「供え物の祈り」の不十分さを正当化させようとする論拠をいくつか聞いてみると、それはルターのことを思い起こさせます。ルターはミサを変える移行期を上手く乗り越えることに大変努力しました。ルターは、できる限り昔の儀式をそのまま残し、しかも、その意味を変えることに精神を注ぎました。「ミサ」は大部分がその外見を残され、信者は、教会の中に入ってもほとんどそっくりそのままの装飾を見て安心し[教会に通い続け]ました。ルターは、信者の気に入るような手を加えて、ほとんど同じような典礼儀式を行いました。何故なら、今後は以前よりももっと、信者に訴えるようになったからです。ルターは礼拝儀式の中に何か重要なものがあることに気が付いていました。大きな声の歌や祈りによって、信者がもっと能動的に参加するようにしたのです。少しずつラテン語がドイツ語に席を譲っていきました。
このルターのやり方を見て、皆さんは何かを思い出しませんか。
実に、ルターは「教皇礼拝者どものへたくそな歌」を新しい歌に取り替えようと、歌を新たに作るのに骨を折るのです。改革とは常に文化革命の様態を取ります。
新しいミサ司式では、使徒時代にまで遡るローマ・カノンという最も古い部分でさえ、ルター派の聖変化の形式と近づかせるために、言葉を付け加えたり、削除したりして手を加えています。さらに、フランス語訳は「pro multis(多くの人のために)」という言葉の意味を変えて訳され、ラテン語原文の変更の更に上を行っています。[どういうことかというと、pro multisの訳として]フランス語では、「・・・あなたたちと多くの人un grand nombreのために流される・・・私の血」の代わりに「あなたたちと大多数la multitudeのために流される・・・」となっています。これは同じことを意味していません。神学的にニュートラルな意味ではありません。[数千人、数万人の人々でも「多くの人」だと言えますが、「大多数」というと、数千億の全人類の少なくとも半分以上を指し、あるいは、少数の例外を除いた人類のほとんど全てをも意味しうるからです。]
このルターのやり方を見て、皆さんは何かを思い出しませんか。
実に、ルターは「教皇礼拝者どものへたくそな歌」を新しい歌に取り替えようと、歌を新たに作るのに骨を折るのです。改革とは常に文化革命の様態を取ります。
新しいミサ司式では、使徒時代にまで遡るローマ・カノンという最も古い部分でさえ、ルター派の聖変化の形式と近づかせるために、言葉を付け加えたり、削除したりして手を加えています。さらに、フランス語訳は「pro multis(多くの人のために)」という言葉の意味を変えて訳され、ラテン語原文の変更の更に上を行っています。[どういうことかというと、pro multisの訳として]フランス語では、「・・・あなたたちと多くの人un grand nombreのために流される・・・私の血」の代わりに「あなたたちと大多数la multitudeのために流される・・・」となっています。これは同じことを意味していません。神学的にニュートラルな意味ではありません。[数千人、数万人の人々でも「多くの人」だと言えますが、「大多数」というと、数千億の全人類の少なくとも半分以上を指し、あるいは、少数の例外を除いた人類のほとんど全てをも意味しうるからです。]