心は秘密

仏心に住して菩薩のように語るブログ

【無我の壁を破る】

2020-07-06 15:15:19 | 仏教
無我というのは仏教用語の一つですが、これはどういう意味かと云うと、此の世というものは常に移り変わり、人々もまた生まれたからには、やがて去って逝かねばなりません。それでも人は、此の世を懸命に生きて働き、老いや病などで世を去って逝くのです。その一生は身体と共に有ります。若くて伸び盛りの頃には、色々と将来の夢を膨らませます。しかし、その夢は身体的能力によって制限され、どんな夢でも叶うというものではありません。また大きな仮我をすることも有るかも知れません。回復困難な病を発症するかも知れません。そのような突発的事故によって、人生行路の変更を余儀なくされる場合もあります。それは悲しく、また苦しいことです。


このように人の心は常々、身体的条件に左右されますが、身体的条件はまた気象状況や交通事情などの外的条件にも影響を受けて、定まるところがありません。つまり物事の主導権は、心よりも身体的条件に移っていて、心は身体的条件に踊らされている影のような格好です。このような因果の流れを、仏教では「色は無常、無常なら苦、苦なら無我」と説いています。


このような因果の流れから知られる「無我」、これが私たちの心の現状であれば、私たち、即ち心は、身体に縛られて自由の効かない状態だということが分かります。この状態の心は、身体が病むと共に病み、老いると共に老い、死ぬと共に死ぬということです。


そこで仏教では、この生死に翻弄される心を、不死の境地へと救い上げる法を説いたのです。その法に曰く、「無我を殺せば真我ば得られる」と。「真我」とは「如来」のことです。


この「無我を殺して真我を得る」というのは、解脱の法です。解脱が出来れば、あなたも如来です。この「解脱」に特化して法を説いているのが、【『悟りの杖』(山本玄幸)】です。是非読んでみてください、時間を掛けて「ゆっくり」と。正しく云うと、この書は「読む」本ではなく「実践」する本です。一度や二度では、なかなか解脱はできません。でも解脱できれば、あなたも釈迦如来と同格です。こういう説き方をした書は、他には無いと思いますから、「解脱できれば儲けもの」と思って、懸けてみませんか。解脱が成ったときには、「我は金剛心に成れり」と実感して、世に怖いものが無くなります。何たって「不死の境地」ですから。


真我観に因んで・禅宗系の一例

2020-06-19 10:53:12 | 仏教
「心が落ち着きません」と云った慧可に「落ち着かないその心を出してみなさい」と云った達磨。「その心が見付かりません」と答えた慧可に「心を落ち着かせてやった」と達磨。


この遣り取りから、達磨の境地は見えてくる。ではこの時、慧可は達磨の境地に達しただろうか。悟らなかったとは思えないが。(とはいえ、この逸話は事実ではないようだが)


一休禅師は、死に近い頃の自画像に「借用申す昨月昨日、返済申す今月今日、借り置きし五つのものを四つ返し、本来空に今ぞもとづく」と賛した。


この賛もまた、達磨の境地を彷彿とさせる。更に一休が詠んだ次の短歌によっても明らかである。


「花を見よ色香も共に散り果てゝ心無きだに春は来にけり」


この無とこの空、只の無と空ではないぞと、読み取るが故に。


「悟りの杖」への質問に答える(2)

2020-05-29 17:50:18 | 仏教
拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、このテーマで記事を書いています。それ故、この記事をお読みの方からの質問なども頂けると、有り難く思います。


今回は「なぜ、南無阿弥陀仏と唱えると、阿弥陀仏の来迎があるのですか」という問いについての答え方を考えてみましょう。


問うている人は、当然その答えを知らないのですが、回答者には正解を知っている者もいるかも知れません。もし正解を知らないのに答えた場合は、間違った答えを言ったことになります。


そこで、質問者はなぜこのような問いを発したのかと、考察の対象を転換してみます。


経典には「是より西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名付けて極楽と云う。其の土に阿弥陀仏居まして、現に説法したまえり」とあり、更に「阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を持すること若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心乱れずば、その人いのち終わる時に臨みて、阿弥陀仏もろもろの聖衆と倶に、現に其の前に在らします」とある。


ということは、質問者は是を疑っていることになる。勿論それも無理は無い。なぜと云って、「阿弥陀仏は質問者から十万億の仏土を過ぎた所の極楽世界に居るのだから、数メートル先までしか届きそうもない念仏を、遠く離れた阿弥陀仏が聞き取ってくれるとも思えない」と。また更には「念仏者は世界に私一人だけではない。大勢の念仏者の所へ、一時に行くことなど、どうしてできるだろうか」とも。


もしここで或る回答者が、「阿弥陀仏は一人だけではなく、念仏している衆生の数だけ居るのだ」と答えたとしたらどうだろう。すると質問者は、「それなら阿弥陀仏は、私たち一人ひとりの身体の中にも居るということだよね」などと考え、念仏に懸ける願力を失うかもしれない。何故なら「自分が阿弥陀を宿しているのなら、それを失う心配もないのだから、念仏の要もないのではなかろうか」などという思いも生じるだろうからである。


なので、こういう回答は、或いは幾分かの正しさは含まれている可能性は捨てがたくても、決して信者の為になるものではないとも思えるので、こういう回答は極力避けるべきだと思われる。


それなら、一体どのように答えたらよいのだろうかということになるが、やはり「経典に説かれているままに、素直に信じていれば善いのではないですか」と、こう答えるのが最善かも知れません。経典の言葉というものは、それが事実と異なる説法であったとしても、信者の為には、最も有意義な構造に組み立てられた方便である場合が、実に度々見出されて、仏の慈悲の深さに感嘆させられるものだからである。


悟りの心は超単純か

2020-05-26 18:29:18 | 仏教
前日記の冒頭の言葉「仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。」は、釈尊の経説をほぼ復唱したようなものですが、「彼岸へ至るのは、そんなに難しいのか」と問われたならば、何と答えたらよいだろうか。


思うに多くの仏教学者は、膨大な読書量があり、知識の量もまた極めて広範囲に渉っているのではないかと思われている。勿論それは間違いではないだろう。しかし、彼岸へと解脱した心が堅持していなくてはならない知識はと問われたら、「何もない」と答えたくなるだろう。これもまた間違いではないからだ。


では、この「何もない」という言葉には、どういう経緯が含まれているのかと問われたなら、「無限に縁起する一切法との繋縛を断ち切っている」と答えるのが適切だろう。


細かいことを云えば、この他にも要点はあるけれど、ここまで語れば、悟りの心の大凡は伝わることと思われる。そうすると悟りの心の中身は「何もない」と云えるほどに超単純でありながら、悟りに至る道は、「一切法を解脱する」という膨大な中身を含んでいることが認識されるのですね。


この故に、釈尊の言葉「仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。」が、仏陀に至る道の険しさを、有りの儘に伝えるものだということも、納得できるのではないでしょうか。


新型コロナに負けない心

2020-04-27 19:07:19 | 仏教
今回の緊急事態宣言を受けて、我が国の新型コロナの猛威はどこまで防げるのでしょうか。事態の沈静化を祈るばかりです。こんな時、宗教には何ができるでしょうか。


『法華経』の観世音菩薩普門品の冒頭には、「もし百千万億の衆生が、様々な苦悩を受けていても、観世音菩薩の名を聞いて一心に称名すれば、観世音菩薩は直ちにその音声を観じて、彼らすべてを苦悩から解脱させるのだ」というようなことが説かれています。


「様々な苦悩から解脱させる」のですから、新型コロナ禍からの苦悩からも解脱させてくれるはずです。では、どのように苦悩現場から救済してくれるのでしょうか。


経文では、救済の具体例を挙げて「大火に包まれていても、焼かれなくてすむ」とか、「大水に流されていても、浅瀬が得られる」とか、「刀で斬られようとしていても、刀が砕けて救われる」等々、その他様々な苦難の状況を具体的に挙げて、その苦悩から解放されると説いています。


その例示から推理すると、「新型コロナウイルスに感染しても、感染者の身体を冒すことができずに消滅する」というような救われ方でしょうか。


勿論、このような説法は、心が救済される実状を比喩的に語ったものですが、このように無事救済されるという心の実態は、嘘や作り事ではないのですね。


この「観世音菩薩普門品」に先立つ「如来寿量品」に、如来は久遠の昔から成仏していることが説かれています。「この如来の寿命は無限だし、常に存在していて入滅することがない」のですが、観世音菩薩の名を念ずれば救い出してくれるの先が、この如来の体内ということなのです。


この「如来の体」というものは、肉眼や人知では見ることができませんが、どんな人も必ず体内に宿しているものなので、絶体絶命のピンチなどに、観世音菩薩の名を一心に念ずれば、きっと苦悩から解脱できて、安らかな心境を取り戻すことができると思います。


また、もし絶対絶命のピンチに具えて、予め仏道を修めることによって、久遠成仏の仏に開眼したいと思われるなら、釈尊が説かれた仏法を修めて、解脱を完了しておくのが最も確実な道になるでしょう。