
           こんなに大勢で売ることないのに……。
           というか、そもそもベンチで売るなよな(笑)。

         
         ↑雑貨屋を営む家族。

         
         ↑こちらは惣菜屋を営む家族。

         
         ↑劣悪そのものの安ホテルの室内環境。
           大寒波襲来の折でもあり、凍死するかと思った。
           ちなみにこのホテルは、ゲレードの街にあった「チメンホテル」。

         
         ↑「キィズィリチャハマム」という街の道端で一休み。

         
         ↑イスタンブール~アンカラ間を結ぶ夜行列車の
           車内で同室となったトルコ人とアメリカ人。
           右がトルコ人のケナンさんで、
           左はウクライナ在住のアメリカ人・エドワードさん。
           エドワードさんの夫人は「ケイコ」という名の日本人であるため、
           彼は日本語が少し話せた。夫人そっちのけで、各地を旅していると
           のこと。


(次回に続く)


自転車トルコ横断記⑧「世界最強の親日国家?」

2008-09-21 03:36:33 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

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         ↑トルコの人々は“超”親日。
           こちらが日本人だと分かると、大歓迎してくれる。

まずは外務省ホームページの「各国地域情勢:トルコ」をご覧下さい。こちらです。ページを下のほうにスクロールしていくと、「二国間関係」という項目があります。そこの三つ目「文化関係」を見ると、「トルコ人は一般的に非常に親日的であり、日本文化に対する関心も高い」と記されています。

曖昧な表現をすることで知られる外務省のホームページにしては、これはかなり積極的なコメントと言えるでしょう。実際に自転車でトルコを旅してみた僕の印象も、これと大差ありません。もっと言えば、この記事のタイトルである「世界最強の親日国家」というのが僕のトルコに対する印象です。

日本のマスメディア(特に朝日新聞)が中国や韓国の反日気運ばかり取り上げることもあって、「日本は世界の嫌われ者だ」という印象を抱いている人も少なくないと思うのですが、それは誤った認識です。はっきり言って日本(および日本人)は世界中から尊敬を集めていますし、存在感も決して低くありません。

例えば、かつて日本に占領統治されていた台湾。反日感情が高いのかと思いきや、台湾人の大半は親日家です。僕は台湾を2度訪れたことがあり、その過程で多くの台湾人と触れ合ってきました。彼らの口から発せられるのは「日本が道路や鉄道、学校などの基本インフラをすべて整備してくれたおかげで、台湾は経済発展を遂げることができた。だから日本には本当に感謝している」といった日本の統治時代を肯定的かつ好意的にとらえるコメントばかり。

東南アジア諸国の人々も同じで、「日本が我々を欧米の植民地から解放してくれた」という評価が大勢を占めています。もちろんリップサービスもあるのかもしれませんが、それを割り引いて考えても、基本的に日本という国は諸外国から尊敬の念を集めていると言っていいでしょう(だからと言って、侵略を肯定しているわけではありません)。

話を戻すと、これらの国々以上に親日的な国家がトルコなのです。トルコを旅していると、日本人はもれなく大歓待を受けます。本当に「超」がつくほどの親日家ばかりで、トルコ人はこちらが日本人だと分かると大喜びします。例えばこんなことがありました。

         
         ↑「俺にも運転させてくれ」と声をかけてきた少年。
           この数秒後、彼はものの見事に転倒する。

自転車トルコ横断旅行の4日目、適当な安ホテルを見つけることができなかった僕は、渋々ながら高級なホテルに泊まることにしました(ランク的には中級の上くらいですが)。埃まみれ・汗まみれの小汚い身なりでホテルの中に入っていくと、フロントのスタッフは露骨に迷惑そうな表情を浮かべて僕のことを見つめます。「困った客が来たな」と思ったに違いありません。ところがパスポートを差し出したとたん、態度が豹変しました(宿泊時、外国人はパスポートを提示しなければならない)。

「日本人なのですか!」

そう言うとスタッフは奥の従業員室へ消え、他の従業員を呼び集めました。ゾロゾロと現れたホテルマンたちはみな笑顔を浮かべ、「よく来てくれました」「私は日本人を心の底から尊敬しています」と口々に言いながら握手を求めてきます。最終的にはホテルのオーナーまで登場し、彼は「日本の方に会えて本当に嬉しい」といって僕を抱きしめました。

これだけなら単なる歓迎ですが、この後、話は驚くべき方向へ展開していきます。ホテルのオーナーから「幸いにして、今日はスイートルームが空いています。是非その部屋に泊まってください」と提案されたのです。まさに驚天動地の申し出です。

驚愕した僕は「いや、そんな金はありません」と断ると、「ダブルルームの料金でけっこうですよ。どのみち今は閑散期ですし、私は尊敬する日本人にイチバン良い部屋に泊まってもらいたいのです」と言います。恐縮しつつも、けっきょく僕はこの好意を受けることにしました。

その後、部屋に通された僕はその広さと豪華さにあらためて驚愕することになります。もちろんスイートに泊まるのは初めての経験で、宝くじにでも当たらないかぎり、今後も利用する機会はないに違いありません。いま思えば、記念に写真を撮っておけばよかったですよ。

これは極端なエピソードですが、いずれにせよ日本人であることを表明すると、トルコでは大歓迎を受けます。どうしてトルコ人はこれほどまでに親日的なのでしょうか。

         
         ↑ホテルのロビーでお茶を飲んでくつろいでいると、
           すぐに従業員が飛んできて話しかけてくる。
           仕事そっちのけだ。とにかく日本人と喋りたいらしい。

一般的には、1904年の日露戦争で日本がロシアに勝利したことが大きく影響していると言われています。歴史上、トルコという国は不凍港を求めるロシアからの侵略の脅威(南下政策)にさらされてきており、そのためロシアに対するトルコ人の反感はすこぶる強い。トルコと敵対していたその強大なロシアを極東の小国に過ぎなかった日本が打ち負かしたことがきっかけで、トルコ人は日本に好意を抱くようになったとされています。

要するに、ロシアに対する恐怖感が親日の背景には存在しているわけです。これはこれで一つの事実なのでしょうが、現地で多くの人とコミュニケーションを取った僕の印象では、トルコ人の日本に対する好意や尊敬の背後には、もう一つ別の理由が存在しているように感じられました。

それが何かと言えば、日本の経済発展です。日本とトルコは似ても似つかない国という印象を持っている人も多いと思うのですが、両国には共通点があります。それはお互いに「天然資源に恵まれていない」ということです。

そのためかトルコは産業の形成に苦労しており、国内に目立った産業が育っていません。はっきり言ってしまえば、観光産業だけで成り立っているような国です(世界遺産が多い)。一方の日本は太平洋戦争でコテンパンにやられたにもかかわらず、また資源にも恵まれていないにもかかわらず、持ち前の勤勉さと創意工夫の精神で驚異の経済発展を成し遂げました。

彼らからしてみれば、似通った条件下にあった日本が、自分たちとは対照的に奇跡の経済発展を遂げたことが信じられないのでしょう。主にそうした点から、日本に尊敬の念を抱いているトルコ人が多いという印象を持ちました。

もちろん要因はこれだけではなく他にもあるのでしょう。例えば日本はトルコに対する援助に積極的で、イスタンブールのボスポラス大橋も日本のODAで架けられています。こうした様々な要因が組み合わさることで、トルコ人の親日意識は形成されてきたと考えられます。

そんなこともあってトルコでは大歓迎を受けますから、まるで自分がスーパーヒーローになったかのような錯覚を抱きそうになりますし、また自分が日本人であることに強い誇りを感じるようにもなります。

ただよくよく考えてみますと、別に僕がトルコという国やトルコ人に対して何かをしてあげたわけではありません。彼らが評価しているのはあくまでも過去の日本、あるいは過去の日本人であって僕ではないわけです。だから先人たちが連綿と培ってきたその日本の評判を、僕の行動や言動で貶めるようなことだけはあってはなりません。

そう考えた僕は、大歓迎を受けてついつい緩みそうになる気持ちを引き締め、「日本人として恥ずかしいことはできないぞ」と自分の行動や言動に注意を払うようになりました。

         
         ↑首都アンカラのピザ屋の店員、エンギ君と。
           驚いたことに、エンギ君はこのとき19歳だった。
           ティーンエイジャーにはとても見えない……。

(次回に続く)

自転車トルコ横断記⑦「スリル満点の道路」

2008-09-16 23:50:50 | 自転車トルコ横断記
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     ↑都市と都市、街と街のあいだには何もない。
       こんなところで悪意を持った集団に襲われたらひとたまりもないだろう。
       さすがに人間に襲われることはなかったが、何度か野犬の襲撃に遭遇。
       奴らは徒党を組んでいるので要注意だ。

本格的にトルコを走り始めるようになってから数日が経過したものの、進捗は芳しくありません。「このままでは自転車トルコ横断を達成できない」と考えた僕は、1日当たりの走行距離を伸ばすため、夜間にも自転車を走らせることにしました。ところが、実際に夜間走行を始めてみるとすぐにそれは不可能だと判明します。なぜなら、極めて危険だったからです。

均衡ある国土の発展と高いインフラ整備率を実現している日本とは異なり、トルコの場合は「都市と都市のあいだ」や「街と街のあいだ」、あるいは「都市と街のあいだ」にはほぼ何もありません。いったん都市や街を抜け出てしまうと、その先には茫漠とした荒野や丘陵地帯、あるいは山間地が広がっているだけ。したがって隣町に到着するまでは、ほぼ「空白地帯」のような土地を走らなければならないことになります。日本で言えば、北海道の郊外のようなイメージです。

それだけなら大したことはありませんが、ここで問題となるのは道路に「電灯」が設置されていないことです。そのため太陽が沈んでしまうと、郊外の道路上はそれこそ「真っ暗」になってしまいます。大げさに表現しているわけでもなんでもなく、夜になると本当に数メートル先の視界も利かないほど濃密な闇に周囲は包まれます。

加えて、トルコと日本では公道の制限速度が大きく異なります。日本の場合は市街地が40km/hで郊外に出ると60km/hになりますが、トルコの場合は市街地が60km/h~70km/hで、郊外はなんと90km/hです。

どの国にも、制限速度を律儀に守るドライバーなど存在しません。トルコ人はひじょうに温和な性格なのですが、ハンドルを握ると人格が変わってしまう人が多いらしく、運転がとにかく乱暴です。だから、飛ばす飛ばす。郊外の道路を走っているクルマのスピードは、おおよそ120km/hから150km/hくらいと推察されます。要するに、トルコ郊外の道路はハイウェイのようなものなのです。

日本で喩えるなら、荷物を満載した自転車で「夜の東名高速道路」の上を走っているのと同じ状態で、しかもそこには電灯が設置されていないのです。真っ暗な高速道路がどれほど危険かはあらためて説明するまでもないでしょう。

さらにトルコの道路にはガードレールが設営されていないケースが多く、車道と歩道(自転車道)の区別もそれほど明確でないため、夜になると僕のすぐそばを馬鹿でかいダンプカーが猛スピードで追い抜いていくことになります。本当に危険極まりなく、実際にダンプカーの風圧で吹っ飛ばされたことが何度かありました。運転手は道端をよろけながら走っている自転車など気にも留めませんし、そもそもトルコには自転車そのものが少ないため、郊外の道路上を自転車が走っているとは夢にも思っていないでしょう。

「このまま走り続けていたら、いつか死んでしまう」と感じた僕は、すぐに夜間走行を断念し、陽が沈む前にその日の行程を終了することにしました。

     
     ↑街の入口。
       街と街のあいだに何もないだけに、
       トルコでは街の入口・出口が明確である。   
       居住地域と非居住地域の区別がはっきりしているのが特徴だ。

(次回に続く)

自転車トルコ横断記⑥「トルコで走行距離が伸びないワケ」

2008-09-14 03:02:38 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

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      ↑いざ、エルズルムへ!
        遅れを取り戻すため、僕は走行ペースの引き上げを試みる。
        しかし……。

既述のように、僕はトルコ自転車旅行の2日目を極寒によって、3日目を主に暴雨の影響で無為に過ごしてしまいました。丸2日間で移動できた距離は10km程度に過ぎません。期間内にトルコ横断を終えることが難しそうな情勢でしたから、4日目以降、僕は多少無理をしてでも走行ペースを上げていこうと考えていました。

そうしたこともあって、入国4日目に当たる12月26日(水)は早朝の4時半に起床。まだ真っ暗でしたが、明るくなり始めるころを見計らって外に出てみると、昨日までの悪天候がウソのような好天です。大寒波の影響で気温は0℃だったものの、太陽が出ているのと出ていないのとでは気分的にも肉体的にも大違い。「これは運が向いてきたぞ!」と僕は心の中でガッツポーズを掲げ、慌しく準備を済ませて出発しました。目指すは、トルコ東部のエルズルムです。

しかしその後の数日間、思ったように距離を伸ばすことができませんでした。ところどころに起伏はあったもののルートはほぼ平坦で、天気も悪くありません。自転車旅行者にとっては申し分ない環境で、本来ならもっと快調なペースで走っていけるはずなのにもかかわらず走行距離が稼げないのです。いったいなぜかと言えば、それは各地でトルコ人の大歓待を受け、彼らとのコミュニケーションに多くの時間を費やしてしまったからです。

      
      ↑道端で休んでいると、若者が集まってくる。

走行中、僕はおよそ1時間~1時間半ごとに休憩を取ることにしていました。休憩といっても、単に自転車を停めて道端に座るだけのことです。ただそうして休んでいると、地元のトルコ人がたくさん集まってきて僕に話しかけてくるのです。自転車旅行者は珍しい存在ですし、それが外国人であればなおさらのことでしょう。現地の人からすれば、どうしても声をかけたくなるのが人情のようです。

トルコの人々は本当にフレンドリーで、まるで僕のことを昔から知っていたかのような感じで気軽に声をかけてきます。よくアメリカ人の気質を指して「オープン・マインド」と評しますが、トルコ人も似たような気質を持っているのかもしれません。

「よお、どこまで行くんだい?」
「おれんちに寄っていけよ」
「近くにうまい店があるんだ。これから一緒に行かないか?」

とにかくフレンドリーですから、いま会ったばかりの人間をいきなり家に招こうとしたり食事に誘おうとしたりします。日本ではちょっと考えられません。ただ外国人とコミュニケーションを取るのはたいへん楽しいですし、どこからどう見たって悪人には見えない人ばかりですから、僕もついつい彼らの誘いを受けてしまいます。そのため15分ほどを想定していた休憩時間が、彼らと話しこんでいるうちに30分→45分→60分というぐあいにどんどん延びていってしまいました。

      
      ↑道に迷っていると、子供が集まってくる。

これは何も休憩中に限った話ではありません。例えば市街地を走っていると、数百メートル先の民家の窓から僕に向かって手を振りながら「お~い」と呼びかけてくる人がいます。「なんだろう?」と思って行ってみると、「さっき友達から電話があって、自転車で旅をしている日本人がこっちに向かってくると聞いた。せっかくだから、うちでお茶でも飲んでいけ」とのこと。

断るのも心苦しいので、僕は家にお邪魔してお茶やお菓子をごちそうになります。1時間ほど歓談した後に出発すると、5分も経たないうちに今度は別の民家の窓から「お~い」と声をかけられます。それでまた、僕は家にお邪魔してなにがしかの飲食物をごちそうになる。この繰り返しですから、走行距離が伸びないのも当然と言えば当然です。

それにしても、トルコ人はどうしてこんなにサービス精神、言い換えると「おもてなし精神」が旺盛なのでしょうか。日本人もおもてなし精神の厚い民族ですが、どちらかと言えば日本人の場合は、相手が「もてなしてほしい」と望んでいるときにだけホスピタリティを発揮しようと考える人が多い印象です。決して善意を押しつけようとはしません。

それに対してトルコ人の場合は、こちらの意図を全く斟酌することなく「とにかく俺がもてなしたいからもてなすのだ!」という自己主張で訪問者や旅行者を歓待する人が多い印象を受けました。地政学上、トルコという国は昔から交通の要衝でしたから、様々な民族と触れ合っていくうちにそういう意識が醸成されてきたのかもしれません。あるいはそうでもして半ば強引に情報を入手していかないと、国家としても民族としても生き残ってこれなかったのかもしれませんね。

それはさておき、彼らは善意でもてなしてくれているわけですから、当然、こちらとしても悪い気はしません。ただ、いったん彼らのおもてなしを受けてしまうとなかなか解放されないので、本来の目的である自転車旅行の進捗に大きな悪影響を及ぼすことになってしまいます。

要するに、僕のように先を急いでいる人間にとって「おもてなし大国」であるトルコは厄介な国以外のなにものでもないわけです(笑)。本格的に走り始めるようになってからそのことに気づいた僕は、以降、彼らとの長時間のコミュニケーションを極力自粛し、さらに日中のお誘いはすべて断ることにしました。申しわけないとは思ったのですが、期限が区切られている自転車旅行ですから致しかたありません。でも逆に言えば、ごくフツーの旅行者にとってはトルコは最高に楽しい国の一つだと思います。

      
      ↑飯を食っていると、ウェイターが集まってくる。

(次回に続く)

自転車トルコ横断記⑤「ボスポラス海峡が渡れない」

2008-09-03 00:14:50 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。
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              ↑ボスポラス大橋を求めて、
                イスタンブール市内をさまよい走る。

入国から3日目の2001年12月25日(火)の早朝、ようやく僕はトルコ東部のエルズルムを目指してペダルを漕ぎ始めました。最初の課題は、イスタンブールを抜けることです。

イスタンブールは、北の黒海と南のマルマラ海を結ぶ海上交通の要衝「ボスポラス海峡」によって東西に分断されています(ウィキペディアの衛星写真はこちら)。一般的にはこの海峡がアジアとヨーロッパの境目と言われており、海峡の西側がヨーロッパ、海峡の東側がアジアになります。僕が滞在していたのは西側のヨーロッパ岸ですから、まずは海峡を越えて東側のアジア岸に渡らなければなりません。

ボスポラス海峡を越える手段は大きく分けて二つ。全長1km以上のボスポラス大橋(日本の石川島播磨重工業などが建設)を渡るか、海峡横断フェリーに乗るしかありません(ちなみに2009年に海底トンネルが開通予定。こちらは大成建設の仕事)。僕の目的は自転車旅行(=人力旅行)ですから、迷うことなくボスポラス大橋を渡ることを選択しました。

しかし、走れども走れどもボスポラス大橋(ウィキペディアの写真はこちら)にたどり着くことができません。巨大なつり橋ですから、時折、視界の開けた地点を通りかかったときに橋の威容を目にすることができるのですが、どうしても近づくことができないのです。東京で喩えるなら、遠くのほうにレインボーブリッジの姿が見えているのに、いざそこに向かおうとしてもなかなかたどり着けないといったところでしょうか。

このとき、僕はトルコ全土およびイスタンブールの地図を入手していませんでした。ボスポラス海峡を渡るだけなら地図は要らないと思っていましたし、そもそもイスタンブールは世界的な観光地であり、市内の至るところに地理を示す看板や標識が設置されていましたから、その標識にしたがって走っていけばいずれたどり着くことができるだろうと考えていたためです。しかし、いっこうにボスポラス大橋に接近できません。気づけば、みぞれ混じりの冷たい雨が降り始めています。

              
              ↑探せども探せどもボスポラス大橋にたどり着けず。
               いつしか路地に入り込み、現在地が把握できなくなった。

そのうち僕は路地のようなところに入り込んでしまい、現在地すら把握できなくなってしまいました。迷ったのなら現地の人間にルートを尋ねればいいのですが、いったん自転車に乗ってしまうと停止するのが億劫になります。荷物を満載した自転車はひじょうに重く、いったんストップさせて速度を0km/hに落としてしまうと、新たに漕ぎ始める際にかなりのパワーを必要とするからです。

長旅ですから、体力はできるだけ温存しておきたい。そうした意向もあり、僕は走行を中断することなく自力でボスポラス大橋を探し続けました。体力を浪費したくないという理由でペダルを漕ぎ続けているわけですが、逆に言えば道に迷っているぶん、それだけ無駄に距離を重ねて体力を消耗していることになります。悪循環以外のなにものでもありません。

そうしてイスタンブール市内を彷徨っていると、街並みの美しさが目に留まります。一見、歴史的な建造物と近代的な建築物が無秩序に立ち並んでいるように見えるのですが、お互いがそれぞれの個性を打ち消すようなかたちで存在しているのではなくて、整合性を取り合っている印象。各々の建物が美しいというより、イスタンブールという街そのものが一つの建築物であるかのようなバランスの良さやまとまりを感じさせます。悪天候の下でもこれだけ美しく見えるのですから、晴れた日の美しさは一体どれほどのものなのでしょうか。

そんなことを考えながら自転車を走らせていたのですが、いつまで経っても橋に至る道が見つかりません。埒があかないので、けっきょく僕は現地のトルコ人男性にボスポラス大橋への行き方を尋ねました。彼によれば、ボスポラス大橋のヨーロッパ側乗り口は「オルタキョイ」というところにあるそう。大まかなルートを教えてもらい、僕はオルタキョイを目指して力強くペダルを漕ぎ始めました。

約40分後、無事にオルタキョイに到着しました。眼前にはボスポラス大橋の巨大な橋脚がそびえ立っており、上を見上げると橋を行き交うたくさんのクルマの姿が見えます。たまたま近くを通りかかったトルコ人男性に「この橋、どうやって渡るの?」と聞いてみると、彼は首を激しく振りながらこう言いました。

「君はこの橋を渡ることはできないよ。ポスポラス大橋はハイウェイだから、クルマしか通行できないんだ」

愕然としましたが、冷静に考えてみればこれほど巨大な橋が歩行者や自転車のために作られているはずがありません。高速道路に決まっています。レインボーブリッジや横浜ベイブリッジ、あるいは瀬戸大橋といった日本の巨大な橋も、高速道路として建設されています。日本の橋には歩行者のための歩道が併設されていますが(その配慮が日本人らしい)、ボスポラス大橋はクルマの通行のみを想定して作られており通行路は設置されていませんでした。そのことに考えが至らなかった自分に情けなさを感じると同時に、オルタキョイまでの走行が無に帰したことによる強い徒労感に襲われました。

しかし、グズグズしてもいられません。すぐに気を取り直した僕は自転車に飛び乗り、フェリーで海峡を越えるためにボスポラス大橋の南西10kmほどのところにあるカラキョイ桟橋を目指してペダルを漕ぎ始めました。

40分ほどでカラキョイ桟橋に到着し、海峡横断フェリーに乗り込みました。このフェリーはトルコ人ビジネスマンたちの通勤の足になっており、朝夕にはたいへん混雑するようなのですが、ラッシュ時ではなかったため乗客はまばらでした。フェリーは15~20分ほどでアジア岸の「ハイダルパシャ」に到着。海峡越えという最初の課題をクリアし、「ようし、東に向かってガンガン走ってやるぞ!」と意気込んだ刹那、再び不運が訪れました。

           
           ↑けっきょく自転車ではボスポラス大橋が渡れず、
            フェリーで海峡を横断することに。
            船上からの眺めは、まさに絶景だった。

天候が急変し、東南アジアのスコールを彷彿とさせる土砂降りの雨に見舞われたのです。大雨を表現する際に、よく「バケツをひっくり返したような雨」といったフレーズが使われますが、このときの雨はそれ以上のすさまじさ。上空から消防ホースでストレート注水を浴びせかけられているような強い雨でした。

走行が不可能な状況でしたから、僕は一時的に付近の建物の中に避難しました。しかし、いつまで経っても雨は収まりません。けっきょく僕はこの日の走行を諦め、ハイダルパシャからそれほど離れていないところにあったホテルにチェックインし、まんじりともせずにその日を過ごすことになりました。

入国から丸3日が経過した時点で、僕が移動できた距離はほんの10km程度。残日数は18日間でしたが、このうち走行に当てられるのは正味15日間くらいと考えられます。要するに、15日間であと2000km以上も走らなければなりません。はっきり言って、これはかなり厳しい状況です。

このとき、僕の脳裏には「これはもしかすると旅を完遂できないかもしれない」といった不吉な予感がよぎりました。そして後日、僕のこの予感は図らずも別の理由で的中することになります。

(次回に続く)

自転車トルコ横断記④「数十年ぶりの大寒波襲来」

2008-09-01 00:02:45 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

「自転車トルコ横断記」の4回目をお届けします。前回までの記事は、左下のカテゴリー欄にある「自転車トルコ横断記」をクリックし遡ってご笑覧ください。
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        ↑首都アンカラにあるケマル・アタテュルク廟の前を
         通りかかったときの1枚。
          トルコ初代大統領の霊廟です。たいへん美しいのですが、
          寒くて景観を楽しむ余裕はありませんでした。

2001年12月23日(日)の夜、僕はほとんど意識不明の状態でイスタンブールに降り立ちました。当初の予定では到着翌日の早朝に起き出してすぐに走り始めようと思っていたのですが、次の日、目覚めてみるとすでに正午を過ぎてしまっていました。ホテルに着いてから、10時間以上もこんこんと眠り続けたようです。「初日からいきなり時間をロスしてしまったなぁ」と寝坊してしまった自分を嫌悪しつつも、気を取り直して朝食をとるためにホテルを出たのですが、ホテルの玄関を開けて外に出た瞬間、僕の表情は(文字どおり)凍りつきました。

とてつもなく寒い! あまりにも気温が低く、顔や手など肌が露出している部分がキリキリと痛むほどでした。慌ててホテル内に戻り、近くにいた従業員に外気温を尋ねてみたところ、「今日は-8℃くらいですよ」とのこと。

これには驚かされました。それまでに僕が体験した気温の最低記録は、真冬に中国・大同を訪れたときの-16℃。僕にとって-8℃は大同訪問時に次ぐ低気温記録になりますが、この日のイスタンブールには突風が吹き荒れていたこともあり、体感温度は-10℃を下回っていたに違いありません。だから、感覚的には大同に匹敵するほどの寒さでした。本当に耐え難いほどの寒気で、体内への冷気の侵入を防ぐためでしょうか、全身の毛穴がギューッと収縮していくのが分かりました。

出発前に多忙を極めていたこともあり、僕は現地事情をほとんど調べることなく現地へと飛び立っていました。もっとも、自転車旅行の場合は気温や降雨量、積雪量等の天候事情を事前に把握しておくことがなによりも重要ですから、僕はトルコの気候に関する最低限の情報だけは頭にたたきこんできたつもりでした。準備段階でトルコが極寒地域に属しているという情報には接しませんでしたし、そもそも地図を見てもトルコと日本の緯度に大差はありません。したがって、どんなに寒かったとしても気温が0度を下回ることはないはずです。

不思議に思い、ホテルの従業員に「この時期、トルコはいつもこんなに寒いのかい?」と尋ねてみたところ、「いや、今年だけ特別です。ちょうどトルコ上空に寒気団が停滞していて、そのせいで大寒波に見舞われているんですよ」とのこと。部屋に戻ってテレビをつけるとたまたまニュースで天気のことが取り上げられており、それによれば約40年ぶりの大寒波襲来とのことでした。どうやら僕は、最悪のタイミングでトルコへやって来てしまったようです。

もともと寒さに強い体質でしたから、僕は自転車トルコ横断チャレンジに当たって大掛かりな防寒装備を用意してきていませんでした。12月の東京と同じくらいの気温なら、さしたる装備は要らないだろうと気楽に考えていたわけです。

しかし、さすがに気温が氷点下となるとそうはいきません。現状の装備だけでトルコ横断を大過なく終えることは難しいと考えた僕は、この日をすべて装備の調整に当てることにしました。日程が限られているだけに、丸1日のロスはひじょうに痛い。自分の準備不足と想定の甘さを呪いましたが、悔やんでも仕方がありません。

その後、僕は装備を調達するためにイスタンブール市内を駆け巡りました。とはいえ、持ち金が少なかったこともあってアウトドア用やツーリング用の専門装備を購入するだけの資金的余裕はありません。

けっきょく、観光名所にもなっているグランドバザール(屋根付き市場)を訪れて、皮のハーフコートや手袋、まがいもののトレッキングシューズなどを購入。どれも自転車ツーリングに適した装備とは言えませんでしたが、これらで代用するしかありませんでした。

このように、僕の自転車トルコ横断チャレンジは出だしから大きく躓くことになってしまったわけです。それでもどうにか走る体勢を整え終えた僕は、「ようし、明日からガンガン走るぞ!」と気持ちを切り替え、翌日の早起きに備えて20時頃に安ホテルのベッドにもぐりこみました。

      
      ↑「ゲレード」という街にあった電光気温計。
        -1℃を表示しています。
        ちなみに、これでも暖かかったほうです。

(次回に続く)

自転車トルコ横断記③「飛んでイスタンブール」

2008-08-28 01:47:22 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。
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       ↑イスタンブール市内の様子。本当に美しい街でした。
         国の内外を問わず、これまで多くの都市や町を旅してきましたが、
         景観の美しさという点ではイスタンブールがNo.1です。
         (この写真だと、あまり美しく見えないですが)


自転車トルコ横断にチャレンジするために成田からイスタンブールに向けて飛び立ったのは、2001年12月23日(日)のこと。ただ、このときは出発するまでがひじょうに慌しかった。実は、その日の朝まで仕事をしていたのです。

当時、僕は月刊誌の編集部に在籍していました。説明不要でしょうが、〆切前の月刊誌編集部は戦争状態です。特に印刷所に入稿する直前の2~3日間は、ほぼ不眠不休で働かなければなりません。そのため校了直前になると人があちこちでバタバタと倒れるようになり(名誉の戦死と呼ぶ)、編集部は野戦病院さながらの壮絶な様相を呈することになります。平時ですらそうなのに、このときは「年末進行」という特別スケジュールが組まれており、通常よりも1週間ほど前倒しで作業を進めなければなりませんでした。いつにも増して忙しかったわけです。

確かこのときは、入稿のデッドライン(これがいわゆる〆切)が12月23日の早朝5時~6時くらいに設定されていたと記憶しています。〆切を死守するために僕は数日前から会社に泊まりこみ、編集部内で他の編集部員やデザイナーとともに雑誌の最終仕上げに奔走しました。どうにか印刷所への入稿を終えると、そのまま早朝の電車に乗って船橋市の自宅へ。家に着いたのは、朝の7時ごろだったと思います。心身ともにクタクタでしたが、ここで眠るわけにはいきません。

搭乗予定の飛行機は15:00出発でしたが、国際線ですから離陸2時間前の13:00には成田空港に到着していなければなりません。残された時間はそれほど多くないにもかかわらず、旅行の準備は全くと言ってよいほど進んでいませんでした。仕事が多忙を極めていて、準備する暇がとれなかったためです。

完徹明けの疲労困憊状態でしたが気力を奮い起こしてどうにか荷物をまとめ、数時間後に編集部の同僚K(成田空港まで送ってくれることになっていた)が運転するフォルクスワーゲン・ゴルフⅣに乗って成田へ出発。家を出たことだけはかろうじて覚えていますが、この後の記憶は断続的です。あまりにも疲れていて、クルマに乗り込んで助手席に身をうずめた瞬間、僕は深い眠りに落ちてしまいました。後で同僚Kに聞いたところによると、「助手席に座ったとたん、気絶していたよ(笑)」とのこと。

恐らく、1時間くらいで成田空港に到着したんでしょう。送ってくれた同僚Kにお礼を言って別れた後、手続きを済ませて飛行機に乗り込みました。しかし、この後の記憶が僕にはほとんどない。隣の席にアメリカ人の女子大生が乗り込んできて、僕にいろいろと話しかけてきたことだけはなんとなく覚えています。恐らくは、コミュニケーションが取りたかったんでしょう。ただあまりにも眠かったので、僕はその大半を無視していました。「日本人の男ってサイテー」と思われたに違いありませんが、疲労の極地にいたんだから仕方がない。

成田からイスタンブールまでの飛行時間は、およそ11時間。この間、機内で僕は眠り続けました。11時間のフライトですから機内食が2回提供されるはずなんですが、僕はどちらも食べることなくひたすら眠り続けました。

その後の記憶はいっさいありません。イスタンブールのアタテュルク国際空港に着いたことも覚えていませんし、その後、自分がどう行動したかの記憶もない。ただ手元に残っているレシートによれば、イスタンブール市内の「Hotel Yeni Aydin」という安ホテルにチェックインしたことになっています。空港に着いても疲労は抜けず、ほぼ意識不明状態でタクシーに乗り込んでイスタンブールの市街地に向かい、どうにか安ホテルを見つけてチェックインしたに違いありません。

とにもかくにも、僕の自転車トルコ横断チャレンジはこのように慌しくスタートしました。

       
       ↑イスタンブール市内にあるモスク「スルタン・ベヤジット・ジャミイ」
        (だと思う)

(次回に続く)

自転車トルコ横断記②「旅の装備一覧」

2008-08-24 07:04:39 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。
「自転車トルコ横断記」の2回目をお届けします。

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       ↑帰国直前、ホテルで荷物を総点検したときの室内の様子。
         これに、自転車とその周辺装備が加わる。

今回は、自転車トルコ横断で使用した装備を紹介したいと思います。記事の下部に装備を列記してありますので、興味のある方はそちらをご覧下さい。

自転車旅行の場合、行程中に「野営」を迫られる可能性があることを念頭に置いておかなければなりません。というのも、夜になってから到着した街にホテルやゲストハウスがあるとは限らないからです。そのため装備にテントやシュラフを含めたキャンプ道具一式を加える必要があるので、どうしても荷物が増えてしまうのが痛いところでしょう。

また海外自転車旅行では、「自宅から空港までどのように荷物を運ぶか」「空港から現地までどのようなかたちで“空輸”させるか」についてもけっこう頭を悩ませます。装備品が多く、日本国内の移動だけを考えても自分の手ですべての荷物を運ぶのは簡単ではありません。自転車を運ぶだけでもけっこう大変ですから、サイクリストの中には空港まで荷物を宅急便等で送る人も少なくありません。幸いにして、僕の場合は友人がクルマで成田空港まで送ってくれたため前者に関しては問題になりませんでした。

空輸に関しては、自転車は分解して輪行バッグに収納し、その他の荷物はすべて段ボール2箱に詰めて航空会社のカウンターに預けて運びました。総重量は、28kgくらいだったと思います。きちんと計量したわけではないのですが、成田空港で手荷物を預けるときに「8kgほどオーバーしていますね」と航空会社の女性スタッフに告げられたことを記憶しています。

ご存知ない方も多いと思うので説明すると、エコノミークラスを利用した場合、預託できる荷物の重量は20kgまでに制限されます。20kgをオーバーした場合は、1kg増えるごとに超過料金を支払わなければなりません。実は、この超過料金がバカになりません。

超過料金は、搭乗距離の長さに比例して高くなっていきます。日本とトルコは直線距離で8000kmほど離れていますから、重量超過料金もそれなりです。正確には覚えていないのですが、このときは確か「6万円弱」くらいの金額を請求されたと思います。つまり、1kgの超過につき約7000円ということになります。

「そんなに払うのかよ!」と驚かれる人もいるかもしれませんが、日本から出立する場合は大目に見てくれることが多いので、あまり心配する必要はないでしょう。

僕はトルコ航空を利用したのですが、成田空港のトルコ航空カウンターに常駐しているスタッフは日本人です。同胞の誼で「お金がないんです。お願いですからタダにしてもらえませんか。トルコ自転車旅行は昔からの夢だったんです」と相手の情に訴えかけて交渉したところ、「しょうがないですね。分かりました。今回は大目に見ましょう」と無料にしてくれました(マレー半島縦断時も同様)。これは想像に過ぎませんが、30kg(要するに超過10kg)くらいまでは交渉の余地がありそうな印象を受けました。30kgを超えた場合でも、無料化は難しくても大幅にディスカウントしてくれる可能性は十分にあるでしょう。いやはや、さすが心優しき同胞です。話せば分かってくれます。

ところが、帰国時にこの手は使えません。こちらがいくらお願いしても、現地の航空会社スタッフは「ルールで決まっている。諦めて支払いなさい。粘ってもムダだ」の一点張り。いやぁ~、日本人と違って厳しい厳しい。

けっきょく、帰国時に僕は超過料金を支払わされました。金額は覚えていませんが、不要な荷物をすべて捨てて超過を4kg程度に抑えたこと、若干のディスカウントが利いたことなどにより、150ドルくらいだったと思います(ちなみにマレー半島縦断時には300ドルとられた)。海外自転車旅行を考えている人は、帰国時に少しお金を残しておいたほうがいいことを覚えておくべきでしょう。

【自転車関連装備】
1995年式ブリヂストン「WN-2000」(約10万円のマウンテンバイク)/輪行バッグ/パンク修理セット/スペアのタイヤチューブ6本/工具セット(アーレンキー、モンキースパナ(小)、ドライバー(+/-)、オイル等)/携帯ポンプ(空気入れ)/フロントライト/フロントキャリア/フロントバッグ/リアキャリア/サイド・パニアバッグ/ザックカバー/盗難防止用のロックチェーン/軍手/雨具(上下)/マッドガード(泥除け)

【キャンプ関連装備】
2人用テント(エアライズ)/シュラフ/ガスヘッド/ランタン/コッヘル一式/トルコ地図(現地購入)/サンダル

【その他の装備】
デイパック(30ℓ程度のもの)/救急セット(バンドエイド、包帯等)/カメラ/ポジフィルム/地球の歩き方トルコ/洗濯石鹸/洗面用具/筆記用具/現金10万円/パスポート/腕時計/CDウォークマン/音楽CD3枚(ELTのベスト、オジー・オズボーンの「No More Tears」、スティーブ・ヴァイの「Ultra Zone」)/下着数枚/靴下数枚/トレッキングシューズ/タオル数枚/ロールペーパー/ポリ袋数枚/バンダナ/毛糸の帽子/日焼け止めクリーム/サングラス/皮のハーフコート/セーター/トレーナー/チノパン/パーカー/フリース/段ボール箱

(次回に続く)

自転車トルコ横断記①「なぜトルコを走ることにしたのか」

2008-08-22 07:07:26 | 自転車トルコ横断記
こんにちは、陶木です。

先日お伝えしましたとおり、今日から「自転車トルコ横断記」の不定期連載を始めたいと思います。大した内容ではありませんが、楽しんでいただければ幸いです。
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2001年12月23日から2002年1月12日までの21日間、僕は自転車(マウンテンバイク)によるトルコ横断にチャレンジしました。ちなみに、僕にとっては「台湾横断(1998年)」「マレー半島縦断(2000年/シンガポール→バンコク)」に続く3度目の海外自転車旅行です。

そう聞くと、大半の人は「なぜにトルコを?」と疑問に思うに違いありません。歴史的遺跡の多いトルコは観光地として名高いものの、日本人にとってはどちらかと言えば「マニアック」な部類に属する国です。エジプトの「ピラミッド」、中国の「万里の長城」、オーストラリアの「エアーズロック」、アメリカの「グランドキャニオン」のようなキラーコンテンツ、言い換えるとキラー観光地がトルコにはありませんから、端的に言ってしまえば、トルコは大多数の日本人にとって「訪れる大義名分」を掲げにくい国と言えます。

そんなトルコを是が非でも訪れたいと思う人はそれほど多くないと思いますし、ましてや自転車で横断しようと考える人などほとんどいないでしょう。

そもそも、僕自身もどうしてもトルコを走りたいと思っていたわけではありません。他にも訪れてみたい・走ってみたい国はたくさんあったのですが、諸事情を考慮し、消去法で候補地を減らしていった結果、最終的にトルコが残っただけに過ぎないのです。

では諸事情が何かと言えば、一つには、当時の僕はまだ会社勤めのサラリーマンだったことが挙げられます。好きなだけ休みを取れたのなら、僕はきっとアメリカ横断やオーストラリア横断などの長期壮大な自転車旅行にチャレンジしていたに違いありません。でも、そういうわけにはいきませんでした。

当時は月刊誌の編集部に在籍していて、しかも限られた人数でそれなりのクオリティが求められる雑誌を作っていましたから、僕が長期休暇を取ると他のスタッフに迷惑をかけることになります。したがって、自ずと会社を休める期間は限られてきてしまうわけです。

「会社を休むことができる上限日数はどれくらいで、どの時期に休むのが適当だろうか」と考えたときに、真っ先に頭に思い浮かんできたのが「年末年始休暇と有給休暇を組み合わせる」というプランでした。僕が勤務していた会社は年末年始休暇が長いことが特徴で、その年のカレンダーに関係なく、年末年始はだいたい1週間ほど休みになっていました。

加えて雑誌編集という仕事の特性上、年末年始休暇の前後数日間はやることがほとんどありません。できることと言ったら次号の取材準備を進めることくらいで、その程度の作業なら他のスタッフだけで充分に賄えます。要するに、年末年始休暇の前後1週間くらいの期間は休暇を取る余地があり、なおかつ休んでも文句を言われない可能性が高いわけです。

そこで僕は、14日間の有給休暇を取ることにしました。年末年始休暇を合わせると延べ21日間で、必然的にこの期間で走破できる国や地域を選ばなければならないことになります。

とはいえ、もちろん21日間のすべてを走破に費やすことはできません。何かあったときに備えて予備日を用意する必要がありますから、走破にかけられる日数は最大で18日間くらいになります。では、18日間でどれだけの距離を走れるのでしょうか。僕はそれまでの経験から、自転車の平均走行距離は120km/1日くらいであることを知っていました。18日間なら約2200kmです。

世界中には様々な国と地域がありますから、18日間で縦断や横断、あるいは一周することができる場所はたくさんあります。とはいえ、どこでもいいというわけではありません。できればつつがなく自転車旅行を終え、五体満足の状態で帰国したい。したがって、治安がそれなりに維持・確保されている国を選ぶ必要があります。さらには資金的な問題もあり、また移動にかける時間を極力少なくしたいという意向もあり、できれば東京から頻繁に直行便が就航している国や地域が望ましい。加えて、できることならメジャーな観光国ではなく、日本人があまり訪れない珍しい国を走ってみたいという希望も持っていました。

これらの点を考慮すると、候補地は限られてきます。というか、この時点で選択肢はトルコしか残されていませんでした。トルコの地図(http://www.eastedge.com/turkey/map.html)を見ると、西のイスタンブールから東のエルズルムまでおよそ2200kmくらいです。正確に計測したわけではなかったのですが、パッと見て「これくらいの距離なら、18日間でなんとか走り切ることができるだろう」と僕は踏んだのです。

主にこうした事情と理由から、僕はトルコを自転車で走ってやろうと考えました。
(次回に続く)