お天道様は見てござる

元創価学会員。現在は公明党が熱烈に推進し、ビルゲイツから感謝状をもらったコロナワクチンの問題について綴っています。

功徳の奇跡を信じる心が創価学会員の可能性を奪っている

2016-10-10 06:10:12 | 日記
私は学校を卒業後、ずっと会社勤めをしていました。
最初の会社を転職して引っ越しをしたんですが、その転職から数年後、無謀にも独立して起業することになったのです。
もともと会社組織に縛られるのがあまり好きでなかったのと、「信心をしているから起業しても守られるはず」という
根拠のない自信による無謀なチャレンジでした。
「どんなことでも指導を受けること」と言われていたので指導を受けたんですが、
さすがに事が大きすぎたせいか「起業してもこのまま会社勤めをしても、信心を貫いていけば必ず行きたい方に行ける」というご指導でした。
行きたい方に行けるというのは、上手く言ったもので、必ず成功するとは言いません。
どんな願いでも叶うはずの信心なのに、実に曖昧なご指導でした。
いや、ひょっとすると、本当は幹部の方は私のことを無謀だと思っていたけれども、
ここで引き止めると「どんな願いでもかなう信心」が嘘になってしまうと思ってのご指導だったのかもしれません。
いずれにしても、私は自分の意志で「起業する」というほうを選びました。
「信心さえあれば守られる。かなわない願いはない」何度となく聞いてきた言葉です。
守られないはずはないし、起業を成功させたいという願いがかなわないはずがありません。
ところが、当然と言えば当然なのですが、起業した私の仕事はそう順調にはいきませんでした。
仕事をもらえるとあてにしていたところからはもらえず、新しい営業をかけてもなかなか実を結ばず……。
仕方がないので、バイトをしながら営業して仕事を取って……という日々が始まりました。
自業自得なのですが、このときもまだ「信心さえしていれば、必ずまもられる」という根拠のない自信が私にはありました。
だから、バイトをしつつ、お題目を必死にあげつつ、会合にも頑張って参加しました。
今から思えば、このときに私は「信心の力をあてにしてしまった分、仕事を疎かにしていた」のだと思います。
起業するというのは本当に大変なことで、本来なら全部の力をそこに注ぎ込まなければならないにもかかわらず、
「信心の力をあてに」してしまい、その分だけ、仕事に注ぐ力が弱くなってしまったのです。
これでは当然上手く行くはずはありませんでしたが、当時は「功徳の奇跡が必ず起こる」と信じ続け、学会活動やお題目にも力を注ぎ続けたのです。
私の起業の失敗は創価学会の信心に依存することを前提にしてしまったことだと思います。
功徳が必ずあると、それを計算に入れてしまったことだと思います。
それでもこつこつと何年も頑張っているうちに、少しずつではありますが、本業での収入が増えていきました。
そして、とうとうバイトをやめて本業だけで生活していけるようになったのです。
私はこれを「功徳」だと思いましたし、周囲の幹部たちも「功徳」だともてはやしました。
私は感謝の思いでさらに学会活動を頑張るようにもなりました。体験発表もいっぱいしました。
でも、ちょっと待ってください。これって本当に「功徳」なんでしょうか?
今から考えると、学会活動をしていなければ、私はもっと上手くやって行けていたと思うのです。
手に職はあるわけですから、営業をかければそれなりの仕事が入ってくるのは当然で、
本来ならば起業当初に学会活動にさいていた時間をすべて仕事に注ぎ込まなければならなかったのです。
そうすれば、何年もバイトと掛け持ちなどということはしなくてすんだはずです。
中途半端な気持ちや努力だったから、仕事を勝ち取ることが出来なかったのです。
そして、中途半端にしかできなかったのは、私の生活に学会活動が深く入り込んでいたからです。
当時は「バイトをしていたのに、しなくてすむようになった」ことが功徳だと思い込んでいたのですが、
真実は「学会活動やお題目に時間を割いてしまったために、何年もバイトをしなくてはならなかった」ということだと思います。
私が今そう言い切れるのは、学会活動を完全に休止してから、それまで仕事60%、学会活動+お題目40%ぐらいの確率だったのが、
仕事100%にしたとたん、すべて軌道に乗り始めたからです。
それまでのやり方が間違っていたと、私はこのときようやく理解しました。
今は生活の心配をしていた頃が嘘のような状態で、安定した仕事をさせてもらっていますし、貯蓄も年々増えています。
信じられない話ですが、学会活動をしていた間、私は貯蓄どころか、常に借金を背負っている状態でした。
それでも何とかやりくりし、生活ができていることが「守られている」と思い込んでしまっていたのです。
でも、こうして振り返ってみると、まったく何も守られていなかったこと分かります。
借金を完済し、貯蓄ができるようになったのは、すべて学会活動を休止してからのことです。
もしも今、仕事に100%の力を傾けることなく学会活動をしていれば、きっといまだに借金が残っていて貯蓄ゼロの生活をしていたのは間違いないと思います。
人間生きていれば、創価学会員であろうがなかろうが、努力した分だけ前に進むことが出来ます。
創価学会はその「努力した分だけ進んだ部分」を「功徳」と言ってのけ、学会活動の結果だと恩を着せます。
そして、マインドコントロールされた私たちはそれをいとも簡単に信じてしまうのです。
学会活動やお題目に時間や労力を奪われながらも、自分の足で汗をかき必死に運んできた荷物を
「これは創価学会のものだから」と自分の家の玄関の前で取り上げられるようなものです。
努力は宝物だと思います。自分が必死に汗を流し、積み上げてきたもの。それを創価学会は自分たちの手柄として強奪していくのです。
そうやって創価学会によって作り上げられていく「功徳」を体験発表させたりするのです。
選挙を戦ったから、折伏を決めたから、お題目をあげたから……願いをかなえた本当の理由である「自分の努力」は本当についで程度で、
ここに入る余地はほとんどありません。
そうした体験発表を聞いた創価学会員は「努力にまわしていた分を学会活動にあててもっと効率よく功徳を得よう」と考えてしまうのです。
さらにまた学会活動に励めば「功徳」がもらえると思い、100%仕事に集中すれば良いものを、
70%や60%で押さえて、残りを学会活動にあててしまうのです。
これが創価学会の罠だと思います。
こうやって人生を損をしている創価学会員が、可能性を奪われてしまっている創価学会員が本当に多いと思います。
個々人の努力による成果を「功徳」と思い込ませ、「努力よりも学会活動が大事」とすり込まれてしまうのです。
いちおう創価学会では努力も大事と言いますが(これは「願いがかなわなかったとき」努力が足りないと努力の問題にすりかえるため)、
選挙や折伏の戦いが始まると即座に「学会活動が何よりも大事!」になるのです。
そして、選挙や折伏などの戦いは年中おこなわれていますから、創価学会員である限り、常にノルマに力を傾けなくてはなりません。
これではいくら夢や目標に向かって努力しようとしたところで、それに全力投球することなど不可能です。
本来なら自分の夢や目標のためにさくはずだった労力を「学会活動」に向けさせ、
「学会活動」をしていることで、夢や目標に近づいているなどという世迷い言を創価学会員は幹部から吹き込まれ続けるのです。
そして創価学会員は、学会活動でできなかった努力の分は「功徳」が必ず補ってくれると盲信してしまうようにコントロールされてしまうのです。

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