カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

新しい「ミサ司式」の批判的研究 ー 3ミサの目的

2019-03-09 22:13:29 | ミサ
新しい「ミサ司式」の批判的研究

3ミサの目的 

 では、今からミサの目的について見てみよう。
(1) 究極目的:至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえ
 キリストの御托身それ自体の第一目的についてキリストご自身が言っている。「世に入りつつ彼は言った『御身はいけにえも捧げものも望まれなかった。しかし御身は私に体を備えて下さった29』」と。そして、このキリストが明らかに宣言された言葉に相応しく、ミサの究極の目的は、至聖なる三位一体に対する賛美のいけにえである。
 「新しい式次第」では、この目的は消え失せてしまっている。
まず、奉献の祈りから"Suscipe, Sancta Trinitas"の祈りが取り除かれたことによって。またミサの終わりにあった"Placeat tibi Sancta Trinitas"の祈りが省略されたことによって。
さらに序唱から以前は日曜日ごとに唱えていた「至聖三位一体の序唱」がもはや日曜日には唱えられず、ただ三位一体の祝日にだけに限定されてしまったことによって。これによって、将来を「至聖三位一体の序唱」を耳にするのは一年に一回になってしまうだろうからである。

(2) 通常の目的:ミサの通常の目的は償いのいけにえである。
 罪の償いのために、ミサという犠牲が捧げられるという、ミサの通常の目的は、脇道にずらされている。ミサが、生けるものと死せるものとの罪の赦しを得るためにあるのに、その代わりに、今ここに集う人々を養い聖化することに強調が置かれている(54番)。キリストは確かにご自分をいけにえの状態として最後の晩餐の時に秘蹟を制定された。それは私たちをこの状態において主と一致させるためであった。しかし、主の犠牲はいけにえを食する前に既になされ、[聖体拝領なしでもそれだけで]流血のいけにえの完全な贖いの価値を含んでいる。このことはミサに参列している信者が必ずしも秘蹟的に聖体拝領をする義務をもたないと言うことからも明らかである30。

(3) 内在的な目的:
いけにえの本性がいかなるものであれ、これが天主によみされ受け入れられるものでなければならない必要が絶対にある。原罪を犯した後には、それ自体で天主に受け入れられ得るいけにえは、キリストのいけにえ以外に何も存在し得ない。
「新しい式次第」は奉献の祈り31の本性を変えてしまっている。すなわち、奉献の祈りは、人と天主との間の贈り物の一種の交換に変えられている。つまり、人はパンをもってきて天主はそれを「生命のパン」に変えて下さる、人はぶどう酒を持ち寄り天主はそれを「霊的飲み物」に変えて下さる、ということになってしまっているからである。
 「主よ、あなたは万物の造り主、ここに捧げるパンはあなたからいただいたもの。大地の恵み、労働の実り、私たちの命の糧となるものです。32」
 この「命の糧33」そして「霊的飲み物34」という言い回しの全くの曖昧さについて何の注釈もする必要がない。この言い回しでは何でも意味しうる。ミサの定義の中であったように、ここでも全く同じ重大で曖昧な表現が繰り返されている。ミサの定義の中ではキリストはただ単に霊的にのみ主の弟子らの間に現存なさると言い、ここの奉献の祈りではパンとぶどう酒とはただ単に「霊的に」のみ変化し、決して実体的に変化するとは言われていない35。
 奉献の準備において二つの素晴らしい祈りを廃止したために同じような曖昧さが生じている。「天主よ、御身は人間の実体の尊厳を素晴らしく創造し、また、これを更により素晴らしく改新され給うた。36」という水を祝福する祈りは、人間の原初の罪のない状態に言及し、キリストの御血によって贖われた現在の状態を描写している。この祈りはアダムから現在に至るまでの、いけにえのすべての計画を素晴らしくまとめたものである。
 カリスを捧げるときの最後の奉献の祈り37は、贖罪の祈りであり、この同じ計画を再確認していた。なぜなら、そこでは、この供え物が「芳しい香りと共に38」私たちが御慈悲をこいねがう、その天主のみいつの御前に立ち登らんことを祈っていたからだ。天主について絶えず言及しているこのような感謝の祈りを廃止してしまったために、もはや「天主的ないけにえ」と「純粋に人間だけによるいけにえ」との間にある明らかな差違が無くなってしまった。
 角の角石を取り除いてしまったために、典礼改革者たちは足場を備え付けなければならなかった。つまり、ミサの本当の目的を廃止してしまったために、改革者たちは自分自身で作った架空の目的を代用させなければならなかった。だからこそ、しぐさによって、司祭と信者との一致、また信者同士の一致が強調されるようになった。
 だからこそ、「犠牲として屠られるためのいけにえであるイエズス・キリストという捧げもの」に、「貧しい人々と教会のためにされる捧げもの39」ということが重ね置かれている。これによって、ミサが見るに耐えないものに崩壊してしまうだろう。
 犠牲として捧げられるいけにえ(すなわちイエズス・キリスト)が唯一であるという重大なことが完全に破壊されるだろう。そして、いけにえであるイエズス・キリストが屠られることに参与するということが、人類愛の集会あるいは社会福祉のパーティーに成り下がってしまうだろう。


29 詩編40:7-9、ヘブレオ10:5
30 原注6: 「感謝の祈り」(日本語では「奉献文」)と言われている新しい3つの典文は、やはり同じように、強調される部分がずれている。驚くべきことに死者の記念が取り除かれ、煉獄における霊魂の苦しみに関する言及が一切ない。しかし、償いの犠牲は、煉獄で苦しむ霊魂に適応されなければならない。
31 新しいミサのなかで、日本語では「供え物の準備」と言われている。
32 "Benedictus es, Domine, Deus universi, quia de tua largitate acceptimus panem (vel vitis) quem offerimus, fructum terrae (vel vitis) et manuum hominum, ex quo nobis fiet panis vitae (vel potus spiritualis)"(このラテン語を日本語に直訳すると次のようになる。「主よ、宇宙の天主よ、御身は賛美せられさせ給え。そは、我らが御身に捧げ奉るパン(或いは、ぶどう酒)は、御身の御恵みによりて我ら受け取り奉りたるがゆえなり。そは大地(或いは、ブドウの木)と労働の実り、そこから、我らのために命の糧(或いは、霊的飲み物)となるものなり。」)
原注7: パウロ6世の回勅Mysterium Fideiを参照せよ。この回勅の中で、パウロ6世は象徴主義の誤謬と同時に「意味変化transignificatio」や「目的変化transfinalizatio」という新説を排斥している。
33 Panis vitae
34 Potus spiritualis
35 原注8: 教父や教導職の文章に、確かに言葉としては見いだされる、言い回しや言葉使いが、それらが持っていた意味や文脈、また教義全体から離れ、それに言及されずに絶対的かつ新しい意味で再び使われている。(例えば、霊的糧spiritualis alimonia, cibus spiritualis, 霊的飲み物potus spiritualis)しかし、このようなことは、パウロ6世の回勅Mysterium Fideiの中で充分に摘発され排斥されたことである。
36 "Deus qui humanae substantiae dignitatem mirabiliter condidisti et mirabilius reformasti"
37 "Offerimus tibi, Domine, calicem salutaris, tuam deprecantes clementiam: ut in conspectu divinae majestatis tuae, pro nostra, et totius mundi salute cum odore suavitatis ascendat. Amen."(主よ、我らは御身に救いのカリスを御身の憐れみをこいねがいつつ捧げ奉る。そは、我らと全世界の救いのために、御身の天主の御稜威の御前に、芳しき香りと共に立ち上らんがためなり。)
38 cum odore suaviatis
39 総則49「感謝の典礼の始めに、キリストの体と血になる供え物が祭壇に運ばれる。…教会のため、また貧しい人のために信者が持ってくるか、あるいは道内で集めるかした献金または他の捧げものも奉納される。」

4いけにえの本質 

2019-03-09 22:12:57 | ミサ
4いけにえの本質 

 ではここでいけにえの本質について見てみよう。
 十字架の神秘について、新しい式次第での中では、もはや明らかに表現されていない。それは、ただひっそりと、ベールを被せられているようであり、もはや人々には気がつくことができない40。それは次の理由からである。

1)「感謝の祈り(奉献文)41」に与えられた意味
「新しい式次第」の中でいわゆる「奉献文」というものの意味をこう言っている。「この祈りの意義は、信者の集まり全体が神の偉大な業を宣言し、いけにえを奉献することによって、自らをキリストに結び合わせることにある(54番終わり)。42」
 しかし、ミサ総則の中では、何の犠牲について言及しているのか?だれが奉献するのか?という質問には一切答えていない。「奉献文」の定義は全体でこうである。
「ここで、祭儀全体の中心であり頂点である感謝の祈り(奉献文)、すなわち、感謝と聖化の祈りが始まる(54番初め)。43」
 こうして(感謝や聖化という)結果が、原因に取って代わってしまっている。そして原因についてはだだの一言も言及がない。
 何を奉献するかを明確に述べた祈りは"suscipe44"の祈りの中にあったのだが、それは廃止され、それに代わる奉献の内容を明確にする祈りは全くない。この祈りの内容の変化は教義における変化を示している。

2)キリストの聖体における現存が、もはやその中心から閉め出されてしまっている
 いけにえに関することをこのようにはっきり表現しないことの理由は、以前の聖体祭儀においてあれほど素晴らしく中心を占めていたキリストの聖体における現存が、もはやその中心から閉め出されてしまっているからである。キリストの聖体における現存について述べられるところがただ一つだけある。それはトレント公会議の引用文であり、脚注に小さく載っているだけだ。しかもそれの文脈は「養い45」という食事に関することである(241番注63)
 キリストの、御体、御血、御霊魂、天主性の現実の常なる現存が全実質変化後の形色にあることは決して暗示さえされていない。全実質変化という言葉そのものさえも完全に無視されている。

 聖三位一体の第3のペルソナに対する祈り(Veni Sanctificator46)は、聖霊がかつて童貞女聖マリアのご胎内に降られたように捧げものの上に降り、そこで天主の現存の奇跡を起こさせることを祈るものであった。しかし、この祈りの省略は、暗黙のうちの否定というこのシステムの中に書かれており、主の御聖体における実際の現存と結びつく劣化である。

 主が御聖体において実際に現存しておられると言う信仰をそれによって自然に表明していた動作や習慣を、ことごとく廃止させたり変化させることに気づかないわけにはいかない。新しい式次第は、以下に挙げることを取り除いた。
* 片膝をつく礼拝(司祭はわずかに3回しか跪かない。会衆はいくつかの例外を除いて聖変化の時に1度跪くのみである。47)
*司祭の指をカリスの中で清めること
*聖変化後の司祭の指が聖体以外のものに触れないように指を守ること
* 聖器具(カリスやチボリウム)の清め(この清めは聖体拝領直後でなく後でしても良くなり、また、コルポラーレの外で行っても良くなった。)
*カリスを保護するパラを使うこと48
*聖器具の内側を塗金すること49
*可動祭壇を聖別すること50
* 「儀式が聖堂内で行われない時」には(この区別を付けることは直接に個人の家での「感謝の晩餐」に結びつく)、可動祭壇の中に、或いは「食卓51」の上に、聖別された祭壇石と聖遺物を置くこと52
*3枚の祭壇の布(これは1枚に減らされた。)53
* 跪いての感謝の祈り(このかわりに司祭も信者も座って感謝することになったが、これは見るに耐えない54。この座ったままでの感謝の祈りは「立ったままでの聖体拝領」の結末に来るものであり、常軌を逸したことであると言わざるを得ない。)
* 聖別された御聖体が床などに落ちてしまった時にしなければならない色々な規則(その代わりに、「恭しく拾う55」(239番)というたった一つの指針に取って代わられた。これは、ほとんど皮肉56である。)

 これら全ての省略は聖体における主の現存のドグマを信ずることを暗黙のうちに否定することを、きわめて強調することしか役に立たっていない。

3)祭壇の果たす機能
 祭壇はほとんど常に「食卓57」と呼ばれている。「感謝の典礼全体の中心である祭壇、すなわち主の食卓58(49番、また262番を参照せよ)」
 祭壇は、司祭が祭壇の周りを歩き回ることが出来るよう、また会衆に対面して祭儀を行うことが出来るように、壁から切り離さなければならないとされた(262番)。祭壇はまた、会衆の注意が自発的にそこに向かうように会衆の中心に置かれなければならない(同所)しかし、262・276番を比較すると、聖体を中央祭壇の上に保存することを明らかに除外しているようだ59。このことは、司式者のうちにおける永遠の大司祭イエズス・キリストの現存と、秘蹟的に実現する同じ主の現存とを、取り返しがつかないほど切り離してしまうだろう。以前は司祭もいけにえも一つの同じ現存であった60。
 御聖体は会衆の個人的な信心のために別の場所に安置するように勧められている。(それはあたかもある種の聖遺物への信心であるかのように。)それは教会に入るやいなや、注意はもはや御聖体の現存する御聖櫃ではなく、全てを剥ぎ取られた裸のままのテーブルへと注目が行くようにするためである。ここでも再度、個人的な信心と典礼的信心とが対照的違いを見せている。[新しい]祭壇が[古い]祭壇を破壊するために建てられた。
 御聖体拝領時には、同じミサ中に聖別されたパンを配るようにと強く勧められている。また、司祭用のパンさえも少なくとも幾人かの信者には配布するようにと強く勧めれられている。61このことを見ると、われわれはミサ外の御聖体への信心と同じく、御聖櫃に対してもなされている軽蔑的な態度が常にあると言わざるを得ない。そしてこのことは聖別された形色が残っている限り続く、御聖体における主の現実的な現存という信仰への新たな別の激しい攻撃となっている。62

4)聖変化の言葉
 古い聖別の言葉はふさわしく秘蹟を執行するためのものであって叙述的なものではなかった。このことはとりわけ次の3つのことから明らかである。
(ア) 聖書の言葉が一字一句そのまま取られていたわけではなかったこと
 聖パウロによる「信仰の神秘」という言葉が挿入されていたが、それは司祭が、位階的司祭職を通して教会によって実現される神秘に対して司祭の信仰をすぐに宣言するものであった。
(イ)句読点や印刷の構成がそれを示していたこと
 HOC EST ENIM で始まる聖変化の言葉は、その始まる前には、ピリオドがあり、聖変化の言葉からは新しい段落が始まっていた。それは叙述の語り口から秘蹟的な断定的な語り口へと明らかな変化をもたらしていた。秘蹟の言葉は大きな活字で頁の中央に、そしてしばしば別の色で印刷されていた。それは明らかに歴史的文脈から区別されていた。これら全ては固有のそれ独自の価値をこの聖変化の言葉に与えていた。

(ウ)アナムネーシス(ギリシア語で「思い出すこと」の意)
「あなたたちがこれをする度に私を想起して行うだろう。63」の祈りはアナムネーシスといわれる。この「私を想起して64」はギリシア語では、"eis teu emon auamuesiu"であり、敢えて訳せば「私を想起することに向かって65」である。
 この「あなたたちがこれをする度に私を想起して行うだろう」という言葉は、キリストがなさっているということ、行為しているキリストに言及していた。そしてそれは単なるキリストの、或いは、この出来事の記念ではない。これはキリストがなさったこと(これを、…私を想起して行うだろう66)を、キリストがしたそのやり方で想起するようにと招く言葉であり、ただ単に主のその人柄や晩餐を想起するに止るものではない。
 聖パウロの言葉(「これを私の記念として行いなさい67」)というのは、古いミサの言葉にはなかったものである。しかし、これを毎日国語で聞く者に、キリストの記念があたかも感謝の祭儀ということの究極目的であるかのようにそれに全神経が行ってしまうだろう。しかし、キリストの記念というのは聖体祭儀の始まりに過ぎないのである。このようにして、記念という観念が、最後に、またしても秘蹟を執行しているということ68(つまり、御体と御血を秘跡的に分離させつつご聖体を聖変化させるということ)に取って代わることだろう。
 「制定の叙述69」という表現を使うことによって(55番の「ニ」)叙述様式が強調されている。そしてこれは、アナムネーシスの定義によって繰り返されている。この定義に於いては「教会は、キリスト自身の記念を行う70」とある。(55番の「ホ」)
 とどのつまり、エピクレーシス71のために出された理論、また、聖変化の言葉とアナムネーシスの言葉の変化は、聖変化の言葉の意味の仕方を変える効果を持っている。新しいやり方では、聖変化の言葉が歴史的叙述を構成する一要素として司祭によって語られ、もはや、司祭はキリストのペルソナに於いて行為し、そのキリストによって発せられた絶対的断定(「これは私の体である72」であって、「これはキリストの体である73」と言うのではない)を表明するものとしてなされるのではない。74
 さらに、「主の死を告げ、復活を讃えよう、主がこられるまで75」という会衆の直後の言葉は、またしても終末論的覆いの元に、主の御聖体における実際上の現存に関する同じ曖昧さをもたらしている。キリストが時の終わりに再臨されると言う期待が、如何なる説明も区別もなく、主が祭壇上に実体的に存在されるまさにその瞬間に高らかに宣言されるのである。これはあたかも主の再臨こそが本当に主が来られることであって、聖変化による現存は本当ではないかのようである。

 この考えは付録に付いている選択肢2の表現に於いてさらに強く打ち出されている。そこでは「このパンを食べ、カリスを飲むごとに、主よ、我らは御身の死を告げ知らせよう、主が来られるまで76」となっている。ここではいけにえを屠ることと食すること、主の現存と再臨と言った別の現実が一緒に置かれ、全くの曖昧さのうちにぼやかされている。77


40 原注9: このことは、第2バチカン公会議の典礼憲章48番の規定と明らかに矛盾している。
41 prex eucharistica
42 "ut tota congregatio fidelium se cum Christo coniungat in confessione magnalium Dei et in oblatione sacrificii."
43 "Nunc centrum et culmen totius celebrationis initium habet, ipsa nempe Prex eucharisitica, prex scilicet gratiarum actionis et sanctificationis."
44 Suscipe, sancte Pater, omnipotens aeterne Deus, hanc immaculatam hostiam quam ego indignus famulus tuus offero tibi, Deo meo vivo et vero, pro innumerabilibus peccatis et offensionibus et negligentiis meis, et pro omnibus circumstantibus, sed et pro omnibus fidelibus christianis vivis atque defunctis: ut mihi et illis proficiat ad salutem in vitam aeternam.(聖なる聖父、全能永遠の天主よ、私のまことの生ける天主である御身に、私の無数の罪と犯罪と怠りのため、また周囲にいる全ての人々のため、さらには、生存している、そして、既に亡くなった全てのキリスト教信者のために、御身の不肖なるしもべである私が、捧げる、この汚れなきいけにえを受け入れ給え。それは、私と彼らとにとって、永遠の生命へと救われるために益となるためである。)
45 nutrimentum
46 "Veni, Sanctificator omnipotens aeterne Deus: et benedic hoc sacrificium tuo sancto nomini praeparatum."(聖とならしめ給うもの、全能の永遠の天主よ、来たりて御身の聖なる聖名にそなえられたこのいけにえを祝し給え。)
47 総則233番には、「ミサの中ではひざまずく表敬が3回行われる。すなわち、パンを会衆に示した後、カリスを会衆に示した後、及び拝領前」とある。ただし、日本では、跪くことが全て「合掌して深く礼をする」こととされている。例えば、総則の84番や98番、同じく233番などを見よ。また、祭壇に接吻することも「合掌して深く礼をする」こととされている。例えば、総則の85番を見よ。
48 総則103「カリスをコルポラーレの上に置き、場合によってはパラで覆う。」となっており、パラの使用は義務ではなくなっている。
49 総則294「金属製の祭器は、さびを生ずるものであれば、内側全面を金メッキしなければならない。さびを生じない金属や上等な金製のものは、金メッキの必要はない。」
50 総則265「固定祭壇であれ、可動祭壇であれ、典礼書に記載されている儀式にしたがって聖別される。ただし可動祭壇は、ただ祝福することだけ[で使用すること]が出来る。」
51 mensa
52 総則265「可動祭壇、もしくは聖堂外の祭儀が行われる机には、聖別された石を置く必要は全くない。」
53 総則268「主の記念祭儀に対する尊敬、ならびに主の体と血が供される会食に対する尊敬を表すために、祭壇上には少なくとも1枚の食卓布を敷く。」
54 grottesco ringraziamento di prete e fedeli seduti
55 reverenter accipiatur
56 quasi sarcastico
57 mensa 原注10: 祭壇のもっとも主要な機能が述べられているのは、ただ1度だけ総則の259番でしかない。"Altare, in quo sacrificium crucis sub signis sacramentalibus praesens efficitur."(祭壇は、十字架のいけにえが秘跡的なしるしのもとに現在のものとなる場所である。)しかし、これだけでは、その他の名称が頻繁に使われていることによる不明確さを消し去るには、あまりにも少なすぎる。
58 "Altare, seu mensa dominica, quae centrum est totius liturgiae eucharisticae"(n.49)
59 総則262「中央祭壇は、容易に周りを回ることが出来るよう、また会衆に対面して祭儀を行うことが出来るように、壁から離して建造する。またその位置は、全会衆の注意が自ずから集まる真に中心となる場所であるようにする。」
総則276「聖体を保存する場所は、信者の個人的な礼拝と祈りに相応しい小聖堂のなかに設置されることが切に勧められる。これが出来ない場合には、…聖体は、ある祭壇、もしくは教会堂内の、…他の場所に保存するものとする。」
60 原注11: ピオ12世教皇は、1956年9月23日、典礼大会への講話の中でこう言っている。「祭壇から御聖櫃を切り離すこと、それはその起源と本性とによって結合していなければならない2つのものを切り離すことです。」
61 原注12: 新しい式次第は「ホスチア」という言葉をほとんど使っていない。「ホスチア」という言葉は典礼書における伝統的な表現であり、「いけにえ」という正確な意味を持っている。「ホスチア」という言葉が使われていないことに、またもや、「晩餐」とか「食べ物」という観点にのみ焦点を当てようとしている計画的な同じ意志を読まざるを得ない。
62 原注13: 一つのことを別のことで置き換える、あるいは取り替える、という常套手段によって、主の御聖体における現実の現存が御言葉における現存に同一視されてしまっている(総則7「「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。十字架のいけにえが続けられるミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。」及び54番)しかし、真実は、この2つのことは別の本性の事柄である。御言葉における主の現存は、それを読んでいるときにだけ、つまりそれを使うということにおいてin usu、現実のものとなる。しかし、御聖体における現存は客観的に、恒常的に、秘跡的に拝領されるか否かに関わらず、常にある。次のような言い回しは、典型的にプロテスタント的な言い方である。「説教によって提示される聖書朗読のなかで、神はその民に語られ、…キリストは、ご自身の言葉によって、信者の間に現存される。」(総則33、聖なる典礼に関する憲章33番と7番を参照)このような言い方には、厳密に言って、いかなる意味もない。なぜなら、天主が御言葉のうちに現存することは直接的ではないからである。この御言葉における現存は、人間の時間と空間に限られた精神の行為に結びついているからである。この間違った言い方による悲劇的な結論は、このような言い方によって、御聖体における現実の現存が、御言葉における主の現存のように、それを使うということに結びついているのではないかということを暗示していることである。すなわち、それを使っていなければ、つまり、御聖体拝領をしないときには、主は御聖体において現存していない、ということを暗示してしまっている。
63 Haec quotiescumque feceritis, in mei memoriam facietis.
64 in mei memoriam
65 volti alla mia memoria
66 Haec…, in mei memoriam facietis.
67 Hoc facite in meam commemorationem.
68 原注14: 秘跡を執行するということは、『新しい司式』の総則の中で命令されている限りにおいて、イエズスが使徒たちにご自分の御体と御血をパンとぶどう酒の形色のもとにおいて「食べるために」与えられたという事実と同時であったということも意味されている。そのために、秘跡を執行するということは、もはや聖別という行為に存していない、すなわち、御体と御血との分離である、ということに存していない。しかし、このことにミサのいけにえという現実の本質のもののが属しているのである。(ピオ12世の回勅『メディアトル・デイ』を見よ。)
69 "naratio institutionis"
70 Ecclesia memoriam ipsius Christi agit.
71 「エピクレーシス」とは、奉献されたホスチアが聖変化するように天主の力を祈り求める教会の祈願のことである。
72 Hoc est Corpus meum
73 Hoc est Corpus Christi
74 原注15: 新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉は司祭の意向のお陰によって有効であり得る。しかし、この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。[Le parole della Consacrazione, quasi sono inserite nel contesto del Novus Ordo, possono essere valide in virtu dell'intenzione del ministro. Possono non esserlo perche non lo sono piu ex vi verborum o piu precisamente in virtu del modus significandi che avevano finora nella Messa. I sacerdoti che, in un prossimo avvenire, non avranno ricevuto la formazione tradizionale e che si affideranno al Novus Ordo al fine di "fare cio che fa la Chiesa" con-sacreranno validamente? E lecito dubitarne.]
75 "Mortem tuam annuntiamus, Domine, etc… donec venias."(主よ、御身の来るまで、我らは御身の死を告げ知らせよう。)
76 "Quotiescumque manducamus panem hunc, et calicem bibimus, mortem tuam annu-tiamus, Domine, donec venias."
77 原注16: プロテスタント的な批判がよくやるようにこれらの表現は聖書の同じ文脈に載っている(コリント前書11:24-28)と言わないように。なぜなら、教会は異なった表現で表される異なった現実を混同しないように、常にそれらの表現を並べたり、重ねたりするのを避けてきたからである。

5いけにえを実現させる4つの要素 

2019-03-09 22:12:32 | ミサ
5いけにえを実現させる4つの要素 

いけにえがどのように実現するのかについてみてみよう。いけにえを実現させるものの中には次の4つの要素がある。

それは

1) キリスト

2) 司祭

3) 教会

4) 信者

であるが、それらについて見てみよう。

(1) 信者の占める位置
新しい司式に於いては信者の占める位置は自律的(切り離されている)78であり、全く偽りである。これは、最初の定義「ミサは、聖なる集会の儀、すなわち、民の集会である79」から司祭の会衆への挨拶に至るまで(総則28番)そうである。司祭の会衆への挨拶は一同に会した共同体に「主の現存」を示すためであり、この挨拶と会衆の返答とによって集った教会の神秘が表されるとされている。80
 そこで暗示されていることは、確かにキリストは本当に現存されるが、しかし、それはただ単に霊的な現存に過ぎないこと、そして、教会の神秘は、ある一つの集会がそのような霊的現存を表し願っているに限りにおける教会の神秘に過ぎないということ、である。
 この解釈は常に強調されている。
ミサの共同体的性格を取り憑かれているかのように言及することによって(74〜152番)。
「会衆の参加するミサ81」(77番〜126番)と「会衆の参加しないミサ82」という、依然にはなかった区別を付けることによって(209〜231番)。
「共同祈願、すなわち信徒の祈り」という定義によって(45番)。共同祈願の定義には、またしても、平信徒の「祭司職」83が強調され、この平信徒の祭司職が司祭の祭司職と切り離され、自律的であるかのように提示され、司祭の祭司職に従属することが全く述べられていない。しかし、司祭は聖別を受けた仲介者としてTe igiturの祈りと、2つのMementoの祈りの中で会衆の全ての意向を取り次ぐものである。
 「第三奉献文84」(Vere sanctus, p.123)に於いては、次の言葉が主に対して発せられる。「御身はご自分のために民を集めることを絶えず続け給う。そは日の昇るところから沈むとことまで御身の御名に清き捧げものが捧げられん為なり。85」ここで、「そは、〜が為なり」(ut)という言葉のために、ミサを捧げるために必要かくべからざる要素として司祭よりも民が全面にでている。そして、ここでは誰が捧げるのかが明らかではない86ために、会衆は司祭を必要とせず、独立の司祭職を行使する権能を持っているかのように見える。この段階から、それほど長くない間に平信徒が司祭と共に聖変化の言葉を発するのが許されるようになったとしても(このことは既にあちらこちらで見受けられているが)、それは驚くに値しないだろう。

2)司祭の占める位置
 司祭の立場は過小化され、変えられ、間違っている。
1. まず第一に、平信徒との関係に於いて、司祭は「キリストのペルソナにおいて87ミサを執行する聖別された司式者」ではなく、その代わりに、よくても平信徒たちの単なる座長、或いは兄弟として取り扱われている。
2. 第二に、教会との関係に於いては、司祭は「民のなかの或る一人88」である。エピクレーシスの定義に於いて(55番)天主への呼びかけは特定の個人がなすものではなく、教会がなすものとされている89。そのため司祭の役割は消されてしまっている。
3. 告白の祈り。告白の祈りは今ではもはや集団的になってしまった。司祭はもはや天主とともなる裁判官・証人・取り次ぎ者ではなくなった。そのため、司祭がかつてしていた許しを与えることが廃止されたのは論理的だといわねばならない。司祭は兄弟達の一部となった。「会衆の参加していないミサ」に於いて侍者でさえも告白の祈りの時に司祭を兄弟と呼ぶようになった。
4. 既に、この典礼改革の前から、司祭の聖体拝領と平信徒の聖体拝領という意味深い区別が廃止されていた。司祭の聖体拝領に於いて、永遠の大司祭(=イエズス・キリスト)とキリストのペルソナにおいて90行為している者(=司祭)が最も親密な一致に到達するのである。
5. 今では、司祭のいけにえを捧げる権能について、或いは司祭に固有な聖別するという行為について、つまり、司祭を通して御聖体における主の現実的な現存が生じることについて一言でさえも見いだすことが出来ない。今ではもはやカトリック司祭は、プロテスタントの牧師以外の何ものでもないようだ。
6. ある場合には、白衣とストラさえあればミサを捧げても良くなった(298番)など、祭服は目の前から消え失せ、任意的になった。祭服は、司祭が元来もっているキリストとの同一性を意味し、祭服が消えることによっては、この司祭とキリストとの同一性をゆがめてしまっている。つまり、司祭はキリストの全ての美徳を身につけているものではなく、平信徒と区別できるような点は1つか2つそこそこしか持たない単なる「非常任の役員」に成り下がっている91。ある現代の説教者92が与えたユーモラスな(しかし彼自身にとってはまじめな)定義によれば司祭は「その他の人よりもほんの少しだけましな人93」でしかない。

3)教会の占める位置
 最後にキリストに関する教会の立場を見よう。「会衆の参加しないミサ」というただ唯一の例外を除けば、ミサが「キリストと教会の行為94」(総則4番・司祭職に関する教令14番参照)とは見なされていない。
「会衆の参加するミサ」においては、「キリストを思い起こし」、列席の会衆を聖化するためという目的を除いて、教会については、全く言及がなされていない。「司祭も、集会を司会し、その祈りを指導し、…キリストによって聖霊において神である父にいけにえを奉献するに当たって、会衆とともに一つになり95…。(60番)。」
 ここでは、「聖霊を通して、父なる天主に96ご自分自身を捧げ給うキリストに、会衆を結びつける」と言うべきではなかったのではないか。

 この文脈に於いて、次の諸点に注意すべきである。
 まず第一に、「我らの主キリストによりて」という、いつの時代にあっても祈りが聞き入れられるための教会に与えられた保証の言葉が省略されているという重大な事態。(ヨハネ14:13-14、15:16、16:23-24)
 第二に、どこにでも顕著な「復活主義97」。それはあたかも「聖寵の交わり」ということに、これほど重要な観点がもはや別に存在しないかのようである。
 第三に、恒常的で永遠の現実である超自然の聖寵の分与ということが、時間の次元へと引きずり降ろされてしまっているほどの奇妙で疑わしい「終末主義」。われわれはもはや「暗闇の権力」に対する戦闘の教会ではなく、「永遠との結びつきを失ってしまったただ純粋に現世的なことでしか考えられていない未来」へと向かって旅する教会、歩む人々のことを聞くようになった。
 教会は、一・聖・公・使徒継承とはもはや言われなくなった。第4奉献文98では、ローマ・カノンの祈りの「全ての正統カトリック使徒継承の信仰を保持する人々のために99」の代わりに、今ではただ単に「真摯なこころで御身を求めるすべての人の100」になってしまった。
 更にまた、死者の記念では「信仰の印を持って平安の眠りに眠る101」が無くなってしまった。そこではただ単に「御身のキリストの平安に於いて逝った102」だけであり、しかも以前の目に見える一致という観念を明確によりひどく破壊するさらなる言葉が付け加えられた。「御身のみがその信仰を知り給う103」全ての死者のいけにえ、と。
 さらに、既に述べたように、新しく作られた3つの「奉献文」のうちどれも死んだ人々の苦しんでいる状態を言及するものがない。特定の死者の記念の可能性さえない。これら全てはまたしてもミサのいけにえの罪を償い贖う性質についての信仰を破壊してしまうことだろう104。
 どこにもかしこにもある省略は、教会の神秘の土台を壊し非神聖化させるものである。特に教会は聖なる位階制度として表されてはいない。天使達や諸聖人は共同の告白の祈りの第2部で名前を列挙されずに全てひっくるめられている。第1部において、聖ミカエルの名を省略することにより、聖ミカエルのペルソナに於いて、証人かつ裁判者としての諸天使・諸聖人は全て消え失せてしまった105。様々な位階の天使達も「第二奉献文」の新しい序唱から消え失せてしまった。(これは以前にはなかったことである。)コムニカンテスにおいて、ローマの教会がその上に建てられた、また彼らによって疑いもなく使徒の聖伝が伝えられた、聖なる教皇と殉教者達の記念をしていた。聖グレゴリオは、彼らの名を列挙してこれを完成させ、それを持ってローマ・ミサとなったのであるが、新しいものはそのコムニカンテス106からこれらの聖なる教皇や殉教者達の記念が廃止されてしまった。リベラ・ノス107の祈りにおいては聖母マリア、使徒と全ての聖人がもはや言及されなくなってしまった。こうして、聖母や諸聖人の取り次ぎはもはや危険の時に於いてでさえ求めなくなってしまった。

 式次第の全てから、新しい3つの「奉献文」を含めて、ローマの教会の創立者である使徒聖ペトロと聖パウロ、そして唯一の普遍の教会の基礎かつ印であるその他の使徒達の名前を全く省略されてしまったのは耐えることが出来ない。唯一それが残っているのはローマ・カノンのコムニカンテスの中でだけである。これによって教会の一致は非常にゆゆしく弱められるだろう。

 司祭が侍者なしに司式しているときに全ての挨拶、最後の祝福が省略されることにより、また「イテ・ミサ・エスト」は侍者がいるときでも、会衆が参加していなければ、もはや言わなくなってしまった。108諸聖人の通功というドグマが明らかに攻撃を受けている。

 ミサの最初の告白の祈りが2つあったことは、司祭がキリストの役者の能力を身にまといながらも深々と上体を下げ、自分がこの崇高な使命にふさわしくないこと・彼が今なそうとしている恐るべき神秘109にふさわしくないことをどれほど良く認めているかを示していた。更には「主よ、願わくは我らより罪を遠ざけ、清き心を持って至聖なるところに入らせ給え」の祈り110で至聖所に侵入することさえもふさわしくないことをいかに良く認めていた。そのために祭壇に封印された聖遺物の殉教者達の功徳の取り次ぎを「主よ、ここに聖遺物を置く主の聖人らの功徳、また全ての聖人らの功徳によって、私の罪を赦し給えと我らは祈る。」の祈りをもって願っていた111を示していた。しかし、「主よ、願わくは我らより罪を遠ざけ・・・112 」の祈りも、「主よ、ここに聖遺物を置く・・・113」の祈りも両方とも省略されてしまった。告白の祈りが2つあったということ、また司祭と平信徒との2回の聖体拝領があることに関して既に述べたことはここでもまた意味深長である。
 いけにえを捧げているという外的要素、つまり、ミサの聖なる性格を明らかにさせるものは非神聖化された。例えば、至聖所以外での司式のために叙述されていることを見ると、祭壇の代わりに、聖別された祭壇石や聖遺物のない単なる「食卓114」を用いて良いことになっている。しかも、祭壇布は1枚だけで良くなっている。(260、265番)ここでもまた、既に述べた主の現存にかかわることを全て適応することが出来る。「食卓に連なること115」と食事のいけにえを主の現存から切り離してしまっている。

 非神聖化への過程は新しい供え物の行列によって完成された。すなわち種なしパンであるよりもむしろ普通のパンについて語られている。侍者の子供でさえ(しかも、両形態での聖体拝領の時には平信徒まで)もが、聖器具に触れることが許されていること(244番の「ニ」116)。司祭、助祭、教会奉仕者117、宣教奉仕者118、詩編を唱える係119、解説者120 (司祭は自分のしようとしていることを絶えず「説明」するように要請されているので司祭自身さえも注解者となってしまっている。)、男女の朗読者、会衆を門で出迎えて席まで付き添う奉仕者121、献金を集める人122、またその他、供え物を運ぶ人123、供え物を受け取る人、などなど、多くの侍者や平信徒が絶え間なく教会内をあちこちに行き来し非常に気を散らせる雰囲気。これら全ての規定された活動のほかに非聖書的であり非パウロ的な規定がある。それは、「ふさわしい女性124」が教会の聖伝に於いて初めて朗読し、さらに司祭がすること以外のことを執行する125のが許される(70番)。最後に、偏狂的な共同司式の強調。これによってついには司祭の御聖体への信心を破壊し、唯一の司祭かつ犠牲であるキリストの中心的姿をぼかし、このキリストという中心を共同司式者の集団的存在が影を覆って解き崩してしまうだろう126。


78 Autonoma (absoluta)
79 Missa est sacra synaxis seu congregatio populi.
80 "Qua salutatione et populi resonsione, manifestatur ecclesiae congregatae mysterium."(この挨拶と会衆の応答は、ともに集まった教会の神秘を表す。)
81 cum populo
82 sine populo
83 "populus sui sacerdotii munus exercens"(総則45番「共同祈願、すなわち信徒の祈りにおいて、会衆は、自分の祭司職の務めを実行して、全ての人のために祈る。」)
84 Prex eucharistica III
85 "populum tibi congregare non desinis ut a solis ortu usque occasum oblatio munda offeratur nomini tuo"
86 原注17: ルター派とカルヴィン派は全てのキリスト者が司祭であり、全てのキリスト者が晩餐を捧げると主張している。しかし、トリエント公会議に従えば(第22総会Canon 2 DS1752)、「全ての司祭は、そして司祭だけが、ミサのいけにえの二次的な司式者である。キリストがミサの第1の司式者である。信者も捧げるが、それは厳密な意味におけるのではなく、司祭を通して、間接的に捧げるのである。」(A. Tanquerey, Synopsis thologiae dogmaticae Descl?e 1930, t. III)
87 in persona Christi
88 "quidam de populo"
89 エピクレーシスについて、総則の55番「ハ」は、こう言っている。「この特別な祈りによって、教会は神の力を願い求め、…祈る。」
90 in persona Christi
91 原注18: キリスト教を信ずる民にとって信じられないほどの、且つ、悲惨な改革は、聖金曜日の祭服の色が黒ではなく、赤になったことである(総則308番のロ)。赤は、特に殉教者を記念する色であり、教会がその花婿であるイエズス・キリストの死を喪に服す色ではない。
92 原注19: これは、フランスのドミニコ会司祭Pere Roguet O.P.のことである。
93 "un homme un peu plus homme que les autres"
94 actio Christi et Ecclesiae
95 "Presbyter celebrans... populum... sibi sociat in offerendo sacrificio per Christum in Spiritu Sancto Deo Patri"
96 per Spiritum Sanctum Deo Patri
97 paschalismo
98 "prex eucharistica IV"
99 "pro omnibus orthodoxis atque catholicae fidei cultoribus"
100 "omnium qui te quaerunt corde sincero"
101 "cum signo fidei, et dormiunt in somno pacis"
102 "obieunt in pace Christi tui"
103"Quorum fidem tu solus cognovisti"
104 原注20: ローマ・カノンの翻訳のうちいくつかは、"locus refrigerii,lucis et pacis"(すずしみと光と平和の場所)が、「至福、光、平和」という状態として訳されている。「苦しむ教会」に関して明確な言及が消え失せてしまったことについては何と言ったらよいだろうか!
105 原注21: この省略omissionの病熱の最中に、ただ一つ付け加えられた言葉がある。それは、告白の祈りのなかで罪を告白し、「思い」と「言葉」と「行い」に続けて「怠りomissio」の罪が付け加えられたことである。
106 Communicantes, et momoriam venerantes, in primis gloriosae semper Virginis Mariae, Genitricis Dei et Domini nostri Jesu Christi, sed et beatorum Apostolorum ac Martyrum tuorum, Petri et Pauli, Andeae, Jacobi, Joannis, Thomae, Jacobi, Philipi, Bartholomaei, Matthaei, Simonis et Thaddaei: Lini, Cleti, Clementis, Xysti, Cornelii, Cypriani, Laurentii, Chrysogoni, Joannis et Pauli, Cosmae et Daminai: omnium Sanctorum tuorum; quorum meritis, precibusque concedas, ut in omnibus protectionis tuae muniamur auxilio. Per eundem Christum Dominum nostrum. Amen.(聖なる一致をしつつ、我らは、まず、我らの天主なる主、イエズス・キリストの御母、終生童貞なる光栄あるマリアの記念を謹んで行い奉る。また更に、主の聖なる使徒かつ殉教者、ペトロとパウロ、アンドレア、ヤコボ、ヨハネ、トマ、ヤコボ、フィリッポ、バルトロメオ、マテオ、シモンとタデオ、また、リノ、クレト、クレメンテ、シクスト、コルネリオ、チプリアノ、ラウレンチオ、クリソゴノ、ヨハネとパウロ、コスマとダミアノ、および主の全ての聖人らの記念を恭しく行い奉る。願わくは、彼らの功徳と祈りとによって、我らが全てにおいて御身の保護の助力を与え給わんことを。同じ我らの主キリストによりて、アーメン。)
107 Libera nos, quaesumus, Domine, ab onmibus malis, praeteritis, praesentibus, et futuris: et intercedente beata et gloriosa semper Virgine Dei Genitrice Maria, cum beatis Apostolis tuis Petro et Paulo, atque Andrea, et omnibus Sanctis, da propitius pacem in diebus nostris: ut ope misericordiae tuae adjuti, et a peccato simus semper liberi, et ab omni perturbatione securi.(主よ、願わくは、過去、現在、未来の全ての悪より我らを救い給え。終生童貞なる永福の光栄ある天主の御母マリアと御身の至福なる使徒ペトロとパウロ、また、アンドレアとともに、全ての諸聖人のおん取り次ぎにより、おん慈悲をもって今日平安を与え給え。そは、おん憐れみの御業に助けられ、常に我らが罪から救われ、全ての惑わしから安全に守られんがためなり。)
108 原注22: 新しい司式が提示されたとき記者会見の席で、レキュイェ神父P?re L?cuyerは理性だけを信じているという「信仰宣言」をはっきりとし、会衆の参加していないミサでの挨拶は、「Dominus tecum主はあなたと共に」「Ora, frater兄弟よ祈れ。」という言い方を考えているとさえいった。これは、「作り事がなくなり、真理に適わないことがなくなるためである」(ソノママ)とのことである。
109 "tremendum mysterium"
110 "Aufer a nobis"の祈り
111 "Oramus te, Domineの祈り
112 "Aufer a nobis"
113 "Omramus te, Domine"
114 "mensa" 総則の260番には、「感謝の祭儀は、…聖堂以外の場所においては、…適当な机の上でも行うことが出来る。但し必ず食卓布とコルポラーレを備えなければならない」とある。総則の265番には「可動祭壇、もしくは聖堂外の祭儀が行われる机(260参照)には、聖別された石をおく必要はない」とある。
115 "convivium"
116 総則244番の「ニ」によると、「助祭または教会奉仕者[これは、いわゆる侍者のことである。]は、カリスとプリフィカトリウムを拝領者に差し出し、拝領者は、適宜に、自分の手で、カリスを口に持って行く。拝領者は、左手でプリフィカトリウムを口の下に保ち、こぼさないように注意しながら、少量の御血をカリスから拝領する」とある。
117 総則65:「教会奉仕者は、祭壇での奉仕と、司祭及び助祭を助けるために選任される。教会奉仕者には、特に祭具の準備をすること、及び特別奉仕者として聖体を信者に授けることが委ねられる。」
118 総則66:「聖教奉仕者は、福音を除き、聖書を朗読するために選任される。また共同祈願の意向を述べ、詩編朗読者がいないときには、朗読の合間に詩編を唱えることが出来る。宣教奉仕者は、感謝の祭儀において、固有の役割を持っている。この役割は、より上級の位階の奉仕者がいる場合にも、宣教奉仕者自らが果たさなければならない。」
119 総則67:「朗読の間にある詩編または聖書参加を朗唱することは詩編朗唱者の務めである。」
120 総則68の「イ」:「解説者=信者を祭儀に導き、よりよく理解させるために、信者に指示や説明を与える。」
121 総則68の「ロ」:「案内係=地方によっては、教会の入り口で信者を迎え、適当な席に案内し、また行列を整理する。」
122 総則68の「ハ」
123 総則68「また、ミサ典礼書、十字架、ろうそく、パン、ぶどう酒、水、香炉を運ぶ者がある。」
124 mulier idonea 総則70:「助祭に固有な役務以外の役務は、選任を受けていなくとも、男子信徒が行うことが出来る。司祭席の外で行われる役務は、…女子にも委ねることが出来る。」
125 "ministeria quae extra presbyterium peraguntur"
126 原注23: このことに関して、今ではたとえ司祭が共同司式の前或いは後に一人でミサを捧げなければならない時でさえも、司祭はもう一度共同司式の時に両形色で聖体拝領することが合法的になってしまったようである。

6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素

2019-03-09 22:11:57 | ミサ
6新しい典礼様式が内包する落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素 

 以上の考察では、新しい司式がカトリック・ミサの神学からきわめてひどく逸脱するところだけに限って話がなされた。そこでの私たちの考察は単に逸脱が典型的であるものに限られている。
 新しい典礼様式が内包する(それがたとえ典礼文であれ、説明文であれ、規定文であれ)全ての落とし穴、危険、霊的心理的な破壊要素を完全に評価し尽くすのは広大な事業になるだろう。
 私たちはだからここでは新しい3つの「奉献文」にざっと目を通すだけにしよう。なぜなら、その形式もその実体も共に何回も権威ある批判を受けてきたからである。
 第二奉献文127はそのあまりの短さに信者達にすぐに躓きを与えた。この第二奉献文に関しては、全実体変化やミサの犠牲の性格のどちらももはや信じていないような司祭が良心の呵責を全く持たずにこれを捧げることが出来ること、また、プロテスタントの牧師が自分の典礼サービスのためにこの奉献文を十分に使い得ることが鋭く指摘されてきた。
 新しいミサはローマに「司牧上の仕事の豊かな源」として、「法律的と言うよりもむしろ司牧的な文章」として導入された。そして、各国の司教協議会はそれぞれの状況に合わせて様々な民の「精神」にそれを適応させることが出来るとされた。
「典礼のための新しい聖省」の第一部門はさらに「典礼書の出版と絶え間ない見直し」のための責任者とされた。
 この考えは、ドイツ、スイス、オーストリアの典礼研究所の公式出版物の中に最近、反映されてこう書かれた128。
 「今ではラテン語が様々な国の言葉に訳されなければならない。「ローマ式」は地方教会のそれぞれの個性に適応されなければならない。かつて時を越えて考えられたものは、絶えず変わる文脈と具体的な状況に合わせ、普遍教会の絶え間ない流動とその無数の会衆に会わせなければならない。」

 新しい司式を発布する際の使徒座憲章それ自体でさえ、第二バチカン公会議の明らかな望みに反して「言語の多様相違のうちにも、全ての人によって同じ一つの祈りが[?]、大祭司イエズス・キリストを通して、聖霊のうちに、どの香にもまして芳しい香りとして、父に捧げられることになるからです」という全く曖昧な表現により教会の普遍的な言語であるラテン語に対し最後の一撃を与えている。
 これゆえに、ラテン語を失うことは当然だと考えられる。また第二バチカン公会議はグレゴリオ聖歌がローマ典礼のローマ典礼であることを示すものであると認め、「典礼儀式に置いて名誉ある地位が与えられなければならないと」命じたが、新しいミサでは特に入祭文や昇階誦を自由に選んで良くなったために論理的にグレゴリオ聖歌さえも失われてしまうだろう。
 従って、その仕組みから、新しい司式は多様で実験的なものであり時と場所によって変わるものだった。礼拝の単一性がこうして一度、そして永久に壊れてしまうなら、いったい信仰の単一性を保つための基礎として何が存在することだろうか。かつては信仰と単一性に礼拝の単一性が結びつき、それが妥協することなく信仰を常に守っていたと私たちは教えられてきた。

 新しいミサが、トレント公会議で教えられた信仰を私たちに提示する意向を全くもたないことは明らかである。ところでカトリック信者の良心が永遠に結ばれているのはまさにこの信仰である。従って、新しいミサが発布されると真のカトリック信者は劇的な選択の必要に直面する。


127 原注24:「ヒッポリトのカノン」として提示されたが、実際はいくらかの言葉がそのまま使われているだけで何も残ってはいない。
128 原注25: "Gottesdienst" no.9, 14 Mai 1969

7宗教統一運動

2019-03-09 22:11:27 | ミサ
7宗教統一運動

 使徒座憲章は、新しい司式が東方教会から借りたことになっている信心と教義の豊かさについて明確に言及している。しかし、結果は東方典礼の精神からあまりにも遥かに離れ、そして実にその精神とは対立することになり、信者をして東方典礼様式からうんざりさせて離れさせるのみである。
 この宗教統一運動の為に東方典礼から借りたものはいったいどんなものがあるだろうか。基本的には「奉献文」を導入させるための数多くの文章(これをアナフォラと言う)。しかし、そのうちのどれ一つとして東方典礼のアナフォラの複雑さや美しさに及ばない。また、その他のものとして両形色での聖体拝領と助祭の使用である。
 東方典礼に近づくために導入したいくつかの要素に反して、新しい司式はローマ典礼がかつて東方典礼に最も近づいていた要素を、全て故意に取り除いてしまった129。同時に、新しい司式は、紛れもなくローマ的で、またいつ始まったかも分からないほどの古いローマの性格を放棄してしまっている。そうすることによって、霊的にそれ自体で貴重であったもの全てから切り離されてしまった。
 この代わりに新しい司式は、プロテスタントの一部の典礼に近くなったが、プロテスタント化したその新しい要素はカトリックの信仰にとって非常に近くにあった要素というわけではない。同時にこれらの新しい要素はローマ典礼を退廃させ東方典礼からもさらに疎外化させた。それは新しい司式の先駆者であるプロテスタント宗教改革で起きたことと全く同じことであった。
 新しい典礼はその見返りとして、かつてなかったほどの霊的危機の時代に於いて棄教・背教の境界線をうろつき今や教会の組織に毒を入れ、教会の教義・礼拝・道徳・規律の一致を崩そうとして教会の破壊を企てているものどもを全て喜ばすだろう。


129 原注26: ビザンチン典礼に於いて見いだされる次の要素を考察せよ。長い何度も繰り返される悔悛の祈り。司式司祭と助祭の祭服を着るための荘厳儀式。プロスコメディアという捧げものの準備のそれ自体で完全な一つの典礼様式。たとえ奉献の祈りの最中であっても聖母や諸聖人への何度も繰り返される祈祷。福音を読むときに「目に見えない共同司式者」としての天使の諸階級への祈り。聖歌隊はケルビコンと名付けられ、天使の階級の一部と見なされている。聖所を教会のその他の部分と区別し聖職者を平信徒と分離させる至聖所の幕(イコノスタシス)。全典礼がそれへと意味付けられている天主の神秘を象徴する隠れた聖変化。天主へと面し決して会衆に対面しない司式司祭の姿勢。聖体拝領は必ず司式司祭によってのみ配られること。聖変化した両形色に対する絶えざる礼拝の印。会衆の本質的に観想的な態度。東方典礼に於いてはたとえそれがあまり荘厳でない様式に於いてでも1時間以上続き「敬虔の念を起こさせ、言語を絶する、・・・天的な、命を与える神秘」として常に定められている。また、ローマ・ミサに於いてそうであったように、聖ヨハネ・クリソストモの典礼と聖バシリオの典礼に於いて、いかに「晩餐」や「会食」の考えがいけにえの考えに明らかに従属しているかということを最後に記しておく。