心は秘密

仏心に住して菩薩のように語るブログ

天国の楽園

2020-06-29 17:01:10 | 日記
思えば悟りの旅路というものは、私には長かった。それは私が怠け者で、生活に埋没している時間ばかりが長かったということです。


それでも私には幸運があった。或る日、ふと「天国と地獄」というものが有るとすれば、それは何処に、どういうものとして有るのだろうか、などと、あれこれ考えていると、身体全体を揺り動かす衝撃的な霊感に包まれ、その霊体に導かれるままに身を任せていたら、天国へと生まれ変わった。暇潰しに哲学書を少し囓る程度だった私が、宗教に関心を持ったのは、それからです。


その後、聖書を読み、また仏教の経典を読み始めてから、ボチボチと悟りの道を歩き始めた次第であるが、それを話していると、きりが無いので、それはやめて、本日は「天国の楽園」で怠けに怠けていた日々のことを話すとしましょう。


天国と云えば永遠の命の国とも云われているように、第一に死の怖れから解放されているという楽があります。例えば「もし道路を歩いていて、車に撥ねられるなどして、身体がどうなろうとも、俺は死なないんだ」という具合でしたね。


そして普段の心境も、自分の立地点は現実界を超越していて、現実世界を足下の位置に見下ろすような感覚だから、世間の人々が、此の世の制約に閉じ込められた不自由な人々に見えて、ついつい心の中で「皆さん、世間の柵に縛られた縄を解いて、思いのままに、自分が望んでいる夢に向かって、自由に生きていってもよいのですよ」と呼びかけていた記憶も鮮明に残っています。


勿論自分自身の心も、天国に在って以来、そのように変わっていました。「以前は世間の柵のようなものに縛られて、思いのままには生きられなかったけれど、神霊の導きを得ている間に、世間知の中に真理は無いと悟って、此の世を捨てた縁で天国という真理の国に生まれることが出来、本気で願う夢があるならば、努力すれば何でも叶う、という信念を持って、此の世は生き抜くべきだ」という心境で、心が満たされていたのを思い出します。


私にとって、天国の楽園に在住していた期間は、毎日が、そのように充実していたのですが、私の場合、その充実は、芸術創作の道だったので、悟りの修行に関しては疎かにしていたため、「悟るぞ」という気概が生じるまでの数年間は、殆ど進展もありませんでした。


ということで、人生の夢を持ちながらも、世間体を思って躊躇している方が居られれば、この「天国の楽園」という精神世界のことも、参考にして頂けたらと思います。

真我観に因んで・禅宗系の一例

2020-06-19 10:53:12 | 仏教
「心が落ち着きません」と云った慧可に「落ち着かないその心を出してみなさい」と云った達磨。「その心が見付かりません」と答えた慧可に「心を落ち着かせてやった」と達磨。


この遣り取りから、達磨の境地は見えてくる。ではこの時、慧可は達磨の境地に達しただろうか。悟らなかったとは思えないが。(とはいえ、この逸話は事実ではないようだが)


一休禅師は、死に近い頃の自画像に「借用申す昨月昨日、返済申す今月今日、借り置きし五つのものを四つ返し、本来空に今ぞもとづく」と賛した。


この賛もまた、達磨の境地を彷彿とさせる。更に一休が詠んだ次の短歌によっても明らかである。


「花を見よ色香も共に散り果てゝ心無きだに春は来にけり」


この無とこの空、只の無と空ではないぞと、読み取るが故に。


「あれか、これか」の閑話

2020-06-15 10:47:23 | 読書
ちょっとした弾みで思い出したキルケゴールの「あれか、これか」。十代の終わり頃からニーチェやヤスパースなどと同時に読んでいたキルケゴール、今となっては「懐かしい」の一語に尽きる。


その「あれか、これか」の最初のところには、「結婚したまえ、君はそれを悔いるだろう。結婚しないでいたまえ、やっぱり君は悔いるだろう。結婚しても、しないでも、何れにしても君は悔いるのだ」というような例を幾つか並べている。


ここでキルケゴールが云わんとしている事柄を、別の形に買い換えてみると、「昨日私は〇〇へ出掛けて、〇〇して遊んだ」と人が語るとき、その「出掛けて遊んだ私」は「本当の私」ではないという話にもなる。ならばその人が「〇〇へ出掛けるのを止めて、出掛けなかった」とすればどうだろうか。勿論「出掛けなかった私」も「本当の私ではない」という話だ。これをキルケゴール風に云えば「その人は〇〇へ出掛けても、出掛けなくても、それを悔いるだろう」という表現になる。勿論「悔いるか悔いないか」という話になれば、悔いると決まったものではないけれど、隠された意味は、やはり「本当の自分か、そうではないか」という話なのである。


それ故にキルケゴールは続けて曰く、「私がスピノザのように、すべてを永遠の相と観るのは、或る特殊の瞬間だけではない。むしろ私こそは常に永遠の相である。多くの者は一を他に結び付けんとするとき、即ち此の矛盾を調和せんとしたとき、自分もやっぱり、それであると思う。しかしこれは誤解である。何故ならば、真の永遠の相は「あれか、これか」の後ろに従うものではなく、その前に行くものであるから。彼らの永遠の相は、だからまた苦痛な時間の連続である。というのは、それは二重の悔いに焼き尽くされるからである、云々」と。


これで示さんとする意味内容も尽くされていると思う。キルケゴールは時々、ヘーゲル批判をするのだが、この文章の中にも、その形跡が見て取れます。弁証法批判です。ここでは、弁証法で解決しようとすれば、二重の悔いに焼き尽くされると云っているのです。


ならばキルケゴールの解決策はどういうものか、というのが、この文章で明かされているように、宗教で開顕される神性覚(真我とか如来蔵などとも云われています)です。これが「本当の自分」だからです。キリスト教だろうと、仏教だろうと、或いは古代ギリシャ時代から延々と続く哲学者たちにとってだろうと、人間に普遍的で只一つの「本当の自分」と云えば、ここに示唆されている「本当の自分」以外では有り得ないのだと、そう確信してみると、ヘーゲルの論書を回想しつつ、ヘーゲルが弁証法を駆使して到達を目論んだ「絶対精神」って、「ありゃ一体何だ」と云わんばかりの有頂天気分を生じ、痛快な思いに浸ったことまでが、今またこうして思い出されるのです。


死魔に打ち勝つ道の話

2020-06-13 14:39:18 | 日記
人間として此の世に生まれてきたからには、死から逃れることができない。これは此の世の定めである。ならば人間という存在は、ハイデガーも云うように「人間は死に向かって生きている存在」という見解を以て決まりだろうか。もし「決まり」であるならば、人間の生き方はどのようになるのだろうか。やはり実存思想に倣って「死によって限定された時間枠の中で、一度きりの掛け替えのない人生を、精一杯生きよう」という考えに落ち着くのだろうか。


いや、選択肢はまだある。仏道を学べば、一切の衆生の苦しみは、身体有るが故である、という認識が得られよう。これは「身体が無ければ、心に苦しみは生じない」ということだ。そこで心が身体を放下する。つまり解脱をするのである。そんなことが可能なのか、と思うかもしれないが、やってみると意外と出来るものだ。勿論解脱できたという証しも自認できる。成就の時には、忽然と解脱の金剛身が現れたことも、心眼で確認できるからである。解脱のコツは、人それぞれの悟りの進展具合によって幾つかあるけれど、自分に似合った方法を見付けるとよいでしょう。


こうして成就した解脱身は、身体の生死の影響を受けない金剛身なので、そのまま「死魔に打ち勝った法身」とも云えるのです。また、この開かれた法身を基体として、森羅万象を尽く成仏に引き入れることも可能になります。もしそういうことになると、成仏者の心象の中では、森羅万象も尽く成仏するので、死魔も戦う相手がどこにも居なくなり、やむなく空中消滅という結果にもなりそうです。


不立文字

2020-06-08 13:52:16 | 日記
「不立文字」の意味に関する一つのヒントとして。


禅の本質を表す言葉の一つとされている「不立文字」。仮にこの四文字の意味を推考していると、「文字を立てず」は即ち「文字に依らず」であり、文字に依らないということは、取りも直さず「音声にも依らない」ことを意味するのだから、そのまま「何の意味にも依らず」であり、自ずから「無語の故に無音声」にして「能動も無く受動も無し」という「無の境地」に至り着くのではなかろうか。


では、ここで到達されたかに見える「無の境地」は、正当な覚りの境地だろうか、と検討してみると、確かに表面的には「法身は説法せず」と説かれている「如来の定の辺」に等しいかのようにも見える。しかしこの「無の境地」は、最初に提示された「不立文字」という四文字、即ち「文字に依存して考えられた境地」であって「文字から縁起した空想の境地」であるから、当然ながら行者の心には解脱も無いのであって、正当な悟りの境地とは無縁だということも分かる。


従って、この理が分かれば、単に無念無想の状態を自身で工夫したとしても、それで覚りの境地を体得したことにはならないということも分かってくるだろうから、それと同時に、禅が説く「不立文字」の本来の意味というか、秘められた仏心開悟の瞬間というものにも、少しは近付くことができるのではないだろうか。