広島・資本論を読む会ブログ

「読む会」だより6月用

「読む会」だより(20年6月用)文責IZ
(再開にあたって)
・2月の開催以来、3か月にわたってコロナウィルスの影響で「読む会」は中止させていただきました。
ブログでは空白期間に次回分の(説明)を出すと言っていましたが、チューターが再就職の疲れで若干体調を崩したこともあり、そのままとなってしまいました。前回、積み残しの部分があり、また3か月もブランクがあったので、(説明)部分は前回のままとさせてもらいます。ご了承ください。
「読む会」でもいろいろと意見や質問が出ていますように、『資本論』を読むうえで一番分かりにくいのは、価値(商品の価値)とは何か、価値の実体が抽象的人間労働だというのはどういうことなのかということだと思います。商品の価値は、商品の使用価値(有用性)とも、その使用価値を生み出す有用労働ともまったく違うものなのですが、その分かりやすい説明ができないかとこの間もあれこれ考えてみました。こんな形ではどうでしょうか。
≪人々が行なう社会的労働は、諸労働として質的に分割されるとともに、社会がすなわち人々の生活が再生産されるためには、諸労働それぞれに量的に妥当な割合で配分されなければなりません(「価値法則」の量的側面?が価値の大きさはその生産のために支出された労働量で決まるということであるとするなら、これはいわば質的な側面と呼べるでしょうか?)。
こうした労働の配分が可能となるためには、それぞれに異質な諸労働は同質な人間労働へと還元されなければなりません。この社会的に同質な人間労働としての労働の在り方は、それぞれの社会にあって固有の様式をもちます。
商品の交換価値は、まさに資本主義のもとでの諸労働がもつ、生産物の姿での同質な在り方です。というのは、諸労働が労働(共同の労働)として直接に相互に関係するのではなくて、生産物の交換を通じて、すなわち諸労働が対象化された諸商品(諸生産物)を交換することで、諸労働は関係することができるだけだからです。このために、労働がもつべき人間労働としての同質性が、生産物がもつべき社会的性格として現れることになり、これが商品の価値なのです。
このような意味において、価値は、商品相互の交換比率として現れる“交換価値”の実体なのです。これに対して貨幣商品・金は、商品相互が生みだす、別のどんな商品とでも交換可能だという“価値の形態(現象形態)”なのであって、価値ではないのです。≫

(前回の議論など)
2月16日に行われた「読む会」には、新しくOさんとKさんが参加されました。Kさんは昨年「非武装中立・実利と平和」という本を出版なさったということで、はじめに少しお話をしていただきました。軍需から民需へ、というKさんの主張には、Oさんから「そうだと思う」という意見が出されましたが、Mさんからは「現実的にどうか」という疑問が、チューターからは「むしろ民需から軍需という逆の流れこそ、資本主義の肥大化・寄生化の現実ではないか」という疑問が出されました。
(説明)の部分では、1)の(2資本の一般的定式の形式性とその意義について)の部分にたいして、Oさんから「例えば資本の投入という場合には、投入される貨幣のことが資本と呼ばれるが、資本という言葉の定義はどう使い分けられているのか」という質問が出されました。
チューターは、第2部「資本の流通過程」冒頭の「資本の諸変態とその循環」の項目の中で、マルクスは資本が流通を通じてその価値を増殖するために、貨幣資本、生産資本、商品資本と姿を変えると述べている。詳しくはそこで触れるが、「たより」のこの部分では、資本が流通のなかでとるそれらの姿とは区別される、資本の「内容・実体」は、「生産手段を独占する資本家による、生産手段から分離された労働者の搾取という社会関係だ」と触れているつもりだ。資本主義のもとでは、こうした内容としての社会関係は、人間と人間との社会関係として直接に現れるのではなくて、物の姿をとって、つまり循環する貨幣額の増大という物の運動として自立的に表現される。だからこそ、その本来的な内容は事柄を分析(科学)しなければ得られない……等々と説明しようとしましたが、時間が足りなくなり、(3新たな経済的形態としての資本について)の前までで終わりました。
今回はこの説明と、前回の残り部分を検討したいと思います。
(説明)第4章「貨幣の資本への転化」第1節「資本の一般的定式」と第2節「一般的定式の矛盾」
(この第4章は、この1章のみで第2篇「貨幣の資本への転化」をなしており、第3篇「絶対的剰余価値の生産」、第4篇「相対的剰余価値の生産」と続きます。これにたいして、第1章「商品」、第2章「交換過程」、第3章「貨幣または商品流通」の3つの章は、まとめて第1篇「商品と貨幣」とされています。資本の基礎として──理論的に、また歴史的にも──商品と貨幣があるということでしょうか。)
1)資本の一般的定式G─W─G′の形式的な側面とその意義について
(1資本の出発点は商品流通であるということの意味について)
第4章の第1節は次の文章から始まっています。(引用の強調部分はレポータ)
・「商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。世界貿易と世界市場とは、16世紀に資本の近代的生活史を開くのである。
商品流通の素材的な内容やいろいろな使用価値の交換は別として、ただこの過程が生みだす経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれはこの過程の最後の産物として貨幣を見いだす。この、商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。」(全集版、P191)

ここでまず重要なことは、資本の出発点は流通すなわち商品交換のなかにあるということです。商品流通W─G─Wにおいて、商品Wのもつ同一な大きさの価値が通過していく“形態”上の転換──つまり商品という価値の特殊的な形態と、貨幣という価値の一般的な形態との転換、言いかえれば私的な労働が対象化された商品の形態と、一般的な労働の対象化であり社会的な労働の対象化であると社会的に認められた貨幣の形態との転換──を通じて、流通のなかから資本は生まれるということです。
たとえば機械などの生産手段は、資本主義社会のなかではたしかに労働者に対立して「生産資本」という姿をとります。しかしながら機械や原料そのものをとってみれば、それらは労働手段や労働対象であって資本ではありません。それらの生産手段は、それらを労働者から剰余労働を搾取するための手段とするような、そうした特定の社会関係のなかでこそ資本となる(生産の客体的な条件である生産手段が、その主体的な条件である労働力から独立し、前者が後者にたいして、労働を支配する資本としての性格をもつ)のです。つまり資本という“物”があるのではないし、また生産手段そのものに労働を支配するという資本としての性格があるのでもありません。
さらにまた資本主義における労働の搾取は、封建制度における農奴のようにその労働を直接に剰余労働として搾取したり、あるいはその生産物を強制的に供出させて強奪するという形式をとるのではありません。賃金労働者の労働は労働そのものとしてではなくて価値として、すなわちその労働が対象化された生産物を商品として交換すること(経済関係)を通じて、“媒介的に”搾取される(したがって商品所持者としての平等な関係によって搾取が隠蔽される)ところに、資本主義のもとでの労働の搾取の特徴があるのです。

第二に、ここで「経済的な諸形態」として触れられている貨幣について振り返っておきましょう。価値(人間労働一般の対象化)としては、すべての商品が同じ性質をもっているが故に、一商品・金は、商品交換が全面的に行われるための媒介物として商品世界から分離される一方で、諸商品によって価値の独立した定在として認められるという社会的性質を受け取ります。すなわちその物の姿において他のどのような商品とも交換可能であるという社会的性質を受け取ります。これが「貨幣」が「商品」と区別されて新しい経済的形態を受け取るということです。このように物の姿において社会関係が──この場合は、生産物の交換を通じて、商品生産者たちが彼らの相異なる私的労働を共通な社会的労働どうしとして、つまり同等な人間労働どうしとして関係させ合い、またそのことをつうじて社会の総労働を各種の労働へと比率的に分配するという人々の関係が──、自立して見えること、しかも単に外見のみそう見えるのではなくて、実際にたとえば貨幣として認められた金は、他の任意の諸商品と無条件に交換されるという人間の意識からは自立化した運動をそれらの物が行なうこと、こうした社会的関係を反映した“物”の姿のことをマルクスは「経済的な形態」と呼んでいるのだと思われます。

(なお、このように『資本論』では各章や項の冒頭や末尾では、その項目にかかわる重要なまとめが触れられていることが多く見られます。しかしそれらは、個々の部分というよりも『資本論』全体を見通してのまとめでもあるので(少なくともマルクス自身がまとめた第1巻では)、その部分だけを見てもなかなか理解は困難です。ただ言えることは、発達した商品生産の社会が、すなわち私的生産を基礎にしながらも自然発生的な社会的分業にもとづく社会的生産に依存している社会が、すなわち一方では他人のための生産物を生産し他方では他人の生産した生産物によって生活するということが全面的に行われている、この資本主義社会が、いつでもどこでも想定されているということです。)
(2資本の一般的定式の形式性とその意義について)
・「貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違<W─G─WとG─W─G……レポータ>によって区別されるだけである。
商品流通の直接的形態は、W─G─W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G─W─Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。その運動によってこの後のほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、すでにその使命から見れば、資本なのである。」(全集版、P192)
・「単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。それはどちらも商品である。それらはまた同じ価値量の商品である。しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。生産物交換、社会的労働がそこに現れているいろいろな素材の変換が、ここでは運動の内容をなしている。流通G─W─Gではそうではない。この流通は一見無内容に見える、というのは同義反復的だからである。どちらの極も同じ経済的形態をもっている。それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。なぜならば、貨幣こそは諸商品の<価値が>転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。……過程G─W─Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。……それゆえ、この過程の完全な形態は、G─W─G’であって、ここでは、G’=G+⊿Gである。すなわちG’は、最初に前貸された貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を私は剰余価値と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸された価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言いかえれば自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。」(全集版、P195)
・「要するに、実際に、G─W─G'は、直接に流通部面に現れているとおりの資本の一般的な定式なのである。」

ここでまず注意すべきことは、資本の一般的定式(形式)G─W─G’つまり貨幣(ないし増殖する価値)は資本の最初の「現象形態」にすぎない、とはっきりと言われているということです。言いかえれば、増殖する貨幣ないし価値という資本の規定は、形式的なもの、外見的なものであって、その内容・実体は、生産手段を独占する資本家による、生産手段から分離された労働者の搾取という社会関係だということです。
G─W─G’という資本の一般的定式自体には労働の搾取という内容は含まれていないのですから、それは非常に形式的な資本の特徴づけではあります。しかしながら、それは商品流通W─G─Wと対比すればすぐに分かるように、「買いのための売り」と対置される「売りのための買い」として、同じ流通から出発しながらも両者の同一性と区別を純粋に、端的に特徴づけるものとして重要と思われます。

二つの循環の共通性について触れた部分で、マルクスは「どちらの循環も同じ二つの反対の段階、W─G売りと、G─W買いとに分かれる。二つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同じ物的要素が相対しており、また、買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけた二人の人物が相対している。」(同、P193)と述べています。ここで「同じ経済的仮面」と言われるのは、いずれの商品生産者も、買い手として現れるためにはそれ以前に売り手でなければならず、また逆に売り手として現れるのは後に買い手として現れるためだからこそです。発展した商品生産である資本主義の社会において、買い手(消費者)と売り手(生産者)とを絶対的に区別するのは正しい方法ではありません。
(なお本文でさまざまに触れられている「貨幣としての貨幣の流通」すなわち商品流通と、「資本としての貨幣の循環」との相違については、また別掲のような図を作ってみましたので参考にしてみて下さい。)
(3新たな経済的形態としての資本について)
資本としての貨幣の流通G─W─G、すなわち「売るための買い」という循環のなかにある貨幣Gと、「買いのための売り」である商品流通W─G─Wのなかで通流する貨幣Gとは、同じ貨幣Gの運動であると言っても、それらがそれぞれの流通のなかで果たす役割・その性質はまったく別のものであることに注意が必要です。この点について、マルクスはこう述べています。

・「諸商品の価値が単純な流通のなかでとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。これに反して、流通G─W─Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。価値は、この運動のなかで消えてしまわないでたえず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかでたえず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。<こうして……レポータ>価値は、それが価値だから価値を生むという、という神秘な性質を受け取った。それは、生きている仔を生むか、または少なくとも金の卵をうむのである。」(全集版、P204)

ここで述べられているように、「買うために売る」という一連の過程と、そこから派生した「売るために買う」という一連の過程とは、形式的に逆であるばかりではなくて、その内容としても両者は全く異なります。すなわち前者が社会的な素材転換であって、貨幣はそこではただ価値の一般的形態としてその素材転換を媒介するだけです。それに対して、後者では貨幣というよりも価値そのもの(人間労働一般)が、すなわち貨幣Gという一般的な形態や商品Wという特殊な形態を交互に循環しながら増殖していく主体として現われます。それは、人間労働力の普遍的な発展を「資本」として、すなわち労働者を支配する力として表現しているのです。むろん、価値そのものには剰余価値を創造して自己増殖するという社会的性質があるというわけではありませんが、しかし貨幣の還流は、価値の増殖を自己目的とすることで社会的な意味をもつのです。
(なお、この引用のすぐ後で「このような過程の全面を覆う主体として価値はなによりもまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されなければならないのである。そして、このような形態を、価値はただ貨幣においてのみもっているのである。それだからこそ、貨幣は、どの価値増殖過程でもその出発点と終点とをなしているのである。」(同、P202)とあります。チューターはここで言われているように、資本がその「出発点と終点」において貨幣であるということ、いわば貨幣の姿が資本の“本源的な形態”であるということは、同一の価値の姿である貨幣の姿をとることによってのみ価値としての増殖は確認し得る、という意味だと考えています。
またG─W─GがW─G─Wから“派生する”とチューターは述べましたが、このことは、W─G─Wの過程がその中間項Gの部分において商人などの介在をもたらせば、すなわちW─G─WがW─(G─W─G)─Wというように中間項をもつようになれば、自然発生的に生ずること考えるからです。)

商品と区別される「貨幣」の経済的形態については、すでに触れました。
今度はこの貨幣が、その流通を通じた還流において自立化した主体に見えることから、新たに「資本」すなわち流通を通じて自己増殖する価値(貨幣)という新たな社会的性質を受け取ります。それは単なる貨幣とは異なる「資本」という新たな経済的形態を──すなわち他人の労働の搾取という社会的関係を、物の運動(貨幣の還流)として自立的に表現する姿を──この繰り返される還流のなかで得るのです。
2)「一般的定式の矛盾」とはどういうことか
第1節「資本の一般的定式」において触れられたように、「それ<資本としての貨幣……レポータ>は、流通から出てきて、再び流通に入って行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくる……」のであって、貨幣を資本とする剰余価値は流通の外で生まれるものではありません。しかしながら、マルクスが第2節のなかで繰り返し触れているように、「売り手は買い手であり、買い手は売り手であるという商品交換」(全集版、P213)のなかにある以上は、「資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできない」(同、P214)のですから、いわゆる譲渡利得を資本の価値増殖すなわち剰余価値の源泉だとするわけにはいきません。そこで、この剰余価値発生のメカニズムにおける矛盾について、マルクスは次のようにまとめています。

・「これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えない何ごとかが流通の背後で起きるのでなければならない。しかし、剰余価値は流通でなければほかのどこから発生することができるだろうか?流通は、商品所持者たちのすべての相互関係の総計である。流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。その商品の価値について言えば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則によって計られた量を含んでいるということに限られている。この労働の量は、彼の商品の価値量に表現される。そして、価値量は計算貨幣で表わされるのだから、かの労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現される。しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越えるある超過分とで表わされるのではない。すなわち、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではない。商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば革で長靴を作ることによってである。同じ素材が今ではより多くの価値をもっているが、しかし革の価値は元のままである。革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身に着けたのではない。つまり、商品生産者が、流通の部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。
つまり、商品は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。」(全集版、P217)

ではこの矛盾は実際にはどのようにして解決されているのでしょうか? それが次の第3節「労働力の売買」で検討されることになります。
先回りして言えば、「価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品」同、P219)が、すなわち一定の歴史的産物としての労働力商品(土地からも封建的束縛からも“自由な”労働者)が、「流通部面のなかで」見出される時にはじめて、流通(市場)を通じての価値増殖が、すなわち価値の資本としての存在が可能になると(それと同時に「この瞬間から、はじめて労働生産物の商品形態が一般化される」)とマルクスは説明します。
この点から言えば、「資本」は、一つの歴史的な社会関係・生産関係の全体を包括する概念です。より具体的に言えば、「資本」は、資本による賃労働の搾取を、“生産手段”が、労働者から剰余労働を吸収する手段として利用される(機能する)ということによって、“物的に”(すなわち一定の社会関係が物の姿をとることで自立的に)表現しているのです。だからこそ、資本は生産手段そのものであるかに見えるのです。
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