山猫の黄金のどんぐり

日々の生活の中で見つけた、黄金のどんぐり拾っています

また3月11日がやってくる

2012年03月02日 | Weblog
おはようございます。

今日は、朝から雨が降っていました。今は、少し小降りになっています。暖かくなる時季の常でお天気が安定せず、これから当分はっきりしないお天気が続くようです。今朝の気温は、10℃近くありました。


3月11日が、またやってきます。昨日も、テレビで特集をしているのをチラッと見ました。震災直後にネットで飛び掛かっていたのが前向きな言葉だったのに、次第に「億劫」とか「憂鬱」という類の言葉が増えてきたそうです。一方、震災直後にはネットで飛び交う言葉は震災関係のものがほとんどだったのが、最近ではその割合がごく少なくなったようです。

震災直後にはわからなかった被害の大きさや状況の厳しさが、被災者の方々にジワリと重みを増しているのでしょう。昨日の番組に出ていた人の周囲には、自殺した人がいるそうです。その心中を察すると、重苦しい気持ちになります。

番組では、被災した人がネットで情報発信したおかげで、被災地に不足しているものが救援物資として届いたとしていました。また、世界中から励ましのメールや書き込み、コメントが届いたそうです。

それを聞いて、世界には温かい人々がいるもんだなあと、感心しました。でも、なにか違和感のようなものも感じました。励ましのコメントは発信者にとり、確かにうれしいものに違いありません。でも、それ以上のものではない。そこに、バーチャルなコミュニケーションの限界を感じました。


こう書く私だって、募金しかしていません。でも、「いつも被災地のことを心配しています。」とか、「私はいつもあなたがたのそばにいます。」とかいう、外国人特有の表現を使ってコメントされても、空々しく感じるのは私だけでしょうか?

コメントしている人は確かに優しい人だと思うし、そういうコメントをするのは、しないよりはいいのかも知れません。しかし、そういったコメントが増えれば増えるほど、ひとつひとつの言葉の薄っぺらさを強く感じるのです。


これは、欧米の人々には理解されないかも知れません。黙って悲しさや苦しみを耐える、日本人特有の感覚なのでしょうか?

大震災後には、震災に関する膨大な言葉が飛び交いました。しかし、未曾有の大震災の前では、言葉というものはなんて無力なんだ、ということを痛感したこの1年でした。