広島・資本論を読む会ブログ

「読む会」便り7月用

「読む会」だより(20年7月用)        文責IZ
(前回の議論など)
6月21日に4か月ぶりに「読む会」を再開しました。前回2月に参加されなかった方もいらっしゃったので、再度第4章の第1節「資本の一般的定式」の説明から繰り返しました。このために、前回も第2節の説明に入れずじまいでした。今回は、残りの第2節「一般的定式の矛盾」の部分と第3節「労働力の売買」の一部を検討したいと思います。
前回はあまり意見や質問は出ませんでしたが、(3    新たな経済的形態としての資本について)での引用部分の、
「……流通G-W-Gでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。価値はこの運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的な主体に転化する。自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。@
しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって……原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖であるからである。価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘な性格を受け取った。それは、生きている仔を生むか、または少なくとも金の卵を生むのである」
 の所の、“自分を突き放す”という意味がよく分からない、という質問が出ました。チューターは、どこでの指摘だったのか今思い出せないが、分かりやすい説明があったように思うので、次回の宿題にさせてほしいということになりました。

“自分を突き放す”という意味は、直接にはその引用に引き続く次の文章の後半(@以下)で説明されています。
 ・「このような過程のなかで価値は貨幣形態と商品形態とをとったり捨てたりしながらしかもこの変換の中で自分を維持し自分を拡大するのであるが、このような過程の全面をおおう主体として価値はなによりもまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されなければならないのである。そして、このような形態を、価値はただ貨幣においてのみもっているのである。それだからこそ、貨幣は、どの価値増殖過程でもその出発点と終点をなしているのである。……しかし、貨幣そのものはここではただ価値の一つの形態として認められるだけである。……商品形態をとることなしには、貨幣は資本にはならない。だから、貨幣はここでは貨幣蓄蔵の場合のように商品にたいして対抗的な態度はとらないのである。資本家は、すべての商品が、……貨幣をより多くの貨幣にするための奇跡を行なう手段であるということを知っているのである。
単純な流通<W-G-W>では商品の価値は、せいぜい商品の価値は、せいぜい商品の使用価値に対立して貨幣という独立な形態を受け取るだけであるが、その価値がここ<G-W-G>では、突然、過程を進行しつつある、自分自身で運動する実体として現れるのであって、この実体にとっては商品や貨幣は両方ともただの形態でしかないのである。だがそれだけではない。@
 今や、価値は、諸商品の関係を表わしているのではなく、いわば自分自身に対する私的な関係にはいるのである。それは、原価値としての自分を剰余価値としての自分自身から区別する。つまり父なる神として自分を子なる神としての自分自身から区別するのであるが、父も子も同じ年なのであり、しかも、じつは両者は一身なのである。なぜならば、ただ10ポンド・スターリングという剰余価値によってのみ、前貸しされた100ポンドは資本になるのであって、それが資本になるやいなや、すなわち子が生まれて子によって父が生まれるやいなや、両者の区別は再び消えてしまって、両者は一つのもの、110ポンドであるからである。」

“自分を突き放す”というのは、後者にあるように「原価値としての自分を剰余価値としての自分自身から区別する」という意味です。なぜそのような区別をしなければならないかと言えば、原価値も剰余価値もさらには剰余価値を加えた増殖した価値も、いずれも「過程の全体をおおう主体」である“増殖する価値”すなわち“資本”としては循環的な存在にすぎないために、循環ごとにそれらを区別しなければその運動を把握することができないということだと思われます。そしてこの循環的な価値の増殖運動が現れるのは商品の姿の場合ではなくて、過程の前後で価値が同じ姿をとる場合すなわち貨幣の姿にある場合なのです。
ここで理論的に重要なことは、「商品形態をとることなしには、貨幣は資本にはならない」ということ、言い換えれば、資本は「貨幣形態と商品形態とをとったり捨てたりしながらしかもこの変換の中で自分を維持し自分を拡大する」ということです。
つまり「貨幣はここでは貨幣蓄蔵の場合のように商品にたいして対抗的な態度はとらない」のであって、自らを増殖する価値である資本にあっては、「資本は貨幣である、資本は商品である、という説明」はただ「特殊な諸現象形態を固定」しただけのものにすぎません。資本にとっては貨幣の形態も商品の形態も「いわばただ仮装しただけの存在様式」なのです。そこで、上記の引用に続けてマルクスはこう述べています。
・「価値は、過程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてこのようなものとして資本になるのである。……G-G’、貨幣を生む貨幣、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である。」(同、P203)
なお、『経済学批判要綱』のなかの言葉の引用は、長くなるだけですので止めておきます。
(説明)    第4章「貨幣の資本への転化」       第2節「一般的定式の矛盾」と第3節「労働力の売買」
2)「一般的定式の矛盾」とはどういうことか
第1節「資本の一般的定式」において触れられたように、「それ<資本としての貨幣……レポータ>は、流通から出てきて、再び流通に入って行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくる……」のであって、貨幣を資本とする剰余価値は流通の外で生まれるものではありません。しかしながら、マルクスが第2節のなかで繰り返し触れているように、「売り手は買い手であり、買い手は売り手であるという商品交換」(全集版、P213)のなかにある以上は、「資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできない」(同、P214)のですから、いわゆる譲渡利得を資本の価値増殖すなわち剰余価値の源泉だとするわけにはいきません。そこで、この剰余価値発生のメカニズムにおける矛盾について、マルクスは次のようにまとめています。

・「これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えない何ごとかが流通の背後で起きるのでなければならない。しかし、剰余価値は流通でなければほかのどこから発生することができるだろうか?              流通は、商品所持者たちのすべての相互関係の総計である。流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。その商品の価値について言えば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則によって計られた量を含んでいるということに限られている。この労働の量は、彼の商品の価値量に表現される。そして、価値量は計算貨幣で表わされるのだから、かの労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現される。しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越えるある超過分とで表わされるのではない。すなわち、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではない。商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば革で長靴を作ることによってである。同じ素材が今ではより多くの価値をもっているが、しかし革の価値は元のままである。革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身に着けたのではない。つまり、商品生産者が、流通の部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。
つまり、資本(※)は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。」(全集版、P217)(※            前回の引用では「資本」とあるべきところが商品となっていました。訂正ください。)

ではこの矛盾は実際にはどのようにして解決されているのでしょうか?                      それが次の第3節「労働力の売買」で検討されることになります。
先回りして言えば、「価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品」同、P219)が、すなわち一定の歴史的産物としての労働力商品(土地からも封建的束縛からも“自由な”労働者)が、「流通部面のなかで」見出される時にはじめて、流通(市場)を通じての価値増殖が、すなわち価値の資本としての存在が可能になると(それと同時に「この瞬間から、はじめて労働生産物の商品形態が一般化される」)とマルクスは説明します。
この点から言えば、「資本」は、一つの歴史的な社会関係・生産関係の全体を包括する概念です。より具体的に言えば、「資本」は、資本による賃労働の搾取を、“生産手段”が、労働者から剰余労働を吸収する手段として利用される(機能する)ということによって、“物的に”(すなわち一定の社会関係が物の姿をとることで自立的に)表現しているのです。だからこそ、資本は生産手段そのものであるかに見えるのです。
  • 第3節「労働力の売買」は、資本の定式(あるいは貨幣循環)G-W-G’の中間項であるW(=商品)としての労働力について分析されているだけである
第3節「労働力の売買」では、“独特な”商品である労働力商品について多くの重要なこと(歴史的な条件や、その価値の大きさの規定など)が触れられています。しかしよく注意しておくべきことは、ここでは第1、2節に引き続いて今度はG-W-G’という流通の中間項であるW(すなわち労働力商品)について触れられているだけだということだと思われます。(というのも、かつて労働運動のなかでこの3節での労働力商品の量的な価値規定の問題から、“一足飛び”に労働者の賃金要求を引き出す人々がいましたが、それは当然に労働者の賃金格差や賃金奴隷状態を事実上容認する誤った要求──「構造改革」など──に行き着いたからです。)
(1.その消費・使用が価値の源泉となるという独特な使用価値を持つ商品=労働力は、流通のなかに、私的所有者である労働者が所持し他の商品と交換しうる商品として現れなければ、流通を通じた価値増殖に寄与できない。言い換えれば資本と賃労働との等価交換の外観は、剰余労働を剰余価値として取得するための条件である)
第3節の冒頭ではG-W-G’という貨幣循環での価値増殖について、次のように指摘されています。
・「資本に転化するべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。なぜならば、購入手段としても支払手段としても、貨幣は、ただ、それを買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石に固まってしまうからである。同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。@
 そこで、変化は第一の行為G-Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるのだからである。だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはない。@
ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである──労働能力または労働力に。」(全集版、P219)

要するにG─W─G’での価値増殖は、流通内でのGとWとの価値の形態転換で行われるわけではなくて、流通外で(すなわち生産過程で)Wを消費・使用した結果として価値増殖されたW(商品)が、流通を通じて価値増殖した貨幣に置き換わるというのです。(正しい表現かどうか分かりませんが、G─W……W’─G’という中間過程をもつことで、流通G─WならびにW’─G’においては等価交換が行われながらも、流通を媒介にして価値増殖がなされうるのです。)
このために、資本と労働力との交換においても、流通の部面においては等価交換であるかに見えるのです。

(2)以下は、次回とさせていただきます。(なお、8月の第3週はお盆と重なるため中止とさせていただきます。)
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