ジャックラッセルの冒険

天国に行ったソフィーと、養子になったサンディの物語

ボランティアの意義

2011-03-15 14:03:10 | kikiの独り言
阪神大震災
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒(日本時間=UTC+9)、
淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)
沖の明石海峡(北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として
発生した 想定 Mj7.3[1]の大地震

この地震は、兵庫県南東部の淡路島
同じく兵庫県南東部で本土部の阪神地区(神戸・芦屋・西宮・尼崎・宝塚・伊丹・川西・三田・猪名川町)
東播磨地方中南部(明石・加古川・三木・稲美町・播磨町・高砂・小野・旧吉川町など)
姫路市〔旧飾磨郡(夢前町・家島町)・旧神崎郡(香寺町)・旧宍粟郡(安富町)を含む〕、
大阪府豊中市を中心に甚大な被害を与えた。

私は大阪で最も被害が大きかった豊中市の尼崎にかなり近い所に住んでいた。

家の中は物が倒れ、ガラス、グラス、食器が割れ、電気は付かない状態。
マンションの廊下のアルミの渡しがグニャグニャに曲がっていた

しばらくして電気が付いた
テレビをつけると火事が起こっているところがあると。
あぁ、ココが震源地ではなかったんだ。取りあえず何軒かに急いで
無事の確認の電話。

仕事場は梅田、このまま電車に乗るのは危険。
1時間をかけ、自転車で出掛ける事にした。

途中、火事になっている家を見かけた。
新幹線が走る高架の下に差し掛かったとき、大きな余震。
電線が大きく揺れ、しゃがんだ。
ドキドキする鼓動がよく分かる。
いったいどうなるんだと。

幸い北区梅田近辺は余り被害は無かったようで安心した。


木曜日にはボランティアの呼びかけがラジオから聞こえてきた
カバンに買い物したものを詰め、阪急西宮へ。

あぁ、戦争のあとのようだ。
余りにもひどい光景

ここから、灘区まで歩いてください。地図を渡され指定された小学校へ
家の前に小さなメモが貼ってある。
「私たちは皆無事、小学校にいます」
胸をなで下ろすも、どうやってこの家から出たのか
想像も付かない崩壊。

こんな近代的な生活をしていても
自然の力は怖いと

その後も自分の食料をリュックに背負いボランティアに参加した。


しかし今回の震災では、
津波の方がもっと恐ろしいと知らされた。

今回も恐らくボランティアへ出る人が増えてくるだろう


出来る限り、自分たちの食料は自分たちで用意してほしいです。
自立、自己供給完結してほしいです。

自衛隊は食事、泊まる場所、トイレ、水、お風呂を
用意出来る環境です。でも被災者のための用意です。

ps.
少しでもいいからボランティアに参加していきたいものですね。
何か出来ることを考えてみたいと思います。
小さな事しかできませんけど・・・


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