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「罪と罰」と「白痴」の世界

ドストエフスキーの「罪と罰」と「白痴」を徹底解読するブログです。

「罪と罰」の底力

2005-07-14 07:44:12 | 「罪と罰」について
この小説は6部+エピローグで構成されているが、現在3部まで読んだ。つまり、上巻が終わったところだ。
1部は「やせ馬の夢」、「老婆殺し」という読みどころがあり、また魅力的な登場人物が次々と登場する楽しみがある。息詰まるような緊迫感がたまらない。
2部は主人公が犯行後、意識の不鮮明な状態がつづくが、老婆殺し事件の捜査の進み具合が明らかにされる。見せ場は、天使の魂を持つソーニャとの運命的な出逢い。そして、階段でのポーリャとのやりとりは、永遠の名場面といえるだろう。
3部は捜査が少しずつ進む中、予審判事のポリフィーリイが登場。
〈ラスコリーニコフVSポリフィーリイ〉の図式が示され、二人の最初の対決、心理戦が繰り広げられる。
最大の見せ場は、「老婆殺しの悪夢」。この描き方が凄い。そして、忍び寄る謎の男の影を描き、最後にスヴィフォリガイロフを登場させて、3部は終わる。

正直、第三部の後半に入った頃、さすがに中だるみがつづき、かなりトーンダウンしてきたなという感じはいなめなかった。
1部は超一流、2部は一流、3部にいたっては1.5流くらいに堕ちたと思った。
ところが、ラスコとポリフィーリイとの心理合戦、「老婆殺しの夢」、そしてスヴィドリガイロフの登場と3部の終盤は俄然盛り上がりを見せる。

ドスト先生! これでは、途中でやめるわけにはいかないじゃないですか!!
ああ、下巻が楽しみだ。

小津安二郎とドストエフスキー

2005-07-14 07:42:35 | 「罪と罰」について
小津安二郎の「麦秋」を見た。
清らかな映画だ。
まるでバロック音楽を聴いているような感じだった。
ドスト的な狂おしい、自らをも滅ぼしかねない熱く濁った血の泡立ち、その対極に位置する清澄な浄福の世界が繰り広げられる。
澄み切った水の中にいるかと想われるほど、小津の世界は静かだ。
「カラマーゾフの兄弟」などを読むと、いかにドスト氏が清らかな安息の世界を希求しているかが窺える。だが、彼の場合は、それ以上にカラマーゾフの血というか、無節操なまでの生命の惑溺に没入してしまう自らの宿命に翻弄されてしまう人間像の描出のほうに、より力を注ぐ…。

私は何を書こうとしているのだろう。
ラストの麦畑のシーンは、ホ・ジノ監督の「春の日は過ぎゆく」のラストシーンに影響を与えているのではないか。「八月のクリスマス」も、小津へのオマージュであり、小津的浄福への憧憬にほかならない……。いやいや、そういうことを語っても仕方がない。このブログは、「罪と罰」限定のはずだ。

ドストエフスキーは安息の世界に憧れた。できることならば、敬虔なキリスト教信者として、魂の平安を獲得したかった。だが、彼の血の宿命は、それを許さなかった。ドスト氏の血は余りにも熱く、狂おしいく泡立ち、渦を巻いていた…そんなふうに私は想う。

彼の小説を読んでいると不安になってくる。体中の細胞がざわざわし、何やらとんでもない場所に拉致されてしまうような胸騒ぎがしてくる。
つまり、ドスト氏はバッハではなく、ヴェートーベンだったということか。小津ではなく、やはり黒澤的なのだ。

やはり、私は私の血を騒がせてくれる作品に触れたいと思う。

親友ラズミーヒンの存在

2005-07-11 23:54:32 | 「罪と罰」について
しかしもう、「罪と罰に出てくる人物が、どいつもこいつも真面目で暗くて、爽やかなヤツなんか一人もいないじゃなか…などと嘆きたくなる。

まあ、その中で陽性のキャラといえば、二人しかいない。
主人公であるラスコーリニコフの親友・ラズミーヒン。
そして、天使の魂と持つ悲劇の娼婦・ソーニャの妹のポーリャ。純粋無垢な少女だ。

特にラズミーヒンは、ラスコの相棒のように彼につきまとい、物語の進行役も受け持つ。
単純で、能天気で、友だち思いで、正義感で、おしゃべりの彼の存在は、実に効いている。
というか、彼がいなかったら、たぶん最後まで読むのは苦痛極まりないだろう。

B級映画的な彼の間抜けさ、ボケと突っ込みは、読者が唯一息が抜けるところともいえる。

ラズミーヒンを登場させたドスト氏のバランス感覚には、好感が持てた。みなさんの意見を聞いてみたいものだ。

ドストエフスキーと俳句

2005-07-11 23:51:18 | 「罪と罰」について
ドスト氏の小説の対極に位置するのが俳句ではないだろうかと、ふと思った。
五七五、たった十七文字に思いを凝縮させる日本人独特の美学。
そういった切り詰め、刈り取りの世界とは無縁なのが「罪と罰」。
饒舌、冗長、まとわりつくようなくどさ。
ただでさえ蒸し暑さでまいっているところへ、「罪と罰」なんかを読んでいたら、
神経の芯まで、やられてしまいそうだ。
今、砂漠で水を求めるように、俳句小説とも呼ぶべき、切り詰められた短編小説が読みたいと切に思う。

だが、彼の小説には、ほんとうに彼しか書けない世界が描かれていて、代替がきかない魅力に満ちてもいる。
それは真夏でも凍傷にかかるような病的な冷たさと熱さが同居した、まさに狂気の世界。

彼は口当たりのいいケーキ小説は書いてくれない。
その手の小説なら、書店にうんざりするほど並んでいる。

自分で選んだ小説だ。暑さにも負けず、前を向いてゆこう。
この険しい峠を越えれば、きっと何かが変わる。

大胆な仮説の提示

2005-07-09 22:47:48 | 「罪と罰」について
ドスト氏の小説、その魅力の一つに大胆な仮説の提示がある。
衝撃的な問題提示といってもいいし、意外性のある真理の披瀝といってもかまわない。
よくもまあ、こんなことが考えられるものだと思って、読者は度肝をぬかれ、作品世界から逃れられなくなってしまう。
しかも、多くの現代のミステリと呼ばれるものが、こうしたら受けるんじゃないか、こうしたら売れるんじゃないかという作意のもとに、「大胆な仮説」を提出するのに対し、ドスト氏は、自分自身で考えぬいた真理であったり、修羅場をくぐった者でなければ体得できないであろうギリギリの人生観だったりするのだから、説得力が半端ではないのだ。要するに安易な受け狙いや借り物の思想ではなく、自分で獲得した血と汗の結晶なのである。
前回、「極端に純粋なキャラ立て」について書いたが、それが滑稽な茶番と堕する危険性があるというのは、技術的な問題もあることながら、人間の典型の表出が、何よりも作者の魂の具現化、つまり真実の叫びの結実でなければ意味がないということでもある。
これからますます時代は難しくなる。もうお茶レ気小説はいらない。口当たりのいいお菓子みたいな小説は読みたくはない。
少々スマートさには欠けるかもしれないが、真剣に永遠のテーマに取り組む作家こそ求められているのではないだろうか。
では、具体的に見てゆこう。
第一部では、「多くの善行のために行われる一つの殺人は許されるか」という問いかけがあったが、それはこの「罪と罰」重大な核となっている。
第二部では、主人公のこんな独白がある。長いけれども、引用しておこう。書き写すのは面倒だが、忘れてしまうほうがもっと辛い。

《何だったかなあ》ラスコーリニコフは歩きながら、ふと考えた。《何かで読んだことがあった。ある死刑囚が、死の一時間前に、どこか高い絶壁の上で、しかも二本に足を置くのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうなんだろう、と語ったか考えたかしたという話だ、――まわりは深淵、大洋、永遠の闇、永遠の孤独、そして永遠の嵐、――そしてその猫の額ほどの土地に立ったまま、生涯を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、――それでも死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ! 生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい! どんな生き方でもいい、――生きていさえいられたら!……なんという真実だろう! これこそ、たしかに真実の叫びだ! 人間なんて卑劣なものさ! その男をそのために卑劣漢よばわりするやつだって、やっぱり卑劣漢なのだ》

以前読んだ「白痴」と「カラマーゾフの兄弟」にも、ゲッ!と思うようなショッキングな仮説がしばしば語られていた。まさか?!と思うのだが、いや、ほんとうにそうかもしれないと思いなおし、すぐさまその思想の虜になってしまった記憶がある。
これもまた、ドスト氏の独特の話法、つまりドスト節の一つと言えるだろう。
全編に散りばめられた、箴言や警句を抜き出してゆくだけでも楽しい。そして、そんな小説は滅多にあるものではないことを私たちは知っている。

萌えキャラ

2005-07-09 22:46:48 | 「罪と罰」について
何だかアニメみたいなタイトルになってしまった。
というのも、「罪と罰」の第二部を読了したのだが、何も書くことがないのだ。
というか、第一部のような分析はする気になれなかった。
第二部はラスコが老婆殺しを犯したあと、捜査が徐々に進む中、
マルメラードフが馬車に轢かれて死に、それをきっかけにソーニャと運命的な出逢いをするのがメイン。
ソーニャの妹のポーレンカが、帰りかけるラスコを追いかけてきて、階段の途中で二人で会話するシーンは、これもまた名場面だ。
おそらくは、全編中でも珠玉のシーンであろう。
しかし、である。
このキャラ立ては、まるでアニメではないか。
家族の生計を立てるために娼婦に堕ちたソーニャ、純真無垢な妹のポ-リャは、
「北斗の拳」のユリアとリンを彷彿とさせる。
それにラオウ、トキ、ケンシロウの三兄弟は、カラマーゾフの兄弟を下敷きにしていることは明白だ。
何を言いたいかというと、ラスコとソーニャのキャラ立ては、あまりにも人間の典型が鮮やかすぎるので、現代の文学では描きにくい。だから、アニメとかのほうが表現しやすいのだという気がしたのである。
天使の魂を持った永遠の女神像として描かれるソーニャは、まさに萌え過ぎである。
何もチャカしているわけではない。
現代において、「罪と罰」で採用されている人物配置で小説を書くことは極めて困難であり、マンガになってしまう可能性のほうが高いと感じた。
第二部を読み終えて一番感じたことは、意外にもそんなことだった。

「罪と罰」の名場面1〈老婆殺害〉

2005-07-09 22:43:08 | 「罪と罰」について
「罪と罰」新潮文庫版[第一部7]P.131~P.150
今回は「ですます調」に戻します。「である調」も感情移入しすぎて疲れます(苦笑)。
この章で第一部の終了です。
緊迫感と主人公の病的な葛藤はピークに達します。
余りにも有名な老婆とリザベータを主人公が殺害する場面が克明に描かれています。
サスペンスの演出は、基本どおりというか、この手法は現在でもハリウッド映画が頻繁に使っているのではないでしょうか。
ここではあえて、詳細に分析しません。
ただ特筆すべきは、犯罪者の心理描写でしょう。ドスト氏をドスト氏たらしめているのが、この心理描写の鋭さとリアリティです。サスペンスの演出に関しては、技術的には現代作家で、もっとテクニカルに描く人は何人かはいるでしょうが、ドスト氏の心理描写は模倣できないと思います。
前回に夢の分析で取り上げたように、作者のほんとうに書きたかったのは、殺人の場面でも、犯罪者の心理の複雑さでもないのです。良心の呵責、もっというならば、幼児期から植えつけられたキリスト教との葛藤を描き切るために、ドスト氏はこの残虐なシーンに臨む主人公の心理を描かねばならなかったのです。だから、彼の書く心理描写の鋭さは、彼の伝えたい思想の純粋さ、深さ、大きさの賜物なのです。ですから、安易に真似などできるはずがないと私は考えます。
ですから、現代で簡単に読めるクライムノヴェルとかノワールとか言われるお手軽小説と、書く動機からして全く次元を異にしているのですね。
お手軽小説に頻出する、興味本位で安直に書かれた殺人場面と、ドスト氏の書いたこの名場面と比較してみると面白いかもしれません。ドスト氏もちゃんとエンタメの基本はぬかりなく入れているんです。しかし、心理の掘り下げと精神性の深度に雲泥の差があるため、読み応えの質がまるで違ってしまいます。
もっと平たく言うと、人殺しを面白がって作者は書いてはいないということです。それならば、「やせ馬の夢」はいらないですよね。
書くテーマ、何を一番書きたいか、何を第一義と考えて書くか、そういう軸をきっちり立てて書いている作家が少ないように思うのは私だけでしょうか。
殺したあと、急に気になって死体を見に戻るところとか、秀逸な描写が何箇所もあります。しかしならが、こういう場面の魅力を味わうには、これを描く作者と同レベルのテンションにならないと読めないし、この緊張感を持続することはなかなか困難です。
今回、詳細な分析を避けたのは、現在の私のキャパシティを超えていると判断したからです。
ヒッチコックの名シーンが、他の監督によって、オマージュとして何度も似たようなカットが撮られているように、この老婆殺害のシーンは、類似の殺害の場面を書こうとする人が教科書として、何度も紐解いて見る、そんな古典的なサンプルと言えるのではないでしょうか。
私も神社にお参りするように、おそらくは何度もこの名場面を読み返しつづけるだろうと思います。今度、お参りにきた時に、何か書けるかもしれません。

「罪と罰」の心理描写

2005-07-07 22:45:40 | 「罪と罰」について
「罪と罰」の大きな魅力として、その心理描写があげられる。
では、ドスト氏はどのような手法で、人物の心理を表現しているかを、少し考えてみたい。

1)地の文で心理を書く。
  a)主人公の心理の説明。
  b)主人公の眼を通した人物の心理の洞察。
2)会話
3)独白
4)外見(表情・仕草など)
5)行動
6)夢

こう考えると、心理描写=人物造形といっても差し支えなさそうだ。
6つの手法のうち、自分の好みを抜きにもっとも優れているのは、
4の「外見描写」と6の「夢の描写」だと思われる。

人物が最初に登場する時に、ドスト氏は克明に執拗に人物の外見を描写する。
その書き方は独特で鋭く魅力的だ。
以下の3点により、彼の人物描写は支えれれている気がする。
A)人間を観察する眼(洞察力)の鋭さ
B)人間に対する好奇心の旺盛さ
C)人間への溢れる愛による豊かな表現

黒澤明とドストエフスキー。規格外の魅力を生む源泉。

2005-07-07 22:36:54 | 「罪と罰」について
今、「罪と罰」と平行して、「クロサワ」(園村昌弘原作・中村真理子作画)という漫画を読み始めた。
僕は元来、アカデミックな世界が苦手だ。だから、研究者や評論家のドスト論よりも、黒澤がインタビューなどで語るドスト氏のほうが面白いと感じるのかもしれない。
いやあ、黒澤はやはり規格外だ。
やることなすこと、すべてが伝説になってしまう。途中で降板した「トラ・トラ・トラ!」、それに向かって準備していた黒澤の姿は、もう鳥肌が立つほど魅力的だ。
構想が、あまりにも大きく、純粋なのだ。彼はこの降板によって自殺未遂までしてしまうのだが…。

この「クロサワ」を読んでいる時、黒澤はドストエフスキーに似ているなと思った。

思えば、ドスト氏の五大長編など、現代ではとんでもない話だろう。
売れる見込みなしで、出版は不可能に違いない。
映画ならば、企画の段階でボツだ。

しかし、ドスト氏は、突き進んだ。要するにケチなことは二の次三の次で、創作に燃えたのだ。
彼の炎は決して、真っ赤な完全燃焼ではないが、
黒い煙を上げながら、揺らめく蒼白い炎は、僕たちを震え上がらすほどに、狂おしく、美しい。

黒澤明とドストエフスキー、タイプは違うが、その魂は神様みたいに純粋なのだ。
黒澤の「白痴」という奇跡的な映画は、二人の魂の共振による結晶に他ならない。

二人の巨匠のような作品はつくれないまでも、彼らの作品に触れて、虚心で感動することはできるだろう。すべては、そこから始まるのだと思う。

何ものにもとらわれずに、純粋に燃えること。そうすれば、自分でも気づかなかった巨大な力が湧いてくるのだろう。そのことを信じたい。

ラスコーリニコフの葛藤

2005-07-07 12:14:08 | 「罪と罰」について
[第一部4]P.71~P.93
今回のテーマは「葛藤」です。
「母の手紙が不意の雷のように彼の胸を打った(P.81)」とドスト氏は書きます。
母親からの手紙を受け取ったラスコーリニコフは葛藤し、自問自答します。それが、この章の前半を占めるのですね。
今度は独り言です。これも長いですね。いちいち分析しませんが、主人公の性格とか、おかれた状況などが、詳細に伝えられます。
正義感が強く、肉親思いで、妥協を許さない性格。母親はキリスト教の敬虔なる信者で、主人公を溺愛している。妹は家庭の経済的な危機を救うために愛のない結婚をしようとしている…。
ここで最も注目すべきは、自分のためではなく、愛する者のためには自己犠牲も厭わないという妹の姿でしょう。だからこそ、主人公の葛藤は深まり、増幅するのですね。
主人公は葛藤に苦しみながら街を彷徨します。そこで、陵辱された15歳くらいの少女に遭遇。彼女を中年の嫌らしい男が狙っているので、主人公は警官にいくらかの金を渡して、馬車で家まで送り届けてもらうように頼みます。
この「犯された少女像」は、ドスト氏はしばしば登場させますが、この少女の描き方は印象的で巧みです。
大切なのは、主人公の反応ですね。マルメラードフにつれられて彼の自宅まで行った時も、家庭の悲惨な状況を看過できないで、時計を質に入れてまで借りた、なけなしの金を置いてきてしまいましたね。
要するに、この場面もまた主人公の人物造形のためのリトマス試験紙なのです。
次に、友人のラズーミンの存在を示し、この章を終えます。
主人公とは全く異質な性格を、この友人に付与していることにも注目すべきでしょう。
陽気で、あまり細かいことを気にしない性格のラズーミンは、後々の展開で効いてくることでしょう。この人物配置は、参考になりますね。

(本日のまとめ)
「罪と罰」だけでなく、ドスト氏の小説は、葛藤小説、或いは自問自答小説と言えると思います。
ただその葛藤の描き方が、独白とか独り言とかで、一気に語られるので、ヘビーなものを消化することに慣れていない我々を、しばしば困惑させるのです。
「罪と罰」が彼の作品の中で最も多くの読者を持つのは、長い会話、独白などだけでなく、一つの大きな犯罪という行為、そして最も感情移入しやすい男女の愛を軸として、小説を構成しているからにほかなりません。
哲学とか思想の長々しい披瀝で終始すれば、読者は付いてきてはくれないことは明白です。
そのためか、人物配置も現代のドラマに通じると思われるほど、対比が鮮明で、読者が物語を理解しやすくなるような配慮がうかがえます。
ドスト氏の小説は一部の研究家や文学者のためにあるのではなく、一般の生活者に向けられた面白い物語なのです。ですから、彼の小説には「大衆向け仕様」・「一般受けのための装置」が多彩に採用されています。作者は独りよがりにならないように、そして多くの読者に共感してもらうために、作中に様々な工夫を凝らしているのですね。
多くの研究所では、そういうところは語られることは少ないようなので、本ブログでは一つひとつ丁寧に開いてゆきたいと思っています。それが、ドスト氏への恩返しのような気さえしています。
今回の4章でも、主人公に街を歩かせながら(動きの中で)少女に遭遇させるなど、1章に必ず一つは見せ場を持ってくるあたりは、さすがは一流の読物作家です。読者を飽きさせない工夫をしているのですね。
小説は大衆のためにある、書く人はそのことをいつも忘れてはならないと思われます。
もちろん、彼の作品の根底を流れる思想は、深遠であることは言うまでもありませんが…。