一度書いた文章が手違いですべて消えてしまった。同じ文章を二度書くのは辛いが、めげずにもう一度試みたい。
この章で、ヒロインであるナスターシャを中心として人間関係が詳しく語られる。
この章には、描写や会話はまったくない。叙述だけで終始する。
たぶんリアルタイムの場面描写や会話で伝達するには情報が多すぎるからだろう。
それに、ナスターシャ自身が語るにはふさわしくなり内容が盛り込まれているからでもあう。
この複雑怪奇な人間関係を読むと、この小説が人間関係劇であり、群像劇であることがわかる。
しかし、この抜き差しならない、危険極まりない、しかも媚薬のようにそそられる人物設定は見事だ。
このことは、ドスト氏が紛れもない物語(エンタテイメント)作家でもあったことを証明していると思われてならない。
説明文だけでも、ナスターシャのキャラはよく伝わってくるし、魅力的な人物像が輪郭も鮮やかに立ち上がってくる。しかも、深い謎を残しつつ……。
なおかつ、驚くことには、小説は100ページをすでに過ぎているにもかかわらず、ナスターシャは作者の語りと他の人物の風評なのによって伝えられているのみで、彼女自身は物語の主軸となる時間軸には、まだ登場していないのだ。
この語り方は、実に卓抜で、絶大なる効果を上げていると言わざるを得ない。
今この小説は弓がグイグイと引かれている状態だ。
やがてムイシュキンとナスターシャは、どんな出逢い方をし、どのような関係になってゆくのだろうか、と読者の期待は嫌が上にもふくらんでゆくのである。
このナスターシャという魅力的な人物の提出の仕方は実に巧みだ。素晴らしい筆力である、というか彼は物語を面白く語る、話法の天才だったと実感させられる。
もう一言だけ。
ここまで読んできて感じたのは、ドスト氏は小説の中で即物的なものを、露骨に出していることだ。
金・物・家柄・社会的な階級・容姿などに執着し、振り回される人物を、これでもかとばかりに多数登場させる。
物語の主題はその対照となるもの、即ち、人間の心であり、深い思想性であり、神聖な精神の葛藤であることを、読者は予備知識として知っている。
あたかも、俗悪なるものは、聖なるものとのバランスを取るために提出されているかのようだ。
「罪と罰」でもそうだったが、近代社会の象徴ともいえる「金」というものを、露骨にドスト氏は出す。聖なるものを金で買おうとする人間の愚かさを、彼は執拗に描く。
金だけでなく、世間体や色欲に振り回される、あまりにも人間的な人物をドスト氏は、好んで描いている。
ドスト氏の小説の重大なテーマの一つに「欲望」があるからだろうか。
あるいは、心とか思想とか、眼に見えないものだけを語っても、小説として面白くないからだろうか。
また即物的なもののほうが、読者という一般人にとってはわかりやすく、安心できるからかもしれない。
小説は研究者のためにあるのではない。それはいつも、大衆のためにあるのだと思う。
ともあれ、欲望と葛藤は、ドラマを生む必須の要素であることを再認識させられた。
消えてしまった文章をまったく同じものを書けなかったが、内容的にはクリアできただろう。
この章で、ヒロインであるナスターシャを中心として人間関係が詳しく語られる。
この章には、描写や会話はまったくない。叙述だけで終始する。
たぶんリアルタイムの場面描写や会話で伝達するには情報が多すぎるからだろう。
それに、ナスターシャ自身が語るにはふさわしくなり内容が盛り込まれているからでもあう。
この複雑怪奇な人間関係を読むと、この小説が人間関係劇であり、群像劇であることがわかる。
しかし、この抜き差しならない、危険極まりない、しかも媚薬のようにそそられる人物設定は見事だ。
このことは、ドスト氏が紛れもない物語(エンタテイメント)作家でもあったことを証明していると思われてならない。
説明文だけでも、ナスターシャのキャラはよく伝わってくるし、魅力的な人物像が輪郭も鮮やかに立ち上がってくる。しかも、深い謎を残しつつ……。
なおかつ、驚くことには、小説は100ページをすでに過ぎているにもかかわらず、ナスターシャは作者の語りと他の人物の風評なのによって伝えられているのみで、彼女自身は物語の主軸となる時間軸には、まだ登場していないのだ。
この語り方は、実に卓抜で、絶大なる効果を上げていると言わざるを得ない。
今この小説は弓がグイグイと引かれている状態だ。
やがてムイシュキンとナスターシャは、どんな出逢い方をし、どのような関係になってゆくのだろうか、と読者の期待は嫌が上にもふくらんでゆくのである。
このナスターシャという魅力的な人物の提出の仕方は実に巧みだ。素晴らしい筆力である、というか彼は物語を面白く語る、話法の天才だったと実感させられる。
もう一言だけ。
ここまで読んできて感じたのは、ドスト氏は小説の中で即物的なものを、露骨に出していることだ。
金・物・家柄・社会的な階級・容姿などに執着し、振り回される人物を、これでもかとばかりに多数登場させる。
物語の主題はその対照となるもの、即ち、人間の心であり、深い思想性であり、神聖な精神の葛藤であることを、読者は予備知識として知っている。
あたかも、俗悪なるものは、聖なるものとのバランスを取るために提出されているかのようだ。
「罪と罰」でもそうだったが、近代社会の象徴ともいえる「金」というものを、露骨にドスト氏は出す。聖なるものを金で買おうとする人間の愚かさを、彼は執拗に描く。
金だけでなく、世間体や色欲に振り回される、あまりにも人間的な人物をドスト氏は、好んで描いている。
ドスト氏の小説の重大なテーマの一つに「欲望」があるからだろうか。
あるいは、心とか思想とか、眼に見えないものだけを語っても、小説として面白くないからだろうか。
また即物的なもののほうが、読者という一般人にとってはわかりやすく、安心できるからかもしれない。
小説は研究者のためにあるのではない。それはいつも、大衆のためにあるのだと思う。
ともあれ、欲望と葛藤は、ドラマを生む必須の要素であることを再認識させられた。
消えてしまった文章をまったく同じものを書けなかったが、内容的にはクリアできただろう。