広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより20年12月用 付録 参考資料

【参考資料】『経済学批判要綱』貨幣篇より(高木訳P107~113)
<注記ない訳文はレキシコン訳、ボールド・イタリック部分はマルクスの強調部分。アンダーラインは久留間のもの。@印改行、波型アンダーライン、取り消し線、<>内はレポータのもの。また●は「たより」本文で引用した箇所>


・[§a)流通の本質的な規定は、それが交換価値(生産物または労働)を、しかも価格として規定された交換価値<すなわち交換価値>を流通させることである。だから<労働を商品の価格として規定していない>商品交換のすべての種類、たとえば物々交換、現物交付、封建的な労役給付等々は、いまだ流通をつくりださない。流通のためには、なによりもまず二様のことが必要である。第一に、商品が価格として前提されること。第二に、個々の交換行為ではなくて、交換の範囲、交換の総体が不断に流動しており、しかも大なり小なり社会の全表面に及んでいること。つまり交換行為の体制があること]<高木訳。レキシコンではこの部分は……として省略されている>
……●商品は交換価値として規定されているものである。交換価値としては、商品は、一定の割合で(それに含まれている労働時間に応じて)他のすべての価値(商品)にたいする等価物である。しかし商品は、直接的にはそれのこうした規定性と一致していない。交換価値としては、商品は、それの自然的定在における自分自身とは異なっている。商品をそうした交換価値として措定するためには、ある媒介が必要である。だからこそ、交換価値は貨幣のかたちで、なにか別のものとして商品に対立するのである。@
貨幣として措定された商品が、はじめて、純粋な交換価値としての商品である。言い換えれば、純粋な交換価値としての商品は貨幣である。しかし同時に、いまでは貨幣は、商品の外部に、またそれと並んで存在している。つまり商品の交換価値は、すべての商品の交換価値は、商品から独立した、ある特有の材料のかたちで・ある独自な商品のかたちで・自立化した存在を獲得したのである。商品の交換価値は、他のすべての商品がその商品と交換されることができる量的割合の総体を表現しているが、この量的割合は、同じ労働時間で生産されうる不等な商品量によって規定されている。@
貨幣はいまでは、すべての商品の交換価値として、すべての商品とならんで、またその外部に存在する。貨幣はさしあたり、すべての商品が、交換価値としてのその自由な存在を獲得するために、そのなかに浸されて金メッキ銀メッキされるところの一般的素材である。それらは貨幣に翻訳され、貨幣で表現されなければならない。貨幣は諸交換価値の、交換価値としての諸商品の一般的分母となる。@
貨幣で表現された、すなわち貨幣に等置された交換価値は、価格である。貨幣が<商品の>諸交換価値に対立する自立的なものとして措定されたのちに、こんどは諸交換価値が、主体としてのそれらに対立している貨幣、という規定性で措定されるのである。
……[しかしどの交換価値も、一定の分量であり、量的に規定された交換価値である。そのようなものとして、交換価値は一定の貨幣にイコールである。こうした規定性は、一般的な法則に従って、交換価値のうちに実現された労働時間によって与えられている。だから、たとえば1日の生産物たる1交換価値は、1日の労働時間に等しく、1労働日の生産物であるところの金ないし銀の分量で自己を表現している。いまや交換価値の一般的尺度は、各交換価値と、それが等置されている貨幣とのあいだの尺度になる。(……以下省略……)]<高木訳。レキシコンではこの部分は……として省略されている。続く以下の部分の冒頭には項目印の§が付けられている。>@

貨幣という規定性で措定されている交換価値が価格である。価格では貨幣は、第一に、すべての交換価値の統一性として現れ、第二に、それらのそれぞれが特定の数だけ含んでいる単位として現れる。その結果、貨幣との比較によってそれらの量的規定性、それら相互の量的比率が表現されているのである。つまりここでは貨幣は、諸交換価値の尺度として規定されており、諸価格は貨幣で計られた諸交換価値として措定されている。貨幣が価格の尺度であり、したがって交換価値が貨幣で互いに比較されるということは、おのずから明らかとなる規定である。@
しかしここでの展開のために●それより重要なことは、価格では交換価値が貨幣と比較されるのだ、ということである。貨幣が、商品から自立した分離された交換価値として措定されたのちに、こんどは個々の商品が、特殊的な交換価値が、貨幣にふたたび等置される、すなわち一定分量の貨幣に等置され、貨幣として表現され、貨幣に翻訳されるのである。@
諸商品は、貨幣に等置されることによって、概念から見れば交換価値としてすでにそうであったように、ふたたび相互に関連させられており、その結果それらは、一定の比率で合致しあい比較しあうのである。特殊的な交換価値である商品は、自立化された交換価値である貨幣という規定性のもとに、表現され、包摂され、措定される。このことがどのようにして行われるか(すなわち、量的に規定されている交換価値と一定の貨幣とのあいだの量的関係がどのようにして見いだされるか)は、上述のとおりである。@
●しかし貨幣が商品の外部に自立的な存在をもつことによって、商品の価格は、貨幣にたいする諸交換価値ないし諸商品の外的な連関として現れる。商品がそれの社会的実体から見れば交換価値であったのとは異なり、商品は価格ではない。この規定性は商品と直接に合致するものではなくて、それと貨幣との比較によって媒介されているのである。商品は交換価値であるが、それは一つの価格をもつのである。前者は商品との直接的統一のうちにあったのであり商品の直接的規定性であった。この規定性と商品とが、同じく直接に、分裂し、その結果一方には商品が、他方には(貨幣のかたちで)それの交換価値がある、というようになった。@
だが、いまや商品は価格において、一方では自分の外部にあるものとしての貨幣に連関し、第二に、観念的にはそれ自身が貨幣として措定されている、というのは、貨幣は商品とは別の実在性をもっているからである。価格は商品の一属性であり、この規定においては、商品は貨幣として表象されるのである。それはもはや、商品の直接的な規定性ではなくて、それの反省された規定性である。現実の貨幣とならんで、いまや商品は、観念的に措定された貨幣として存在しているのである。

<続いて項目印§の後>
●尺度としての貨幣ならびに価格としての商品というこの当面の規定は、現実の貨幣と計算貨幣との区別によって、最も簡単に明示される。尺度としては貨幣はつねに計算貨幣として役立ち、また価格としては商品はつねに、ただ観念的にのみ貨幣に転化されている。
……<ガルニエからの引用は省略>
つまり、●最初に貨幣が交換価値<等価物としての>を表現するのにたいして、いまや商品は、価格として、つまり観念的に措定され、頭のなかで実現された交換価値として、貨幣の一定額を、すなわち一定比率での貨幣を表現するのである。価格としては、さまざまな形態にあるすべての商品が貨幣の代表者であるが、他方、以前には貨幣が、自立した交換価値として、すべての商品の代表者であった。貨幣が現実に商品として措定されたのちに、商品は観念的に貨幣として措定されるのである。@
[こうした商品の貨幣への観念的な転化にあたって、すなわち、商品の価格としての措定において、現実に存在する貨幣の量は二つの点で全くどうでもよいということが、いまやまず明らかである。……<以下略><高木訳。レキシコンではこの部分以降は省略されている>]<以上>
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