青毛の研究――久喜市オーゲの研究

久喜市の青毛の伝承は古来「オオゲ」。それを市教委が不当に訓読み「アオゲ」に切り替えたのを 伝承読みに戻させたいための研究

埼玉県の改竄ルビに倣った久喜市の地名読替え行政-その合法度の研究 2

2014年02月25日 13時28分02秒 | 日記
               県の改竄文献に倣った久喜市の地名読替え行政を
                     県が黙認し続ける合法度の研究 その2

4.青毛を再び訓読みに改竄出版し、全国普及さした県立図書館の『武蔵国郡村誌』の翻刻:
 
  昭和になっての『郡村誌』出版(1953~55)で実に残念でならないのは、明治の原稿に改竄の手が入り、編集者独自の判断から青毛村に再び訓読みルビを復活させたことである。なされた欠陥編集はこうである。
  明治以来国土地理院の記録は、①平成初頭(1990)まで青毛がオーゲ・オオゲと呼ばれていた実情を示してきた。そうした現実があったのに 昭和の『郡村誌』の編集者達は、②現地の通称より地名漢字の読み方に拘りすぎ、③現地の伝承や関係法令そのものを軽視し、④自治法260条に関連して自治体が出した字地の名称変更の有無も確認せず、⑤翻刻をうたいながらも原稿に付けられたアフゲ・ヲウゲ・アヲゲ2種・3様のルビを 当時誰も話さなかった訓読みのアヲゲだけに絞ってしまった。つまり原稿も現実も複数の法令をも無視して、文献上の青毛の呼び名を編集者が無断で変更し、後の行政や学界や出版界を誤導させる原因を作ってしまったのである。
   兎も角編集者の憶測で曲げられた県立図書館版『郡村誌』のルビは、明治までの青毛村の呼び名を忠実に伝えてはいないのだ。そして久喜市教育委員会の錯誤も、県土整備事務所の青毛堀のアオゲ呼びの慣習も、ここから始まったと考えられる。
   県立図書館の蔵書で調べる限り、新旧の河川法を含め大正から昭和20年代までは、殆ど注目するような地名・地誌関連の出版書は見当らない。明治の内務省に進達された『武蔵国郡村誌』の原稿は、東京帝大図書館で大正大震災を被災、焼失したと聞いている。
   過去の文献の貴重さが再確認されたのは、昭和23年10月の埼玉県庁火災でも辛うじて難を逃れた明治の「武蔵国郡村誌複本」の再評価だった。埼玉県は完全な形で発見されたこの複本を、県立図書館の編修で昭和28年から30年にかけ東京の雄山閣から出版・発売した。そしてこの出版を機に、過去の歴史・地誌への関心は全国的に高まり、関連して多くの著名な地誌や地名関連書が世に送り出されたのである。

(1)『武蔵風土記』(1810~28)と『郡村誌』(1953~55)の青毛村(おおげむら)の「あをげ」読み編輯:
      繰返すが『武蔵国郡村誌』の青毛村タイトルルビは 国土地理院のオーゲ・オオゲ読みではなく、当地では使われたことのない訓読みの「あをげ」とされた。原稿が改竄されたのである。
      『郡村誌』第1巻の凡例にはこう記されている。「字地の名称は務めて古称を取ると雖も、その古称を失せるものは改租以後の称を以って之を補う。(p.13)」 青毛に関する第一級の文献「三戸文書」は当時まだ発見されていなかったし、県立図書館版『郡村誌』の編集者達は、国土地理院が記録し公開してきたオーゲ・オオゲを眼にしても、常識的に「青毛」という文字からして、そのまま古称を伝えているとは考えなかったらしい。オーゲはアオゲの音便か音転、あるいは幸手方言での転訛かも・・・と言う思考があったと思う。そのためか「郡村誌原稿(=複本)」に振られた最も注目すべきアフゲやヲウゲのルビを、漢字に拘り過ぎた昭和の編集者達はそのまま翻刻せず、皮肉にもその古称で正音と思えた明治16年の活字文献・『埼玉県各郡町村名』の訓読みルビと差替えてしまったのである。編集者達は、まるで狐にバカされたように 複本より僅か2年しか古くなかった活字文献の訓読みルビに傾いたのは、当時『郡村誌』編輯の最高責任者で後に『埼玉県地名誌』(1969)を出版した博覧多識な県立浦和図書館長・韮塚一三郎氏の助言があったからと思える。
      韮塚氏はその著作の中で太田村の青毛に「あおげ」のルビを付け、『総合日本民族語彙』を引合いにこう説明している。――青毛は近世では田畑の作物の総称だが、本来は早期の収納を意味して、土地の領有が不安定な戦国時代には、しばしば青毛が刈られたと説明する。そして香川県三豊郡の「青毛とり」に言及して、地主が小作料の不納の代りに貸付けた田を刈取る 無礼な強制を意味する語が 範囲を拡大した名称だろう――と書いている。だがこれは普通名詞・青毛の派生的意味の解説で、香川からは遠すぎる埼玉の太田村の青毛とは殆ど無関係な話で、全く頂けない。青毛村は昔青毛とりで知られ そんな慣習から呼ばれるようになった村では決してない。
      しかしこの時『郡村誌』の編集者達は、複本に見た3様のルビを、ただのルビの付け違い程度にしか見ておらず、正しいと思えた訓読みルビ以外は軽く削除してしまったのである。だが彼らは寧ろ、明治以降の国土地理院の記録や、県立文書館所蔵の明治14年の「町村字調べ」の記録、更に古来連綿と語り継がれてきた当地オオゲの伝承呼称そのものに注目すべきだった。編集者達は地名には古称が残る特性に気付かなかったのだろうか?
 
      昭和版『武蔵国郡村誌』の発売元雄山閣が、その後大日本地誌大系の1巻として復刻した『新編武蔵国風土記稿』は、『郡村誌』同様にやはり大変な注目を集めた。ただその編集面で一目置くべきは、前者『郡村誌』の青毛村については、既に言及したように 埼玉県の編集者達がその「複本」を正しく翻刻する配慮を欠いていた点であり、後者『風土記』は、前者を典拠にして逆に近世に遡り、同書のインデックスで青毛村を『郡村誌』同様にアオゲ読み扱いにしている点である。
      何れも国土地理院の記録や地元伝承への配慮を欠いた点が軽率で、またその後の発掘で学会が公認した永禄13年の「三戸文書」(1570)が当地を「大毛」と表記した点から考えても、文字は変っても中世の呼び名が現在もなお生き続けている厳然たる事実が分り、青毛村の呼び名処理が誤りだったことは断言できる。そして『久喜市史調査報告書・地誌』(1983)また然りである。「大毛」と呼ばれた村が、近世に「青毛」と表記されるようになったからと言って、何故呼び方まで訓読み化したと言いきれるだろうか?『武蔵風土記』原本にルビがないのは、青毛村の呼び名は江戸に近い青梅同様前時代の「大毛」の呼び方が引継がれていたため、誰もがルビなしで読めたからではなかったのか?
      古称の「青は大と同音」で使われた例は多く、戸賀崎教育長以降の久喜市教育長が理解したように 青毛村が江戸時代にアヲゲ呼びに変っていたとしたら、明治から平成までオオゲと呼ばれてきた現実や文献は全く説明がつかなくなる。現在でも当地には「青毛はオオゲ」とした読みの慣行が生きているのに、埼玉県の誤った編集に倣った雄山閣が、久喜市の現田中市長や歴代教育長と同じく、明治の青毛村はアオゲ村であるかのような編輯をしたのは、やはり県立図書館による明治の『郡村誌』編集が正しい翻刻だと信じた結果だと思える。それに頂けないのは、明治がアオゲなら近世の「青毛村」もアオゲだった筈と、単純な類推から歴史を逆行させ江戸の『風土記』まで誤読に誘った編修である。原本『新編武蔵国風土記稿』の国立公文書館所蔵内閣文庫の浄書校本には、青毛村の何処にも一切振仮名は振られていなかったはずである。
      大日本地誌大系の編纂に先立って雄山閣は、改めて埼玉県が翻刻した明治の『郡村誌』の複本を精査し直して、何よりも国土地理院が認めたオーゲを「郡村誌複本」に残るアフゲ・ヲウゲ・アヲゲのルビと比較検討すべきだった。だがそうした検証の気配はなく、青毛村は『武蔵風土記』以降明治までアヲゲで呼ばれてきたかのような編輯をして、久喜市教委が昭和58年に編修した『地誌』の見解の源流を作ったのである。一級河川・青毛堀川が流れる久喜市や加須市に昔から住んできた人達は、『郡村誌』出版以降も、県土木事務所が青毛堀を「あおげほりかわ」と掲示していても、また『久喜市史調査報告書・地誌』が青毛にアオゲのルビを付けていても、青毛村や青毛堀がアオゲ呼びをされた記録には必ずしも納得していなかったのである。
      ここでは久喜市の歴代教育長が県の記録に惑わされて違法に地名変更教育に取込んだ 県立図書館版『郡村誌』の青毛村についてもう少し検証していこう。

      青毛村が載る昭和版『武蔵国郡村誌』第12巻は、昭和29年(1954)11月28日の刊行である。本書には武蔵国の埼玉郡村誌巻之十一・十四・十五が収載され、後に太田村に集合する野久喜村・古久喜村・青毛村・栗原村等の村誌が載っている。青毛村の村誌のタイトルには「あをげ」のルビ(p.1140)、下青毛堀にはルビはついていない。原稿となった内務省に進達された原本の複本には片仮名で村名に「アフゲ」、堀名には「シモヲウゲ」堀のルビが付いているから、明らかに編集者は錯誤からとは思えぬ意図を持って原本を改竄した点が認められるのである。
      青毛村に関する限り 正確な翻刻とはとても言えぬ県立図書館の編輯では、『郡村誌』第11巻・第14巻にも見える青毛村・青毛堀にかかわる複数の村誌で、複本ではアフゲ・ヲウゲのルビの方が遥かに多く付けられていたのに、ただ吉羽村と野久喜村2ヶ村だけに誤って残された「アヲゲ」という偽称を採りあげ、肝心の青毛村のタイトルまで「あをげ」に付替えて、本当の村名・河川名のルビ・アフゲ・ヲウゲを各村誌からそっくりカットしてしまったのである。
      これは明らかに明治の史誌編輯掛の意図を無視した編集で、必ず読者の誤解を招かせてしまう原稿カイザンである。「青毛=あをげ」と決めつけた昭和の埼玉県の翻刻ならざる編集では、「大毛=青毛、青毛=アフゲ・ヲウゲ=オーゲ・オオゲ」と実際使われてきた伝承名を切捨ててしまい、実情を知らぬ研究者や読者の理解をただ実名と違うアオゲ読みだけに誘導する。そして原本の内容・筆者の意図――明治の史誌編輯掛がわざわざ修正した伝承地名を歪めて無にしてしまったのである。
      当時はまだ第一級の文献「三戸文書」は知られていなかった。昭和の編集者達は多分原稿の村誌の「青毛」に付られた不安定なアフゲ・ヲウゲとアヲゲの確定に悩んだことだろう。だが編集者はまづ当地の伝承を確認して、翻刻なのだから一方的に編纂者や編輯責任者の意思を伝えるのではなく、原稿そのものを大切に翻刻した上で、共通したり矛盾したりしている原稿の問題箇所に註を付して、コメントすべきだった。
      だが編集者達はそれよりも「字地の名称は務めて古称を取る」編集凡例に忠実であり、より古い文献を求めて、明治の県庶務課が仮読みのまま実地検証に先立って出版した『埼玉県各郡町村名』のアヲゲを採りあげ、更に同じ典拠によったと思える明治36年の吉田東伍博士の『大日本地名辞書』や、昭和版『郡村誌』の出版責任者・韮塚先生の助言等を綜合して、「青毛はアオゲ」で一本化を計ったものらしい。
      当時まだ青毛の語源も由来も分らなかったので、『郡村誌』の編集者達は、表記された漢字から常識的にアフゲ・ヲウゲがそのまま古称と考えられず、寧ろその正音を伝えると思えた活字文献の『埼玉県各郡町村名』のルビまで遡った挙句、原稿に記された最も注目すべきアフゲ・ヲウゲのルビを切捨ててしまったのである。このルビ改竄編輯のために県立図書館版『郡村誌』は、昭和30年以降のすべての地名・地誌関連出版物の青毛村・青毛堀川の歴史と呼び名を狂わせ、久喜市教育委員会や県土木事務所に青毛の呼び名の偽称を取り込ます原因を作ってしまったのである。
      当時の編集者達は手書き原稿の吉羽村・野久喜村に残されたアヲゲのルビが、ごく僅かでも古い活字文献の訓読みルビに共通していた点や、当時『郡村誌』編輯の最高責任者だった図書館長・韮塚一三郎氏から 根拠違いの香川の「青毛取り」の話などを聞いたりして、青毛の正式呼び名は訓読みの「あをげ」だと勘違いしたのだろう。そして語り継がれてきた筈のオオゲ読みのルビ、最も注目すべきアフゲ・ヲウゲの記録を捨ててしまったのである。
      だが文献上の青毛の地名の訓読み化とは裏腹に、昭和30年以降も当地ではその土地なりにオオゲという呼称を一貫して語り伝えてきていた。
      手近かにありながら埼玉県の編輯者達は、原稿の2様の読みを合理的と思えた「あをげ」だけに絞ったのが大きな過ちに繋がった。その後出版の地誌や地名辞典の青毛の呼び名は、県土木事務所の青毛堀の呼び方や 川に架けた橋名や河川名のプレートや看板にアオゲの表記となって増幅され、やがて大きな誤解を見せ始めたのである。
東京の出版社や杉戸・行田の県土整備事務所は、昭和版『武蔵国郡村誌』の青毛村のルビではなく、むしろ原点に戻ってその原稿となった「武蔵国郡村誌複本」の記録や、明治14年の『町村字調べ』の朱ルビを改めて注目すべきだった。またそれ以上に現地の人たち誰もが話していた呼び名や、国土地理院の記録等を参照にすべきだったのである。
現在の県立浦和図書館は、明治の「郡村誌複本」と昭和の県立図書館版『郡村誌』との翻刻違いのルビをすでに確認している。だが原稿の正しさには依然コメントしていない。

(2)昭和4-50年代の県土整備事務所と久喜市行政の2様の青毛の呼び方:   
      県道幸手・久喜線が青毛堀を渡る拡幅前の喜橋(よろこびばし)(昭和45年3月完工)の橋柱には、かって杉戸土木事務所が付けた『あをげほりかわ』という白磁のプレートがついていた。またその数百メーター幸手よりの天王新堀に架けられ平成25年拡幅工事を終えた青毛橋(前回は昭和37年1月の施工)には、依然『あおげばし』のプレートがつけられた。またさいたま・栗橋線が青毛堀を渡る『新青毛堀橋』(昭和42年3月完成)にも 青毛の「あおげ」読みプレートが付けられている。だが地元での青毛の呼び名はズッとオオゲ掘・オーゲ橋と変らなかった。
      一級河川青毛堀関連の土木事務や作業を調べてみれば、昭和30年以降架橋の橋柱や設置看板で河川名や地名を採った橋名表示が、昭和版『武蔵国郡村誌』の青毛村ルビから来ている点は殆ど間違いないことが分る。行政は『埼玉県各郡町村名』のルビに始まって『郡村誌』に引継がれた 実態と懸離れた偽称地名を無神経に黙認し続ける誤った方向に動き出していたのである。昭和版『郡村誌』効果は、明治の県庶務課――中でも史誌編輯担当職員が検証前の青毛村を「あをげ」と呼んでいたのと同じ思考を、昭和30年代以降の地誌出版社や研究者・県職員間に再び復活させてきたのである。
その後幾度か杉戸や行田の県土整備事務所に問い合わせて分った点は、青毛堀や青毛地内の橋のアオゲ呼びは、新旧河川法に伴う一級河川の告示によって始まったものではないということだった。当初、青毛堀のアオゲ呼びは大正7年の旧河川法による告示文のルビから出たとの説もあった。だが関連資料は県立図書館3館を通して調べても見つからなかった。
      平成22年の2月 行田の県土整備事務所長南沢郁一郎氏から、関係資料数点と昭和40年の官報コピーを頂き、告示文の河川名にルビはついていないことを確認した。この点国土地理院の明治から平成までの記録名に、また『郡村誌』複本ルビに一致することになり、昭和54年の県教委出版文献に見るような矛盾はなく、現在の青毛堀のアオゲ呼びは誤りであることが判明している。地誌などの青毛堀に付けられた「あおげほりかわ」のルビや橋柱のネームプレートは、昭和版『郡村誌』の出版以降、青毛村同様に編集者や県職員の単純な判断から付けられ、読み継がれてきた誤りであったのが実情である。
      当時語源の大毛を伝える「三戸文書」の存在は予測出来なかったが、人々の伝承は偽名プレートを見ても変ること無く、地元ではズッとアオゲ堀と云う人はいなかった。活字文献や金属プレート類は兎角人々に真実だと いう安心感を与えるものだが、それと官尊民卑の通念にもかかわらず、口先で消えてしまう流域住民の日常の呼び名は、その価値を無視されながらもオオゲとして生き続けてきたのである。
      久喜町は昭和46年(1971)の市制施行で久喜市になったが、オオゲの呼び方は県北東部の青毛堀流域一帯とともに、依然古来の「大毛呼び」の伝承を受継いできた。
      だがそうした環境の中で久喜市2代目教育長・戸賀崎恵太郎先生は、地元清久の生まれにも拘わらず、昭和55年「青毛の地名のアオゲ化指導」を始めたのである。地名読替え指導は当然越権であり違法になるのに、先生は始める前に何故県とともに再度固有地名の確認のため明治の文献を検証し直し、その結果から県市共に歪みかかった事務処理を正そうとされなかったのか悔まれてならない。
      昭和51年(1976)の5月17日、市の都市計画課は榎本善兵衛市長名で、国土地理院に「地名調書」を送っていた。吉羽地区と青毛地区の区画整理範囲を示すもので、其処には中島・流作・川原・中村・平沼・上青毛の小字があげられていた。注目すべきは地域名の青毛と小字の上青毛の振仮名が、「郡村誌複本」や明治14年の「町村字調べ」同様 伝承名でオオゲ・カミオオゲと付けられていた点である。これは昭和50年代の久喜市の青毛が、まだ古来の伝承で話され読まれていた証を、久喜市が国土地理院に示したことであり、国土地理院が平成2年の5万分の1地図まで「オオゲ」の読みを続けていた理由も納得できる。現在の久喜市文書館はこうした資料の存在すら認めていないし、閲覧することはできない。
      昭和55年3月県史編纂室は『新編埼玉県史資料編6』で青毛を「大毛」と記した三戸文書を公開したが、この年の11月 青毛小学校は一方的に「アオゲ小」として開校し、久喜市教育委員会による「青毛のアオゲ化指導」が始まった。前年『埼玉県市町村誌』の出版で青毛にアオゲのルビを振った県教委は、当然のこと偽称を黙認してきたのである。

(3)県教委出版の『埼玉県市町村誌』と久喜市史編纂室の『地誌』に見る青毛のルビ:
      既述のように、埼玉県が公開した代表的青毛の訓読み文献には、まず青毛村を始めてアオゲ村と発表した明治16年の『埼玉県各郡町村名』と、戦後の昭和28年から30年にかけ 翻刻出版としながらルビを改竄した『武蔵国郡村誌』第11・12・14巻があげられた。久喜町に合併しても青毛の呼び名はズッとオーゲのままだったのに、昭和版『郡村誌』の青毛村の呼び名は、明治の原稿に忠実な翻刻がされなかっただけでなく、国土地理院が明治以降採ってきた現地の伝承どおりの処理もされなかった。
      更にまた昭和54年には 上記の流れを汲む青毛を偽称した第3の文献・『埼玉県市町村誌』第17巻が、県教委によって編輯・出版された。そしてこの編集がいかに事務的なマンネリによったものかは、久喜市のページに明らかである。 国土地理院が明治42年の青毛にオーゲのルビを振っている5万分の1地図『幸手』を引用掲載しながら、次のページでは青毛にアオゲのルビを振付けて、1つであるべき固有地名の呼び名の違いについては全く解説していないのである。
      編集者は多分、僅か2ページしかないスペースの中に、青毛に絡む2種類の矛盾する呼び名を載せてしまったことすら気付かなかったのだろう。勿論編集者は昭和版『郡村誌』の原稿で 青毛の実際の名前のルビが、オーゲに通じる「アフゲ」となっていた点も確認しないで、ただ昭和版『郡村誌』ルビに準拠して同じルビを付けただけなのかもしれない。明治の青毛村は何度も繰返すが、「郡村誌複本」のルビや、国土地理院の『幸手』の地図のルビが示すように、オーゲ・オオゲ村であって昭和版『郡村誌』が伝える「あをげ村」では決してなかったのである。
      だが久喜市の戸賀崎教育長は、昭和54年(1979)に出たこの『埼玉県市町村誌』に触発されたのか、地元の伝承も自治法も無視して、2様の呼び名のどちらが固有地名かの検証も怠ったまま、「青毛はアオゲが正しいからアオゲと呼びなさい。」と指導し始めた。この地域名読替えの当否の決済は当時の議会では全く諮られていない。
      先生が青毛小学校を、地元が期待した「オオゲ小学校」でなく「アオゲ小」と呼ばせた55年(1980)には、既述の様に皮肉にも埼玉県史編集室は、『新編埼玉県史資料編6・中世2』を出版して、青毛村が中世では「大毛」と表記されていたことを示す「三戸文書」を公開していた。だが何処吹く風か青毛小はその年の11月「あおげ小」として開校したのである。大多数の市民は「知らぬが仏」で「おおげ小」の開校を祝福したものだった。
      以上記してきたように、訓読みで青毛を公開してきた埼玉県の文献中、取分け多くの出版社や公的機関の信認をえて典拠となったのは、70年の永い眠りの後で明らかにその原稿に改竄がなされた県立図書館版『武蔵国郡村誌』であった。久喜市の教育長が青毛はアオゲが正しいと確信したのも、自治法260条に違反しながら青毛のアオゲ読み指導を始めたのも、その傘下で久喜市史編纂室が 昭和58年(1983)3月出版した『久喜市史調査報告書1・地誌』の編集でも 典拠に埼玉県の誤読出版文献をかざして市民をダマシ続けてきたのは、明治の『郡村誌』原稿を身勝手に偽称ルビに切替え出版した埼玉県の誤った事務処理があったからである。
      久喜市史の調査編集の過程で出版された『市史調査報告書・地誌』については、既に幾度も当ブログで説明や言及してきた通りで、青毛村の呼称ルビに関する限り学術性は全くない。
      昭和58年(1983)戸賀崎教育長の下での市史編纂室は、『調査報告書・地誌』を昭和20年代末の『郡村誌』が韮塚館長の下で編修されたように、オオゲの従来の呼び名を一切伏せてアオゲを本当の地名らしく編修して出版した。
      戸賀崎先生は一方では急速な都市化で失われる古文書や民俗資料・文化遺産を憂いながら、久喜市の歴史的発展過程を明らかにし、郷土の理解を深めて重要な文化遺産を後世に伝えたいと語りながら、何気なく地名変更の指導マニュアルと教委による自治法違反の弁明としてこの地名改竄書を企画したと思われる。付けられたルビを見る限り本書は、青毛の地名は江戸以降アヲゲであって、青毛小のアオゲ読みは今に始めたものではなく、青毛のアオゲ読み指導は違法ではない――と云う偽りの歴史を読者にハッキリと伝えている。
      本書が扱う『武蔵風土記』と『武蔵国郡村誌』の旧久喜市関連資料の抜粋と解説は、近代の久喜郷土史研究に参考になるとは言え、青毛の呼び名面では、故意にアオゲ読みを江戸以来のものと一貫編集している点で、先生の意図は大きく矛盾していて、郷土の歴史を捻じ曲げる大きな誤りを犯したことになった。 また誰でも読めた「青毛」の地名に、あえて訓読みの誤読ルビをつけたのは、江戸の『武蔵風土記』にルビが付けられなかったのと正(まさ)しく逆で、本書出版当時はルビをつけなければ地元読者にはオオゲ読みされてしまうのを避けるためだったと言える。また本書がたって『新編武蔵国風土記稿』にまで遡って、青毛村にアオゲのルビを振ったのは、青毛小開校と共に始めた「青毛アオゲ化教育」の違法性を交(かわ)す目的があったと云える。現吉田教育長も田中市長も 江戸以前からの大毛の地名は、青毛小が青毛のアオゲ読み指導を始めるズッと以前、江戸の文化・文政期に既にアオゲと改称されていたと信じているようである。


県の改竄ルビに倣った久喜市の地名読替え行政ーその合法度の研究

2014年02月21日 09時58分01秒 | 日記
          県の改竄ルビに倣った久喜市の地名読替え行政を
                       埼玉県が黙認し続ける合法度の研究


      埼玉県は明治の『郡村誌』原稿の活字化を始めた昭和28年以降、少くとも久喜市内「青毛」の地名の読みに関する限り、明治の原稿の翻刻としながら、法令が示す地名呼称変更の一般原則を超えて 一方的に伝承を訓読みに切替えた文書を出版してきた。
      そうした訓読み文献の原点は、明治の青毛村を始めてアオゲ村とした明治16年の『埼玉県各郡町村名』にあったが、『武蔵国郡村誌』第11・12・14巻の青毛村関連の記述では、殆ど意図的に明治の原稿ルビは訓読み1本に切替えられた。青毛村が載った第12巻が刊行された昭和29年は、すでに明治の町村合併で青毛村は太田村の大字になっていたが、戦後最初の町村合併で久喜町が隣村太田村を、江面村・清久村と共に吸収合併した年でもあった。青毛は2度の合併を経ても、呼び名はズッと古来の伝承・オーゲのままで、アオゲとは呼ばれなかった。
      しかし昭和版『郡村誌』の青毛村のルビは、①自治法260条による地名変更が全くされてないのに、また②明治の「郡村誌原稿」の青毛村のタイトルルビはアフゲだったのに、③明治以降の登記所(現法務局)や国土地理院がオーゲ・オオゲと認めてきたのに、当地の伝承通りの呼び名を無視して「あをげ」と付けられたのだった。
更に全く遺憾なことは県の教育委員会が、昭和54年に十分な検証を怠ったまま上記の流れを汲む青毛偽称の文献『埼玉県市町村誌』第17巻を出版したのである。ここで県教委はどんな積りか久喜市の青毛に昭和版『郡村誌』同様「あおげ」読みルビをつけながら、明治42年の国土地理院が青毛にオーゲのルビを振った文献・5万分の1地図を引用していて、その矛盾を全く説明しなかった。
      埼玉県がマンネリ誤記して編修・刊行してきたこれら文献中、取分け多くの出版社やメデイア・公的機関の信認を得たのは、70年の永い眠りの後明らかに原稿改竄がなされて出版された県立図書館版『武蔵国郡村誌』(昭和28~30年)だった。
この段階で久喜市は、明治15~6年の青毛村・栗原村合同役場の前例に見るように、自治事務処理上の基本的な共通理解を得るため、県に地元の伝承地名を正しく伝え、読みの是正を図って貰っておくべきだった。地方自治法第11章第245条の「助言・勧告・情報の提供等」の②は、自治体の長は第2条13~14項の趣旨達成のために「必要があると認めるときは、自治大臣又は都道府県知事に対し、当該普通地方公共団体の組織及び運営の合理化に関する総合的な監査並びにその結果に基く技術的な助言又は勧告を求めることが出来る。」とされているからだ。
      昭和版『郡村誌』の出版が完了した当時も、県東北部には古来「青毛はオオゲ」と読んだり話したりしてきた現実があったのに、県は明確に意図したとは思えないが極めて不自然に、土木と教育両面で青毛にアオゲとルビした『郡村誌』にならう行政に傾いていて、徐々に地域間に軽い齟齬を来すようになっていたのである。
      久喜市が行政主導で始めた地元青毛(おおげ)のアオゲ読み教育は、①その発端から全くの法令違反と住民の意向無視があった。また青毛の区画整理の終了を前にして②平成9年末の議会での現田中市長の地名変更提案は、不当に自治法260条を根拠らしく提示して議員達の判断を誤らせたものであった。一方③地元から県に伝承復活要望が再三出されてきたのに、県は久喜市の違法行政をただ黙認し続けてきただけだった。これは自ら違法な地名読替え文献を出版し続けてきた関係上、県はすでに教育改善の助言や勧告は棚上げせざるを得なくて、『郡村誌』以来の「青毛アオゲ化路線」を地元で継続させる意思表示をしていると理解できそうである。再三の要望を全く無視し続けて回答しない上田知事や前島教育長、また県教委の責任ある解説を改めて聞きたいものである。

               行政主導による青毛の地名読替え登記の回顧
                   固有名詞は同一漢字なら伝承と違う読方をしても行政上支障ないのか?
  
      内務省史料編輯国史校正局は、明治8年(1875)皇国地誌編輯例則を発表し、開国後の日本の国勢を示す全国規模の地誌の編纂を企画した。埼玉県の史料作りは既にその前年から始まっていて、担当の県庶務課の史誌編纂掛が郡役所経由で町村役場から提出させた資料は、その後の10年間に郡単位で編輯され、その都度内務省に進達されてきた。青毛村からの村誌原稿は、明治9年の9月と5年後の14年9月の2回、郡役所経由で第2代県令白根多助氏宛に送られている。
      明治14年の9月には みだりに地名を変えないようにとの趣旨の太政官通達があり、同年11月 県は各郡役所に「町村字調べ」を指示、青毛村からは翌12月5日付で報告が出ている。
      県は『郡村誌』編輯に並行して、明治15年秋までにまとめた行政符号付きの郡内町村が一覧できる『埼玉県各郡町村名』(1883)を翌16年2月に出版した。当時はまだ県東北部の「埼玉村誌」や「葛飾村誌」の編集は着手されたかどうかの状況だったのに、青毛村は実際の呼び名と違う訓読み「アヲゲ」のルビで公開された。でもその誤りは『郡村誌』編輯が一段落した明治18年(1885)の春までに地誌編集掛自身によってアフゲ(=オオゲ)と修正されている。固有名詞のアイデンティティは音声・呼び名にあり、表記された文字にあるのではなく、それはただの読み替え・音声の変化だけで失われてしまうのである。

1.明治の『武蔵国郡村誌』の編輯と、先駆けて出版された『埼玉県各郡町村名』青毛村の誤読ルビ:

      明治の『武蔵国郡村誌』は、第2代県令白根多助・第3代吉田清英両氏の県政の中で編纂されたが、明治16年2月に県東北部の郡・村誌編集に先走って出版された所謂行政文書(明16県官下達乙第15号)『埼玉県各郡町村名』に迷わされ、再度過去の過ちを復活させることとなった。青毛村は明治14年の太政官の達しに即して明治16年から18年にかけ内務省に進達された葛飾村誌と埼玉村誌(さきたまそんし)の原稿ではアフゲ・ヲウゲと修正されていたにも関わらず、昭和の編集者達は伝承が生かされた地名を訓読みのアヲゲに振替えてしまったのだ。この誤った編輯の考えられる最大の理由には、上記『埼玉県各郡町村名』の編集がすんだ明治15年秋の段階での 県北東部の村々の村誌検証は殆ど済んでいなかった状況が挙げられる。葛飾村誌も埼玉村誌も実地の検証を含めた編集作業に入ったのは、『埼玉県各郡町村名』が出版された後、実質明治16年の新年度に入ってからと見られるからである。
      念のため明治15年末までに庶務課の史誌編輯掛が内務省に進達を済した県内各郡町村誌を調べてみたが、結果は下記の通りであった。
      明治12年10月(22日)芳川恭助氏が賀美村誌2冊、児玉村誌3冊、那珂村誌1冊と上記各郡誌を進達。翌13年7月(31日)芳川氏は更に大里郡誌と同村誌3冊を。14年6月(21日)には三輪正氏が総葛村誌3冊、藤咲茂和氏が7月(5日)男衾村誌2冊、三輪氏が11月(10日)旛羅(はたら)村誌4冊、12月(24日)秩父村誌を6冊。15年になっては三輪氏が2月(2日)榛沢村誌5冊、4月(10日)高麗郡誌、6月(7日)横見村誌2冊、7月(5日)比企村誌8冊、11月(10日)高麗村誌5冊を進達。更に4等属で史誌編修掛のリーダー大庭雄次郎氏が 同年9月20日新座郡村誌1冊を進達した状態だった。
      この時点では大庭氏担当の埼玉村誌も三輪氏担当の葛飾村誌も、一部が検証に入ったかどうかの状況にあった。それで明治16年出版予定の『埼玉県各郡町村名』の原稿の青毛村には 当時の庶務課職員が安易に慣用していた訓読みのアヲゲのルビが振られてしまって、この『埼玉県各郡町村名』は16年2月、吉田清英県令名で出版され、各郡役所や戸長役場宛に配布された。ために本書が示した未検証のままの青毛村の訓読みルビは、それから70年後の昭和に出版された県立図書館監修の『武蔵国郡村誌』の青毛村ルビを 再び決定的に誤まらせる結果に導いたのである。
       この『埼玉県各郡町村名』の 限られた内容だけ一覧して分ることは、本書は1つには明治7年に始まり、9年前後から具体的編纂に入った『郡村誌』の扱う郡別町村名の概観リストであり、かつ郡・村間の行政施設――官公庁・裁判所・警察署などや、学校・学区、郵便局とその町村内外の配達区、電話局や電線路、鉄道路線やその駅・無民家村等々を、明治15年の内務省乙第19号公達符号で一覧できるようにした新書版の行政文書だという点である。「青毛村」についてそれを見れば、村には戸長役場があり、郵便は幸手の市外配達区、警察も幸手署の持ち部、学区は北葛飾の第9学区で、青毛村のルビは職員が慣用していたアヲゲのままの出版であった。
     注目して欲しいのは、本書は明治15年の10月30日時点での編集結果の記述であり、決して現代にまで続く絶対的な行政名称や行政組織・その管轄権を伝えるものではない点である。
     配布された『埼玉県各郡町村名』のルビは、進達済み町村に関しては現地検証済みもあって正確だろうが、この時点ではまだ青毛村の村誌が載る埼玉(さきたま)村誌も 青毛村への言及のある葛飾側村誌も未検証の状態であり、そこに見る青毛村のルビは、担当職員が日常的に「青毛・栗毛」などと普通名詞の語感で呼んでいたルビそのモノに過ぎなかったのである。

2.明治16~18年に編修完了した「武蔵国郡村誌原稿(=複本)」の葛飾村誌と埼玉村誌に見る青毛村の呼び名:

     その後の明治16年から18年にかけ進達された上記葛飾村誌と埼玉村誌の原稿の複本を見ると、青毛(おおげ)村に振られたルビにはアフゲ(=おおげ)とヲウゲ、アヲゲと3通りに表記された2種類の呼び名がつけられていた。 県立文書舘所蔵の「郡村誌複本」に見る青毛村のルビ・アフゲは、まず16年中に葛飾村誌担当の三輪正氏が、葛飾の村々――上高野村・西大輪村・中川崎村・下川崎村等の検証で、葛西用水を隔てた対岸の青毛村がオオゲと呼ばれている事実を確認して付直したものである。彼は事情を大庭氏ら編集掛に伝え、武州葛飾の村誌中で言及された青毛村には夫々アフゲの修正ルビをつけて、同年11月24日内務省に進達した。
     埼玉村誌編集順序から推して 埼玉村誌を担当した大庭雄次郎氏は、この時までに吉羽村と野久喜村の村誌を検証済みにしていた可能性が極めて高い。吉羽村と野久喜村の村誌中で言及される青毛堀にはヲウゲのルビが見られるのに、青毛村への言及ではアフゲではなく訓読みのアヲゲのルビが付けられたままになっているからである。
     当時すでに大庭氏が2村の現地検証を終えていたとすると、青毛にアヲゲのルビを付けた理由は、①検証時に話された青毛村の呼び方を 氏が日頃の訓読み習慣から聞き逃したか、もしくは②村役場の吏員が応対に当って、官尊民卑意識から配布されたばかりの『各郡町村名』ルビに忠実な話し方で、青毛村をアヲゲと話したのをそのまま記録したものか、あるいは③県庁での原稿浄書の段階で、現地を知らぬ担当書記が、原稿はアフゲだったのに日ごろの訓読みから小さなルビをうっかりアヲゲと読違え、そのまま浄書してしまったかの何れかである。実際原稿のアフゲとアヲゲとの片仮名ルビの違いは、フとヲの横棒一本の違いしかなかったからで、書記が多少乱視か老眼だったら、片仮名のフはヲにも見えたかもしれないからだ。
     大庭氏は三輪氏の発見から青毛村周辺町村の検証には取分け慎重を期したようで、現地確認から青毛村のタイトルには、やはり三輪氏同様アフゲのルビを打って、16年初の『埼玉県各郡町村名』のアヲゲ読みではない伝承読みを採ったのである。栗原村・上内村・鷲宮町村誌中で言及された青毛村もアフゲで処理、青毛堀には一様にヲウゲのルビを打っている。こうした事実は、明治初期の青毛が決してアヲゲ村でなかったことを示す明らかな証拠と言えるのである。
     『埼玉県各郡町村名』には現在の出版物に見るような厳密な正誤表の添付がないため、検証で確認してアフゲと振直された複本ルビは、明治14年の「町村字調べ」に記された同じ読みの朱ルビと共に明治の青毛村がアオゲ村でなかった貴重な第一級資料として評価できるのである。
     なお『武蔵国郡村誌』の編輯進達について補足すれば、三輪氏は明治16年2月(16日)入間村誌10冊を、17年12月(24)足立村誌18冊を進達。一方大庭氏は明治17年1月(23)に旛羅・榛沢及び男衾の3郡誌を進達、18年2月(16日)には入間郡誌を三輪氏の総葛郡村誌と一緒に進達、更に翌月14日青毛村村誌を含めた埼玉村誌23冊を進達している。そしてまた大庭氏はその1ヵ月後の4月13日に三輪氏の葛飾郡誌と共に埼玉郡誌を進達して、10年余に及んだ『武蔵国郡村誌』の編輯・進達の仕事を終了させたのである。ついでながら、『郡村誌』編輯進達に当って時に担当責任者に同行・代行、検証・編修・浄書に当った史誌編輯者には、 穴戸逸郎氏(明治初め~10年)と、地図担当の朝生文就氏 (明治8~?)、堀内守約氏(明治9~11年)、荘司精一氏(明冶9年9月~13年6月)、伊藤由哉氏(明冶9~10)、栗野義雄氏(明冶10~同年11月)、尾崎班象氏(明冶10~11年,5月)、藤崎茂和氏(明.10~14年,3月)、高雄純一郎氏(明冶11~12年,3月)、伊藤直氏(明治13~18年)等各氏があった。
      市教育指導課の駒井生は、『郡村誌複本』の青毛のルビにもアヲゲとアフゲが混在していると言われたことがあった。確かに同一編者の手がけた青毛村の隣村・吉羽と野久喜の村誌にアヲゲのルビが付いていたが、両地区に今も残るオーゲ・オオゲの伝承呼び名を考えれば、まず気にするには及ばない。明治15年から18年の間の行政文書の中に、多少の読み方ルビの混乱や編輯ミスがあったとすれば,それは先駆して活字化され配布されていた『埼玉県各郡町村名』に、誤った訓読みルビが付けられていたからである。
      明治16年の『埼玉県各郡町村名』のルビ・アヲゲと、18年にアフゲと修正されて進達完了した『郡村誌』原稿・埼玉村誌の青毛村ルビの文献価値を考えれば、複本はたとえその後県庁の書庫に運ばれ、陽の目も見られぬ長い眠りに入ったとは言え、大庭・三輪両氏が実地に検証確認修正した青毛村の進達原稿ルビは、戦国の昔には「大毛」と表記され 近世以降「青毛」と表記換えされながら 平成までオオゲ・オーゲと語り継がれてきた当地の名前の 一貫性を正確に伝えてくれているのである。

3.「郡村誌複本」の書庫入りと その後見られてきた『埼玉県各郡町村名』と『武蔵国郡村誌』青毛村の偽称効果:

     大庭・三輪両氏の編輯成果は残念ながら当時出版公開されることもなく、複本としてその後県庁書庫に収納されてしまていた。そして明治・大正・昭和の激動の年月の経過ともに やがて『郡村誌』の原稿そのものの存在すら忘れられた。2世代以上70年に及んだ長い書庫入りの間 複本は無事だったとはいえ、書庫に隔離されたままだったため 当初予想もしなかった第三者による全国規模の地誌・地名の研究や、地方行政関連資料等の出版文献上で利用されなくて、青毛の呼び名は現実の村名とは全く遊離した『埼玉県各郡町村名』のアオゲ読みの普及を徐々に広めてしまったのである。
     この点複本の書庫入りは、青毛村にとって一旦修正された実名・アフゲ(=オオゲ)の記録の棚上げやお蔵入りに等しく、その状況は 県職員を含む一般公務員、報道・出版関係者だけでなく更に広く研究者を含めて社会全体の人々の耳目から、「複本」の伝える真実を隔離し、実質隠蔽情態に置いたことになった。地名の正式な呼び方確認程度だったら、たって手間暇かけて書庫収蔵の「郡村誌複本」や「町村字調べ」を閲覧しなくとも、既に公開されていた手軽な『埼玉県各郡町村名』で事足りたからである。

      国の地誌編纂事業は、明治21年(1888)に帝大に移管される一方、同じ年に参謀本部陸軍部は、明治13年から17年に測量した2万分の1『迅速測図・埼玉県・幸手駅』を、青毛村に『埼玉県各郡町村名』と同じ訓読みルビをつけたまま出版するという齟齬を見せ初めていた。
      翌明治22年(1889)の町村合併で、青毛村は吉羽・西・栗原・野久喜・古久喜とともに太田村となり、それまでの村々は大字となった。青毛は依然オーゲ・オオゲと呼ばれていたが、その後青毛の地名を いつの間にか文献上アヲゲ読みで定着させる力となった注目すべき2冊の民間出版書が刊行された。
      1冊は今も隠然とした力を見せる 明治33年から40年にかけて吉田東伍先生が冨山房から出版した『大日本地名辞書』(1990~07)の第6巻『坂東』(明治36年10月刊)であり、もう1冊は、『大日本地名辞書』の出版が始まった翌年に日本加除出版が発売し始めた『日本行政区画便覧』(明治34年・1901)である。
      青毛村のルビが何れも「アヲゲ」とされたのは、この頃「郡村誌複本」は既に埼玉県庁の書庫に隔離され、民間で閲覧可能だったのは、明治16年の『埼玉県各郡町村名』が唯一の資料だったためと考えられる。これら2書の県内の地名は、県令名で刊行されていて行政上もズッと正確さを信じられた『埼玉県各郡町村名』を参照にしたのはほぼ間違いない。だがこの頃の青毛が文献上でも名実共にアフゲ(=オオゲ)であり、青毛堀の呼び名もヲウゲ堀だったことは、明治18年までに内務省に進達された「郡村誌原稿(=県文書館所蔵の複本)」ルビが示す通りであった。
      文献上では歪められながらも、「青毛」の呼び名はその後も県北東部地域の人々に自然な状態で日常的に使われてきた。村立太田小学校時代から 久喜町立から市立の小・中学校時代になっても、青毛の呼び名は「アオゲ小」が開校するまでアオゲとは呼ばれなかった。そしてそのことは、国土地理院が改めて明治40年に測図し、42年(1909)8月に出版した5万分の1の『埼玉県地図・幸手』の 青毛につけたオーゲのルビがハッキリと証明している。このルビは先の『迅速測図』とは違って一層慎重な実測に加え、現地で使われている地名確認の上で付けられたもので、明治の青毛村は県教委や久喜教委が公開してきたアオゲでなかった第2の証と言える。この地図は昭和54年に埼玉県教育委員会が出版した『埼玉県市町村誌』の第17巻久喜市のページに引用掲載されている。