先ほども述べました通り、『下等生物学入門講義』は、本当に下等生物学界ではバイブルです。原著はドイツ語で書かれていて、10年近く経ってイギリスの研究者によって英語に訳されました。わたくしはイギリスに留学中にその本に出会いました。出版されて間もなかったので、本屋さんに山積みになっていました。でもすぐ売り切れてしまう。それだけ、人々の関心が高い本だったということです。わたくしは寝る間も惜しんで読んだ記憶がありますね。今でも時々手に取ってパラパラめくって好きなページを読んだりしています。難しい本なのですが、下等生物学を学ぶためには必須と言ってよいと思います。下等生物学のスタンダードな教科書です。正確に言うならば、フンバルデン先生の講義「下等生物学入門」の講義録です。そのため口語体で記述され、内容は非常に難解ですが平易な言葉で書かれており、そのわかりやすさには定評があります。しかし、平易な言葉で書かれているからといって、内容が簡単かと言うとそうではありません。むしろすごく難しい。わたくしはフンバルデン先生が仰っていることを真に理解できている人は非常に少ないと思いますね。わたくし自身も大体…、70~80%程度の理解だと思います。
わたくしは是非この本を日本語にも翻訳して欲しいと長年思っておりました。この本を翻訳し、出版することで日本の下等生物学がスタートすると言っても過言ではないと思っていました。わたくしも若い頃、研究会の仲間と何度も翻訳に取り掛かりましたが、その度に挫折することになりました。出版社の方々の理解が得られず、出版までこぎつけることができなかったのです。やはり、世間では下等生物学は差別の学問であると思われていたようです。
しかし、ある日出版社の方がわたくしの研究室を訪れ、「下等生物学入門講義」を訳して本社から出版してほしいとおっしゃるのです。わたくしはとても嬉しく思い、お引き受けしようと思いました。しかしわたくしはもう年です。わたくしはわたくしよりも適任者はいることを伝えました。できれば新時代を築いていく若手研究者に、訳出してほしいと思っていたのです。わたくしのような年老いた者が、今さら、そしてスタンダード・テキストである「下等生物入門講義」を訳出するなど恐れ多いと思ったのです。もちろん、大学院のゼミのテキストとして数章訳していくことはありましたが、その本をわたくしが訳出し、出版するとは恐れ多いと思ったのです。しかし、一方でこの本を埋もれさせてしまうのは惜しい。そのため、わたくしは加藤先生を訳者としてご推薦いたしました。加藤先生がこの本を翻訳してくれれば、本当に素晴らしいことだろうと思ったからです。しかし、加藤先生は固辞されました。「山嵜先生が訳すのが一番いいでしょう?」と仰って。それからわたくしは学界の若手に話を回しましたが、学界の若手も「山嵜先生が訳さなくてどうするんですか!?」とわたくしを勇気づけてくれました。そのため、わたくしも覚悟を決めたという訳です。ただ、わたくしも年ですので、1人で訳すのはかなり厳しい。そこでわたくしとしては加藤先生などに共訳者として加わっていただこうと打診いたしましたが「これは山嵜一人でやるべきだろう」と言われ、結局わたくし一人で訳出することになった、そういう本です。
確かに日本に下等生物学を紹介したのはわたくしです。しかし、もはや下等生物学はわたくしだけのものではありません。ここにご参集下さった皆様も、少なからず下等生物学にご興味がおありだと思います。わたくしはそういう若い人たちにもっと活躍して欲しいと願っています。今回の「下等生物学入門講義」はわたくしが訳出することになりましたが、この仕事は本来であれば若い研究者が行うべき仕事だと思います。確かに簡単な内容の本ではありません。翻訳のためにはかなりの経験が必要になってくる、そういう書籍ではあります。しかし、そこに挑戦して欲しいんですね。わたくしのような年寄りは、若い人たちに場所を開けることで最後の社会貢献ができると、そう思っています。わたくしがあけた場所を、皆さんはもっと貪欲に奪っていってほしい。そうしなければ若い人たちが育っていかないと思います。もちろん、わたくしも支援いたします。ですので、皆さんはどうかもっとチャレンジしてみて下さい。新しい世界を構築するためには、命がけの跳躍が必要です。そうすることでしか、自分の人生を作り出すことはできません。
話がまたずれてしまいました。「下等生物学入門講義」のお話でしたね。実は、まだ翻訳の最中でして、もう少しで終わります。本当であればわたくしの退官までに出版したいと思っておりましたが間に合いませんでした。しかし、近々出版される予定ですので是非楽しみにしていてください。邪魔かもしれませんが、訳注はかなりつけています。なにせ古い本ですから、現代の方が読むと理解できない部分が出てきてしまう。それをわかりやすく噛み砕いて説明するために、大量の訳注が必要となってしまいました。この訳注を読むだけでも、下等生物学のことがかなり学べると思います。
【つづく】