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「罪と罰」と「白痴」の世界

ドストエフスキーの「罪と罰」と「白痴」を徹底解読するブログです。

「白痴」って、本当に名作なのか?

2005-07-09 22:37:11 | 「白痴」について
今日は仕事で栃木県小山市まで行ってきた。
文京区の自宅からだと往復3時間はかかる。その時間を利用して「白痴」を読みすすんだ。
ようやく三分の一まで読んだ。
「罪と罰」は主人公が殺人を犯す、犯罪小説の要素で読ませた。
では「白痴」はどうか。
前者では極貧の人たちが描かれたが、今度は上流階級の人たちがメインだ。
癲癇もちの白痴であるムイシュキン公爵が主人公。
ペテルブルク第一の美女であるナスターシャがヒロイン。
ロゴージンはムイシュキンの恋敵で、野人の地主である。
それにアグラーヤというエパンチン将軍の娘がからむ。
これは犯罪小説ではなく、心理劇だ。そう思って読み進んできたが、ドスト氏はさすがにそれだけでは1500ページもの大長編を読ませることは不可能だと思ったのか、殺人を用意しているみたいだ。
愛憎劇の果ての殺人。それならば、前作の「罪と罰」に負けないだけの緊密感は得られるだろう。

以下、愚痴っぽくなってしまうが、読んでみて感じたストレスとか疑問点などを記しておきたい。
人物設定が極端すぎる。
怖ろしいくらいに語りが冗長であり、無駄話も多いのに、ロゴージンがなぜナスターシャにあれほど入れあげるのかが、ほとんど書かれていない。
そうなるのは、作者の意図に過ぎないのに、それが規定の事実のように書かれている。
この傾向は「罪と罰」にもうかがえたが、突っ込みどころの一つだろう。
それに、あのナスターシャの夜会だ。
あの夜会では、ムイシュキンはナスターシャに逢うのは二回目だ。写真を見たのをカウントしても、3回目だ。
それで、彼は彼女にプロポーズさせている。
それに「あなたを愛している。あなたのためなら死んでもいい」とまで言わせている。
この唐突さ。この性急さは、会話とか説明の異常な長さとともに、呆れ返るほどアンバランスだ。
これはもう病気だとしか言いようがない。
だから、繰り返しになるが、「罪と罰」も「白痴」も、世間で評価されているほどの名作ではないと思う。
名作ではなく、異常なまでに偏執的に書かれた長たらしい会話劇と称すべきで、正直言って、通常の人が読んだ場合、得るよりも失うもののほうが大きいと思う。
世界で一番美しい人間を描くとか、「白痴」のテーマは素晴らしそうに感じるが、描かれている世界のほとんどが、言ってみれば、痴話喧嘩である。
ナスターシャという人物も奇妙だ。作者は不幸な女だが、魂は純潔という感じで読者に伝えたいのだろうが、どう読んでも、そんなふうには取れない。12歳でハゲオヤジに囲われたのは不幸かもしれないが、ずっと贅沢三昧の生活を送ってきたのであり、もう我がままの塊りみたいな女になってしまっている。
ロゴージンだって、あれほど金持ちなのなら、ほかに女はいくらでもいるのではないか。そこのところを綿密に書かないと納得がゆかない。
作者が思い込んだストーリーがあり、それを既成事実として話を進行させているが、それは読者に対する不誠実だと思う。
いくらなんでもとか、突拍子もないとかいうことが多すぎる。伏線の貼り方が甘い。
人物の背景が描けていないし、動機の書き込みも浅い。
編集というか、会話・叙述・描写、すべてに刈り込みがなされていないので、メインストーリーに集中できない。
「罪と罰」ほどではないが、「白痴」も実に欠点の多い小説だ。
もちろん、美点もたくさんあるのだが、長所と短所をきっちり見極めながら読みすすめてゆきたい。
目標は、これらの名作から得た糧を活かして、何か創造的なものを実際に生み出すことに起きたいからだ。
受身ではなく、能動的に読んでゆきたい。
世界の名作に挙げられていようが、駄目なものは駄目なのだ。
逆に、我々現代人が失ってしまったものが、ここにはたくさんあることも確かだ。そのあたりを粘り強く書いてゆくつもりである。

黒澤明式読書術

2005-07-07 22:41:19 | 「白痴」について
以下は黒澤明の言葉。

日本は勉強不足というか。娯楽が多すぎて環境がよくないね。
ぼくらの頃は新しい本を読むのが唯一の楽しみで、電車にのらずに貯金して
本を買った。ドストエフスキーとか、よくわかりゃしないけど無理やり読む。
そのうちにわかってくる。そういうことが必要なんだろうね。
──20才の頃は何をしていらっしゃいました?
映画界に入ったのが26才くらい。まあ、本を読んでたな、ハタチの頃は、
小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いてるけど、『白痴』について
小林秀雄と論争したって負けないよ。
若い人もそういう具合の勉強のしかたをしなきゃいけないっていうんだよ。
                                
「ドストエフスキーとか、よくわかりゃしないけど無理やり読む。そのうちにわかってくる。そういうことが必要なんだろうね」……ううむ。こんなふうに「罪と罰」を読むべきかもしれない。

もう一つ、黒澤明の言葉。

僕らがやさしいといっても、例えば大変な悲惨なものを見たとき目をそむけるようなそうゆうやさしさですね。あの人はその場合目をそむけないで見ちゃう。一緒に苦しんじゃう。そういう点、人間じゃなくて神様みたいな素質を持ってると思うと僕は思うのです。

励まされるし、彼の小説を読みながら、愚痴を言っていた自分が恥ずかしく感じる。
そうか、黒澤っていう偉大な映画監督は、さすがに違う読み方をするものだなあ。
しかし、はいそうですか、僕も彼に負けないで、せめて登場人物を同じ苦悩を背負い込んで読みましょう、という具合にはうまくゆきそうにない。

ドストエフスキーは貪欲さが人並みはずれている。
人間に彼は凄く興味がある。外から見つめて安心しない。
内側のものをえぐりだし、僕たちの前にさらけださないではいられない。
人間愛などという生やさしい言葉ではくくれない、病的で狂おしい欲望の持ち主だ。

だから、半端な気持ちでぶつかっては、逆につぶされてしまう。圧搾機にかけられるようなものだ。

「罪と罰」を読む時こそ、睡眠をよくとり、栄養を摂取し、適度の運動をすべきだと真剣に考えている。

ズレの感覚

2005-07-04 23:06:53 | 「白痴」について
今日はモスバーガーで、よく行く喫茶店のアルバイトの女の子と出くわした。
ところが、ロクに話もできなかった。
その子が、けっこう性格が明るく、笑顔を振りまくタイプのせいもあったろうが、
僕が「白痴」を読んでいたのが、一番いけなかった。
現実とのズレを一瞬のうちに修正しないと、現役の女子大生とは会話はできない。
何を話そうかなどと考えていたら駄目なのだ。
しかし、もう、絶望的なまでに「白痴」の世界にどっぷりはまっていた。
とうとう何も話せずに、さようなら…。
いくらんでも、会話がまったくできないのは、変だった。
これって、「白痴」の弊害?

確かに「白痴」の世界は、現実社会とは、かけ離れている。ズレにズレているのだ。
出てくる人物はすべて変人ばかり。

先日友人に黒澤の「白痴」についての感想を求めたところ、かんばしい評価は聞けなかった。
映画というより、演劇だなあ。
役者が芝居してるのを写真まわしてるだけだろう。
何でまた登場人物が、つまらないことで必死になってるの。
深刻ぶってて、疲れないのかなあ。
長い、テンポが悪い、暗い、カッコよくない、後味が悪い…。

「白痴」は、現実社会だけでなく、文学・芸術の世界の中でもズレている。

「白痴」で表現されている世界を現代で描くのは、困難極まりない。
ズレは違和感を生み、時に失笑さえかってしまう。

しかし、それでも僕は、貴重な時間を割いて、約1500ページの長たらしい小説と格闘している。
僕自身が、ズレているせいだろうか。

「白痴」的世界を描きたいという誘惑はある。
しかし、取り扱い注意だ。よほど、バランス感覚を働かせないと、作品として成立しない。

それはとにかく、今日会った女の子、もう口をきいてくれないかもしれない。

黒澤明の「白痴」を観る。

2005-07-04 18:07:43 | 「白痴」について
黒澤明の「白痴」を観た。
これで3回目だと思う。
失敗作、偉大なる駄作だとか思った記憶があるが、今回観て、これはもう凄い世界を描いたものだなあと素直に感じた。
ずいぶん配給会社からカットされたという話だが、オリジナル全長版を見てみたいものだ。
4時間でも5時間でも、ぜひ見たい。
ドストエフスキーの原作を今読んでいるが、この異様な長さを思えば、5時間の映画など短いと感じるだろう。
ドスト氏は、長く書くという病に侵されていたのではないかと思ってしまうほど、彼の小説は怖ろしく長い。
登場人物を減らし、会話を切り詰め、本筋とは関係のない挿話はカットし……という具合に短くする工夫をすれば少なくとも半分まではページを減らせるだろう。
それに比べ、黒澤の「白痴」は、言葉足らずで終わっている感がある。ラストのほうが呆気ないくらいだ。
原作ではムイシュキンが26歳、ロゴージンは27歳ということになっているが、映画ではかなり年かさになっている。だが、男優二人は熱演していて素晴らしい。
いかんせん、ナスターシャとアグラーヤ役は、原節子と久我美子では無理があった気がする。
かといって、この意欲作をこき下ろす気は毛頭ない。
日本で、これほど骨太な大作に挑んだ監督がいたというだけで感動的だ。
全体のバランスとかテンポなど、難を言えばかなり出てくるだろうが、それらを超越した力が、この作品には確かにある。

哲学的語り部・ムイシュキン

2005-07-01 23:26:30 | 「白痴」について
[第一編5]
この章ではムイシュキン公爵の哲学的な語りが堪能できる。
彼はエパンチン将軍の家に招かれ、リザヴェータ夫人、それに三人の娘を相手に喋る。
その語りは白痴的で滑稽ではあるが、独特の鋭敏な感受性(驢馬の鳴き声の話など)、深い哲学的な洞察力(死刑囚の心理など)に富み、聞き手を、そして読者を知らぬ間に魅了してしまう。

「罪と罰」では、四つの夢とか数少ない名場面を抜かせば、読み返したくなる文章というものには、正直出逢えなかった。むしろ、主人公の病んだ神経と重苦しい雰囲気に拒絶反応を起こしてしまった。だから、正直、読みきるのは辛かった。

しかし、「白痴」は読んでいて楽しい。自分はこの小説と遭遇するために遍歴してきたのではないかという気さえする。私は決して大げさな言い方をしてはいない。

何度でも読み返したくなる章だ。
ムイシュキンが語りはじめると場の空気が変わり、透明で深い精神世界が広がる。
まさに、神がかり的な語りである。
語りの内容も凄いが、語り方の巧みさにも注目。
最初はゆったりと滑り出し、不意に聞き手をハッとさせて、話の中に誘い込み、話を次第に深化させ、さらに核心部にはいると、畳み掛けるように話のスピードを上げ、かさにかかって攻めて立ててくる。
まるで優れた交響楽のように魂にまで響いてくる。そして、木霊さながらに心の奥にいつまでも反響しつづける。
「罪と罰」であれほどまでに辟易した冗長さは、ほとんど感じない。小説の中の人物と同じく、ムイシュキンの話をもっと聞きたいと思った。

ナスターシャの人物像

2005-06-30 15:54:45 | 「白痴」について
一度書いた文章が手違いですべて消えてしまった。同じ文章を二度書くのは辛いが、めげずにもう一度試みたい。

この章で、ヒロインであるナスターシャを中心として人間関係が詳しく語られる。
この章には、描写や会話はまったくない。叙述だけで終始する。
たぶんリアルタイムの場面描写や会話で伝達するには情報が多すぎるからだろう。
それに、ナスターシャ自身が語るにはふさわしくなり内容が盛り込まれているからでもあう。
この複雑怪奇な人間関係を読むと、この小説が人間関係劇であり、群像劇であることがわかる。
しかし、この抜き差しならない、危険極まりない、しかも媚薬のようにそそられる人物設定は見事だ。
このことは、ドスト氏が紛れもない物語(エンタテイメント)作家でもあったことを証明していると思われてならない。

説明文だけでも、ナスターシャのキャラはよく伝わってくるし、魅力的な人物像が輪郭も鮮やかに立ち上がってくる。しかも、深い謎を残しつつ……。
なおかつ、驚くことには、小説は100ページをすでに過ぎているにもかかわらず、ナスターシャは作者の語りと他の人物の風評なのによって伝えられているのみで、彼女自身は物語の主軸となる時間軸には、まだ登場していないのだ。
この語り方は、実に卓抜で、絶大なる効果を上げていると言わざるを得ない。
今この小説は弓がグイグイと引かれている状態だ。
やがてムイシュキンとナスターシャは、どんな出逢い方をし、どのような関係になってゆくのだろうか、と読者の期待は嫌が上にもふくらんでゆくのである。
このナスターシャという魅力的な人物の提出の仕方は実に巧みだ。素晴らしい筆力である、というか彼は物語を面白く語る、話法の天才だったと実感させられる。

もう一言だけ。
ここまで読んできて感じたのは、ドスト氏は小説の中で即物的なものを、露骨に出していることだ。
金・物・家柄・社会的な階級・容姿などに執着し、振り回される人物を、これでもかとばかりに多数登場させる。
物語の主題はその対照となるもの、即ち、人間の心であり、深い思想性であり、神聖な精神の葛藤であることを、読者は予備知識として知っている。
あたかも、俗悪なるものは、聖なるものとのバランスを取るために提出されているかのようだ。
「罪と罰」でもそうだったが、近代社会の象徴ともいえる「金」というものを、露骨にドスト氏は出す。聖なるものを金で買おうとする人間の愚かさを、彼は執拗に描く。
金だけでなく、世間体や色欲に振り回される、あまりにも人間的な人物をドスト氏は、好んで描いている。
ドスト氏の小説の重大なテーマの一つに「欲望」があるからだろうか。
あるいは、心とか思想とか、眼に見えないものだけを語っても、小説として面白くないからだろうか。
また即物的なもののほうが、読者という一般人にとってはわかりやすく、安心できるからかもしれない。
小説は研究者のためにあるのではない。それはいつも、大衆のためにあるのだと思う。

ともあれ、欲望と葛藤は、ドラマを生む必須の要素であることを再認識させられた。

消えてしまった文章をまったく同じものを書けなかったが、内容的にはクリアできただろう。

いきなり「死刑制度」に対する見解

2005-06-29 16:49:54 | 「白痴」について
[第一編2・3]
エパンチン将軍とその家族の紹介。
●エパンチン将軍(56歳)
●婦人はムイシュキン公爵家の出。
●3人の娘。すべてが才色兼備。
○アレクサンドラ(25歳)
○アデライーダ(23歳)
○アグラーヤ(20歳)
ムイシュキン公爵がエパンチン将軍の家を訪ねる。
彼のあまりのみすぼらしい容貌のために、将軍にとりついでもらえない。
ここでのムイシュキンの弁舌が面白い。
召使相手にいきなり「死刑制度」に対する見解を述べる。
この長い哲学的な語りは、ドスト氏の小説の大きな魅力の一つ。
しかも、その哲学(真理)は、ドスト氏自身が体験によって自ら克ち得たものであることに注目。
癲癇もちで、白痴みたいな馬鹿正直者だと思うと、突然に死刑制度に関する薀蓄を述べるところが、いかにもドスト的で興味深い。
ガーニャの人物描写も鋭い。
ドスト氏は、小説に初めて登場する人物は、かなり克明に描写する。読者に強烈に印象づける。
エパンチン将軍が登場し、ムイシュキンと会話する。
そこにガーニャが加わり、絶世の美女であるナスターシャとロゴージンの話題も出る。
彼女を中心にもめごとが起きている模様。
多くの人間たちによる葛藤は、彼の小説の中心にある。
どうやら、この作品も葛藤劇になりそうな気配がする。
最も面白いのは、ムイシュキンの会話と、彼と出逢って接した人間たちの反応の描き方。
「罪と罰」のラスコーリニコフと違って、ムイシュキンは癒し系のキャラみたいだ。
ムイシュキンは事件に巻き込まれると同時に、また多くの人に影響を与えてゆくことになりそうだ。

絶世の美女と大金で釣る。

2005-06-29 00:03:58 | 「白痴」について
ですます調」が途中で「である調」になったり。また元に戻ったりしますが、悪しからずご了承ください。
「である調」では熱くなりすぎたり、文章が固くなるきらいがあります。
「ですます調」は書いていて、かったるくなったり、イライラしたりします。語尾変化のバリエーションが少ないので、歯切れも悪く、単調になりがちです。

では順を追って読み解いてゆくことにします。
テキストは新潮文庫版でまいります。最近、文字が大きくなって読みやすくなりました。

[第一編1]
いわゆる書き出しです。
これはなかなかいいですね。

1)時
「罪と罰」が夏で、今度は冬です。

2)場所
舞台は同じくペテルブルク。そこに向かう汽車の中での会話。

3)人物
出てくる人物は、「罪と罰」は貧しい人々たちが中心でしたが、今度は貴族や大金持ちが出てきます。
ムイシュキン公爵とロゴージンという主人公をさっそく出し、二人を紹介。
全く正反対の二人。癲癇もちの聖人のムイシュキン、情熱家だが、孤独な魂を持ち、金と女に翻弄されているロゴージンという設定は最高ですね。
「罪と罰」みたいに、ラスコーリニコフという神経症を患った青年に偏りすぎると辛いものがあります。
「白痴」は、人物設定だけでも、巧いなあと思います。
たぶん「罪と罰」は、乱暴な言い方をするなら、アイデア倒れだったのでしょう。
ユニークな思想に取り憑かれた青年が老婆を殺す……そこまでは完璧でした。
しかし、それに見合うだけの結末を描くことはできませんでした。
「白痴」に話を戻しましょう。
男性の主人公二人に加え、ヒロインであるナスターシャという公爵令嬢の存在をも、ここで示しまます。
彼女はペテルブルク第一の美女。
ロゴージンは多額の財産を相続するらしく、
ここで美女と大金で、読者の興味をそそります。
この人物設定は隙がありません。
ここですでに、読者は、これは面白そうだと思い込んでしまうでしょう。

4)状況
さらに卓抜なのは、ここでレーベジャフという小役人を登場させていることです。
ムイシュキンとロゴージンとレーベジェフの三人の会話だから面白いんです。
この品性下劣な小役人レーベジェフが情報を提供し、状況を説明する役目を果たします。
ムイシュキンは行き場を失っているうえに癲癇もちで、馬鹿正直な男です。
ロゴージンは多額の財産相続の問題をかかえているうえに、絶世の美女ナスターシャにのぼせている。
こういった状況をレーベジェフを出すことで、無理なく、そして下世話ではありますが、面白く伝えることができているのです。

5)視点
三人称客観視点のようです。作者視点と言ってもいいかもしれません。
登場人物の誰かの視点で、物語を進行させるのではなく、
作者がすべての人物を統括しながら、物語ってゆくみたいです。
今後、視点がどうなるかも、注意が必要です。

書き出しは、いいぞ!

2005-06-28 12:20:59 | 「白痴」について
書き出しのところを熟読している。
ムイシュキン公爵とロゴージンの人物描写は、まさにドスト氏流。
ただ克明であるだけでなく、その人物の核心を象徴化するような鋭い描写だ。
「罪と罰」の時にも感じたが、この人物描写は誰にも真似できないと思われるほどの魅力を持っている。

この二人のキャラが正反対であることに注目。
ムイシュキン公爵は聖人であり、ロゴージンは野人だ。

「罪と罰」よりも、かなり読みやすい。新潮文庫の文字が大きくなったでけではない(笑い)。
この正反対のバディ(相棒)小説なら、快調に物語は進むだろう。
それに比べ「罪と罰」はひどかった。
ラスコーリニコフの視点がほとんどだから、このヒステリックな青年の生理と常にいっしょにいなければならなかった。
これは辛い。20歳の時に挫折したのは、あの神経症的な終わりのない語りのせいだろう。

「白痴」では、どうやら語り手の神経症に悩まされる心配はなさそうだ。

ドストエフスキーの「白痴」を精読するブログです。

2005-06-27 17:30:25 | 「白痴」について
「罪と罰」をようやく読了したばかりなのに、
間髪を入れずに「白痴」に挑むのは無謀だろうか。
わからない。むしょうに、この小説が読みたい。
あえて理由づけをするならば、「罪と罰」は完成していないという感じがしたからかもしれない。
おそらくは「白痴」によって、ドスト氏の世界はバランスが取れるのではなだろうか。
色にたとえるならば「罪と罰」が黒、「白痴」は文字通り、白である。
二極一対、この二作品で、ようやくドスト的世界は安定する、そんな気がしてならない。

さあ、はじめよう。おそらくは茨の道になるだろうが、それは仕方がない。
立ちどまって思い悩むより、歩きながら考えるほうが、今の僕には似合っていると思うから……。