今日は仕事で栃木県小山市まで行ってきた。
文京区の自宅からだと往復3時間はかかる。その時間を利用して「白痴」を読みすすんだ。
ようやく三分の一まで読んだ。
「罪と罰」は主人公が殺人を犯す、犯罪小説の要素で読ませた。
では「白痴」はどうか。
前者では極貧の人たちが描かれたが、今度は上流階級の人たちがメインだ。
癲癇もちの白痴であるムイシュキン公爵が主人公。
ペテルブルク第一の美女であるナスターシャがヒロイン。
ロゴージンはムイシュキンの恋敵で、野人の地主である。
それにアグラーヤというエパンチン将軍の娘がからむ。
これは犯罪小説ではなく、心理劇だ。そう思って読み進んできたが、ドスト氏はさすがにそれだけでは1500ページもの大長編を読ませることは不可能だと思ったのか、殺人を用意しているみたいだ。
愛憎劇の果ての殺人。それならば、前作の「罪と罰」に負けないだけの緊密感は得られるだろう。
以下、愚痴っぽくなってしまうが、読んでみて感じたストレスとか疑問点などを記しておきたい。
人物設定が極端すぎる。
怖ろしいくらいに語りが冗長であり、無駄話も多いのに、ロゴージンがなぜナスターシャにあれほど入れあげるのかが、ほとんど書かれていない。
そうなるのは、作者の意図に過ぎないのに、それが規定の事実のように書かれている。
この傾向は「罪と罰」にもうかがえたが、突っ込みどころの一つだろう。
それに、あのナスターシャの夜会だ。
あの夜会では、ムイシュキンはナスターシャに逢うのは二回目だ。写真を見たのをカウントしても、3回目だ。
それで、彼は彼女にプロポーズさせている。
それに「あなたを愛している。あなたのためなら死んでもいい」とまで言わせている。
この唐突さ。この性急さは、会話とか説明の異常な長さとともに、呆れ返るほどアンバランスだ。
これはもう病気だとしか言いようがない。
だから、繰り返しになるが、「罪と罰」も「白痴」も、世間で評価されているほどの名作ではないと思う。
名作ではなく、異常なまでに偏執的に書かれた長たらしい会話劇と称すべきで、正直言って、通常の人が読んだ場合、得るよりも失うもののほうが大きいと思う。
世界で一番美しい人間を描くとか、「白痴」のテーマは素晴らしそうに感じるが、描かれている世界のほとんどが、言ってみれば、痴話喧嘩である。
ナスターシャという人物も奇妙だ。作者は不幸な女だが、魂は純潔という感じで読者に伝えたいのだろうが、どう読んでも、そんなふうには取れない。12歳でハゲオヤジに囲われたのは不幸かもしれないが、ずっと贅沢三昧の生活を送ってきたのであり、もう我がままの塊りみたいな女になってしまっている。
ロゴージンだって、あれほど金持ちなのなら、ほかに女はいくらでもいるのではないか。そこのところを綿密に書かないと納得がゆかない。
作者が思い込んだストーリーがあり、それを既成事実として話を進行させているが、それは読者に対する不誠実だと思う。
いくらなんでもとか、突拍子もないとかいうことが多すぎる。伏線の貼り方が甘い。
人物の背景が描けていないし、動機の書き込みも浅い。
編集というか、会話・叙述・描写、すべてに刈り込みがなされていないので、メインストーリーに集中できない。
「罪と罰」ほどではないが、「白痴」も実に欠点の多い小説だ。
もちろん、美点もたくさんあるのだが、長所と短所をきっちり見極めながら読みすすめてゆきたい。
目標は、これらの名作から得た糧を活かして、何か創造的なものを実際に生み出すことに起きたいからだ。
受身ではなく、能動的に読んでゆきたい。
世界の名作に挙げられていようが、駄目なものは駄目なのだ。
逆に、我々現代人が失ってしまったものが、ここにはたくさんあることも確かだ。そのあたりを粘り強く書いてゆくつもりである。
文京区の自宅からだと往復3時間はかかる。その時間を利用して「白痴」を読みすすんだ。
ようやく三分の一まで読んだ。
「罪と罰」は主人公が殺人を犯す、犯罪小説の要素で読ませた。
では「白痴」はどうか。
前者では極貧の人たちが描かれたが、今度は上流階級の人たちがメインだ。
癲癇もちの白痴であるムイシュキン公爵が主人公。
ペテルブルク第一の美女であるナスターシャがヒロイン。
ロゴージンはムイシュキンの恋敵で、野人の地主である。
それにアグラーヤというエパンチン将軍の娘がからむ。
これは犯罪小説ではなく、心理劇だ。そう思って読み進んできたが、ドスト氏はさすがにそれだけでは1500ページもの大長編を読ませることは不可能だと思ったのか、殺人を用意しているみたいだ。
愛憎劇の果ての殺人。それならば、前作の「罪と罰」に負けないだけの緊密感は得られるだろう。
以下、愚痴っぽくなってしまうが、読んでみて感じたストレスとか疑問点などを記しておきたい。
人物設定が極端すぎる。
怖ろしいくらいに語りが冗長であり、無駄話も多いのに、ロゴージンがなぜナスターシャにあれほど入れあげるのかが、ほとんど書かれていない。
そうなるのは、作者の意図に過ぎないのに、それが規定の事実のように書かれている。
この傾向は「罪と罰」にもうかがえたが、突っ込みどころの一つだろう。
それに、あのナスターシャの夜会だ。
あの夜会では、ムイシュキンはナスターシャに逢うのは二回目だ。写真を見たのをカウントしても、3回目だ。
それで、彼は彼女にプロポーズさせている。
それに「あなたを愛している。あなたのためなら死んでもいい」とまで言わせている。
この唐突さ。この性急さは、会話とか説明の異常な長さとともに、呆れ返るほどアンバランスだ。
これはもう病気だとしか言いようがない。
だから、繰り返しになるが、「罪と罰」も「白痴」も、世間で評価されているほどの名作ではないと思う。
名作ではなく、異常なまでに偏執的に書かれた長たらしい会話劇と称すべきで、正直言って、通常の人が読んだ場合、得るよりも失うもののほうが大きいと思う。
世界で一番美しい人間を描くとか、「白痴」のテーマは素晴らしそうに感じるが、描かれている世界のほとんどが、言ってみれば、痴話喧嘩である。
ナスターシャという人物も奇妙だ。作者は不幸な女だが、魂は純潔という感じで読者に伝えたいのだろうが、どう読んでも、そんなふうには取れない。12歳でハゲオヤジに囲われたのは不幸かもしれないが、ずっと贅沢三昧の生活を送ってきたのであり、もう我がままの塊りみたいな女になってしまっている。
ロゴージンだって、あれほど金持ちなのなら、ほかに女はいくらでもいるのではないか。そこのところを綿密に書かないと納得がゆかない。
作者が思い込んだストーリーがあり、それを既成事実として話を進行させているが、それは読者に対する不誠実だと思う。
いくらなんでもとか、突拍子もないとかいうことが多すぎる。伏線の貼り方が甘い。
人物の背景が描けていないし、動機の書き込みも浅い。
編集というか、会話・叙述・描写、すべてに刈り込みがなされていないので、メインストーリーに集中できない。
「罪と罰」ほどではないが、「白痴」も実に欠点の多い小説だ。
もちろん、美点もたくさんあるのだが、長所と短所をきっちり見極めながら読みすすめてゆきたい。
目標は、これらの名作から得た糧を活かして、何か創造的なものを実際に生み出すことに起きたいからだ。
受身ではなく、能動的に読んでゆきたい。
世界の名作に挙げられていようが、駄目なものは駄目なのだ。
逆に、我々現代人が失ってしまったものが、ここにはたくさんあることも確かだ。そのあたりを粘り強く書いてゆくつもりである。