心は秘密

仏心に住して菩薩のように語るブログ

『如来意識』を電子出版しました

2020-09-28 12:55:28 | 日記
 ここしばらくブログ記事の書き込みも滞っていましたが、その間に新作『如来意識』を書きあげ、なんとか電子書籍として出版することはできました。出版と言っても電子書籍のみで、紙本はありません。それでもよろしければ、どうぞ読んでやってください。価格は440円で、アマゾンからご購入いただけます。「如来意識」で検索すれば、山本玄幸の作者名で出てくると思います。


 内容には自信があっても、ものが仏教本ですから、既に悟りが十全している方にもお役に立つかということになると、何とも答えようがないのですが、「ほう、こういう説き方もあるのか」という辺りを楽しんで頂ければ嬉しく思います。もし「面白い」と思われましたら、レビューをよろしくお願い申し上げます。

医療従事者の悲痛な声

2020-07-07 17:44:37 | 日記
東京都のコロナ感染者数が五日連続の100人超えというニュース。第二波が懸念される中、医療従事者の三割近くがうつ状態という現状も伝えられている。


この現状を伝える一例として、アメリカの医療従事者の悲痛な声が、TVで放映された。コロナ重症患者の治療に当たりながらも、自分への感染を恐れ、精神的パニック状態に陥って、「もう、以前の自分に戻ることはできない」と述べ、更に「もし第二波が来たら、もう自分を支えきることすら出来ないだろう」とも語る。


伝えるところによると、これは戦場の兵士にもよく起こる状態であると。それは分かりすぎるほど能く分かる理だが、これは、人間が「己に打ち克つ」ことの難しさを如実に伝える話なのだ。


特に様々な病症の患者に接しなくてはならない医療従事者が、感染したら自分の生命にも危険が及ぶという今回の場合を考えれば、戦場の兵士の場合と、その条件が似ている。


この二者に共通して要求されるのは、精神問題として最大級の困難さを伴うところの、「己に打ち克つ」という解脱修行なのだ。


仏教を学んだ人は多いと思うが、とことん解脱ができた人というものには、なかなか出会い難いのではなかろうか。


再び拙著『悟りの杖』(山本玄幸)の内容紹介で恐縮だが、この書は唯ひたすら「解脱」を説いていて、その解脱は「完全解脱」だから、これを成就できれば、釈迦如来じゃないけれど、「わたしには怖いものなど何一つとして無いのだ」と、釈迦如来と同じような言葉が、自ずと口から出そうになること請け合いです。とは云うものの「完全解脱」と聞くと、何やら難しそうと思うでしょうか。勿論「易しい」とは云いませんが、仏が「一切衆生悉有仏性」(すべての衆生には悟りの性質がある)と説いているのです。「悟れない人はいない」と信じて励みましょう。


と、ちょっと付加記事も要したけれど、うつ状態に陥りそうな医療従事者の方や、戦場の兵士の方々にも、「己に打ち克つ」完全解脱の成就を願って止まないのです。勿論完全解脱の功徳は、自身の死に打ち克つだけのことには留まらず、あらゆる煩悩の誘惑だって、思いのままに打ち消して、日々是好日の幸せ生活を約束してくれたりもするのです。


【無我の壁を破る】

2020-07-06 15:15:19 | 仏教
無我というのは仏教用語の一つですが、これはどういう意味かと云うと、此の世というものは常に移り変わり、人々もまた生まれたからには、やがて去って逝かねばなりません。それでも人は、此の世を懸命に生きて働き、老いや病などで世を去って逝くのです。その一生は身体と共に有ります。若くて伸び盛りの頃には、色々と将来の夢を膨らませます。しかし、その夢は身体的能力によって制限され、どんな夢でも叶うというものではありません。また大きな仮我をすることも有るかも知れません。回復困難な病を発症するかも知れません。そのような突発的事故によって、人生行路の変更を余儀なくされる場合もあります。それは悲しく、また苦しいことです。


このように人の心は常々、身体的条件に左右されますが、身体的条件はまた気象状況や交通事情などの外的条件にも影響を受けて、定まるところがありません。つまり物事の主導権は、心よりも身体的条件に移っていて、心は身体的条件に踊らされている影のような格好です。このような因果の流れを、仏教では「色は無常、無常なら苦、苦なら無我」と説いています。


このような因果の流れから知られる「無我」、これが私たちの心の現状であれば、私たち、即ち心は、身体に縛られて自由の効かない状態だということが分かります。この状態の心は、身体が病むと共に病み、老いると共に老い、死ぬと共に死ぬということです。


そこで仏教では、この生死に翻弄される心を、不死の境地へと救い上げる法を説いたのです。その法に曰く、「無我を殺せば真我ば得られる」と。「真我」とは「如来」のことです。


この「無我を殺して真我を得る」というのは、解脱の法です。解脱が出来れば、あなたも如来です。この「解脱」に特化して法を説いているのが、【『悟りの杖』(山本玄幸)】です。是非読んでみてください、時間を掛けて「ゆっくり」と。正しく云うと、この書は「読む」本ではなく「実践」する本です。一度や二度では、なかなか解脱はできません。でも解脱できれば、あなたも釈迦如来と同格です。こういう説き方をした書は、他には無いと思いますから、「解脱できれば儲けもの」と思って、懸けてみませんか。解脱が成ったときには、「我は金剛心に成れり」と実感して、世に怖いものが無くなります。何たって「不死の境地」ですから。


天国の楽園

2020-06-29 17:01:10 | 日記
思えば悟りの旅路というものは、私には長かった。それは私が怠け者で、生活に埋没している時間ばかりが長かったということです。


それでも私には幸運があった。或る日、ふと「天国と地獄」というものが有るとすれば、それは何処に、どういうものとして有るのだろうか、などと、あれこれ考えていると、身体全体を揺り動かす衝撃的な霊感に包まれ、その霊体に導かれるままに身を任せていたら、天国へと生まれ変わった。暇潰しに哲学書を少し囓る程度だった私が、宗教に関心を持ったのは、それからです。


その後、聖書を読み、また仏教の経典を読み始めてから、ボチボチと悟りの道を歩き始めた次第であるが、それを話していると、きりが無いので、それはやめて、本日は「天国の楽園」で怠けに怠けていた日々のことを話すとしましょう。


天国と云えば永遠の命の国とも云われているように、第一に死の怖れから解放されているという楽があります。例えば「もし道路を歩いていて、車に撥ねられるなどして、身体がどうなろうとも、俺は死なないんだ」という具合でしたね。


そして普段の心境も、自分の立地点は現実界を超越していて、現実世界を足下の位置に見下ろすような感覚だから、世間の人々が、此の世の制約に閉じ込められた不自由な人々に見えて、ついつい心の中で「皆さん、世間の柵に縛られた縄を解いて、思いのままに、自分が望んでいる夢に向かって、自由に生きていってもよいのですよ」と呼びかけていた記憶も鮮明に残っています。


勿論自分自身の心も、天国に在って以来、そのように変わっていました。「以前は世間の柵のようなものに縛られて、思いのままには生きられなかったけれど、神霊の導きを得ている間に、世間知の中に真理は無いと悟って、此の世を捨てた縁で天国という真理の国に生まれることが出来、本気で願う夢があるならば、努力すれば何でも叶う、という信念を持って、此の世は生き抜くべきだ」という心境で、心が満たされていたのを思い出します。


私にとって、天国の楽園に在住していた期間は、毎日が、そのように充実していたのですが、私の場合、その充実は、芸術創作の道だったので、悟りの修行に関しては疎かにしていたため、「悟るぞ」という気概が生じるまでの数年間は、殆ど進展もありませんでした。


ということで、人生の夢を持ちながらも、世間体を思って躊躇している方が居られれば、この「天国の楽園」という精神世界のことも、参考にして頂けたらと思います。

真我観に因んで・禅宗系の一例

2020-06-19 10:53:12 | 仏教
「心が落ち着きません」と云った慧可に「落ち着かないその心を出してみなさい」と云った達磨。「その心が見付かりません」と答えた慧可に「心を落ち着かせてやった」と達磨。


この遣り取りから、達磨の境地は見えてくる。ではこの時、慧可は達磨の境地に達しただろうか。悟らなかったとは思えないが。(とはいえ、この逸話は事実ではないようだが)


一休禅師は、死に近い頃の自画像に「借用申す昨月昨日、返済申す今月今日、借り置きし五つのものを四つ返し、本来空に今ぞもとづく」と賛した。


この賛もまた、達磨の境地を彷彿とさせる。更に一休が詠んだ次の短歌によっても明らかである。


「花を見よ色香も共に散り果てゝ心無きだに春は来にけり」


この無とこの空、只の無と空ではないぞと、読み取るが故に。