広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより24年4月用(4/21開催予定)

「読む会」だより(24年4月用)文責IZ

(3月の議論など)

3月の読む会は17日に行なわれました。新たに2名の方の参加があった一方、体調不良などで数名の方が不参加となり残念でした。
チューターからはじめに発言があり、今回、前回の質問に答える形で価値とは何かについて簡単にまとめてみた。途中から資本論に入るのは難しいこともあるだろうので、今後の参考になるように6項目ぐらいに分けてこれまでの復習のようなものを考えたい。まとめてやるか、月に1項目づつやるかなどの意見を次回に出してほしい(今回は参加できなかった人が多かったので)、と要望がありました。復習のようなものをやることに異論は出ませんでした。なお、チューターは項目として、商品の意味について(使用価値と交換価値・価値)、貨幣の意味について(価値と価格・価値形態)、剰余価値の源泉としての労働力の搾取、不変資本と可変資本、絶対的剰余価値と相対的剰余価値、機械制大工業の意義、の6つを挙げましたが、これもぜひといったものがあれば次回意見を頂けたらと思います。
(2月の議論)の所では、価値の説明についてチューターから幾つかの補足をしました。
第一点は、引用した第1章での説明は社会現象に対する認識ということでは科学的な方法だが、はじめて読む人には価値の全体的なイメージが湧きづらいだろうと考えてこのようにまとめてみました。全体が見えてくれば方法にも興味を持ってもらえるでしょうが、その間はあまり方法にこだわるとむしろ読む興味自体を失ってしまうのではないかという反省があるためです。
第二点は、マルクスをかじった人なら価値とは労働時間のことだと思い浮かべるでしょうが、引用部分のすぐ後で「価値を形成する実体の量」として指摘されている労働時間について触れることを忘れていました。価値とは労働がもつ社会的な性格であり、全ての労働が同質とみなされるという社会関係が商品に価値をもたらすとたよりで触れました。しかし、この価値性格は実際には労働時間として存在することになります。(『経済学批判』では「労働時間は……量的であるとともに、その内在的尺度をもつ労働の生きた定在である」(岩波文庫版、P25)とあります)。なぜかと言えば、社会的な生産においては、労働が種々の生産部門に質的に分割されるとともに、それぞれの部門に総労働時間が量的に適切に分配されなければ生産が継続しえないという必然性を持つからです。この必然性のために、商品のもつ価値性格は、労働時間という“社会的な実体”を持つことになるとチューターは考えています。(商品社会ではこの必然性は価値法則という姿をとります、言い換えれば商品は社会的必要労働時間として価値法則を実現していくものになります。)
この補足に対して、参加者からは商品生産は当たり前ではなくてむしろ非常に特殊な生産組織だ。また商品生産の基礎が私的な無政府的な生産にあるということが重要ではないかという意見が出ました。その通りだとチューターも考えます。
また価値について、服と米とが交換されれば、抽象的人間労働として同質だということか、という質問が出ました。チューターの言葉不足でしょうが、異なる使用価値が何らかの割合で交換されるならば、それはそれらが商品としてその使用価値と異なる同質な(量的にだけ異なる)ものとされるということ、すなわち交換価値をもつということです。では、この同質なものは何かと言えば、それらが社会的に必要である限りですべて同質な、つまり抽象的人間労働が含まれているということです。この労働のもつ社会的な性格が、商品の価値性格をもたらすのであって、だからこそ「<すべての>商品は貨幣である」(第2章末尾)と言われている、というのが説明の趣旨です(量的な事柄は別として)。
(説明)の部分の時間が短くなってしまい、第9節しか終わりませんでした。ここではいわゆる「全面的に発展した人間」の形成について、教育関係者の間でも人格形成において社会活動への参加が重要だという意見は多いという意見が出ました。
第10節については、次回廻しになりました。前回と重複しますが、挙げておきます。

(説明)第13章、第10節大工業と農業

第10節では、大工業が農業に引き起こす影響が簡単に述べられます。末尾で結論として、「それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである」と述べられていますが、ここでは斎藤氏の言うように環境破壊を克服することが第一だと述べられているのではありません。そうではなくて前節と同じように、生産力の発展がもたらす社会的な矛盾は、その生産力にふさわしい姿に社会関係の変革が行われざるをえないことの、つまり労働者による階級廃絶の闘いを呼び起こさざるを得ないことの、現われなのだと述べられているのです。

・「大工業が農業とその生産当事者たちの社会的諸関係とに引き起こす革命は、もっと後でなければ述べられないことである。ここでは、いくつかの予想される結果を簡単に示唆しておくだけで十分である。……
農業の部面では、大工業は、古い社会の堡塁である「農民」を滅ぼして賃金労働をそれに替えるかぎりで、最も革命的に作用する。@
こうして、農村の社会的変革要求と社会的諸対立は都市のそれと同等にされる。旧習になずみきった不合理きわまる経営に代わって、科学の意識的な技術的応用が現われる。農業や製造工業の幼稚未発達な姿にからみついてそれらを結合していた原始的な家族紐帯を引き裂くことは、資本主義的生産様式によって完成される。@
しかし、同時にまた、この生産様式は、一つの新しい、より高い総合のための、すなわち農業と工業との対立的に作り上げられた姿を基礎として両者を結合するための、物質的諸前提をもつくりだす。@
資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱する。すなわち、人間が食料や衣料の形で消費する土壌成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然条件を、撹乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する。しかし、同時にそれは、かの物質的代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。@
農業でも、製造工業の場合と同様に、生産過程の資本主義的変革は同時に生産者たちの殉難史として現われ、労働手段は労働者の抑圧手段、搾取手段、貧困化手段として現れ、労働過程の社会的な結合は労働者の個人的な活気や自由や独立の組織的圧迫として現れる。農村労働者が比較的広い土地の上に分散しているということは同時に彼らの抵抗力を弱くするが、他方、集中は都市労働者の抵抗力を強くする。都市工業の場合と同様に、現代の農業では労働の生産力の上昇と流動化の増進とは、労働力そのものの荒廃と病弱化とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪するための技術の進歩であるだけでなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度の不断の源泉を破壊することの進歩である。ある国が、たとえば北アメリカ合衆国のように、その発展の背景としての大工業から出発するならば、その度合いに応じてそれだけこの破壊過程も急速になる。@
それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地<自然>をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。」(同、P655~657)(太字部分が「ゼロからの資本論」での引用部分です。)


(説明)第5篇絶対的および相対的剰余価値の生産
第14章絶対的および相対的剰余価値の生産

(はじめに. 第5篇について)

第1部「資本の生産過程」の後半部分にやっとたどり着きました。
第5篇は14章「絶対的および相対的剰余価値の生産」、15章「労働力の価格と剰余価値との量的変動」、そして第16章「剰余価値率を表わす種々の定式」の3つの章から成っています。

第14章に入る前に、同じ「絶対的および相対的剰余価値の生産」というタイトルが付けられたこの第5篇の位置づけが問題になることでしょう。第14章に入れば分かるように、そこでは第5~9章にわたる第3篇「絶対的剰余価値の生産」と第10~13章にわたる第4篇「相対的剰余価値の生産」とがまとめられているのですが、それとは趣を異にする第15章と第16章を含めて第5篇とされているのはなぜなのでしょうか。チューターにはいまだ確固とした理由が分かりません。参考のためにローゼンベルグの言うところを引いておきます。
《「抽象的なものから具体的なものへの上向」……この方法はつねに、得られた結論を特別の表題の下に総括することを、必要なものとして要求する、ということである。<なぜなら>研究はいつでも抽象的なものから、「多様なものの統一」としてすでに多くの規定を含む具体的なものへと上向するにつれて、「段階的に」、「一面ずつ」行なわれるものだからである。だがこの多様なものの統一は、しだいに成長するものであるから、研究を完成すべき総括的把握を必要とする。なぜなら、研究が「段階的に」、「一面ずつ」行なわれる以上、その範囲内に含まれない問題が常に残るからである。
また、研究している現象の個々の契機ではなく、それらの契機の総体を前提することによって、すなわち、ある現象のあらゆる多様性を前提することによって、はじめて解決できるような問題が、常にある。明らかに、このような問題は、別に取り出して特別に研究しなければならない。
前の二つの編の分析の結果を総括すること、資本主義的生産を絶対的および相対的剰余価値の生産として統一的に把握すること<第14章>、ならびに、剰余価値の二つの形態に同じ程度に関連のある諸問題を研究すること<第15、16章>、──これが本編の内容をなす。この編は、「絶対的剰余価値の生産」と「相対的剰余価値の生産」という二つの編を、総合し補完するものである。》(『資本論注解』、青木、P391~)

ついでにここで第1部の篇別について確認しておきますと、第1篇(第1~3章)は資本の基礎としての「商品と貨幣」、第2篇(第4章)は「貨幣の資本への転化」、第3篇から第5篇は前述の通りで、第6篇(第17~20章)は「労賃」、第7篇(第21章~25章)は「資本の蓄積過程」となっています。この篇別から見て取れるように、第2篇から第5篇がいわば資本についての本論です。そこでは資本とは剰余価値を生産する社会関係のことだ、と述べられているように思われます。


(1.資本主義的生産の下での労働の規定の歴史的な展開。労働の概念は、資本の下で協業的に組織されることによって個人的・肉体的な限界から解放され、部分的機能を果たすだけの労働にも拡張されるが、それと同時に、他人の剰余価値を生産するための労働へと切り縮められる)

この章の課題は冒頭にこう記されています。
・「労働過程は、まず第一に、その歴史的諸形態にはかかわりなく、人間と自然との間の過程として、抽象的に考察された(第5章<労働過程と価値増殖過程>を見よ)。そこでは次のように述べられた。『労働過程全体をその結果の立場<人間の再生産>から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。』@
そして、注7では次のように補足された。@
「このような生産的労働の規定は、<それがどのような社会関係のなかで行われるのかを捨象した>単純な労働過程の立場から出てくるものであって、<剰余価値の生産を目的とする>資本主義的生産過程については決して十分なものではない。」これが、ここではもっと詳しく展開されるのである<岩波文庫版……「このことがここでさらに展開されねばならない」>。」(全集版、P659)
この章では、まず生産的労働(労働)について、人間の生活を支える物質的な生産という労働過程の一般的な規定からだけではなくて、剰余価値の生産として特徴づけられる資本主義的な生産という歴史的な観点からより具体的に見てみよう、と言われているのです。

・「労働過程が純粋に個人的な過程である限り、後には分離してゆく諸機能の全てを同じ一人の労働者が一身に兼ねている。彼は、自分の生活目的のために自然対象を個人的に獲得する場合には、自分自身を制御する。後には彼が制御される<すぐ後参照>。@
個々の人間は、彼自身の筋肉を脳の制御のもとに活動させることなしには、自然に働きかけることはできない。自然の体制では頭と手が組になっているように、労働過程は頭の労働と手の労働とを合一する。後にはこの二つ<頭の労働と手の労働>が分離して、ついには敵対的に対立するようになる。およそ生産物は、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的生産物に、一人の全体労働者の共同生産物に、すなわち労働対象の取り扱いに直接または間接に携わる諸成員が一つに結合された労働要員の共同生産物に、転化する<マニュファクチュア参考>。それゆえ、労働過程そのものの協業的な性格につれて、必然的に、生産的労働の概念も、この労働の担い手である生産的労働者の概念も<その個人的・肉体的な限界からは>拡張されるのである。@
生産的に労働するためには、もはや自ら手を下すことは必要ではない。全体労働者の器官であるということだけで、つまりその部分機能のどれか一つを果たすということだけで、十分である。前に述べた生産的労働の本源的な<つまり歴史的諸形態から抽象された>規定は、物質的生産の性質そのものから導き出されたもので、全体としてみた全体労働者については相変わらず真実である。しかし、個別に見たその各個の成員には、それはもはや当てはまらないのである。
ところが、他方では、生産的労働の概念は狭くなる。@
資本主義的生産は単に商品の生産であるだけではなく、それは本質的に剰余価値の生産である。労働者が生産をするのは、自分のためではなく、資本のためである。だから、彼が何かを生産するというだけではもはや十分ではない。彼は剰余価値を生産しなければならない。生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者だけである。……@
それゆえ、生産的労働者の概念は、けっして<その本源的な概念のように>単に活動と有用効果との関係、労働者と労働生産物との関係を包括するだけではなく、労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す一つの独自に社会的な、歴史的に成立した生産関係をも包括するのである。それゆえ、生産的労働者だということは、少しも幸運ではなく、むしろひどい不運なのである。……」(全集版、P659~661)
生産的労働については、第4部の『剰余価値学説史』で詳しく論じられます。資本の下での生産、つまり剰余労働を剰余価値として取得する生産においては、生産ばかりではなくて流通も剰余価値の生産の不可欠の契機となります。このために、その労働が生産的であるか不生産的であるかという“区別”が発展し、あるいは重要になる、とチューターは理解しています。


(2.資本主義的な生産は、必要労働の短縮による相対的剰余価値の取得を特徴とする。それは絶対的剰余価値の生産を基礎にした、相対的剰余価値の生産との“統一”としての剰余価値の生産である)

・「労働者がただ自分の労働力の価値の等価<すなわち必要労働>だけを生産した点を越えて労働日が延長されること、そしてこの剰余労働が資本によって取得されること──これは絶対的剰余価値の生産である。それは資本主義体制の一般的な基礎をなしており、また相対的剰余価値の生産の出発点をなしている。@
この相対的剰余価値の生産では、労働日は<その大きさが固定されたものと想定されるために>はじめから<相対立する>二つの部分に分かれている。すなわち必要労働と剰余労働とに。剰余労働を延長するためには、労賃の等価<すなわち必要生活資料>をいっそう短時間に生産する諸方法によって、必要労働が短縮される。@
絶対的剰余価値の生産は<剰余労働を剰余価値として取得するために>ただ労働日の長さだけを問題にする。相対的剰余価値の生産は、<必要労働の短縮を可能とする>一つの独自な資本主義的生産様式を前提するのであって、この<独自な>生産様式は、その諸方法、諸手段、諸条件そのものとともに、最初はまず資本のもとへの労働の形式的従属<すなわち資本家の下への労働者の集合>を基礎として自然発生的に発生して育成されるのである。<次いで>この形式的従属に代わって、資本の下への労働の実質的従属<資本を生み出す賃労働としての労働>が現われるのである。
剰余労働が直接的強制によって生産者から取り上げられるのでもなく、資本のもとへの生産者の形式的従属も現われていないような、色々な中間形態については、<ここでは>ただそれを指摘しておくだけでよい。資本はここではまだ直接には労働過程を征服していないのである。父祖伝来の経営様式で手工業や農業を営む独立生産者たちと並んで、高利貸しや商人が現われ、これらの生産者から寄生虫的に吸い取る小売資本や商業資本が現われる。一つの社会のなかでのこのような<賃労働に依存することのない>搾取形態の優勢は、資本主義的生産様式を排除するが、他面では、中世後期にそうだったように、それへの過渡をなすこともありうる。最後に、近代的家内労働の例が示すように、ある種の中間形態は、たとえその相貌はまったく変わっているにせよ、大工業の背後であちこちに再生産される。
絶対的剰余価値の生産のためには、資本の下への労働の単に形式的な従属だけで十分で、例えば、以前は自分自身のためかまたは同職組合親方の職人として働いていた手工業者が今は賃金労働者として資本家の直接的支配に服するということで十分だとしても、他面では、<必要労働時間を短縮する>相対的剰余価値の生産のための諸方法は同時にまた絶対的剰余価値の生産のための諸方法でもあるということが示された。実に、労働日の無限度な延長こそは、大工業の最も固有な産物だということが示されたのである。@
一般に、<機械経営=大工業を基礎として絶えずその技術的基礎を変革しつつ生産力を増大させるという>独自な資本主義的生産様式は、それが一つの生産部門全体を征服してしまえば、ましてすべての決定的な生産部門を征服してしまえば、もはや相対的剰余価値生産の単なる手段ではなくなる。それは今や生産過程の一般的な、社会的に支配的な形態となる。それが相対的剰余価値生産のための特殊な方法として作用するのは、第一には、ただ、これまではただ形式的に資本に従属していた諸産業をそれが捉える場合、つまりその<機械経営>普及に際してだけのことである。第二には、ただ、既にそれに捉えられている諸産業が引き続き生産方法の変化によって変革される限りでのことである。
<だから>ある観点からは、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との区別はおよそ幻想的に見える。相対的剰余価値も絶対的である。なぜならば、それは、労働者自身の生存に必要な労働時間を越えての労働日の絶対的延長を条件としているからである。<他方>絶対的剰余価値も相対的である。なぜならば、それは、必要労働時間を労働日の一部分に制限することを可能にするだけの労働の生産性の発展を条件としているからである。@
しかし、剰余価値の運動に注目するならば、このような外観上の無差別は消え去ってしまう。資本主義的生産様式がすでに確立されて一般的な生産様式になってしまえば、およそ剰余価値率<m/v>を高くすることが問題となる限り、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との相違はつねに感知されざるを得ない。労働力が価値通りに支払われることを前提すれば、我々は次の二つのどちらかを選ばなければならない。労働の生産力とその正常な強度が与えられていれば、剰余価値率はただ労働日の絶対的延長によってのみ高められうる。他方、労働日の限界が与えられていれば、剰余価値率は、ただ必要労働と剰余労働という労働日の二つの構成部分の大きさの相対的な変動によってのみ高められ、この変動はまた、賃金が労働力の価値よりも低く下がるべきでないとすれば、労働の生産性かまたは強度の変動を前提する。」(同、P661~663)

必要労働の短縮による相対的剰余価値の生産は、機械制大工業の成立とともに確立されます。それは同時に、絶えずその技術的基礎を変革しつつ生産力を増大させるという資本主義的生産が確立し、一般化して社会的生産の支配的な形態になるということでもあり、また流通を通じて労働の資本への実質的従属(賃労働としての労働)が完成するということでもあります。
相対的剰余価値の生産(必要労働時間の短縮)は、絶対的剰余価値の生産(必要労働時間を越える労働日の強制)を基礎にしているために、一見区別がつかないように見えます。しかし、より多くの剰余価値の取得を目指す場合、剰余価値率(m/v)の分子を大きくするか、分母を小さくするかの二通りの仕方があるように、両者には客観的な相違があります。実際の資本主義的な生産は、こうした区別を含みながらも、絶対的な剰余価値の生産と相対的な剰余価値の生産との“統一”としての剰余価値の生産であるといえるでしょう。

3項目目の剰余価値に自然的基礎があるのかという問題と、4項目目のミルへの批判は次回取り上げます。
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